『16』 1 





 八津は初七日が過ぎて静かになった部屋を見渡す。

「八津ちゃん、これ良かったら食べて頂戴?」

 近所に住むこのアパートの管理人夫妻は母子家庭の八津達を気にしてくれていた。

「有難う御座います。」

 八津はすっかり片付いた部屋でその器を受け取る。

 電気もガスも水道も今日限り止めてしまっているのでとても助かった。

「八津ちゃん、本当に・・・良かったら家で暮らしていいんだよ?」

 14歳にして天涯孤独となった八津には行く場所は施設しかない。

「ううん。おばさん達だってもう直ぐ息子さん達と同居するんでしょう?そんな迷惑掛けられないよ。」

 紹介してもらった施設も悪い所ではなさそうで内心安堵していた。

「でも、」

「大丈夫。母さんが長くない事は知っていたから覚悟はしていたし。・・・・それにこんな近くに住んでいたら色々と思い出しそうだから・・・。」

 どう頑張っても八津は14。母親が死んで悲しくないわけは無いのだ。

 此処にいたら自分は絶対に泣いてしまう。

 せめて遠く離れた地で忙しさに紛れたいという気持ちがあった。

「八津ちゃん・・・・。」

「手紙、書くから。」

 そういうと管理人のおばさんは涙を流して頷く。

「これ・・・向こうに行ったら開けておくれ。明日は・・・見送らないから。」

 渡されたのは手製のお守りと布製のバック。

 どちらも手作り感漂う温かいものだ。

「ありがとう。」

 葬儀の手配を一手に引き受けてくれた管理人のおじさんは現れない。

「あの人、別れが寂しくて会えないのよ。ごめんね。」

 八津が少しずつでも食事を食べ終えるのを見ながらおばさんは微笑む。

「晃子ちゃんもあんなにいい子だったのに、こんなに早く逝かなくても。」

 ハンカチを取り出して自分の涙を拭きながら呟くおばさんに八津は笑う。

「そんな風に悲しんでくれる人がいて嬉しい。ねえ、おばさん、俺が16になって自立するまで母さんの遺骨預かっていてもらえない?」

「ああ勿論だよ。大事に預からせてもらうからね。」

 何度も頷いてから食べ終えた食器を持っておばさんは去っていった。

 八津とその母である晃子を自分の娘と孫の様に可愛がっていたおばさんにとってこの部屋は辛くて仕方ないのだという事を知っていた八津はその小さい後姿を見送る。

 スポーツバック一つだけの室内は閑散としていて寂しさが漂う。

 母の死を覚悟していただけにその辛さで呆然となる事は無かったがやはりその喪失感は重く圧し掛かってくる。

「今日で此処ともお別れだな。」

 養子縁組を申し出てくれた人は管理人夫妻の他にもう一人いたが、将来の仕事紹介以上に迷惑など掛けられないと断った八津は明日から施設へと行く。

 だが暗いイメージのある施設だが、其処は暗いものでは無く、親が忙しかったり育てられないという事情がある子ども達が身を寄せ合って暮らしている所だった。

 年長者は小さい子ども達の世話を手伝わなければならないから忙しいけれどきちんと地元の中学に通う事も出来るし、何よりもそのアットホームな雰囲気が気に入っている。

 知り合いに紹介してもらった其処に行く事に不安は無い。

 今は夏なので布団が無くても寝ることは出来るからタオルを一枚だけ自分に被せて横になる。

「明日から忙しくなるんだな。・・・頑張ろう。」

 頭上にある母の位牌を見ながら八津は目を閉じた。

 のだが。

 ドアをノックする音に目を開ける。

 時刻は午後8時。

 寝るには早い時間だが人を訪問するには遅い時間である。

「誰だ?」

 友人というものがいない八津にとって訪問相手にまったく心当たりがない。

 覗き穴から見ると其処にはスーツ姿の男が立っている。

 夜にも関わらずプレスされたスーツに整った髪。

