十五夜〜そして月が満ちる〜
目を覚まして周りを見渡すと、ひたすら緑だった。
鬱蒼とした緑の中で上半身を起こしてから頭を抑える。
「つっ!」
頭痛の酷さに眉を顰めるが、その手が土と草以外の温かいものに触れたのでそちらの方を向いた。
そこには安藤が倒れている。
それだけで全てを思い出した瑞樹は苦笑する。
「そう、上手くは行かないって事か・・・。」
苦笑しながら上を見上げると冴え冴えとした月が見ていた。
冬の月。
十四夜。
という事は気を失ってからそんなに時間は経っていないという事になるのだが・・・・。
此処はどうみても。
「噂に聞く樹海、だよなぁ。」
服装を見ると喪服姿。内ポケットに入れてあった拳銃やナイフは全て無くなっている。もちろんライター、ロープ、ピアノ線、携帯食料等もだ。
おそらく安藤が携帯しているもの全ても無くなっているだろう。
ただ、携帯電話と財布はあった。
あっても此処では意味の無いものではあるのだが。
「さて、どうしようか。」
上着を脱いで、未だ目を覚まさない安藤に掛けてやってから気を失う前の事を思い出した。
通夜に出席するために岡本本家に訪れた瑞樹と安藤は岡本兄弟に一礼すると抹香臭い部屋に足を踏み入れた。
すると其処には厳つい男達が勢ぞろいしている。
当然だ。此処は岡本組の総本山とも言える場所なのだから。
だが瑞樹は眉を顰めて両手を内側に曲げた。
「おっと。動かないで欲しいな。」
気付いていても動けない状況だったので、背中に押し付けられたソレに対処できない。
「瑞樹・・・。」
青い顔をして此方を見る安藤に微笑んでみせる。
「ほぉ。一応坊ちゃんの愛人を約10年勤めただけあって肝が据わっている。」
後ろで嗤っているのは。
「何のようだ館川。」
首だけ後ろに向けると、疲労の色濃い顔が其処にあった。
「色々とどうも。まさしく戦の影には・・・だったな。」
唇を歪めて嗤う姿は醜い、と瑞樹は思った。
「俺と安藤が何をしたと?」
安藤の様に青くなるわけでもなく淡々とした声で問う。それが逆に癇に障ったらしく感じていた殺気が一気に広がった。
「このっ!」
館川が左手を振り上げた瞬間、右側の襖が開いた。
「やめろ、館川。」
しわがれた、だが威厳のある声が響く。緊張した雰囲気を纏っていたその場は益々固くなる。
「やはり、生きていましたか。組長殿。」
淡々とした瑞樹の声に安藤が息を詰める。
「死んだと思っていたのか?」
「まさか。あんたのような下種はそんな簡単に死なない。病気療養も俺を罠に嵌める為の嘘だろう。まあ、他にもあるだろうけど。」
窮地に陥っているというのに皮肉を言う瑞樹に岡本組長は笑った。
「だが、此処で捕まるとは思っていなかっただろう?」
「捕まるような事をしましたかねぇ。俺は伊東梓には何かする前には一報しろといって規制していたし、他は保身以外の事をした覚えは無いのですが。」
「椎原の情人のフリをしたのはどうしてだ?」
「ああ、単純に俺の店の近くに似たようなコンセプトの店が来られると困るから罠を仕掛けただけですよ。それより館川が持っている物騒なものを仕舞うように言ってくれませんか?俺の可愛い部下が怯えている。」
突きつけられている本人はいたって冷静に微笑みながら提案した。
「ならお前が携帯しているものを渡して貰おうか。」
「グロックか。」
嘲りを含んだ声を館川が出す。
「そういうあんたは92FSあたりだろう?」
嘲りをものともせず片眉を上げてみせる。
「だったらなんだ。」
「訂正。グロックもどきだよ。それにグロックが一番率が高いから愛用しているだけだ。俺は見た目より中身なんでね。人殺しさん。」
「お前だって人殺しだろう。」
「そうだよ?でも自分の母親を殺した人間を詰る権利はあるだろう。」
「お前の母親?」
館川と瑞樹が淡々とした会話をしていた中で岡本組長が口を挟んだ。
「そう。」
「組長、それは」
言いかけた館川を目線だけで制して瑞樹に先を促す。
「それで?」
「単純な話だ。事故の時、館川がわざと警察に連絡するのを遅らせた。30分だ。お前は俺も気絶していると思っていただろうけど、話せない状態にあっただけで話は聞こえていたんだよ。組長に連絡してからお坊ちゃまを自分の車で帰らせてバイクの証拠隠滅に務めてから空白を置いて連絡するまで。電話してから証拠隠滅するまでの時間と、俺達を唯黙って見ているだけの時間。後者の時間の方が長かったんだよ。俺は腕時計をしていたから時間を計っていた。その時は唯気を失わないように時計の針を見つめていただけだが、それで事故発生時間から警察通報までの時間まできっちりと覚えている。大体警察の事情聴取が裁判後っていうのも笑える話だったけどね。それは組長の指示だったんだろう?まったく館川さん、あんたは忠義の鑑だね。」
「言いたいことはそれだけか。」
「まだある。」
言い切った瑞樹に岡本組長は笑った。
「いいだろう。好きなだけ言うといい。ただし一時間以内に。」
若干動揺している館川や他の男達を目に瑞樹は淡々とした口調で話し出した。
「俺が此処に売られたのはあんたの策略だ。一応俺はこの類まれなる美貌に自覚があるんでね。それに目を付けたんだろう。叔父と呼ばれる人物をギャンブルに落とし込んで借金を作らせる。その片に俺を売らせた。俺は金の卵を産む鶏だった。あんたの誤算は叔父が既に俺を強姦していた事だが、それはあまり関係ない。安藤に関してもそうだ。」
え、と小さな声がしたが、瑞樹はそちらを見なかった。
「瑞樹の恋人とやらに金を握らせた。まあ、それだけなんだがな。話を聞くと、あんたが経営している店の殆どの子はそういった手で連れてこられた人間が多かった。中には組員の情人だったのが無理やり連れてこられたとかいうのもいたな。だから此処に居るやつらでちょっとでも見目の良い家族や恋人を持っている奴らは気をつけろよ。少しでも金になると判断されたが最後、使い物にならなくなるまでゴミみたいに扱われた挙句臓器まで売り飛ばされるからな。3日連絡が取れないなら要注意だよ。こいつは日本だけじゃなくて世界各国に売り飛ばすからな。俺はその邪魔をよくやったからね、あんたはさぞかし俺を恨んでいるだろう。話は以上だ。」
冷え切った室内で不気味な沈黙がこの部屋に居る全員を支配した。
「さて、俺はどうなるのかな?何もしていないけどね。」
先ほどと何ら変わりない笑みを浮かべて岡本組長がその言葉を否定する。
「確かに何もしていない。実際に手を出した伊東という女と実行犯は既に処理済みだが、そそのかしたのはお前だ。お前と安藤は消えて貰おう。」
その言葉に瑞樹が嗤った。
「俺が消えたら困るのはあなただ。」
「確かに。オーウェルが後ろに居るお前が死んだと分かれば少し面倒な事になる。」
オーウェル。表立っては巨大複合企業。だがそれだけでは無いという噂もある名前だ。
「まあ、そうでしょうね。」
軽く同意してから肩を竦める。
「だからウチとは関係の無い所で自主的に消えてもらう事にした。」
笑った顔がまた、不気味だと瑞樹が思った瞬間顔に何か吹きかけられた。隣を見ると安藤も同じ事をされたようで目が閉じかかっている。
「憎い相手が目の前で笑っているのはさぞかし腹立たしい事だろう。しかも死ぬ場面を見れないままお前達が先に死ぬのだからな。」
館川と岡本組長の笑い声を最後に瑞樹の意識は途切れた。
そうして今に至る。
椎原達や吾郷がどうなったというのを考える余裕は、無い。
まず、此処から生きて帰れるかという方が問題なのだ。
もし生きて帰れたとしてもその後が更に心配なのだが今はそれを考えるより先に。
「どうしたら此処から脱出出来るか、だよな。」
人の感覚を狂わせる樹海の中に居るのだ。
おそらくは民家は近くに無いだろう。
確かに、放っておいても餓死する可能性が高い。
一応保険は掛けて来たが、それも生きて帰らなければ意味が無いだろう。
もし自分達が帰れなくても共倒れさせる準備はある。
だが、生きて帰りたい。
(絶対にあいつらより先に死にたくない。)
それだけを思う。
「う・・・・。」
小さな声に振り向くと、安藤が眉間に皺を寄せている所だった。
「安藤・・・・・。栄、さかえ。もうそろそろ起きろ。」
肩を揺すると頭に手をやりながら安藤が上半身を起こす。
「瑞樹・・・。此処は?」
「おそらくは樹海。」
嵌めていた腕時計を見せる。
「樹海?どうして。」
「あいつらが言っていただろう?自分達とは関係の無い場所で自主的に消えて貰う、と。」
安藤の目が見開かれる。それを横目で見ながら湿気っていない枝でも無いかと探す。
だがそんなものは無く、あったとしてもナイフが無ければ意味が無い。
「本当に何にも無いな〜。」
「瑞樹。」
動揺が収まったのか、冷静な声で呼ばれた。
「ん?」
「コンタクトが片方だけ外れていますよ。」
笑いながら、アルミケースを内ポケットから取り出して瑞樹の前に差し出す。
「本当だ。・・・どうせ見ているのはお前だけなんだし、外そうかな。」
「・・・・そうですね。」
もう片方のカラーコンタクトを外して、それを適当に放る。
「さて・・・・どうしようか?方向感覚や方位磁石は当てにならないし、ナイフも無ければライターも無い。」
サバイバルをする上で最低限必要なものはナイフと火と水だ。
水は雨が降れば何とかなるだろうが、ナイフも無いし此処では火を熾せるかどうかわからない。
「オーウェルには連絡が行っているでしょうか・・・・。」
「まだだろうな。まだ半日も経っていないし、一週間以上連絡が取れない場合に動くという約束だから。」
二人で目を見合わせて、思わず溜息が漏れた。
「私達は此処で餓死するのでしょうかねぇ。」
日常会話の様な緊張感の無い声で安藤が溜息を吐いた。
「それはまだ分からないからどうとも言えないな〜。」
瑞樹の声も緊張感とは程遠い。
とりあえず自分達が死んだら岡本組は丸ごと潰れるように手筈は整えてある。
その後を纏めるのはおそらく椎原だろう。
だが、死ぬ気は無い。
暢気な雰囲気を出しながら二人ともどうすれば二人揃って助かるかを考えていた。
「とりあえず、水のある場所を探しませんか?」
安藤が提案して上着を渡す。
「まあ、そうだな。此処湿ってるし、寝る場所も探してから今後を考えようか。」
上着を羽織ってコインで決めた方角へと進む。
「なあ、靴は確かに脱いだよ、な?」
「はい。」
「なのに靴を履いているという事は誰かが履かせたという事だよなぁ。」
捨てる人間にわざわざそんな事をするか?という瑞樹に安藤が笑った。
「ああ、それは多分江口でしょうね。」
「江口?」
「うちの常連です。」
瑞樹はその場に居た岡本組の幹部を思い出す。
「・・・・・・・・・・・・・・喰ったのか。」
「知り合いが忙しい時もありますから。」
どうやら安藤のお友達が安藤に温情を掛けたらしい。
「ついでに私のものではないナイフもありました。」
シャツのボタンを二つ外してその中のベストからナイフを取り出してみせる。
「ついでに俺も。」
同じくシャツの下に着ている防弾チョッキの中からトムキャット。
「どうせならSIGの方が良かった。」
トムキャットは小さい分隠し持つには便利だが、その分反動が強いのだ。
「まあ、贅沢は言ってられないでしょう?それは江口のものですから。江口は確か92FSを持っていたはずです。瑞樹は嫌いでしょう?それよりましだと思わなければ。」
「でも弾が少ない・・・・・。」
「贅沢は言わないで下さい。」
ううっ、と項垂れながら真剣なのか漫才なのか分からない会話をしながら二人は樹海を進んだ。
3日が過ぎた。
水は運よく雨が降ったので何とかなったのだが・・・・・。
「問題は食料だよなぁ。どっかに蛇とかいない?」
「いたら華麗なナイフ捌きをごらんにいれましょう。」
心なしか二人の会話は真剣味が増している。
「はぁ。少し休憩しよう。」
その場に座り込んで溜息を吐く。
安藤も座り自分のスーツを見、瑞樹を見てから深い溜息を吐いた。
「・・・どうしたんだ?」
「オーダーメイドのスーツがこんなに汚れるなんて。クリーニングに出したら綺麗になるでしょうか。」
「なるだろう。」
「瑞樹の髪が痛んでいます。」
その目には光るものが。
「こんな状況で心配する事はそれか。」
瑞樹は一瞬呆れたが、安藤の瑞樹の美しさを保つ事への執着心は生半可では無い事を思い出し、黙る。
「それです。せっかく元の艶のある黒とも紫とも言える極上の髪質の髪が・・・・。真珠を塗り込んでもそこまで光らない程美しい肌がっ!」
「・・・・戻ったら好きにしていいから。」
遠い目をして顔をあらぬ方向へ向けながら小さな声で言えば、安藤の目が輝いた。
「本当ですか?!」
「本当、本当。」
「今まで嫌がっていた事も全部?」
「うん。生きて還れて尚且つ普段の生活に戻れたらね。」
「あれもそれもコレもしていいんですね?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・イイヨ。」
今までされようとして拒んでいたあれこれを思い出して思わず上を見上げる。だが、興奮している安藤は止まらない。
「ついでに服を着て写真を撮ってもいいですか?!」
「・・・・・・・・・・全て終わったら好きにしていいから。」
「ほんっとうに好きにしていいんですね?」
「栄、いきなり元気になったね。」
「好きにしていいんですね?」
「・・・いいよ。」
