時には昔の話でもボレロの二階、憩スペースである和室はボレロの住人が集まる場所である。 だが夕刻の今、その部屋に居るのは瑞樹ひとりきり。作業をしていると安藤が部屋に入ってきた。 安藤が入ってきた事は知っていても一々声を掛ける事は無いのはいつもの事。安藤を居て当たり前の様に扱う瑞樹は堂々としており、安藤自身もそれを望んでいる。 雫茶とお茶請けを置いてから瑞樹に声を掛ける。 「瑞樹、今日は晴れるそうですよ。」 「そうか。」 残った短冊の紙やこよりを片付けて窓際に置かれた笹を見ると瑞樹の短冊が見えた。 「室内に飾るのは違和感があるが、いいだろう?」 「そうですね。」 往々にして瑞樹の言う事全てに頷き要望をかなえる安藤なので、今回もやはり頷いたのだが安藤自身も良いと思っている為にその口元には柔らかい笑みが浮かんでいる。 「七夕なんて・・・・・誰が叶えてくれもしないものを飾るのだと昔は馬鹿にしていました。」 呟く声は暗くなりだした空へと消えそうな程小さい。 「そうか。俺は母が生きていた頃は飾っていたな。あの人はロマンチストだったからそういうのが好きだった。」 飾られた短冊を見ながら瑞樹が言った後部屋の中は静かになる。夕日で赤く染まっていた室内も段々と暗くなり、電気無しでは人の顔の詳細が見えぬ程になっていた。 明かりの無い部屋は暗く、それはそのまま二人が抱える闇が外に出て侵食するかのよう。 庭の広い館には車の音など余程大きくない限り聞こえない為に静かなものだ。 その静かさに遠慮しているのか、虫の鳴き声も顰めたかのように小さなもの。 「今日は皆出払っていますから私と貴方だけですよ。」 今までの沈黙を無かったかの様に安藤が柔らかい声を出す。 「・・・そうか。ありがとう。」 「いいえ。時には静かな方がいいでしょう?」 「そうじゃなくて・・・傍に居てくれて有難う。今までも、今日も。」 七月七日。 「もう何年前なのか忘れてしまった・・・。」 「そうですか・・・・私もです。」 そうか、と瑞樹が秀麗な美貌を僅かに歪めて笑う。 「だが・・・今日と言う日だというは忘れられない。お前と初めて会ったのも今日だったな。」 「そうですね。」 瑞樹が母を無くし、全ての運命が狂いだした日。 安藤の人生が反転した日。 「夏だな。」 「夏ですね。」 洋館である外観と一応店だという事で風鈴などは付けられないが、木々の葉が囀る音と蒸し暑くなりだした空気が夏だという事を伝えている。 夏は人を狂わせる。 七夕はその前にある穏やかな時間だ。 安藤が瑞樹を抱き締めると抹香の匂いが立ち上る。 インディゴブルーとブラックの中間色のスーツと黒いネクタイ姿の瑞樹はされるがまま身動きすらしない。 暗い中でも僅かに光る髪からも漂うその香り。 「瑞樹。」 「雨が、・・・降ればいい。」 小さな声は立ち上り、消える。 「そうですね。」 「月が・・・星が・・・雲で隠れればいい。」 「そうですね。でも、悪い事ばかりでは無かったでしょう?」 白い、だが決して姫君のものでは無い手が安藤の背中に回り、スーツに皺を作る。 「そう、だな。・・・・・そうだな。悪い事ばかりでは無かった。」 軽々と瑞樹を抱えてテーブルの前に座らせるといつの間に揃えられていたのか部屋の隅の大きな盆には冷酒とつまみが揃えられていた。 「飲みましょうか。」 軽く掲げられた酒の銘柄は昔二人で飲んだもの。 お金が無くて、だが、飲まなければ忘れられない事もあった。 だから時々二人で分け合って飲んだ。 高い酒は客と飲むが、目の前にある安い酒だけは二人の時に飲むもの。 「いつか・・・この酒もこの世から消えていくのだろうな。」 「そうなるまでこうして毎年飲んでいればいいですよ。時と共に忘れるまで。」 ガラス特有の甲高い音を立てて飲む酒は普段飲むものとは違い、美味いとは言い難い。 「そうか。」 冷暖房完備の部屋を開け放ち、時々聞こえてい来るクラクションの音を聞きながら酒を飲む。 笹の葉が揺れ、短冊が揺れる。 「瑞樹は短冊にどんな事を書いたのですか?」 「・・・“家内安全無病息災”。」 言い終えた後二人して苦笑しつつ笑い声を出す。 「何ですかそれ。」 「思いつかなかったんだ。」 「そういえば・・・昔あの人が似たような・・・」 小さな声で談笑する二人の話は夜の帳の中で風と葉のさえずりによって誰にも聞かれる事無く一晩中続けられたのだった。 ・・・二人にするとどうしても雰囲気暗くなりますね。 |