 これほど安アパートに似合わない人物もいないだろうという容貌の男だった。

 不審に思いながらも扉を開けた八津を男は見下ろす。

「お前は広野八津か?」

 淡々とした口調に頷くと男は名刺を取り出した。

「・・・長嶺弁護士事務所、長嶺浩太郎、さん?」

「話があって来たのだけどね・・・こんな早い時間から就寝か?」

 真っ暗な部屋を見て長嶺は眉を上げる。

「ええ、はい。それにもう電気は止めていますから。」

 明日此処を立ち去るというのに今日だけの為に態々電気を通す程八津は経済観念が無いわけではない。

「・・・・個室を用意するから来なさい。」

 強引という文字がとても似合う一言に八津は首を傾げる。

「どうしてですか。」

「話があるからに決まっているだろう。」

「俺には貴方の話を聞く理由がありません。明日早いので帰ってください。」

 不愉快そうに眉間の皺を作ってから長嶺は言い放つ。

「その施設には断りの電話を入れておいた。」

「・・・・・貴方にそんな権利は無い筈です。断りを入れたとしても俺が行く事に変わりは無いのですから。それではさようなら。」

 無理やりドアを閉めようとしたが、長嶺の縦も横もある体格と女子に嫌味を言われる程細い八津とでは始めから勝負にならない。

「・・・なんですか。」

「私の苗字を聞いて何の考えも浮かばないのか。」

 安物の扉が悲鳴を上げている事に気付いた八津は手を放して長嶺を見上げる。

「何も。俺の知っている人にそんな苗字の人は一ミクロンもいませんから。」

「お前の父親の苗字が長嶺だ。」

「は?・・・・・そうなんですか。」

 晃子は父親の名前など一切言わなかったので知る筈も無い。

「晃子は言っていなかったらしいな。」

「・・・聞いてもいいですか?」

「なんだ。」

「どうして貴方が此処に居るのか俺が分かるように且つ簡潔に言ってください。」

「母親を亡くして哀れなお前をお前の父親が引き取ると言っている。その詳細を話に来た。もっとも未成年であるお前に拒否権は無いがな。」

 傲慢という一言に尽きる言葉に八津は絶句したが、その中の言葉に拒否権が無いというのが引っかかる。

「拒否権が無いって・・・。」

「言葉の通りだ。父親である私の父がお前を引き取ると言ってやっているのだから法律を照らし合わせても拒否権などあるはずも無いだろうが。」

 それすらも知らないのか、という言葉に黙り込む。

 一応授業で習ったが其処まで詳しくは無い。

「話は終わった。今から連れて行くから荷物を持て。」

「い、今からですか?」

「なんだ。私に二度手間を取らせる気なのか。」

 実質上の父親という言葉を出されればどうしようもなく、それにさっきは強気の発言をしたが施設に断りを入れたといわれては従うしかない。

「じゃ、じゃあ・・・・鍵を管理人さんに私に行かせてください。」

「いいだろう。だが早くしろ。」

 スポーツバックと大きな布袋を持って部屋の外に出てから鍵を閉める。その間長嶺は煙草を吸っていた。何のメーカーかは知らないが匂いが臭いと感じる。

 無言で管理人夫妻の家へと言ってからインターホンを押すと驚いた顔でおばさんが出てきた。

 非礼を承知で家の中に入り込み鍵を渡す。

 そうして小声で一気に捲くし立てた。

「おばさん、何か、俺の父親の息子っていう人が来て今から俺を引き取るって言っているんだ。だから鍵を持ってきました。それを遺骨をお願いします。」

「え、どういう事?」

「俺にもよく分からない。でも拒否権は無いらしいから・・・・・あの、瀬口さんが来たら事情を説明してもらっていいですか?手紙は書きますし、電話も出来たらします。どうなるか分からないけど、でも、何とかなると思うから。これ、弁護士さんの名刺。」