苦笑して頷くと安藤の頬に赤味が差した。
「じゃあ、全て終わったら私プロデュースのパーティーをセレナーデで開きましょう。」
どんな格好をさせられるか半ば予想が付きながらも瑞樹は頷く。
「そうだね。」
「さて、どうやって戻りましょうか。」
微笑む安藤が瑞樹に手を差し伸べ、その手を借りて立ち上がる。
「か弱い俺達には此処は辛いね。」
「・・・・・・そうですね。」
一応微笑んではいたが安藤の口元は心なしか引き攣っていた。
「とりあえずは、水を」
穏やかに話していた安藤は持っていたナイフを目標物に向かって投げる。
ナイフが木に刺さる音の後に微かな笑い声と木々のざわめく音。
「いきなり物騒なものを投げるのはどうかと思いますよ。」
暗闇から声がした。
「人?こんな樹海の深淵で?」
安藤の少し尖った声にまた笑い声がした。
「それはお互い様でしょう?」
アルト声が響く。
足音と共に現れたのはシャツとブラウス姿の女性の姿をしたものだった。
「何をしているの?」
冷静な声に瑞樹が微笑んで答える。
「迷ったんだ。」
「そう・・・此処に迷い込むものは死人ばかりかと思っていたわ。」
胸元にはブローチ。紺色のスカートは足首まであるもので。
今時の女性はまずしない格好である。
「俺達も迷うつもりは無かったんだけど、此処に放り込まれたんだ。」
安藤はただ事態を見守る事にした。
「此処に放り込まれるなんて、あっさりと殺されるより辛いわね。」
「まあ、そうだね。」
「とりあえず此方にどうぞ。私の住んでいる洞窟に案内するわ。」
腰まである長い髪を揺らして背中を向けたその人に、瑞樹と安藤は目を見合わせた後黙って従った。
着いたところは目の前に泉がある洞窟で、食料の事を考えなければ割りと良いところだと思える場所で。
「あの泉の水は飲めるから好きに飲んで頂戴。」
瑞樹と安藤はとりあえず先に水を飲ませてもらう。
だが、喉の渇きは無くなっても空腹感までは満たされない。
それでも安藤は後で聞けばいいと自分に言い聞かせて洞窟に行く。
隣の瑞樹を見ると、いつもの顔をしていたが若干顔がやつれている。
それを痛々しく思いながらも今は何も出来ない。
洞窟の中には焚き火が焚いてあり、温かかった。
「私は真壁聡子。」
いきなり名乗った女性に微笑んで瑞樹も直ぐに名乗る。
「俺は瀬戸瑞樹です。」
「私は安藤栄です。」
淡々とした口調の真壁聡子と名乗ったその人は会ってから一度も笑顔を見せていない。だが、唯其処に居るだけで漂う気品というものがあった。
「今の西暦を教えてくださる?」
いきなりの事に瑞樹は一瞬目を見張ったが、何でも無い事のように答える。
「西暦199×年ですよ。」
「そう・・・そんなに経っているの。」
どこか遠い目をして火を見る目はとても見た目通りの年齢とは思えなかった。
黙ってしまった真壁に何か質問するわけでも無くただ見守る。
小さい、だが深い溜息を吐くと真壁は瑞樹達を見た。
そうしてふっ、と微笑む。
微笑む姿は気品高く、古風な顔立ちがなにものにも変えがたい程美しく見えた。
「ああ、そういえばあなた方は此処に迷い込んで何日経っているのかしら?」
「三日になります。」
「悪いのだけど、此処には食料は無いの。」
「此処から近隣の町か村までの道を知っていますか?」
「ええ、最低6日掛かるけど。」
その言葉に安藤が小さく呟いた。
「6日・・・・そんなに・・・。」
この3日間水しか口にしていない。しかも少量なのだ。人は水と食料が無くても3日は持つ、水だけなら1週間と言われている。
9日間何も食べずに生きて戻れるだろうか。
安藤はそう、考えた。
(二人で戻りたいが、最悪瑞樹だけでも・・・・・。)
そう考えた瞬間、安藤の膝に瑞樹の手が触れる。
温かい・・・・否、熱い。
きっと本人は気付いていないのだろう。でなければ安藤の手を握らない、それが瑞樹だ。だが、今はそれを言う訳には行かないのだ。
「瑞樹はいつも私の考えを見抜く。・・・真壁さん、食料を手にする事の出来る場所は知りませんか?蛇でもムカデでも何でもいいです。」
安藤の頼みに真壁は首を振った。
「私は知りません。」
「そんな訳無いでしょう。あなたは此処に暮らしているようだ。なら食料を手にする方法を教えてください。僅かで良いのです、お願いします。」
頭を深く下げるが、真壁はまたしても首を振る。
「どうしてですか!」
水を飲んだと言っても腹は空いている。苛立たしい気持ちを抑える事も既に限界に近かった。
「私は水しか必要では無いので、時々木の実を拾うだけだから。」
でも今は冬だから何も無いの。と続けられた言葉に安藤の声も荒くなる。
「食べ物が無くては生きていけないでしょう!そんな嘘を吐かないでください、頼みます真壁さん私達は生きて帰りたいのです。」
一気に言った安藤に真壁は静かな声で答える。
「本当です。信じて貰えないかもしれませんが、私は僅かな食料で生きていける。本当は食べずとも生きられるのでしょうが、本当に何も口にしなくなればますます人から遠ざかってしまいそうで・・・。」
淡々とした声の中に悲嘆が僅かに混じっていた。
「僅かな食料で生きている・・・・?」
眉を寄せて呟く安藤を制して瑞樹が微笑む。
「それは修験者の様なものかな?」
「いいえ。私は唯人では無い。ただそれだけ。」
「そんな小説の話のような戯言を信じられるか!」
腹が減っているので理性の擦り切れ具合も相当だ。
「いや、落ち着け安藤。空腹に耐えかねて幻想を見ているのだとしても、こんな展開は面白いと思わないか?」
こんな状況でさえ笑っている。
「瑞樹。」
「だが二人同時に幻覚に囚われるというのも不思議な話と思うし、真壁さんの言う事を信じてみないか?」
「・・・・・・・はい。」
どんな時も瑞樹を否定した事の無い安藤は頷いた。
「で、とりあえず食料が無いのは分かった。出口までの日数は本当なのか?」
「ええ。」
「そっか。・・・うーん。どうしようかな。」
「瑞樹、何か妙に冷静じゃないですか?」
いぶかしむ安藤に瑞樹は微笑む。
「だって、現実感が無いからさ。」
それはそうだと納得していしまう安藤に真壁が始めて笑った。
「それで、真壁さんは人間なの?」
「一応は。ですがもう既に人間とは呼べないかもしれません。」
「どうしてそうなったか聞いてもいい?」
瑞樹の言葉に真壁はゆっくりと頷く。
「私も此処に捨てられたのです。・・・異形だったから。」
「異形?」
安藤が首を傾げる。
「私の親は代々薬屋を営んでいたのですが、迷信深い人で・・・私の異形を疎んじて此処に置いていったのです。」
「そう。その、異形というのは?」
「・・・ふたなり。」
小さな声に安藤が再び首を傾げた。
「両性具有と言う事だ。」
瑞樹が安藤に教えると安藤は頷き、真壁はそう、と呟く。
「今は両性具有というのですか・・・。」
「ああ、だが今は手術でどちらかに変わることも出来るしどちらにより近いのかも知る事が可能だ。」
「そうですか・・・。医学は進歩しているのですね。ですが、もう私には関係の無い事です。」
「関係無い?」
「ええ。」
冷静な声はどこか遠くに聞こえる様な感覚に陥らせる。
「私は此処でこうなりました。それは・・・唯人では無い人が此処に居てその人からこの体にさせられた。」
僅かな葉揺れの音が響く。
「こういう体の人間の血を飲めばこんな体になる可能性があります。」
「なるんじゃなくて可能性があるのですか?」
口を挟んだ安藤に真壁が頷く。
「ええ。私はした事は無いのですが、私をこの体にした人は数人試していたようです。ですが、生きられた者は一人としていなかったと。」
「つまり人魚の肉のようなものかな?」
「人魚の肉?」
「食べれば不老不死になるが、食べて死ぬ人間の方が多いと。」
「ああ、似ているかもしれません。ただ、これの場合不老不死では無いのですが。」
「寿命があると言う事ですか?」
「ええ。私をこの体にした人は二千年生きたと言っていました。ある日突然灰になって消えてしまいましたが。」
瑞樹は首を傾げる。
「つまり寿命が千年になると?」
いいえ、と真壁は首を振った。
「人によるようです。1年の人も居れば5,6百年の人もいる。血を貰った人の影響もあるそうで、寿命が短い人から貰った人はその人の寿命の前後しか生きられないと言っていました。」
「へぇ〜。つまり究極の選択をした人だけがそういう存在になると。」
笑う瑞樹に安藤が眉を寄せる。
「どういう事ですか?」
「単純な話。つまり、明日か百年か千年か分からない命を貰うなんてそんなギャンブルをする人間はあまりいない。しかも死ぬ確率も高い。それでも血を貰う人が居るというのは今死ぬかその血を貰うかという状態か、そんな物凄い低い確率に賭けてもその力が欲しいという人間だけ。つまり究極の選択って事。」
「ああ、そういう・・・・と言う事は命が長くなるかわからないだけじゃないと言う事ですか?」
真壁を見ると、頷く。
「そう。まず一つ目は性別が無くなる。男にも女にも子どもにも老人にもなる事が出来る。二つ目はその時が来るまで死ねない体になる。三つ目は人知を超える。」
「・・・・・・・・・三つ目の説明は物凄く大雑把だね。」
呆れつつ胡坐を掻いた状態で安藤の膝に頭を置いた。その頭に安藤が手を遣って、小さく呟いている。
「髪が・・・肌が・・ううっ。」
「生きて戻れたら好きにしていいから!とりあえず黙っとけ。」
両方に呆れながら瑞樹は真壁に説明を促す。
真壁も安藤を胡乱な目で見ながらも話を続ける。
「人知を超えると言ったのは私もよくは知らないからです。私は気を失って、起きた時にはこの体になっていた。私に限って言うならものをあまり食べずに済む、体の反射速度やその他が飛躍的に上がるという事が言えます。後は仲間内ならその人が見ている物を見る事が出来るし会話せずとも伝わります。ロウは・・・私をこの体にした人物が言うには元々備わっていた能力が飛躍するのだと。治癒能力なども。」
「元々備わっていた力、ねぇ。と言う事は真壁さんは身体能力が高かったのか?」
「いいえ。私はずっと土蔵で暮らしていたからむしろ何も出来ない人間だったと思う。」
「真壁さんは話し方がずれているというか、時々変ですね。」
いきなり全く話とは関係無い事を言った安藤を瑞樹は見る。
真壁は僅かに眉を顰めていた。
「変、ですか?」
「ええ。丁寧な言葉遣いと乱暴な言葉遣いが混ざっていますよ。」
「そう、か・・・。人と話すのは久しぶりなものだから。ロウとは話さずとも通じたから会話などしなかったし。」
俯く真壁に瑞樹は安藤の膝を軽く叩いてから起き上がる。
「それは仕方ないだろう。さて話す事はそれだけか?」
「・・・・・・・以上です。」
「もし体が拒絶して死ぬ事になっても苦しくは無い?」
「ロウが血を与えた人間達は苦しむ間も無く灰になった。」
「そっか。」
瑞樹は立ち上がって服の埃を叩きながら満面の笑みを浮かべて安藤も立ち上がらせる。
「瑞樹?」
「じゃ、やろうか。」
「瑞樹、まさか・・・。」
「このまま樹海を抜けるのと血を飲むの、どちらが死亡率高いと思う?」
「それは・・・。」
「それに真壁はその為に俺達を此処に案内したんだぜ?本当は真壁がロウという男にされた様に眠った隙に血を飲ませればいいものを俺達に選択肢を与えた。違うか?」
「そう、だ。私は・・・・。生きる事が出来たら私も共に連れて行って欲しい。」
「いいよ。一人は寂しいんだろう?」
「寂しい、のか。」
「じゃなかったらそのロウという人も真壁も仲間を作ろうとはしなかった。どんなに一人の時間を重ねたとしても寂しいという感情からは離れられない。」
な、と微笑む瑞樹はとても美しい。
真壁は今始めて、自分の限りなく少ない出会いの中でこんなに綺麗な人に会った事が無い事に気付く。
「瑞樹は・・・美しい。」
呟くと、瑞樹は苦笑した。
「そりゃあ、これで生き抜いてきたからね。安藤も綺麗だよ?俺の周りには美人が多いから、紹介するよ。真壁も綺麗だから皆喜ぶ。」
「その中でも瑞樹が世界で一番美しいですけどね。」
言い切って微笑む安藤の肩に瑞樹が腕を乗せる。
「お前はいいのか?」
「何を今更。一連托生と言ったでしょう?地獄の底までも共に、ですよ。」
迷いなど一欠けらも無い笑みを浮かべて笑いあう。
「では。」
傍らから器を取り出し口に銜える。
安藤が差し出したナイフを真壁は自分の腕に当てて一気に裂く。
ナイフを放り出し、器を片手に持ち用意をする。
赤い血が指先を伝って見る間に器を満たしていった。
それを瑞樹に渡してから傷口を片手でなぞっていくと糸線のようになりあっという間に消えていく。
「凄い・・・。」
感嘆の声を上げる安藤を横目で見ながら真壁に視線を移すと、淡々とした表情のままこちらを見返している。
「さて、栄。」
いつもは名字を呼ぶ瑞樹が名前を呼ぶ時は意味がある時。
それを知っている安藤は真剣な面持ちで瑞樹を見た。
「はい。」
「また逢おう。」
「はい。」
互いに微笑みあってから、瑞樹は器の半分を飲んでそれを安藤に渡す。
安藤は受け取ったそれを一気に飲み干した。
瑞樹の崩れる体を受け止めて安藤も地に伏す。
そうして世界は暗転した。
「どうか・・・・。」
真壁の小さな呟きと共に。
目を覚まして見た風景は目蓋が落ちる前の風景と同じだった。
まだ覚醒しない頭をゆっくりと回しながら上半身を抱えて数秒そのままでいる。
(・・・・そう、栄!)
