『16』 3





 本当は立ってなど居られないほどのダメージがあったのだが、それでもあの部屋に居たい筈も無い。

 それに。

「・・・・・そと。」

 裏口から外に這う様にして出ると其処には満天の空。

 目を眇めてそれを見てから、八津は携帯を取り出す。

 3コールで出た瀬口に一言だけ告げる。

「迎え・・・に、来て。」

 それだけを言って電話を切った。

 話すのも苦しいほどだったがこの屋敷自体に居たくなかった。

 痛む体に無理を言って裏門の前に行くと、習った暗証番号を押して外に出る。

 裏路地になっている其処は時間も時間なので閑散としており、誰もいない。

 お屋敷街なので車の音さえまばらなのだ。

 地面に座り込んだがあらぬところが痛み、アスファルトに横になる。

 どこもかしこも痛くて、自分がどんな事になっているのかすら分からない八津は空を見上げた。

 夏の大三角形が燦然と輝く夜空は憎々しい程美しい。

 日中の陽に照らされたアスファルトは程よく温く、此処で待っていれば瀬口が来てくれるという安心感を増やしてくれる。

 痛みと疲れに目蓋が閉じかけては開く事4回。

 車の停まる音と共に慌しい足音が響き、アスファルトに横たわる八津の前で止まった。

「八津、もう少しだから頑張って。」

 抱え上げられたときに痛みが鋭く走ったが、丁寧な仕草にその手に縋るように腕を掴む。

「わかってる。大丈夫だから、ね?」

 振動の殆ど無い高級車の中で瀬口が車が停まる度に頬に手を添えてくれる。

「大丈夫だから。もう休むといい。」

 そう何度も言ってくれたので、瀬口の家に付く頃には安心して、だが涙を流しながら八津は眠りについた。

 目を覚ましたのは夜半。

 傍らには瀬口と同世代らしき男が居た。

「まだ寝てていいよ。」

 優しげに微笑んで髪を撫でてくれる仕草が嬉しくて思わず笑顔になる。

「じゃあ、俺はこれで。・・・・八津君、無理はするなよ。暫く此処にいる様に。」

 見知らぬその人は慈愛の表情を浮かべて去っていった。

「・・・いまの・・。」

 顔が痛い。殴られたからだろうと検討がつくが、殴られた痛みと言うのは後から来るのだという事を知った。

 さっきまでの事はどこか自分の事では無いような気がしていたのに、痛みが襲ってくると同時にああ、本当に自分の身に起きたことだったのだと少しずつ実感している。

「俺の知り合いの医者。だから大丈夫だよ。」

 瀬口は本当に優しく、顔も態度もその心情も優しく八津に微笑みかけていた。

 腕を伸ばすだけで起こる痛みに顔を顰めながら顔に手をやるとガーゼの感触がする。

 反対側の腕は固定されているらしく動かない。

 目線だけで見ると、瀬口が眉を下げ、息を呑みつつそれでも笑顔で言う。

「腕、折れていたからね。暫く使えないよ。」

 黙って腕を見てから身動きすると、全身、というよりは腹部と両腕、顔、そして・・・。

「・・・痛い・・・。」

 漏れた言葉に今の今まで優しく微笑んでいた瀬口の顔が歪んだ。

「八津。」

 瀬口の顔だけでは無く八津の視界も顔も歪む。

「ごめん、瀬口さん。俺、瀬口さんに甘えておけばよかった。そうしたら・・・・そうしたら、今、この時笑っていられたのに・・・。」

 瀬口の目じりから涙が流れて八津の頬に落ちる。

「だが・・・君は未成年で、長嶺氏は君の父親だ。だから私が君を望んでも、結局こうなっていただろう。そう考えると悔しい。」

「俺が未成年だと瀬口さんの養子になれないの?」

「16歳までは保証人が必要なんだ。16歳になったら本人の意思で養子縁組は出来る。だから今の状況だと」

「難しいんだ。」

 体が痛む為にどうしてもゆっくりになってしまう言葉に合わせるように瀬口の口調も丁寧且つゆっくりだ。

「そう。・・・そうなんだよ。それに今日の事を法的に訴えるとしても長嶺氏の弁護士は優秀なのがそろっているから・・・。」

 今まで見たこと無い程顔を歪めて床を叩いた瀬口の腕を握って八津はある事を提案する。

「じゃあ、16になったら養子縁組してくれる?」

 涙を流したまま瀬口は強く頷いて腕を握り返してきた。

「勿論。」

 八津は笑う。

「じゃあ、その時何か言われた時の為に写真を撮っておいて。」

 瀬口の涙が止まり、息を呑む擦れた音が広い部屋の中で響く。

「お願い。」

 見つめると暫くの沈黙の後瀬口は部屋を出て行った。

 一人になった八津は瀬口の涙が零れ落ちた右手を見る。

「瀬口さんが・・・泣いていた。」

 今日はきっと何十年経っても思い出す日となるだろう。

 八津にとっても瀬口にとっても。

 母親が死の床に居る時直ぐに養子縁組をしておけばよかったのだろうか。

 考えても過去の事。

 変えられるわけでは無い。

 だが後悔とは後から悔いると書いて後悔と読むのだ。

 人は後悔を抱えて生きるもの。

 ああすれば良かった、あの時あんな事さえ言わなければ、と誰しも過去を振り返って考える事がある。

 八津にとっての後悔はあの家に連れて行かれた時抵抗しなかった事でも直ぐに養子縁組をしなかったことでもなく。

 瀬口が自分の為に悔恨の涙を流した事。

 それが悔しかった。

 自分に。

 状況に。

 そして・・・。

 長嶺家に。

 目を閉じて、騒ぐ肌を押さえつける。

「・・・血液が沸騰しそうだ。」