 先程貰った名刺をおばさんに差し出す。

「外で待っているし、早くしないといけないみたいだからこれでごめんなさい。」

 急いで頭を下げると呼び止める声に笑みだけ残して扉を閉める。

「・・・お待たせしました。」

 道路を見た瞬間、玄関の前、普通ならこんな所に寄せないのだがポルシェが止まっていた。

 非常識にも程がある。

「早くしろ。助手席には乗るなよ。汚れるから。」

 彼女の特等席なのだろうかと思える発言をされ、黙って頷いてから後部座席に乗った。

 弁護士という職業のイメージはすっかり歪んでしまっている。

 今後弁護士という職業に就いている人物とは出来るだけ個人的に係わり合いになりたくないと八津は思う。

 只管沈黙の車内の中で八津は流れる風景を目に焼き付ける。

 高級住宅街の中へ入って大きな建物の前、門扉がある所で一旦止まり門が開いてから走り出す。

 そうして着いた場所は日本ですかと尋ねたくなるほど大きな洋館だった。

「降りろ。」

 一言だけ言い放つと長嶺はいつの間にか玄関前に控えていたお仕着せのメイドに車の鍵を渡してから館の中へと入っていく。

 八津は慌ててメイドに一礼してから同じく中に入ると其処はもう別世界。

 映画か外国の様な世界だった。

「土足で、大理石で、メイドで、赤絨毯の階段・・・・・なにこれ。」

 学生服の八津は物凄く浮いている。

 更にメイドは一人では無いらしく二人程玄関近くに控えており、その内の一人は長嶺の言っている事を聞いて僅かに眉を顰めたが睨み付けられると一礼してから八津の下へと来た。

「八津様。お食事はお済でしょうか。」

 淡々とした声に頷く。

「はい。」

「ではお部屋にご案内致します。」

 荷物を持とうと手を伸ばされたが、これでも男なので女に荷物は持たせられない。

 首を振って自分で持ち直すと気にした様子も無くメイド服の女性は前を歩く。

 長嶺はいつの間にか居なくなっていた。

 靴が埋まる程の絨毯を歩きながら広い廊下を歩く。

 そうして辿りついたのが一階の一番奥の部屋。

「こちらがお部屋になります。お手洗いは右斜め正面となっておりますし、浴室は更にその横となっております。朝食は朝7時から。夕食も7時となっておりますので遅れない様になさってください。」

 言い終えると扉が閉められる。

 ベッドとテーブルと椅子、小さな棚のあるシンプルな部屋だ。

 この館には合わない、一般家庭では普通に使われている家具が置かれており、壁紙も廊下に比べると若干貧相に見える。

 だが母子家庭で節約しながら育った八津にはこれが普通だったのでなんとも思わない。むしろ空調の利いた部屋は快適に思えた。

「あ、ベッドのマット結構いいな〜。」

 布団もシーツも清潔感がある。

 ワンルーム並みの広さの部屋は八津には十分だった。

 とりあえず夏用の学生服を脱いでスウェット姿になると少ない荷物を整理する。

 クローゼットもあったので服や小物はその中に。教科書や勉強道具はテーブルの上に。 

 最後に残った母の位牌は棚の上に母が大切にしていた可愛らしいハンカチを広げて写真と共に置く。

「母さん、何かよく分からないけど長嶺さんていう人の家に住む事になったよ。・・・とりあえず頑張るから。」

 いつでも笑顔が口癖の母の笑顔を思い出して八津は笑う。

 本当は泣きたかったのだが笑った。

「瀬口さんに何も言えずに来ちゃったよ。せっかく仕事の合間を縫って色々してくれたのに・・・。今度会ったら謝らないと。」

 母さん、俺の父さんどんな人だった?

 聞いてみたいと思ってもいつも言えなかった言葉。

「どんな人なんだろうね、俺の父さんて。」

 目覚まし時計を見ると、時刻は9時半。

「もう寝るね。お休み。」

 6時にタイマーをセットして布団に入ると眠りは直ぐに訪れた。

 