慌てて周囲を見渡すと周りには誰も居ない。
居なかった。
血の気が引いていくのを自覚しながら右手を額に当てて、左手を地面に置いたのだが・・・。
地面に置いたはずの左手が柔らかいものに当たる。
其処を見ると安藤が寝ていた。
どうやら安藤に抱えられた状態でいたらしい。
「安藤は意識を失ってもお前を放さなかったぞ。」
相変わらず口が良いのか悪いのか話し方がばらばらな真壁が器を手に近づいてくる。
「喉が渇いているだろう?」
「ありがとう。」
渡されたそれを口に含んで安藤に飲ませる。
視界に入った髪はお世辞にも綺麗とは言い難い。
「これじゃあ、安藤が騒ぐはずだよな・・・真壁、安藤が眠っていると言う事は俺達はお前と同じ体になったって事だよな?」
その質問に真壁は僅かに口角を上げて頷いた。
「ああ。お前達は私の同胞だ。もっとも私も私以外の同胞を知らないからどれだけの数が居るかはわからないが。」
自分の体が変容しているのは感覚として何となく分かる。
「女にも子どもにも老人にも変われると言っていたっけ?」
「自分の意思で変われる。・・・瀬戸、手を。」
「瑞樹で良いよ。仲間なんだろう?」
真壁は黙って頷いてから手を差し伸べる。
それに対してゆっくりとした動作で握り返すと、真壁の体が薄く光り始めた。
「これ、は・・・。」
「お前の体に私の知る情報を教え込んでいる所だから喋らないで欲しい。」
それだけ言うと真壁は目を閉じてすべき事に集中する。
瑞樹は体が段々と温かくなり脳内に留まらず細胞という細胞に情報が流れてくるのを感じていた。
嫌悪感と快感を同時に受ける感覚に身の毛がよだつ。
だが、脳内と細胞に流れてくる情報に恍惚となるのもまた事実。
それを感じながらどこか冷めた一部の思考回路で考える。
(安藤が目覚めたらしばらく此処に潜んで、それから・・・。)
上手く纏まらない思考をゆっくりと毛糸を丸める様に包んでいく。
だが、その脳内作業が終わらない内に騒いでいた細胞が静まった。
「・・・・・終わったのか?」
「終わった・・・・まったく、いくらプライドが高いといってもこういう作業中に別の事を考えるのはよしてくれ。私が疲れる。」
「・・・・・・・・・悪かった。」
本心から謝ると、まったくだという答えが返ってくる。
「真壁。」
「何だ。」
「何か、態度が違うような気がするのは気のせいか?」
「仲間になったのだから当然だろう。これでも精一杯気を使ったんぞ。ありがたく思え。」
「口が悪かったんだな、真壁。」
「それの何処が悪い。」
「いや、悪くないけど使い分けが出来ないと色々と大変だぞ?」
真壁は一瞬考えた後、首を傾げる。
「そういうものか?」
「そういうものなんだよ。世の中って。・・・ああ、真壁の居た世界と俺達の棲んでいる世界は違うかもしれないけどな。」
「違う?どういう意味だ。」
「真壁は地上の人間。俺達は地下の人間だろうという事。ただそれだけだ。」
意味が分からないという風に首を傾げる真壁に瑞樹は尋ねる。
「瞬間移動とか出来無いのか?」
「その言葉を知らない。」
時代の差を感じてしまう。
「あ〜、一瞬にして場所を移動できるかな〜と。」
「それは無理だろう。」
「やっぱり。」
「だが、人に知られずに移動する事は可能だ。」
「カメラとかも消せる?」
「カメラ・・・・ああ、消せるかどうかというのは分からないがかなり不鮮明には出来るとロウが言っていた。あとは人から気配を消せると。どんな手練でも分からなくなると。まあ、存在を消せるという事だろう。」
それが何処まで本当か分からないがその能力の使い方は脳にしっかりと叩き込まれているので出来るだろう。多分。
「分かった。じゃあ、ちょっと用事があるから行って来る。真壁の服を貸してくれ。このままだとさすがにやばいだろうしな。」
真壁が黙って奥にからブラウスとスカートを持って来る。それから簪。
「これでいいか?」
「ああ、充分だ。」
手早く着替えてから簪はポケットに入れる。
「安藤の事は頼んだぞ。」
一言残して瑞樹は夜の樹海を駆けた。
感覚が鋭敏になっていて、民家が何処にあるのかも分かる。
いける。
大丈夫だ。
恐ろしい程のスピードで駆けながら口元が哂いを作った。
完全予約制のレストラン。ボレロ。瑞樹が選んだマネージャーとシェフとソムリエはここで寝起きしている。
強制されたわけでは無く、自分達で申し出ただけあって本人達はこの建物がいたく気に入っていた。
今日も予約客が帰り、明日の仕込みや清掃をしていた。
そんな時間。
突然、スタッフしかしらない裏口が解除音と共に開かれた。
「え?」
帳簿を付けていたマネージャーの冴口は驚きながら立ち上がる。
若干よろつきながら現れたのは、ブラウスにスカート姿で薄汚れた・・・。
「瑞樹さん?!」
行方不明だと聞いて心底心配していたその人だった。
冴口の小さいが驚きを隠せない声に残っていたスタッフ、シェフ、ソムリエも走って寄って来る。
「オーナー!」
「瀬戸さん!」
「・・・久しぶり。とりあえず・・・。」
「とりあえず?」
「何か食べるものと風呂に入りたい・・・。」
疲労困憊の風情で座り込んだ瑞樹に3人は目を見合わせたのだった。
「悪いなぁ。明日の仕込み食べて。」
と言いつつも至福そうな笑みで食べ続ける。
「いいえ、オーナーに食べてもらえるなら幸せですから。」
給仕するシェフ日向、肩を揉むソムリエ三河、髪の手入れをするマネージャー冴口。
特に冴口は幸せそうだ。
「それより今まで何処に居たのですか?二週間も!」
その問いにデザートのパイを食べながら瑞樹は何でも無い事の様に答える。
「ああ、二週間も経っていたんだ。居た場所は現在進行形で樹海。」
「そうですか樹海に・・・・・・・・・・・・・・樹海?!」
「痛っ!」
「すみません!」
驚いた冴口は思わず瑞樹の髪を引っ張ってしまい、慌ててしまう。
「せっかく瑞樹さんの髪の手入れをさせてもらっているのに。」
溜息を吐きながら、驚きの目を向ける。
「それにしても何で樹海なんかに。」
「岡本組長に放り込まれて。暫く彷徨って死ぬ寸前だった。・・・・・・・食料一式用意してくれ。それを持ってまた戻る。」
あっさりと言うオーナーに3人は深い溜息を吐く。
「オーナー。これでも私達はもの凄く心配していたんです。せめて今までどうしていたか、これからどうするかを説明して下さい。それと私達に出来る事を。」
頷くシェフに瑞樹は首を傾げながら苦笑した。
「うーん。死に掛けたから人じゃなくなった。安藤はまだ目が覚めてないからその間に食料取ってきたいな、と。此処だったらお前らしか居ないし、信頼出来る奴しか居ない。だからしばらく此処を拠点にする。ああでも樹海と往復するけどな。」
「期間は。」
「とりあえず一ヶ月。それで片を付ける。食料も非常食等を3人分で一ヶ月。後は監視カメラから俺の出入りを完璧に消しておいてくれ。」
「はい。」
「あと、は。女物の服。何処にでも売っているような安物を買ってきてくれ。今すぐ。」
「量販店の服でいいのですか?」
「出来れば動きやすいけど女だって分かるような体つきを強調する服がいい。Mサイズになるのかな?」
「では洋服は私が調達して来ましょう。食料品は日向が。三河は瑞樹をネットカフェに連れて行って下さい。」
日向はすぐさま財布と携帯を片手に駐車場に走り、冴口は瑞樹に茶色の鬘を付けて女性に見えなくも無い服を用意すると出掛けていった。
残った瑞樹と三河は服を片手に考える。
「なあ、これって本当に女に見えると思う?」
花柄のブラウスと白いスラックス。
「・・・・どうでしょうか。」
微妙だ。
そこで瑞樹は思い出した。自分が意思次第で性別を変えられる事を。
脳内に叩き込まれた通り思い浮かべて着ていたシャツを脱ぐと。
「あ、本当になってる。」
若干骨格が変わっている程度だが出る所はきちんと出ていた。
胸は、まあ平均だろう。腰は細いかどうかは判断がつかないが多分普通。
鏡を見ていないのでどうとも言えないが体は女になっている。
一応言葉使いも気をつけなければならない。
色々と考えていると後ろで変な声がした。
「お・・・・・おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
「お?」
振り向くと常に冷静を保っている三河が顔を赤くして瑞樹を凝視していた。
「おおおおおおオーナー!」
「はい。」
「あの、あのっ、私の見間違いで無ければ、その、ですね。あ、む、胸が・・・。」
瑞樹は首を傾げる。
「胸がどうかしたのか?」
(あ、今は女だからどうかしたのかしら?か。)
「あの、胸を仕舞って頂けると嬉しいのですが・・・。」
三河は純情らしい。
「悪い。・・・じゃなくて、気をつけます?」
花柄のブラウスを手に取り、手早くボタンを留めていく。
谷間が見えるがとりあえず先ほどの半裸状態では無くなったので三河は冷静さを取り戻す。
「オーナー・・・いつから女性になられたのですか?それともそれは特殊メイクですか?」
「メイクじゃないよ。どっちにでもなれるようになっただけ。一応女に見える?」
「普段の美しさとはまた別の美しさで思わず理性が飛びそうでした。」
三河は二度頭を振ってから普段の冷静な口調と顔に戻る。
「そうか。それならいい。・・・じゃなくて、褒めて頂いて嬉しいですわ、か?」
「まあ、間違いではありません。あの、オーナー、口調より先に自分の美しさを自覚なさった方が良いかと。」
「・・・・・・そんな事言われてもなぁ。男の時とさして変わりないだろう?」
自分の美貌を自覚している瑞樹にとってさしたる違いは無いのだ。
「いいえ!オーナーはどんなに美しくとも男性でした。今は女性にもなれるのでしょう?世の中には女性にしか感情その他が向かない人間もいるのです。そういう人にも注意しなければならなくなったのですよ。それを自覚して下さいと言っているのです。
それに今のオーナーの姿は凛々しく美しい上に声も色香があって私でさえも迷いそうな位です。以前のオーナーもそうだったのですが、迫力が増したとでも言うのでしょうか・・・すみません語彙が貧困なので上手く言えません。」
一応理性は保っているが、彼にしては珍しく戸惑いを表に出している。
もとより、特にこのボレロは瑞樹に魅せられた人間達が集まっているのだ。その美しさ、不思議さに賛美や協力を申し出こそすれ、批判などする人間がいるはずも無い。
三河も冴口程では無いがオーナーである瑞樹のレストランで働きたくて此処に居るのだ。
今、この二人きりの状況はとても役得だと三河は思っている。
「とりあえず注意が必要なのは分かった。じゃあ、出かけようか。」
「はい。」
「夜だから腕とか組んだ方がカップルっぽいかな?」
三河は苦笑して腕を組みながらレストランを出た。
瑞樹と三河がレストランに戻って来ると、冴口と日向は既に帰ってきており荷物の詰め込みなどをしていた。
「ご苦労様。」
その声に冴口が笑顔で振り向いたが、その瞬間固まる。
「み、瑞樹さん、その、それは何ですか?」
「・・・パットとか言ったら怒る?」
肩を竦めて笑えば冴口はうつむき加減のまま歩み寄り三河の腕を無理やり離した。
「何がパットですか!三河の腕に掴まるのにどうしてパットが必要なんですか!」
「いや、だって胸の事は追求しないのか?」
「その体系と声の変化を見れば女性になった事なんて一目瞭然ですから追求する必要はありません。それにあなたは人ではなくなったのでしょう?だったら女性になっても不思議じゃありませんから。」
「・・・・・・・・そうなのか?」
日向が小さく疑問を言うと冴口は当然、と頷く。
「そうなのですよ。瑞樹さんが男性だろうが女性だろうが私達がする事に変わりは無いでしょう?今までの違いは女性物の服を揃える事が追加されただけですね。」
「・・・冴口って思っていた以上に頼りになるな。今までもそうだけど。」
「お褒めに預かり光栄です。これからもどんどん頼って下さい。」
笑顔で言ってからダンボールを差し出す。
固形燃料に小さな鍋、耐熱プラスチックの器が3つ。お湯を入れれば食べられそうなもの、栄養補助食品、チョコレート、カップラーメン。
そして胡桃。
「これで足りますか?」
「多分。あ、水は少しで十分。足りなくなったらまた来るし、あまり重いと運べないだろう。これ位が丁度いい。」
「では、店の監視カメラは改竄しておきます。日向頼むな。俺は瑞樹さんを送っていく。」
至極あっさりと宣言して車のキーを見せる。