 小さく呟いた声は空気に溶けた。

 溜息を吐いて寝返りを打とうとしたが、体が軋んで面倒になり動くのを止める。

 あらぬ所から出血しているのだから仕方無いといえば仕方ないだろうと八津は冷静に考えて天井と右側に位置する窓を見ると、真夜中の夜空が美しく輝いていた。

 瀬口を待っている時も思ったが、星がとても綺麗に思える。

 昨日まではなんとも思わなかったのに、とは考えない。

 八津は明るく朗らかに見えて自分でも驚く程冷静な部分が常にあったので。

「八津・・・起きている?」

 柔らかい声がしてドアのほうを振り向くと青白い顔をした瀬口が立っていた。

「うん。起きているよ。」

 コンビニの袋を示す。

「八津の好きなゼリーも買ってきたから後で一緒に食べよう。」

 布団を捲られて服を脱がされる。

 出来るだけ八津の負担にならないように、動かさなくても良いようにする瀬口に微笑みかけながら八津は待つ。

 時間にして数十秒。

 それで、もしかすると未来の自分の手助けになるかと思うと口角が上がってしまう。

「八津・・・そんな底意地の悪い笑みはやめてくれ。」

 服を着せなおしてくれた瀬口は自分も着替えると客用の毛布を取り出して床に横になる。

「瀬口さん?」

「私はここに居るからゆっくりと休むといい。」

 固い床に横になり、八津のほうへ顔を向ける瀬口に八津は言った。

「一緒に寝ないの?」

 瀬口の顔は歪む。

「だが・・・。」

「一緒に寝ようよ。」

 八津は笑ってもう一度言った。

「八津・・・・大丈夫?」

 問いには笑って頷く。

 瀬口は逡巡を見せたが結局ベッドに入って来てくれた。

 あんなに逢坂も長嶺も気持ち悪いと思ったのに瀬口の体温は安心する。

「暖かい・・・。」

 安堵の息を吐く八津に瀬口も笑ってその日は、その日の最後だけは穏やかに終わった。

 



 翌日も当然普通どおりに動ける筈も無く。

 朝食をクッションを背もたれにしてベッドで食べている時瀬口は既に長嶺家の使用人に伝言してもらったからと言った。

「でも、戻らないと瀬口さんが誘拐犯扱いされてしまうね。」

 瀬口は苦笑する。

「とりあえず4日は大丈夫。確約を貰ってきたから。」

 もしかすると正面から堂々と乗り込んで逢坂もしくは長嶺家の人間と会ったのかもしれない。

「瀬口さん、俺に甘いよ。」

「それは将来の息子だからね。」

「だったら余計に厳しくしないと。」

「私は甘やかしたいタイプなんだよ。八津は十分自分に厳しいから。」

 軽口を言い合って笑うととても穏やかな気分になれる。

「瀬口さん。」

「ん?」

 フルーツを態々カットしてヨーグルトに混ぜている最中の瀬口は下を向いたまま返事をした。

「好きだよ。」

 瀬口の動き全てが止まる。

「好きだから。」

 ゆっくりと顔を上げたその面には驚愕、と書かれてあり笑みを誘う。

「・・・本当に?」

「嘘、言ったことあったっけ?」

 ぎこちない仕草に首を横に振る瀬口に八津は嘘の欠片も無い笑みを浮かべた。

 それは誰も知らない、否、生者では瀬口しか知らない笑み。

「・・ない・・・。」

 物心ついた時から母を気遣い、周りを気遣い生きてきた八津は表情を隠し、本心を隠すのがとても上手い。

 そんな八津の唯一が瀬口だった。

「本当に愚かだった。迷惑を掛けたくない一心だったのに逆に迷惑かけてる。こんな俺でもいいのだったら瀬口さんを好きでもいいですか?」

「勿論だ!!!」

 瀬口はヨーグルトの入ったボウルが転がるのも気にせず八津の手を取る。

「勿論だ。勿論だよ!私のほうこそ、こんな、こんな気持ちを君に持っている私こそ君の傍に居ても良いのだろうかといつも思っていた。せめて君の一番傍に居たくて・・・。」

「うん。知ってた。そんな瀬口さんだからこそ好きなんだし。」

 八津は瀬口の顔に自分から顔を近づけて唇を唇に押し付けた。

 微笑む八津に真っ赤になる瀬口。

「瀬口さん、真っ赤。」

 笑う八津に瀬口は口元を押さえる。

「え、いや、だって、君がっ。」

 慌てる瀬口の手を解きにもう一度唇を合わせると、瀬口は震えていた。

 一つの組織の長で、有能で、大人で、常に泰然としている瀬口が八津の行動如何で動揺する。

 それが嬉しかった。

「瀬口さん。」

 目線が合わない瀬口に八津は口元を緩めながら言う。

「俺を抱きたい?」

 驚愕の顔をしてから八津を凝視し、そしてまた顔を赤くして目線を合わせない瀬口の行動がものを言わずとも答えを言っている。 

   「俺は瀬口さんならいいよ。でも瀬口さんだけだからね。」

 食べ終えていたスープ皿を傍らのサイドボードに置いてパジャマのボタンを外す。

 八津は今からでもする気だという事を示したかった。

 だが瀬口は顔を青く、赤くして慌ててボタンを閉めなおす。

「それは、傷が治ってからにしよう!ね?」

「じゃあ、したい?」

 慌てて頷く瀬口に八津は首を僅かに傾げて笑う。

 言質をとられたと気付いた瀬口は苦笑するしかない。

「大人をからかうなよ。」

「本気だよ?」

「・・・・未成年淫行決定だな・・・。」

 それでも欲しくないとは言わない瀬口に八津は傷む体を放り笑い続けた。

 










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