 目覚ましより早く起きた八津はまず顔を洗いに浴室へと行く。

 浴室の扉にはプレートが下げられており、“未使用”“使用中”と両面に書かれてある。

 それを見てから持参した石鹸で顔を洗い、タオルで拭いているとドアが開いた。

「あら失礼・・・もしかして八津さん?」

 振り向くと中年だが細身の女性が立っている。

「はい。おはよう御座います。」

 女性は懐かしそうな顔をしてから微笑む。

「お母様にそっくりなのね。」

「母をご存知なのですか?」

 女性はゆっくりと頷く。

「お母さん此処で働いていたのよ。とてもいい子だった。明るくて楽しくいつも笑顔を絶やさずに・・・なのに・・・。後で手を合わせても良いかしら?」

「はい。お願いします。それと母の事また後で聞かせてもらえますか?」

「ええ勿論よ。朝食はお部屋に持ってきましょうか?何処?」

「此処の斜め正面です。」

 その言葉を聞いた女性の顔が引き攣る。

「・・・そう。あの、ここの人達の前ではあまり話せないと思うけど、部屋に行ったら色々話してあげるから。晃子さんを亡くなったばかりで大変でしょけど頑張ってね。」

 頭を撫でられると料理をしていた匂いが漂う。

「朝食を作っているのですか?」

「ええ。朝食は私の担当だから。昼食は基本的に無いのだけど夕食はシェフが雇われているから美味しいわよ。あ、私は田中というの宜しくね。」

 差し伸べられた手を八津は握る。

「こちらこそこれから宜しくお願いします。」

 紺色のシャツと黒のジーンズ姿の八津に田中は微笑んだ。

 それから二人で厨房に向かい、朝食の準備をする。手伝いを申し出たのだ。

「八津君は肉類入れない方がいいわよね?」

 初七日が過ぎたとはいえ、喪中だという事を配慮しての言葉に頷く。

「出来れば。」

 別に初七日でなくても肉類を口にする人は多いし、葬儀後の宴会で寿司が出る事などざらなのだが八津は食欲の面でも若干支障が出ており野菜だけをここ一週間食べていた。

「そういう所も晃子さんに似ているわ。此処の家で飼われていた犬が死んだ時供養だと言って食べなかったのよ。」

 その後も準備をしつつ過去の晃子の事を話してくれる田中に八津はすっかり懐いていた。

「さて、もうそろそろ此処のご主人様方が降りてくるから食堂の方に行って座っていた方がいいわよ?」

「はい。有難う御座います。」

 急いで教えられた食堂に行くと其処にはベスト姿の青年が立ち、カーテンを開けている。

「・・・おはよう御座います。」

「お早う御座います。始めまして八津様。私長嶺家の執事を勤めております逢坂と申します。」

 そういって頭を下げる姿は映画に出てくる執事より執事らしく見えた。

「宜しくお願いします。」

「もう直ぐ朝食のお時間となりますので座ってお待ち下さい。」

 椅子を引いてもらい座ると田中がワゴンを牽いて現れる。

 暖炉前とその右横、そして回って左、最後に八津の前に皿を置く。

 時計が七時になると昨日の弁護士、長嶺浩太郎が現れた。

 だが八津が席に座っているのを見て思い切り眉をしかめる。

「どうしてこいつが此処に座っている。俺は言った筈だろう。使用人と同じ扱いをしろ、と。」

 するといつの間に居たのか、昨日八津を案内したメイドが頭を下げる。

「はい。お部屋はそのように。ですが食事は聞いておりませんでしたので。」

 頭は下げているが、言葉には温もりが無い。

 冷え冷えとした態度に浩太郎は舌打ちをした。

「私が言った事を汲み取れないメイドなど必要ない。」

「しかし浩太郎様。私は社長からは丁重に扱うようにとのお言葉を頂いております。」

 逢坂が淡々とした言葉で言うと今度は傲慢な態度をメイドから逢坂へと移す。

「妾の、しかも本当に社長の息子かどうか分からない犬と同席しろと?!」

 叫ぶ浩太郎に誰も反応しない。

 再び舌打ちをした浩太郎は扉から堂々とした態度で入ってきた男を見て再び暴言を吐こうとした口を閉じる。

「朝から何の騒ぎだ。」

 眉が若干寄るだけで威圧感が凄いその人に浩太郎も怯む。

「こ、こいつが・・・。」