「いえ、僕が行きましょう。」
三河が名乗りあげたが、却下された。
「俺の方が自然だ。樹海に放り出されたという情報は知っていたからな。探しに行っても不自然じゃない。実際にマヤは何度か行っているぞ。」
「冴口・・・知っていたなら教えてくれても良かったじゃないか。」
「知ってもどうしようもない事もある。俺達にはこの店を守るという仕事があったんだ。動くわけにはいかなかっただろうが。」
淡々と言い放った後に瑞樹の背中に腕を回して駐車場へと促す。
荷物は冴口が持ってくれた。
日向が先回りして人が居ないか確認してから車に乗る。
「・・・冴口。」
「何ですか?」
「何か、妙に優しくないか?」
首を傾げる瑞樹に冴口が笑う。
「当然ですよ。今のあなたは女性。しかも元々類いまれな美しさ。どうぞ下僕にして下さいと、装ったあなたの靴に口付けしたい気分です。本当ですよ?」
「・・・・・・・・・お前と安藤って結構似ているよな。」
もちろん安藤の方が欲望に忠実なのだが。
どうして自分の周りには有能だが少し変わった人間が多いのだろうと瑞樹の目は遠くなる。
「そうでしょうか?私はどちらかと言わずとも女性が大好きなので違うと思います。」
断言するがそれに同意してくれる人間はいないだろう。
「・・・そう。」
ワゴン車の3列目に体を伏せてから毛布を被せられる。
「別に、歩いて行ってもかまわないと思うけど。」
「私が近くまで行っても問題無いのですからあなたは体力回復に努めてください。あ、できれば女性の姿のままで。」
「・・・・・・・・・。」
満面の笑みを浮かべたまま冴口はハンドルを握った。
樹海の近く、監視カメラ等が無い場所で降ろしてもらい車が去るのを見届けるとダンボールを抱えて走り出す。
感覚で安藤と真壁が居る場所は分かるので迷ったりはしない。
安藤は既に目を覚ましている。
早く食料を届けたいという気持ちに駆られて足の動きも速くなっていく。
恐るべきという程早く駆けて一時間程で真壁の住処にたどり着いた。
「食料持ってきた。」
ダンボールを降ろして安藤の隣に座る。
「瑞樹。」
さすがに一時間駆け続けて疲れたので釦を外しながら手で自分を仰いでいると、低い声で安藤が声を掛けて来た。
「ん?」
振り向くと安藤の視線が一箇所に集中している。
目線を辿ると胸に辿り着いた。
「これがどうかしたのか?」
「真壁が女性にもなれると聞いていたので私も試してみたのですが・・・。」
「が?」
安藤は瑞樹の両肩を痛くない程度に掴んで真剣な眼差しで見つめながら口を開く。
「とても美しいです。この世のものとは思えない程。まあ、いつもの瑞樹もそうですけどね。」
「あ、ありがとう。それより食料を」
「好きな事をしていいと言われて良かったと誰かに感謝したい気持ちでいっぱいです。ふふふふふふふふ。」
「・・・栄、戻って来い。」
「好きな事とはなんだ?」
ダンボールにいつの間にか入っていた服を着込んで真壁がやってくる。
見た目は十代なのだが身長は瑞樹と同じくらいという事は彼が本当に生きていた当時かなりの長身という事になる。
瑞樹の視線に気付いたのか唇の端を片方上げて笑う。
「私の方が少し高いようだな。」
「・・・真壁って長く生きているのに子どもっぽいな。」
「そうですね。」
「で、好きな事とは?」
「さか」
「着せ替えですね。まずは」
ふふふ、と妖艶に笑う安藤から目を逸らして反対方向を見る。
その場から一時的に立ち去りたいが安藤に後ろから抱きしめられているので動けない。
「ほう。着せ替え。」
「ええ。女性にもなれるのですから用意するものが増えます。楽しみですねぇ。とりあえず用意しておいた女房装束と大正時代のモダンドレスは大丈夫だとして、メイド服やチャイナ服は揃え直さないと。あとは・・・」
うっとりとした声で楽しそうに呟く安藤に真壁が顔を顰めた。
「瑞樹。こんなのが相棒なのか?もっとましな奴もいただろうに。」
「・・・・・・・・・・・・栄はいい奴だよ。」
目線は遠いまま言うので全く説得力が無い。
「昔からこんな奴なのか?」
「・・・出合った時は尖った感じだったな。そして色々な事に怯えていて。自分の体と心に宿る憎しみや色々な感情を持て余して爆発しそうで見ていて痛い位だった。だから背中を押したら・・・。」
感傷的にも聞こえる声で話していた声は最後の方は呟くようで。
「こうなったと。」
頷いてから項垂れる。
そうして顔を上げてから苦笑した。
「はじめは驚いたけど、俺に執着して自分の欲求を隠さなくなった結果だからこれ位はまあいいかなと。」
「そうか。だが本当にそう思っているか?」
「普段は手入れやスーツの手配、家事や場所把握等で我慢しているからな。」
それはストーカーに近いものを感じさせるものだったが意外と自分自身に対して大雑把な瑞樹はあまり気にしていない。
もちろん彼に纏わり付く人間は他にもいるのだが安藤は瑞樹が許可した人間以外を影で排除している上に自分以外が何かをしようとするのを全力で阻止しているので今の関係が崩れる事は無いだろう。
「色々と難儀な事だな。」
そうは思っていない事が明らかな口調で真壁が笑った。
安藤は艶やかに微笑みながら考えている事は変態そのもの。
どうして自分の周りにはこんなにあくの強い人間ばかりが集まるのだろうかと遠い目をしながら瑞樹は月を見上げた。
とりあえずスカートでは具合が悪いので着替えようと湖に行って服を脱ぐ。
ここで体を洗ってもいいと聞いていたので中央に行って体を浸す。立ったままだと腰までの水位なので膝を曲げる。
冷えた水が自分の中で燻っている炎を少しは冷ましてくれているようでほっとした。
「瑞樹、体を・・・。」
振り向くと安藤がタオルを片手に立っていた。黙って膝を立てて岸辺に近づいてから背中を向ける。
ゆっくりとした動作で背中を擦られるのを目を瞑って感じていると、背中に柔らかい感触を感じた。
「安藤?」
首だけ振り向くと安藤が背中に口付けしているのが見える。
「背中の傷が、消えています。これも恩寵なのでしょうか。」
手で辿る感触の後、再び唇の感触を感じた。
「恩寵、か?」
「ええ。傷だらけのあなたも好きですが、まっさらな美しいあなたは神にも勝る。」
傷を見ても嫌悪を抱かず、それすらもあなたの一部だと言っていた安藤だがやはり傷の由来を知っているだけに思うところがあったのだろう。
触れる柔らかい感触が安藤の喜びを表しているように感じる。
指で辿るもう無い傷跡。
それを安藤が喜んでいる事を嬉しく思いながら気の済むまで触らせる。
触らせていいのだが・・・・。
「・・・・・安藤。」
「はい。」
くぐもった、だが恍惚とした声が返ってくる。
「・・・背中を触るのは別に嫌じゃない。嫌じゃないのだが・・・。」
「はい。」
「・・・・・・・・・・・・・・・どうして胸と下半身まで触るんだ?」
「え、だって、せっかくですから。素敵な感触ですし。」
微かな水音が響く。
「それと・・・当たってるぞ。」
「はあ、私も驚きました。女性に反応した事なんて生まれてこの方一度も無かった事ですから。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
「・・・・・して、いいですか?」
背中を濡れた感触が辿る。
「駄目、ですか?」
「・・・・・・・・・今から忙しくなるしなぁ。破瓜は痛いらしいし。」
「瑞樹は私相手にしたいですか?」
「した事あるだろう?」
「そうでは無くて、女になった私と。我ながら中々のものでしたよ?」
瑞樹は溜息を吐いて湖から上がる。
「瑞樹、無視しないで答えてくださいよ。」
後ろからバスタオルを掛けながらふて腐れたように言う安藤に思わず笑みが零れた。
「別にその気にはならないだろうな。」
「そうですか。私はなりましたけど。」
「・・・考えておく。」
「はい。とりあえず女性姿の初めては私に下さいね。」
「・・・・・・・・考えておく。」
揃えてあった服の中からパンツスーツを取り出し着替えるのを手伝って貰いながら尋ねる。
「そういえば、栄はどうして男の姿のままなんだ?」
「瑞樹と違って慣れたからです。」
「・・・・・相変わらず順応性高いな。」
溜息混じりに言うと、満面の笑みを浮かべられてしまう。
「はい。それが取り柄ですからね。あ、瑞樹はまだ慣れていないのでしょう?」
「大分慣れてはいるがちょっと勝手が違う。」
「身長差がありますからね。あとは筋肉の違い。私の場合はあまり変わりが無かったからでしょう。」
元の性別の時より背が10数センチメートル縮み、体も柔らかい。
「直ぐ慣れますよ。」
「だといいがな。」
「あ、言葉使いは気をつけてくださいね。感覚を換える感じにすれば割と上手く行きますよ。」
笑顔の安藤を見て瑞樹も苦笑混じりだが微笑んだ。
三人で携帯食料を食べながら真壁が首を傾げる。
「直ぐに移動はしないのか?」
「ああ。」
返事をした瑞樹を安藤が目線で咎める。
「悪い・・・じゃなくて、移動はしない。だが行動はする。真壁は暫く我慢してくれ。」
「構わないが。・・・何をする気だ?」
その問いには答えず瑞樹は立ち上がる。
「安藤・・・・来るか?」
「何を今更。」
「真壁。俺達が一週間経過しても戻ってこなかったら此処を尋ねてくれ。これを渡したら分かると思うから。」
渡されたのはロケットペンダントと白い封筒。
「冴口という男に渡してくれ。」
真壁は黙ってそれを受け取ると瑞樹を真っ直ぐ見返す。
「本当に私の助力は要らないのだな?」
「必要ない。・・・真壁は日向の人間だからな。」
日向、と呟く。意味が分からなかったのだろう。
「地下の・・・アンダーグラウンドの人間じゃないって事だ。」
「この体になった時点で裏の人間だろう。」
あっさりと答える真壁に安藤が苦笑した。
「まあ、そうかもしれませんが今回は私達の私事であり私達が始末を付けなければならない事ですから。」
「ちゃんと戻ってくるさ。」
「なら、いい。」
真壁は立ち上がって奥から何かを取って来た。
「これを持って行け。」
渡されたのは貴船神社のお守り。
「縁を切ってくるのだろう?貴船神社は縁切りでも有名だからな。」
擦り切れたそれは相当古いのだろう、色が褪せている。だがかつてはとても美しい絹糸で作られた物だという名残はあった。
「これは・・・大切な物では無いのか?」
「だがこれをくれた人物は既に無い人だろうから。・・・いいのだ。持って行け。」
微笑みながら渡されたそれを瑞樹は目礼と共に受け取る。
「じゃあ、・・・・・・・・行って来る。」
その微笑は悪魔をも惑わすと言われた笑みを浮かべて瑞樹は真壁に背を向けた。
「気をつけろ。いくら今は死なぬと言っても痛みがある事に変わりは無いのだからな。」
「わかった。」
振り向かずに返事をする瑞樹と笑顔を向けた安藤は間瞬く間に真壁の視界から消える。
「帰ってきた時瑞樹は変わっているのだろうな。」
溜息と共に漏れた呟きは誰も聞く事が、無い。
飛び続けてある場所の近くまで来ると木の上で止まる。
「さて、髪はこれがあるからいいとして。安藤、お前も女の姿になっておけ。」
淡々とした瑞樹の声に安藤は柔らかい声を出した。
「はい。」
一瞬で姿を変えたそれは妖艶な美女。柔らかな笑みからさえも色香が漂ってくる程。
見た目は20代半ばのそれを安藤は一瞬にして40代に変える。そして髪も赤毛に。
「髪の色も変えられるのか・・・。」
「私はですが。出来ない人もいると真壁が言っていました。但し、全くの別人に変わる事は無理なのだそうですよ。」
柔らかく微笑む様は、やはり妖艶な美しさを保っていて。
「お前が女だったら一国を滅ぼしていそうだな。」
苦笑すると安藤は嬉しげに笑う。
「ふふふ。瑞樹が望むなら全力で頑張りますよ?」
「・・・・頑張らなくていいから。」
妙に脱力した気分で溜息を吐いてから正面にある邸宅を見つめる。
「さて、行くか。」
先程の軽い雰囲気は吹き飛び、真剣でいて妖艶な雰囲気が纏う。
一瞬にして木の上から目の前の豪邸の屋根の上に乗り移り、二人は目を瞑る。
「何処かわかるか?」
「離れの地下。」
「優の所か。」
小さく舌打ちをしてから安藤を見る。
瑞樹は取り出したスカーフを顔に巻いてからもう一枚出して安藤に渡す。それを手早く顔に巻き付けながら声だけ微笑んで瑞樹を促した。
「その人は任せてください。直ぐに行きますから。」
「わかった。」
互いに眼を見合わせて頷くと、屋根を飛び越えて離れの屋根の上に移り安藤が下を覗く。
優は布団の中で眼を瞑っている。
周りに人が居ないのを確認すると音も無く縁側に降りて、駆け寄り優の鳩尾に強く拳を叩き込んでから上半身を起こして手刀を降ろす。
寝た状態から気絶状態へと移行した優を満足げに見てから、着ている浴衣の帯を解いて縛ってから縁側の下に放り込む。
大きな胸を自慢げに反らしてから再び屋根の上に戻った。
「さあ、行きましょう。」
満面の笑みで瑞樹の手を一瞬握った後今度は二人揃って縁側に降りてから優の部屋の二つ手前、離れの玄関に近い和室に入って掛け軸を少し操作する。
そして次に右から二番目の畳を跳ね上げてある場所を押すと、人一人分が入れる入り口が現れた。
安藤が先に入り、瑞樹も後に続く。
暗闇の中でも然程苦労せずにすんでいる。おそらく目も変わっているのだろう。
明るい所まではいかないが、うっすらと何があるか分かる位には見えるのだ。
自分の体が変わったことを実感する事は多いが、今もそれを感じている。
足音さえ立てずに僅か数秒で階段を降り切ると長い廊下が続いていた。
トラップがいくつもあったがそれらを避ける事など造作も無い。
そこを進んだ先にドアがある。
中には一人の人間しかいない。
しかも都合よく望んだ人物が座っているのだ。
顔が自然と哂ってしまう。
その顔を安藤は嬉しそうに眺めた後、扉をゆっくりと開いた。
部屋の中は空調設備は完備され、テレビやモニター冷蔵庫が置いてあり、窓が無い事を除けばホテルの様な部屋だった。
その中央に設置されているクイーンサイズのベッドには眼光鋭い和服の老人が上半身を見せている。
ドアを開けた瞬間に元々の性と姿に戻っていた二人はその老人の居る場所にゆっくりと歩み寄り、安藤は老人が持っていた小さな箱を一瞬にして自分のものとした。
いつ盗られたのかさえ分からなかった老人は眉間に深い皺を作って対峙する。
「まさか生きておったとはな。」
驚きと悔しさが現れた顔など見たこと無い程いつも何か企んでいる様な顔をしていたので安藤は内心驚く。
隣を見ると瑞樹は俯いている。
「どうやって戻ってきた。」
老人が枕の下に手を遣っているのを視界に捕らえた安藤はソレを奪おうと足を動かしたが、瑞樹の手が僅かに触れて動きを止める。
「まあ、いい。死体になれば」
話し出した瞬間、瑞樹は安藤が隠し持っていたナイフを抜いて老人の懐に入りソレを左手で奪い右手で左腕を切り落とした。
それは0.2秒にも満たない事だったので老人には捕らえる事の出来ない事で、瑞樹が視界に入ったときには左側から赤い水が浴びせられる。
下がれば血は浴びなかっただろうが、あえて切り落とした体制のまま老人と目を合わせたまま動かない。
老人の顔が驚愕を表したときには瑞樹の顔は血飛沫で汚れて壮絶な様となり、それが更に驚く要因となっていた。
誰も声を発さず、水音だけが支配する。
そんな異常な状況下、瑞樹の顔は。
恍惚としていた。
欲も闇も美しいものも汚いものも何もかも見慣れ、僅かなりとも自身の時を止める事の無かった老人はその顔に見惚れた。この、自分の体から血液が流れ出ている状況で。
頬に付いた血を僅かに指で拭って口に含む。
唇を開いて舌でゆっくりと舐めとると恍惚とした表情は嬉しげでいて、恐ろしい程の艶を含んだ表情へと変わった。
それを呆けた様に見つめ続ける老人は瑞樹の指が再び自分に付いた血を拭い、また唇の中へと消えるのを見守る。
幾度かそれを繰り返すと、段々と物足りなくなったのか黒々とした瞳が動く。
何かを見つけ、嬉しげに微笑むと右側へと顔を傾ける。
その笑み、黒曜石より黒い瞳、顔を傾けた為に露になった雪白のうなじ。
全てが見たことの無い程美しく、悩ましい。
唇が開き、紅い舌が伸びた先には。
老人の左肩。
其処に瑞樹は舌を這わせた。
嬉しげに、美味しそうに舌を這わせる瑞樹は凄絶な程な色香を纏い華の匂いを漂わせている。
瑞樹の舌が傷口を這う度に痛みが伴うが、そんな事よりもその美しい生き物を見る方に夢中になってしまう。
紅い舌で大きく舐めて飲み込む。
猫がするように小さく舐める。
恍惚とした、美しい表情。
そしてむせ返る程充満する華の匂い。
異常な緊張感と欲望の匂いが部屋を支配している。
だが、無心で舐め続ける瑞樹の肩が押し返された。
不満を露にした表情で肩を押した人物を見つめると、その人物、安藤は瑞樹に微笑んだ。
「そんなに気に入りましたか?」
頷きながら瑞樹は安藤に顔を寄せる。
安藤は微笑みながら瑞樹の口付けを受け取った。
僅かに舌を絡ませて離れた口に安藤は舌を這わせる。
瑞樹の唇は血で汚れていたのでそれを綺麗に舐め取り、再び微笑みを浮かべた。
「じゃあ、持って帰りましょうか。そうしたらまた楽しめますよ?」
その提案に実に嬉しげな笑みを浮かべた瑞樹に安藤は再びキスをしてから老人に向き直る。
懐から取り出した薬瓶を傷口に振り掛けながら、淡々とした表情で話した。
「本当は殺すつもりだったのですが、瑞樹があなたの血を気に入ったみたいですから生かしてあげましょう。これから死ぬまで瑞樹の餌となりなさい。」
凄絶な笑みを浮かべた安藤の袖をを瑞樹が小さく引っ張る。
「大丈夫ですよ。私は貴方の事が一番大事ですから殺しはしません。それより・・・どうしますか?館川もするのでしょう?」
「お、まえ、達は・・・。」
失血して顔色の悪い男はようやくこの異常な事態に驚きを示す。
出血は・・・既に止まっている。
安藤は老人の驚きを正確に理解していた。だから笑顔で説明をしてあげる事にした。
これからはこの老人は必要になるのだから。
「ああ、瑞樹はね、血飛沫を浴びるのが好きなんですよ。お綺麗な人間より欲に塗れた人間の血の方が好きらしいです。今までは舐める事は少しだけだったのですけど、これからは違うのでしょう。」
そう言って安藤は慈愛にも似た笑みを瑞樹に向ける。
いつも淡々として理性的な瑞樹の顔は恍惚として欲情に濡れた表情をしていた。
だが、老人は瑞樹の事をよく知る一人だったので疑問が残る。
「だが、あいつは・・・。」
「不感症、でしょう?ええ、そうですよ?だからこそ閨の演技は一流なのですよね。ですが血を浴びた後は別なんですよ。綺麗でしょう?私もここまで美しい貌を見るのは初めてです。今までの人間の中で一番あなたが欲に塗れていたようだ。礼を言いますよ、岡本組長。」
老人、岡本組長はその言葉を流れる頭で聞き取った。瑞樹のこの姿、貌、匂いは綺麗という言葉では足りない程だった。
呆然とした表情のままの岡本組長を安藤は嗤って見下す。
過去、瑞樹が血を浴びた姿を見た人間は一様にこうなった。
そうしてその姿を見た人間で生き残った者は安藤のみ。
安藤もこの存在に魅せられた人間だった。
「瑞樹、早く済ませてしまいますから待ってくださいね。」
欲情に支配されて話す事も儘ならない。
「さ、かえ・・・。」
「わかっています。」
その唇に顔を寄せると噎せる程の匂いが広がる。口中はとても、甘い。
抱きしめた体からも匂いが立ち昇る。
口付けだけで達ってしまいそうだ、と安藤は思う。
過去、瑞樹に魅せられた人間全てが直ぐに死んだわけでは無い。
元々惚れていてもこの瑞樹を見れば、もう一度見たいと狂ったようになるのだ。そうして自分を切り刻むか人間を調達するようになる。
この瑞樹だけに魅せられてしまった人間の末路は悲惨だ。
だが、どうして安藤だけが生きて傍にいるのか。
安藤はこの瑞樹も好きだったが、普段の瑞樹も好きなのだ。そうして無理をしても欲情した瑞樹を見たいとは思っていない。
便乗はしても深みには嵌らない。一部の瑞樹では無く、根本的な彼が好きなのだ。
だから傍に居る。
震えが来る程甘い唇を貪っていると後ろから足音がした。
騒がしい音だ。
二人、・・・いや、三人。
大きな音と共にドアが開かれる。
「組長!ご無事ですか?!」
声と共に現れた男達は、だが、部屋の暫場に絶句した。
噎せ返る程の甘い匂いにも。
鉄臭い匂いは確かにしている。だが、それを上回る華の匂いがこの場を支配していた。
安藤はそれを横目で見遣って、瑞樹の唇から顔を離す。その際に瑞樹が未だ握ったままだったナイフを優しく抜き取る。
「手間が省けましたね。」
この場には全く似合わない、いつもの優しげな笑みを浮かべて安藤は立ち上がった。
その声に男達は呆然とした表情を引き締める。
「貴様・・・安藤!何故此処にいる!」
怒鳴り声に安藤は艶やかに嗤う。
「どうしてって、戻ってきたからに決まっているじゃありませんか。」
瑞樹は安藤の影になっているので館川達からは見えない。
驚きの表情をしているという事は瑞樹と安藤を樹海に放り込んだ連中なのだろう。
「あいつは何処に行った!」
館川の横にいる男が怒鳴る。
安藤は片方の眉を上げて首を傾げた後、また微笑んだ。
「瑞樹なら此処にいますよ?」
「何処だ!」
「此処に。」
体をずらしてその美しい姿を曝すと、男達はやはり時を忘れたかのように呆ける。
その無様な様を嗤って見遣ると、瑞樹を左に抱えて怒鳴った男の懐に入り、ナイフで胴体を袈裟切りにした。
勢いよく飛び出る血を瑞樹に浴びせて再び元の位置に戻る。
瑞樹の全身は紅く染まっていた。
血で染まった髪から赤い雫が落ちて唇へと流れていく。
それを紅い舌で舐め取る様を安藤は無表情に見守る。
瑞樹は僅かに眉間に皺を寄せて呟いた。
「・・・・・不味い。」
当然である。血液は人間の舌が受け付けないものだ。鉄臭い味を好む人間は僅かだろう。
普通は。
音も立てずに立ち上がり、安藤の姿を目を眇めて見つめる。
「そうですか、不味いですか。」
苦笑を浮かべながらまるでペンを渡すような気軽さで新しいナイフを瑞樹の手に渡す。
「ああ。」
返事をしてから一度目を閉じ、ゆっくりと開かれた瞳は、欲情の色が薄くなっていた。
岡本組長は未だ呆けたまま動かない。
それはこの部屋に居る者全てに言える事でもあるのだが。
左腕の無い岡本組長を何の感慨も無く見遣ってから、目線だけを男達に向ける。
その瞳には僅かな欲の色以外には何の色も無い。
唯、静寂が支配する部屋の中。
瑞樹が、動いた。
目にも留まらぬ、どころか、人の限界を優に超えた速さで右端の男の懐に潜り込み頚動脈にナイフを潜らせて右に流す。
その隣の男が突然隣で液体が飛沫を上げる音に驚き振り向こうとした、否、振り向くより前に視線が動いたその瞬間。
目の前に現れた佳人に驚く暇も無くやはり頚動脈を深く抉られる。
佳人の赤く染まった髪が強く残ったのが男の最後の記憶となった。
二人の男が体を傾ける前に元の位置に戻って館川を見つめる。
館川の目には何が起こったのか分からなかった。
瑞樹が一瞬、本当に一瞬だけ消えたと思ったら何でも無かったかのように同じ位置に立っていた。
唯違う事はナイフから赤い雫が滴っているという事のみ。
考えるよりも先に脳が疑問を発する。
どうしてだ、と。
それを具体的に疑問に考える前に大きな音が左側からして振り向くと。
自分の部下二人が間を置かずにどちらも倒れる所だった。
「な、にが。」
起きたんだ、と言いたかった筈。
しかし、その言葉は続かなかった。
瑞樹が動いたからだ。
既に負傷している館川の胴体の斜め線には見向きもせず、右側の肺の中央にナイフを刺し込みそれを180度回転させてから止める。
そして動きを止めて、館川が認識するのを待った。
「?」
痛みに顔をしかめた館川を見て瑞樹は嗤う。
本人が何か思う前に咳き込み、口からは血が流れ出した。
口元の濡れた感覚に館川が其処に手を遣ると、手は赤く染まる。
その時、ようやく瑞樹に肺を刺されたのだと認識した。
「おま・・・え、は・・・。」
呆然とした表情の館川に瑞樹は笑いかける。
「其処は、母さんが鉄骨が刺さった場所なんだ。そこから肺が破れて、それが致命傷になったとカルテを持っていた医師が教えてくれた。」
本当は鉄骨だからもっと大きかっただろうけどね、と付け加えながら。
「そうですか。それはさぞかし痛かったでしょうね。」
痛ましげな声で安藤が呟くのを瑞樹は頷いて受け止める。
「俺の座っている所からは分からなかったけど、そうだったんだろう。あの能天気で明るかった人がそんな最後を迎えるなんて誰も想像しなかった。」
安藤の方を向いて話しているので顔は分からない。
段々と視界が霞んでいくなかで、話声だけが鮮明なのだ。
「瑞樹・・・・。」
「普通ならその原因である岡本亮二が憎いと思う。・・・・・でも。」