「何だ。」

 浩太郎は僅かに息を吐くと出来うる限り静かな声を出して話し出した。

「私は何処の骨とも知れない、社長の元妾の子とは食事を共に出来ないと言っていたのです。」 

 男は頷き八津を見る。

「父上が話していた子どもか。」

 無機物を見る瞳で八津を見るその態度は傲慢な浩太郎とはまた別の不快感を生み出すものだ。

「成程。父上とは似ても似つかない顔立ち。これでは血縁を証明できないな。逢坂。」

「はい。」

「浩太郎は何と言ったのだ?」

「使用人と同じ扱いをするように、と聞いております。」

「ならばそのように。連れて行け。」

 言い終えると暖炉の前に座り、朝食を食べ始める。

「や・・広野さん。こちらへ。」

 逢坂に立つように促されてそれに従うと浩太郎の侮蔑と嘲笑の顔と、田中の涙目の顔が見えた。

 そのまま連れて行かれたのは厨房の隣の部屋。

「広野さんはこちらで食事をするように。」  

 それだけ言い終えると立ち去っていく。

 何も無い其処で唯立っているのも馬鹿らしく、自室へと戻る。

「なんか凄く馬鹿らしい展開だな・・・。」

 溜息を吐いて、背伸びをすると朝食を諦めて机に向かう。

 瀬口が買い与えてくれた参考書とノートを広げて勉強を始めると先程の呆れてしまう時間など自分の中で過去のものへと飛んでいく。

 勉強は嫌いではなかったし、将来的に瀬口の役に立ちたい気持ちもあったから専門的な勉強も楽しい。

 ノックの音がしたときには1時間が経過していた。

「はい。」

 参考書とノートを引き出しに仕舞うと田中がトレイ片手に入ってくる。

「朝ごはん・・・食べる?」

 八津用にと用意してくれたものとは違うものだったが、その配慮が嬉しくて頷くと安堵の息を吐いて田中は近づいてきた。

「ごめんね、庇えなくて。」

「仕方ないですよ。それで失職でもしたら俺も悲しいですし。」

 わかめと豆腐の味噌汁にご飯と漬物。

「魚を食べるんだったら鯵の干物があるわよ。」

「それは・・・明日からいいですか?」

 苦笑して八津が言うと、田中は言い難そうに口を開く。

「でも・・・食べ終わったら洗濯物や掃除、草むしりをしてもらわないといけないから・・・。」

 “使用人と同じ扱いにするように”という言葉を思い出す。

「ああ、そういう事ですか。」

 至極あっさりと納得した八津はご飯と味噌汁を掻き込んで朝食を終わらせると立ち上がって満面の笑みを浮かべて見せた。

「じゃあ早く終わらせないと、ですね。まずは執事の逢坂さんに仕事を聞いたほうがいいんですか?」

「え、ええ。・・・・・あんまりショックじゃないのね?」

「母さんが前向きに生きろって言ってましたから。」

 食べ終えた食器をトレイに載せて田中を促す。

「さ、行きましょう。田中さんもサボっていると見なされますよ?」

 田中は笑って頷くと共に歩く。

「スタッフルームでは私語をしても大丈夫だけど基本的に館内はあまり話さないこと。この辺りは私と麻生さん・・・あ、もう一人のメイドね。それと運転手の佐藤さんの部屋と共有スペースだから大丈夫。後は追々説明していくと思うから。」

「はい。仕事の采配は逢坂さんがするんですか?」

「ええ。逢坂さんが仕事を振って、後は手の空いた人が終わっていない人を助けたり・・・。逢坂さん自身は栄治様の私設秘書の様な所があるから私達の様な仕事はしないわ。」

 説明を聞いていると、厨房の隣の部屋の扉の前で止まる。どうやら此処がスタッフルームになるらしい。

「此処でミーティングの様な事をしたり、食事をしたり休憩をしたりするの。通いの家政婦さんが来る時も此処を控え室に使うから私物は持ち込まないようにね。」

「はい。」

「失礼します。」

 扉を開けると逢坂と麻生が立っていた。

「広野さんには基本的に裏方の仕事をしてもらいます。週に一度庭師が来ますが、3日に一回は草むしりをする事にしておりますのでそれを。後は掃除を主にしてもらいます。手が開けば他も手伝ってください。今日は麻生さんに付いて仕事を学んでもらいます。いいですね、麻生さん。」