瑞樹は安藤に向けていた顔を館川に向け、唇が重なる寸前まで顔を近づける。
「お前は俺を見ただろう?」
髪は頬に触れている。
吐息も感じられる。
痛覚が麻痺した状態である筈なのに、目の前に居るこの上なく美しい存在の心臓の音まで聞こえて来そうだ。
「お前は俺を見ていた。だがお前は俺が見ている事に気付いていなかったな。」
黒々とした瞳が自分を見ている。
綺麗だが所詮男娼だと馬鹿にしてろくに見ていなかった顔が其処にある。
「俺が此処に居るのはお前が居たからだ。」
「まあ、そうですね。」
後ろから安藤が感慨深げな声で囁いているのが聞こえた。
「お前が身代わりを申し出て、証拠隠滅を指示しなければ俺はまだまともに生きれたはずだ。まあ、過去の事を言っても仕方無いけど。」
囁かれるその声は毒とも蜜とも思えてくる。
ただ、瑞樹自身からは自分への憎しみが感じ取れない。
「だからどうとは具体的に思っていない。どうでもいい。」
暗くなる視界で、必死に瑞樹の瞳を見る。
其処にはただ無機質を観る瞳があった。
この瞳に己の姿を映したいと何人が思っただろう、と何故か思う。
「だが、一応俺の母親を殺した人間の一人だからな。お礼、かな。」
淡々とした声が、吐息が、髪の感覚が、体温が離れていく。
「ま、て・・・。」
小さな、自分でもみっともない程擦れた声だったが、かろうじて出る。
その声に全く動じず、瑞樹は安藤のもとへと歩いていった。
(どうして、俺は。)
死への実感や恐怖、今までの地位への執着、部下を殺した瑞樹への憎悪では無く、唯、瑞樹を振り向かせたいという感情だけが残っているのだろ。
自分が瑞樹にした事、その事によって彼の人生が狂った事など承知して何の感慨も無かった。
ただ、事実として認識していだだけなのに。
今更になって。
瑞樹に惹かれた。
強烈に。
(俺を塵位にしか思っていない奴に死に際に惚れるなんて、俺も馬鹿だな)
苦笑したつもりだった。
だが、それは顔に表れず寒さだけが体を支配していく。
「み、ずき・・・。」
小さな声が沈黙の部屋に響き、それきり館川は沈黙した。
淡々とした瞳で動かなくなった館川を見つめる瑞樹を安藤が抱きしめる。
「・・・何か思うと思ったんだがな。」
呟く瑞樹は抱きしめられたまま腕一つ動かさず、瞳はいつも通りで人を殺した後とはとても思えない。
「あなたは何も考えなくても、感じなくてもいい。私がその分感じるから。」
強く、きつく抱きしめて微笑みかける。
「瑞樹。あなたは私が淹れるお茶を美味しいと思いますか?」
「ああ。」
「では日向や花筏の料理、三河のケーキは?」
「好きだな。」
「だったら。」
目を真っ直ぐに見てから微笑む。
「大丈夫です。大丈夫。」
冷たいその手を温めるように握れば少しずつ体温が移っていく。
「もし何かあっても一蓮托生、でしょう?」
言葉で態度で囁くと淡々としてガラス細工の様だった瞳が通常の輝きを取り戻す。
「そう、だな。ありがとう。」
「ふふふ。お礼は体で返してもらいますから私としてはもっとお礼を言われる事をしたいのですけどね。」
冗談のつもりで言ったのだが瑞樹の顔は若干引き攣った。
「・・・・・・ちなみにお礼はなんだ?」
「それは終わってから一気にどどーんと。」
瑞樹はひとつ溜息を吐いてから安藤に背を向ける。
「もうそろそろ騒動に気付く筈。」
来た道を帰る為に歩き出す瑞樹に、岡本組長を抱えて安藤も従う。
「とりあえずは、こいつをどうにかしなくては、ね。マナには連絡済ですから。」
「そうか。」
頷いてから階段を上りきり、畳みの上に辿り着いた瑞樹は目を眇める。
「瑞樹?」
真っ直ぐ前を見つめたまま立ち止まった瑞樹を不審に思い、前を見ると。
「優。」
「瑞樹さん。」
其処には冴口に抱えられた優が居た。
「優。部屋に戻っておいた方がお前の為だ。」
瑞樹の忠告を聞いたのか聞いていないのか分からない、いつもの彼と違い無表情のまま、安藤が抱えている人物に目を遣る。
「その人、組長ですよね?」
「だとしたら?」
優は、笑った。
「嬉しい、です。」
腕の中で微笑む優を見て冴口は淡々とした表情で瑞樹を見つめる。
「嬉しい?」
「ええ。だってその人を憎んでいないなんて嘘ですから。」
それはとても嬉しそうな笑みだった。
「・・・そうか。」
「はい。邸内の監視カメラ、モニターその他はウイルスによって使用不能にしていますから早く出てください。あと5分もしない内に組の精鋭が来てしまいますから。そうなったら庇えない。」
そんな事はこの数分で出来る筈が無く、誰かが組長の事を此処で狙った時の事を考えて前から用意していたのだろう。
何の後悔も抱いていない優の顔を見て瑞樹も薄く笑う。
「わかった。有難う。」
きっとこれが最後になるだろうと瑞樹は思いながら諸々の想いを封じ込めて、礼だけを言う事にする。
「こちらこそ、ですよ?この体では復讐なんて夢のまた夢だったから。」
抱えられたまま手を振る優を一瞥してから瑞樹と安藤は屋根の上から跳んで、マナの車の方向へと走っていった。
マヤは何も言わず、ただ黙って車を走らせる。
ボレロに着いて、冴口と安藤が協力して岡本組長を抱えて地下に向かった。
瑞樹は血まみれの体をどうにかする為にバスルームへ向かう。
体を綺麗にしてから階下に降りると直ぐに温かいスープとサンドウィッチ、紅茶が供される。
それをゆっくりと味わいながら食べていると、安藤が部屋に入ってきた。
「お疲れ様。」
「瑞樹も。」
微笑んでから安藤は直ぐに退室していく。
長時間血塗れのままでは気持ち悪いのと、食事中の瑞樹を慮っての事だろう。
「相変わらず、このスープは絶品だな。」
全ての皿が空になりスプーンを置くと、日向が微笑んで新しい皿を置く。
「有難う御座います。こちらは来月出す予定のライスコロッケです。」
小さなそれはこの完全予約制の店にはそぐわない物だったが、半分に切ってみるとその殆どがチーズで出来ており、周りに掛けてあるトマト味のソースも絶品だった。
「うん。美味しい。これならいいと思うよ。」
「そうですか。この店には合わないとは思ったのですが、ソースが自分でも自信作なものですから出したいと思っておりました。」
瑞樹はそれもあっという間に食べ終え、満足げに紅茶を飲む。
「うちのシェフは最高だね。」
「恐れ入ります。」
仰々しい仕草で礼を取る日向に笑顔を向けて、飲み干した紅茶をソーサーに戻した。
そうして湯を浴びて着替えてきた安藤の前に皿を並べて日向は退室していく。
「岡本はどうだった。」
落ち着いた動作で俯いたまま食事をしている安藤に瑞樹は尋ねる。
「大人しくしていましたよ。」
何でもない事の様に話しながら安藤は次々と皿を空にしていった。
全て食べ終え紅茶を一口含んでから安藤はようやく目線を上げる。
「さて、瑞樹。いくら優さんが操作したと言ってもあそこまで上手く行くものでしょうか。」
「俺もそう思う。」
「誰かが後ろで動きましたね。」
それまで部屋の置物と同化していたマヤが瑞樹の後ろへと動いた。
「おそらくは中村氏が動いたと思うわ。」
「やはりそうか。・・・・マヤ、連絡したな?」
瑞樹の目線にマヤは笑う。
「私はいつだって貴方の為に動くもの。」
その断言に三人は目を見合わせる。
時計の音だけが響く中、紅茶の湯気が漂う。
「今日は岡本兄弟に急の会食の予定が入ったそうよ。」
艶然と、誇らしげに微笑むマナに瑞樹は少し苦笑して頷く。
「マヤ、今兄弟が居る場所は分かるか?」
その問いにマナはすぐさま返答する。
「花筏。」
安藤と瑞樹は互いを見合わせた。
「本当に兄弟は其処に行ったのか?警戒していなかったのか?」
「花筏は看板でていませんからねぇ。」
安藤はゆっくりとした仕草で紅茶を口に含む。
「中村氏もそれを見越していて、岡本兄弟も何の違和感も無く店に入っていったと報告があったわ。」
確かに花筏は近頃買収したもので、味も何も変わっていないのでオーナーが変わったと気づく人間は少ない。
加えてスタッフも口の堅い人間ばかりなのでそういう事を話す者もいなかったのだ。
瑞樹は僅かに俯いて考えた後、立ち上がる。
「マヤ、花筏に連絡を。安藤は行田さんに。」
二人は笑みを浮かべたまま立ち上がり、各々の仕事に取り掛かる。
「オーナー私達に協力できる事はありますか?」
三河がお茶のお代わりを注ぎながら尋ねてきた。
瑞樹は三河に小さなキーホルダーを投げる。
「それが3時間以内に鳴らなかったら身内全員に連絡して海外に一次退去するように言ってくれ。金の在り処と暗証番号は分かるな?」
三河はキーホルダーを黙って見つめた後頷く。
「分かりました。ではその様に。但し私は残ります。事後処理もあるでしょうし、私達は此処の管理を任されているのですから。」
「それに犬の世話もありますから。」
三河の後ろから日向が出てきて瑞樹の前にオペラを置いた。
「冴口もそう言うと思いますよ。」
彼は地下に言ったきり戻っていない。色々と世話をしなければ死んでしまうので。
「そうか。大丈夫か?」
「問題ありません。これは私達の選択ですので。」
瑞樹は溜息一つ吐き、笑顔になる。
「わかった。好きにすると良い。・・・・・有難う。」
三河と日向は笑って退室していった。
行田を通じて中村に連絡を取ると、まだ部屋に居るという。瑞樹達が来るまで引き止めておくので、と言われた。
マヤも花筏の他の客はおらず、岡本兄弟と中村達のみだという。
「お膳立てされたものだが、乗らない手は無い。どうする。」
「勿論お供しますよ。」
「私も行きたいわ。」
マヤの服装は地味で夜の闇に溶け込む事が出来るものだった。
つまりは始めから付いて行く気だったという事だろう。
「血生臭くなるかもしれない。」
「それでも、行くわ。」
決意漲る瞳に瑞樹は苦笑した後、マヤに車を回す様に言った。
「それじゃあ。」
「但し、手出しはしない。いいか?」
「わかった。」
頷いたマヤに瑞樹が立ち上がった。携帯でメールを打ち、送信する。程なくして返信が来てそれを確認してから二人に声を掛けた。
「さて、行くか。」
その後ろに誇らしげな顔で安藤とマヤが続く。
ボレロから車で1時間の所に花筏はある。
元々料亭だったものを瑞樹が買い取ったのだ。
こちらはボレロよりは開けている。ボレロは完全予約制の上に紹介状が無ければ入れない。つまりは一見さんお断りの店で、花筏は予約を入れられれば食事が出来る。ランチもしており、そちらは夜に比べれば若干手頃な価格となっているので昼の方が客が多い。
マヤの車が車寄せに停まると、仲居が後部座席のドアを開ける。
「有難う。」
瑞樹は仲居の手にティッシュで包んだものを渡して日本庭園を横切り、離れに入る。
突然開けられた襖に驚く岡本兄弟を目にしながら瑞樹達は艶然と微笑み中村の後ろに立った。
「こんばんわ。お二人ともお元気そうでなにより。」
笑みを見せる瑞樹は普段の演技では無い瑞樹の艶に動揺を隠せない。
だが、それよりも。
「親父を何処にやった。」
岡本弘一がようやく落ち着きを取り戻して尋ねる。
「いなくなってせいせいしているのでしょうに、そんな軽口よく叩けますね。」
安藤が口を歪めて見下しても弘一の態度は変わらない。
「という事はやはりお前達がやったんだな?」
「まあ、酷いわ。私達が何をしたというの?それより組長さんが行方不明なんですか?大変ですねぇ。」
艶やかな唇を左右対称に上げて微笑むのはマヤ。
岡本亮二は未だに驚いた表情のまま固まっている。
そんな中、中村が苦笑して手を振った。
「すみません。いきなり大人数で押しかけて。実はこの店瑞樹のものなんですよ。上手いしサービスが良いものですから是非教えたいと思いまして。それでそれを知った瑞樹が是非ともご挨拶をと。」
好々爺の様な言葉にその場の空気が固まる。
言葉だけは柔らかいものだ。
言葉だけ。
話す雰囲気と口調は決して柔らかいものではない。
そして修羅場を潜った相手に岡本兄弟は押された。
いくら極道といえど、3代目。2代目組長自身は残酷で最低な人間だが、子どもの教育をしなかったので二人は修羅場というものを経験していないのだ。
なのに極道の世界で生きているものだから、汚い事も残酷な事も平気で命じる。
命じるだけなのだ。
だがしかし、兄の岡本弘一は人情溢れる人間の上に経営する会社も利益が上がっており、人望がある為に誰も岡本組のトップの座を変われない。
勿論、2代目に付いていた忠誠心高い男達が引き続き岡本弘一を補助している事もあるだろう。
つまりは岡本組は岡本弘一が居る限り、安泰といって差し支えない。
だがそれとこれとは別だ。
修羅場をいくつも潜り抜けてきた中村達と3代目として大事に育てられてきた岡本兄弟は経験差が違う。
中村達も、瑞樹達も階下層から這い上がってきた人間なのだ。
堕ちる人間は多い。
だがそこから自分達で這い上がる事の出来た者は少なく、其処から人として全うな人生を送れる人間は更に少ない。
それでも岡本弘一は組長代理としての矜持のみの力で問う。
「離れの周りに居た者達はどうしました。」
その問いには瑞樹が答えた。
「外に。内密な話があるものですから。」
一応正気を保ち平静に見える瑞樹だが、血に酔ったままだという事に安藤は気付いていた。
「瑞樹。」
囁けば艶やかに微笑まれる。
安藤は苦笑して静観を決め込むことにした。
「外で室戸が見張ってくれているから心配ない。」
瑞樹は安藤にそう言ってから岡本兄弟を観る。
目を細めて観察されるのはとても居心地の悪いものだ。
「元愛人が何の用だ。」
未だ元愛人という位置でしか見れない岡本亮二が瑞樹を揶揄する。
其れに対してマヤが僅かに動いたが、それを安藤が手で制して顎で瑞樹の方をしゃくった。
「何って、惚れた相手に会いに来てはいけませんか?」
此処で惚れている相手というのは中村の事なのか、岡本亮二の事なのか判別がつかない。
「戯言を。」
動揺する室内の空気に中村が軽く笑う。
「ふふっ。」
自ら中村の背後に回り、首に手を絡める。
そうしてゆっくりと顔を自分の方に向けてからキスをした。
緊迫した空気の中、二人は存分に舌を絡めて互いを味合う。
数十秒だか数分だか誰も計れない時間の後、瑞樹が妖艶に微笑んで岡本兄弟を見る。
「ところで、岡本弘一さんはご存知ですか?」
「何をだ。」
「岡本亮二さんが一般市民を二人殺して、一人重症を負わせた罪を部下に負わせた事をです。」
中村の首元に腕を絡めたまま瑞樹は微笑んで話す。
「あとは素人の女の子を強引にものにした挙句その子が亮二さんを本気で好きになったら飽きたといって捨てて、更に捨てられた直後相対する組織に浚われて助けを求めたらその子の事なんか知らないと言って見捨て、その子は散々な目に遭って半死半生で何とか助かったけれど自殺した事とか。」
岡本兄弟は部屋の緊張感で動けない。
「知っていましたか?」
そんな中で唯一人悠然と微笑む瑞樹が岡本弘一には恐ろしいものに見える。
小さな笑い声が響く中、瑞樹がようやく中村の首に絡めていた腕を外して立ち上がった。
「知っていましたか?岡本組代行岡本弘一。」
艶やかに微笑む唇は紅く、その顔は神をも凌ぐ美しさ。肌も室内の明かりで真珠の様に輝いている。
人外の者が目の前に居る、と岡本弘一は思った。
隣に座っている岡本亮二は絶句している。
長年愛人として囲っていた人間と同一人物に思えなかったのだ。
それほど亮二が知る伊田瑞樹、否、伊田ハルトとは違うもので。
囲ってから伊田、瑞樹、ハルトと適当に呼んでいた存在とは明らかに違う。
「ハルト。」
亮二の発言に安藤は眉を寄せる。
何故ならそれは過去の汚辱に塗れた名前だから。
「俺の名前は瀬戸瑞樹。それ以外の何者でもありませんよ。岡本組若頭岡本亮二。」
不愉快極まりないと思っている事を隠そうともしない安藤とは対照的に瑞樹は艶やかに微笑んだままだ。
「男に媚を売っている事に変わりは無いだろう。」
安藤が左右のポケットに両手を入れて、出そうとするのを制して瑞樹は何でも無い事の用に言葉を発する。
「人を何人も地獄に突き落とす人間よりましですよ。」
そうして手を中村の肩に置く。
それを見た安藤は内心溜息を吐いた。
(まだ血に酔っている。・・・抜いておけば良かったかな。)
だがそんな心中は誰にも悟られる事は無い。
此処で漸く我に返った岡本弘一が弟である亮二の方に顔を向ける。
「今の話は本当か。亮二。」
その言葉に亮二は眉を顰めた。
「嘘だろう。俺に覚えは無い。」
「では館川さんは何故刑務所に?」
「あれは確かに俺の事故を誤魔化す為に。」
「それ、私なんですよ。」
微笑む瑞樹は悪魔か神かそれとも・・・。
「え?」
引き攣った亮二の顔に対して瑞樹はとても楽しそうだ。
「事故で重症を負った子ども、私なんですよ?新聞にも載ったでしょう?運転していた瀬戸栄子さんは死亡、長男瑞樹君は重症って。しかもその時意識あったんですよ。貴方が慌てる様も館川が自ら身代わりになるという話をした事も。そして。」
瑞樹は中村の肩から手を離して岡本亮二の下へ向かい、肩に手を置いて背を屈めて耳元で囁く。
「あの時母は生きていた。早く救急車を呼んでいれば助かったんですよ?」
耳元で囁かれるのは甘言か毒か。
「うそだ。」
小さな、震えた声に瑞樹はゆっくりと首を振る。
「いいえ。カルテが此処にありますから。ほら。」
胸元から取り出した数枚の紙片を岡本兄弟に良く見える様に翳す。
それにはドイツ語表記で分かり難かったが、最後の一枚には日本語で瑞樹の言った通りの事が書かれてあった。
汚い字だが、はっきりと書かれたそれはカルテを書いた医師の感情が籠もっている様に思える。
「お前は・・・。」
「私が・・・何ですか?」
岡本亮二はその時、初めて瑞樹が自分の言い方を俺から私と言い換えているのに気付いた。
そうしてその微笑む様も。
黙ってしまった岡本亮二を瑞樹は目線だけ向けると安藤に右手を向け、人差し指を動かしてみせる。
「さて、移動しましょうか?」
立ち上がり、背を向けて外に出る瑞樹に皆が従う。
そうして日本庭園に出ると、其処には一人の男と瑞樹が月を背に立っている。
男の手には日本刀があり、無表情の顔にそれは妙に合っていた。
月は畏怖と憧憬を感じる程美しい満月。
その中で艶やかに微笑む瑞樹。
長い髪が僅かな風に揺れ、艶やかに輝いている。
白砂は月の光を吸って輝いているようだ。
恐ろしくも美しい絵の様なその光景に誰もが呆然とする。
そんな中動いたのは瑞樹。
「室戸。」
呼ばれた男を見て、岡本弘一は漸く数ヶ月前倉庫で見かけた男だと気付く。
室戸は黙って日本刀を瑞樹に差し出す。
鞘をゆっくりと払い、抜き身を月光に曝されたその刀は夜の吐息と月の狂気に曝されて喜ぶ。
瑞樹はその様を微笑んで見守ると、呆然としたままの面々に向かって走っていく。
そうして、それは一瞬。
誰もが視覚に捉える前に始まり、終わっていた。
固まっていた面々の一番後ろに居た岡本亮二本人も何が起こったのか理解出来ていない。
激しい血飛沫の音で全員が振り向いたのだ。
其処には右腕が根元から無くなり呆然とした姿の岡本亮二と、その岡本亮二以外に背を向け、刀を地面に下ろした瑞樹姿があった。
血が流れる音だけが響く中、瑞樹は空いている左手で白砂の上に落ちている岡本亮二の右腕を拾い上げて振り向く。
全身に血飛沫を浴びた姿の瑞樹は、おそらく自ら血飛沫を浴びたのだろうと察する事の出来るもので。
そうしてそれの姿は。
人とは思えぬほど美しいものだった。
全身血塗れで月を浴びる姿は悪魔か人外の者か。
唇の端に付いた血を舐め取る姿は滴る艶が雫となって落ちていく様。
「美味しい。」
呟かれた言葉に安藤が正気に返り反応した。
「連れて帰りますか?」
物騒な台詞をあっさりと吐いたが、それを気にする程正気の人間はいない。
「いや、いい。癖になるといけないから。」
瑞樹も物騒な台詞で返してから、傍に寄ってきた室戸が差し出した懐紙で刀を一旦拭ってから近くにあった獅子脅しの水で刀の血を綺麗にする。
「後は宜しく。」
いつもなら淡々とした言葉で言う瑞樹だが、今日、今に限っては吐く言葉、吐息でさえも艶めかしい。
「わかった。」
室戸は頷いてからその場から去る。
瑞樹は微笑んで血を流し続ける岡本亮二に向き合った。
「本当は殺しても良かったし、岡本組が瓦解しようと別に何の良心も痛まないのだけれど、それだと義介さんが困るのでこれだけに留めておきます。但し、私の身内に手出しした場合はそれ相応の処置をとりますので。ああ、今後似たような事をすれば・・・分かっていますよね?」
流れ続ける血も関係ない程瑞樹を凝視し続ける岡本亮二にあっさりと背を向けて瑞樹は歩き出す。
それに従う安藤とマヤ。
マヤの運転でボレロに向かう車中、瑞樹は後部座席で安藤に凭れきっていた。
「大丈夫ですか?」
心配するマヤに安藤は苦笑して頷く。
「大丈夫ですよ。疲れているだけですから。」
確かに強行軍であった事は否めないのでそれで黙らざるをえなかったマヤだが、瑞樹の様子はそれだけではないと伝えている気がした。
高潮した頬に艶のある吐息。伏し目がちの瞳は仕事柄色んな艶のある人間を見た中でも一番艶のあるもので。
だが、それを追求すべきではない事も仕事柄マヤは理解していたので黙って運転を続けたのだった。
口元だけ笑っている安藤から目を背けて。
そうして残された男達は呆然とした中から我に帰る。
「これは・・・・一体どういう事だ。」
急いで部下に連絡を取ろうとしたが、携帯には誰も出ない。
「無駄な事はしない事ですよ。代行。いや、組長。」
「中村会長。」
行田が黙って手早く岡本亮二の怪我の応急処置にかかる。
そうして中村のもうひとりの部下が現れて中村に報告した。
「医師はあと5分程で到着するそうです。処置には離れを使って良いと許可は貰っています。」
着物姿の女性と作務衣姿の男達数名が現れて離れに入っていく。
内一人は此方に近づき手で離れを示した。
「こちらの片付けもありますので、離れに入ってください。布団の準備は直ぐに整いますので。」
その場を数歩行けば、残った作務衣姿の男は新たに現れ男達と共に白砂を袋に入れ、大量の水を撒いたりなどして片付けに専念する。
岡本弘一は弟を抱えながら離れに入ると部屋の中は様変わりをしており、皺一つ無い布団に岡本亮二を寝かせる事が出来た。
此処までは行田の応急処置と晒のお陰で畳みや地面が血で汚れる事も無かったが、さすがに布団は血に濡れていく。
程なくして現れた医者は蔓延する血の匂いの中飄々とした顔を崩さず淡々と治療に掛かる。
「治療に邪魔になるので他の方は別室にて待機して下さい。あと腕はどうされました。」
その時になって岡本弘一は漸く、片腕を瑞樹が持って帰った事が脳内でよみがえる。
だがそれをどう言えばいいのかと考える時点で頭が未だに混乱したままだと言う事に本人は気付かない。
「ありません。」
行田がそう答えると医師は頷いて鞄の中から道具を取り出し始めた。
岡本亮二は瑞樹が去った辺りから意識が朦朧としているようで目を瞑っている。
治療の邪魔だと言われていたので中村と行田、岡本弘一は隣室へと移った。もう一人の部下は離れの外に居る。
そうして漸く岡本弘一は全てを知っているように思える中村に聞く。
「あれは一体どういう事ですか。」
中村は置かれているお茶を一口含んでから口を開いた。
「組長の弟は遣り過ぎた。他の者達のフォローも無く、本人も自覚は無い。そんな場合は遣った事は帰って来るのではありませんか?いくら極道でも遣りすぎれば報復は覚悟すべきでしょう。」
「だが、しかし!」
「瑞樹の言った事は全て本当ですよ。個人的に私が亮二さんから助けた人も少なくは無い。あの人は恨みを買いすぎた。瑞樹がしなくてもいずれは誰かから報復されたでしょう。」
確かに岡本亮二は甘やかされて育った所もあり、ヤクザと呼ばれる者達がしている事は本人にとって常識でもその痛みを知らずに生きてきていた。
「だから瑞樹に報復しようなんて思わないようにしてくださいよ。あなたは人望ある人間なのだから。あれは自業自得だと思っておけばよいでしょう。」
岡本弘一自身も自分が修羅場を潜ってきた男達と比べて甘い所があると自覚していただけにこの言葉は痛い。
「目覚めれば本人も報復する気など起きないでしょうがね。」
立ち上がる中村を引き止める事も責める事も出来ずに、唯俯くしかなかった。
それを目に留めながら中村は落ち着いた足取りで離れを後にし、回された車へと向かう。
既に庭園は血の後など僅かも無い。短い時間で此処までするという事は凄い事だ。
だが、匂いだけは別で鼻につく。
その匂いを消す為かどうかは分からないが、七輪が数個置かれて魚が焼かれている。
それとバーベキュー台。
テーブルまであり、その上には肉や野菜、貝類が山程並べられビールや焼酎まで用意されていた。
「・・・・これは一体何の騒ぎだと思う。」
後ろに居る行田に尋ねれば、流石の行田も首を傾げる。
「さあ・・・・。」