「はい。」

 逢坂は頷いてから去っていく。

 その途端に漏れたのは二つの溜息。

「まったく・・・陰険ったらありゃしないわ。」

「ねえ。八津君がかわいそうよ。」

「ええ!こんな親を亡くしたばかりのいたいけな美少年を苛めるなんて!・・・と、いけない。私は麻生絵里。歳は25歳。一応先輩になるらしいから何でも聞いてね。」

 始めてあってから今まで無表情を保っていた麻生は表情を目まぐるしく変えて八津の手を握る。

「私達は八津君の味方だからね!じゃ、仕事に行きましょ!田中さん、それじゃあ行ってきます。」

「頑張ってね。」

 見送る田中を背に麻生の後を歩く。

「まず掃除。此処絨毯が多いから結構大変なの。」

 掃除道具を手にしてから手近な部屋に入り掃除を開始。

「三ヶ月に一度専門業者が入るけど、それでも大変。埃なんて落ちていたら逢坂さんから呼び出されるから気をつけてね。部屋は私達の部屋を除いて10部屋あるから。逢坂さんと私達個人の部屋は各自という事になっているから他を頑張りましょう。」

 そうして部屋の掃除と浴室、窓拭き、階段と廊下の掃除を教えられながら終わって時計を見ると12時半。

「始めてと思えない位上手だったわ。」

「有難う御座います。でも結構楽しかったです。」

 前向きな八津に麻生は頷く。

「それは良かったわ。午後は洗濯物の畳み方とアイロンがけを教えるから頑張ってね。」

「はい。」

 褒められながらスタッフルームに入ると中年の男性がどんぶりを片手にテレビを見ている。

「あ、佐藤さん。八津君。この人は佐藤さん。運転手として雇われているけど雑用その他を一手に引き受けているから明日は佐藤さんに付いていってね。佐藤さん、この子は広野八津君。薄幸の美少年だから優しくしてやってね。」

「は、薄幸の美少年って・・・・違いますよ。」

 否定してから佐藤の視線を感じ、慌てて頭を下げて自己紹介をする。

「始めまして広野八津といいます。本日からこちらでお世話になります。何かと迷惑を掛けるかもしれませんが、宜しくお願いします。」

 頭を上げると佐藤は笑って頷く。

「ああ宜しく。よくわからないが、明日この子に仕事を教えればいいんだな?」

「ええ。」

 そういうとテレビに視線を戻す。見ているテレビは競馬の実況中継だった。

「佐藤さん大の馬好きだけど競馬とか賭け事嫌いな人だから安心して。」

 麻生の小声に佐藤は頷く。

「馬はいいぞぉ。あの姿形は見惚れる。競馬なんてそりゃあもう実物見ると惚れるな。今度休みの時に連れて行ってやろうか。」

 笑顔で言う麻生に八津は笑う。

「余裕が出てきたらお願いします。」

 佐藤は嬉しそうに頷いてから再び競馬実況中継に釘付けとなり麻生と八津の存在はそれきり無視される。

 だが不愉快な無視ではなかったので麻生と二人で顔を見合わせて笑いあってから厨房に続く扉を開けると田中が仕込みをしていた。

「田中さん、お昼何ですか?」

「今日は麻婆豆腐とスープとホウレン草のおひたしよ。」

 ラップの掛かった料理を示す田中に礼を言ってご飯をよそってからスタッフルームへと戻り15分で食事を終えると洗濯物の取り込みと畳み方、アイロンの掛け方を教わる。

 夕方になりある程度終わると各部屋へ田中が届けに行き、それが終わるとディナーの用意。

 シェフの人は食材と作り終えた鍋を持参で来た。

 勿論スタッフは田中さんが作った料理を食べる。

 給仕は麻生と田中が担当し、八津は食器洗いと厨房の掃除を言われたとおりにこなす。

 それが終わると田中がお茶の準備をする為に戻ってきたのでそれを観察しながら下げられた食器の片付けと洗い。

 使われたナプキンや使用済みのタオルなどは朝一で洗う事になっているので逢坂の翌日のミーティング呼び出しメモが無いその日は呼び出しが無い限り仕事は終了となる。

「初日とは思えない位手際が良かったわ。」

 麻生と田中に褒められて気分の良くなった八津は笑顔で礼を言ってから自室へと下がった。

 そうして風呂に入り、空調の効いた部屋の中で勉強を始める。

 中学の宿題は病院に通う間に終わらせてしまっているのでこれは瀬口から貰ったものと通っていた中学の教師から貰った参考書だ。

 店を経営している瀬口の助けになりたいと言ってから時々こうしてもらう教本は調理師免許に必要なものと、栄養士のもの。中学の教師から貰ったのは現代文の解釈付きの参考書だった。

 本を読むのが趣味の八津に餞別にとくれた教師の顔を思い出す。

 まさかこういう境遇になっているとは思われないだろうが、ともかくも二人の気持ちが嬉しかった。

 それらを嬉々としてある程度進めてから終わらせ、新たに取り出したのは中学3年の参考書。分からない所は何度で繰り返して読み、シャープペンの芯が無くなるまでノートを埋める。

 集中力が途切れて顔を上げれば目覚まし時計は12時を指しており、これ以上起きていては明日の仕事に支障を来すと思った八津は寝ることにした。

 だが今日は目まぐるしい一日だったので意識が冴えて仕方がない。

 かといって庭を散歩したり、ランニングに行くわけにもいかないのでどうしようもなく、何度となく寝返りを打つ。

 近くの部屋での怒鳴りあいも犬の鳴き声も車の音も無い、無音の空間は八津にとって不安を増徴させるだけのものだ。

 溜息を吐いて体を起こすと布団に入ってからまだ30分も経過していない。

 これでは眠れないと思って起き上がり、スニーカーを履いてからスタッフ用の裏口から庭へと出る。

 表の美しく飾られた庭では無く洗濯場となっている裏の庭だ。少し歩くと木々が生い茂っており、緑の匂いが漂う。

 流石に夜空は同じだったが外灯が無い為に此方の方が若干綺麗に見える。

 紺と黒のスウェットに漆黒の髪をしている八津はそれこそ闇に紛れやすい格好をしていた。

「こんな時間に何をしているんだ?」

 だから声を掛けられたことに驚いてしまう。

「え?」

 振り向くと地味なスーツ姿の佐藤が立っている。

「もう寝ていた方がいいぞ?」

 柔らかい笑みを浮かべて優しく言う佐藤に八津は正直に言った。

「・・・あの、眠れなくて・・・。それで・・・。佐藤さんは?」

「仕事だよ。此処の三男のゆかり様を女性の所に送ってきたんだ。」

「・・ご苦労様です。」

 こんな時間に老年と言っても過言では無い佐藤をこき使うなんて、と内心思うがそれを口に出さない程度には八津は寡黙なのである。

「いやいや。後3,4年もすればゆかり様も此処を出て行かれるからな。それまでの辛抱だ。なあ、八津君。」

「はい。」

「此処の裏口は暗証番号式になっているんだよ。だから知り合いの所にこっそり泊まりに行く時はこっちを使いなさい。」

 手を取られ、手早く書かれた8桁の数字をなぞられた指先どおりに暗記する。

「有難う御座います。」

「馬、本当に興味があるなら一緒に行こうか。」

「俺、馬って見たこと無いから見てみたいです。」

 本音を出すと佐藤は顔を益々綻ばせる。

「そうかい。晃子ちゃんも好きだったから八津君も好きかと思ってねぇ。」

「母さんが?」

「ああ。田中さんと私は古株なんだよ。だから晃子ちゃんの事も知っているよ。」

「・・・もしかして、佐藤さんて佐藤康孝さんですか?」

「そうだが。」

「香典有難う御座いました。住所が分からなかったので香典返しは出来なかったのですが、お礼だけでも先に。」

「・・知り合いに頼んで名前は書かない様に言ったんだがなぁ。そうか、ああ有難う。」

 佐藤の言葉に八津は首を傾げる。

「どうして名前を書かない様に言われたのですか?」

 すると佐藤は俯いてから顔が見えないようにした。

「・・・晃子ちゃんの窮地に助けられなかった事を考えると、とてもじゃないが顔を見せられなくてね。・・・田中も同じく罪悪感を抱えていたんだ。」

「それは、何ですか?」

 佐藤は僅かに逡巡した後ゆっくりと話を始めた。












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