其処へ作務衣姿の男数人が更に酒を持って現れた。
「中村さん。終わったのですか?」
此処の板前の男が笑顔で一升瓶をテーブルに並べていく。
他の男達はプラスチックのコップや他の材料を。
「これは、何の騒ぎだね?」
「祝賀会の予定だったのですが、オーナー達が帰ってしまったので単なる宴会です。におい消しにもなって一石二鳥でしょう?」
笑顔で言う男に苦笑しつつ頷く。
「もし宜しければお二人もいかがですか?予定人数3人も減ってしまったので食べ放題ですよ。」
既に懐石料理を食べ終えた中村だったが、スーツ姿のまま七輪の前に座る。
「そうしようか。私のスーツも匂い消しには一石二鳥だ。それに振られてしまっているしな。」
「それは私達も同じ事ですよ。まあ、オーナーもお疲れでしょうから祝賀会は後日仕切りなおししますのでその時はどうぞご参加下さい。とっておきの海産物用意して待っています。」
本日の肉や貝類も十分な品だったが、それ以上のものを用意すると張り切っている板前の男に頷き、隣の七輪の前に座った行田と共に松茸を焼き始めた。
ボレロに着くと安藤は瑞樹を軽々と抱えてマヤに笑顔で礼を言う。
「有難う御座いました。今日はもう帰ったほうがいいですよ。瑞樹は寝てしまうと思いますし。」
それに大人しく頷いてからマヤは去っていく。
それを笑顔のまま見送ってから裏口の鍵を開けて中に入ると、三河が出てきた。
「お帰りなさい。オーナー、安藤さん。」
「ただいま帰りました。」
「何か軽いものでも。」
「いえ、この通り睡眠を優先させますから食事は目覚めてから。詳しい話もその時に。皆にもそう言って下さい。」
「わかりました。では安藤さんもしっかりと睡眠を摂ってください。」
「ええ、どうも。」
笑顔で礼を言ってから安藤は瑞樹の部屋へ上がる。
血飛沫を浴びたスーツはバスルームへ放り、二人とも全裸へとなった。
「瑞樹、大丈夫そうですか?中村氏でも呼びますか?」
皆が眠っていると思っていた瑞樹は実は起きていたが、普通の状態ではない。
緩慢な仕草で首を振る瑞樹に安藤はその濃い紫の髪を梳く。
「いい。多分、無理だから。」
小さな、だが熱い吐息を吐きながら言う瑞樹は普通の人間ならそれだけで鼻血を出しそうな程艶に溢れている。
「まあ、今日の貴方はちょっと位では無理でしょうからね。」
「さかえ・・・。」
幼児のような、拙い言葉に安藤は微笑む。
「この、素敵な顔を知っているのは私だけでいいですしね。体を動かすのも億劫でしょう?寝ていていいですよ。」
「わるい、な。」
「いいえ。役得ですし、私も溜まっていますから丁度良いでしょう。」
言いながら安藤はバスオイル用のオイルを自分と瑞樹の場所に塗りこむ。
そうして両方を解した後、瑞樹の上に乗って、一気に腰を下ろした。
「ふっ。久しぶりだから、一気はちょっときつかったですかね・・・。」
「だいじょうぶ、か?」
互いに眉を寄せ額に汗を掻いているが、体の中の熱を収めない事にはどうしようもないという事を二人とも熟知している。
「大丈夫ですよ。瑞樹こそ直ぐに達かないでくださいね。・・・・・私の方が先かもしれませんけど。」
言ってから動き出す安藤の中は恐ろしい程のもので、抑えの利かない瑞樹は直ぐに達してしまう。それと同時に安藤も達したのだが、妙に悔しそうな顔をしている。
「どうしたんだ?」
「・・・・だって、瑞樹の顔、凄いですよ?何かその顔だけで達けそうです。いつもながらこんな時の瑞樹は凄いですよね。」
瑞樹の腹に手を置いて、俯く安藤の頭をゆっくりと撫でる。
「俺こそ、情けない状態だと思うぞ。安藤の虜になった男達の気持ちが分かるよ。」
一回抜いて少し余裕が出来た瑞樹は苦笑した。
「確かに瑞樹は上手いですけど、演技ですからね。私のこれは技術と天性の賜物ですから誰かに負けると逆にショックかもしれません。まあ、今日の瑞樹には負けるかもしれませんけど。」
安藤は自分で瑞樹のものを抜いてから唇を舐める。
「さて、一回目は互いに余裕が無かったので、これは前哨戦という事で。二回目以降は覚悟してくださいよ?」
不敵な笑いだが心底楽しそうに笑いながら今度は瑞樹の両足の間に体を滑り込ませて足を抱える。
「・・・・・・お手柔らかにお願いします。」
自分も確かに体を持て余し気味だが、それでも安藤の絶倫ぶりにはかなわない。
「さあ?それは瑞樹次第でしょう。今でも十分に艶やかですから手は抜きませんけど。」
「本当に楽しそうだな。」
「それはもう!こんな瑞樹は12年ぶりですからね!」
喜々として安藤は瑞樹の体を舐め、触れ出す。
耳は唾液が滴る程舐めてから、鎖骨へと移り、脇腹を指で強く押したり擽る様になぞったり。
「さ、さかえ!ふざけているだろう!」
瑞樹は叫んでから安藤の肩に噛み付き、脇腹を抓る。
瑞樹に馬乗りしていた時は互いに恐ろしい程の艶を垂れ流ししていたのに、誰かが見ていれば今は猫のじゃれあいの様に見えるだろう。
「ちょっと位いいじゃないですか。」
ふて腐れた様に言ってから瑞樹の中心に手を延ばして指を埋める。
そうして微笑んでから宣言した。
「絶対に指や口で達かせませんから。私が中に入っている時か、私の中で達して下さいね。」
瑞樹はげんなりした顔を僅かに覗かせる。
「何回か達けばどうにかなるのに。」
血に酔っているせいもあって言動が幼い瑞樹はとても可愛い。
そうしてそんな顔を知っているのは安藤だけなのだ。
本人が知らなくても安藤だけが知っている貌。
そうして安藤も瑞樹本人もこんな状況になった場合、互いしか求めない。
「それじゃあ、私が楽しくないでしょう。」
3本埋めていた指を引き抜いて、自らのものをゆっくりと侵入させる。
眉を寄せて目を瞑る瑞樹をしっかりと目に焼き付けながら、焦りを生み出させる程ゆっくりと。
実は、安藤は瑞樹にしか挿れない。
誰しもが真性ゲイで、受ける側だと思っている安藤のもうひとつの貌。
それは誰も知らない事だが、まぎれもない事実。
こちらの方も受ける場合の時の技術に負けず劣らずなのだが、それも瑞樹しか知らない。
「あ・・・・さかえ。」
演技では声を上げるが実際は滅多に声を上げない瑞樹に声を上げさせた安藤は満足げに微笑んでから一気に根元まで押し入れた。
息を詰める瑞樹の手を自分の背中に回させて、荒々しく腰を振る。
声は上げなくても、息の荒さ、背中に立てられる爪の小さな痛みで瑞樹が感じる快楽の程度がわかり、その度に口元を緩ませてしまう。
そうして一回目程では無いがやはりどうしても互いに自分のペースより早く達してしまった。
息が荒い瑞樹の髪を梳きながら安藤は中に入れたまま抜こうとしない。
「さかえ?」
荒い、だが甘い吐息の中、瑞樹が安藤に疑問を投げかける。
「あ、いえ。もう一回連続してしようかな、と。」
左右対称な笑みを浮かべて言うと早速動き出す。
「あ、さかえ、もう少し、まって・・・。」
瑞樹の言葉は無視され、そのまま安藤が気が済むまで寝台の僅かな音は止む事がなかった。
翌朝、輝かしい笑顔を浮かべた安藤といつもの飄々とした、だが疲れが若干残った顔の瑞樹は店舗経営の事務作業の為に借りている小さなオフィスに居た。
「一日で終わって良かったですね。」
「その分搾り取られたけどな。」
過去2回あったそれは、抜け出るまで3日程かかり、更に酷使した体が元に戻るまでに一週間を要したので今回程血を浴びればそれ以上だろうと内心覚悟していただけに驚いている。
「多分体が変わったからでしょう。瑞樹の感度も鋭くなっていましたし。御用のある時はいつでも言って下さい。私は瑞樹専用ですから。」
「朝にこれ程相応しくない会話もないだろうなぁ。」
痛む腰を摩りつつ、安藤の淹れたお茶を飲む。
「帰ったら熟睡出来るマッサージしますね。」
ふふふと笑う安藤に瑞樹の眉間に皺が寄る。
「それは是非ともだが・・・目線で犯すな。足りないなら誰か呼べ。」
「瑞樹を味わった後では他のはつまみ食いにもなりませんよ。暫くして飢えないと。」
「その相手に同情する。」
この上なく機嫌の良い安藤は本日分の書類を片付ける手もいつもより4割増しで早い。
「あと一時間程で終わりますので、寝に帰りましょう。まだ眠いでしょう。」
「不眠不休だからな。大体、似たような体格なのにこの体力の差は何だ。しかも体力値が上がっているだろう。」
「それはやはり真壁の血を飲んだからでしょう。それに体力の差があって当たり前です。私は小学生の頃から弓道をしていましたから。」
「・・・・・・・・・そんなに長い間して、煩悩は落とせなかったのか。」
物凄い煩悩である。
「いえ、我慢しようと思えば出来ますよ?事実、樹海に居た時瑞樹を襲わなかったでしょう?溜める事が出来るのです。ちなみに座禅も得意ですよ。」
手にしている書類を見もせずに纏めて安藤に渡せば手早くサインが必要なものには瑞樹のサインをし、却下のものは分けて届け先毎に分けて置く。
元々優秀なのだが、本当に仕事が速い。
「さあ、終わりました。帰りましょうか。」
満面の笑みを浮かべて書類を片付け始めた安藤に瑞樹が聞く。
「その仕事の速さも能力を得たからなのか?」
「いえ、今まで手を抜いていただけです。」
そういえば今日此処に来てから仕事らしい仕事をしていないな、と瑞樹は思い出す。
「じゃあなんでいままで・・・。」
「瑞樹の傍に居ない時は瑞樹名義の物件の管理、事務は一手に引き受けていましたけど。」
「・・・あれを一人で全部?」
「はい。」
「だが、」
「確かに瑞樹が独立してからスタッフを増やしましたよ。ノアールの事もありますしね。」
それに、と安藤がそれは綺麗な笑みを浮かべて言う。
「私は瑞樹の傍を一時も離れたくないので。」
「・・・・逢瀬の時とノアールに居る時は離れているだろう。」
「私にも生理現象を処理する時間が必要ですからね。」
ふふふ、と笑う安藤を見て瑞樹は机に顔を押し付ける。
「あ、机となんてキスしないでくださいよ。帰りますから。」
腕を掴んで起こそうとする安藤の手は瑞樹とたいして変わらない。
体格身長その他あまり変わりは無いのだ。
が、体力値は段違い。
それは変わってしまった今でも変わらないらしい。
「・・・・ああ。」
疲れがどっと来た気がする瑞樹は言われるままに車に乗る。
「じゃあ、帰ったらマッサージしましょうね。」
喜々として運転する安藤に頷いて瑞樹は目を閉じて首を傾げる。
「何か、忘れている気がする。」
「真壁の迎えは私が行きますよ?その事では無いのですか?」
「それは忘れていないが・・・・あ。」
「あ?」
「室戸への謝礼を振り込むの忘れてた。」
「ではそれはマヤに銀行振り込みさせておきましょう。金額は?」
「300万。」
「わかりました。・・・しかし、高くないですか?」
「諸々の処理と他のスタッフの料金全て含んでいるから寧ろ安すぎな位だな。」
「うーん。」
「室戸は後藤田のトップクラスの人間だぞ?」
「後藤田ってあの、後藤田探偵事務所ですか?」
「そう。」
「よく繋ぎが取れましたね。」
「室戸個人と知り合いなんだ。」
「へぇ〜。ではそれに色を付けて送金しておきます。」
「銀行振り込みじゃないぞ。ちょっと変わった方法をとるんだ。マナには一度頼んだ事があるから方法は知っている。」
「へぇ〜。」
今度の声は若干低い。
「私には頼んだ事無いですよねぇ。」
目を開けるとミラー越しに目が合う。
「・・・・・・・・・・・・栄に頼もうかな。」
「お任せください。ロッカーとかですか?」
「まあ、そんな所かな。とりあえずそれは後で・・・・。」
今度こそ目を瞑ると振動が子守唄代わりになって本格的な眠りを誘っていった。
そうして後日。
ボレロにて慰労会の様なものが開かれた。
瑞樹と安藤、椎原達と中村と行田、ボレロのスタッフに花筏のメンバー、マヤ達、室戸、そして真壁が集まり和やかな宴が始まる。
「皆、今まで本当に有難う。岡本からは言質と証文も取れたことだし、今までの職場を離れて好きにしたいという人は安藤に言って下さい。岡本亮二を殺さなかった事に不満を思う人もいると思いますが、生きる事方が辛い事もあると思います。が、再び同じような事をするなら今度こそこの手で命を絶つ事を誓いましょう。」
「私は別に瑞樹がそれでいいなら構わないわ。」
マヤが艶やかに微笑むと、全員が穏やかな顔で頷く。
もちろん内心は殺して欲しかったと思う者も居たが、何よりも辛い目に会い、長い時間をかけて今まで来た瑞樹が言うのだからと、沈黙を守る。
「これからの方が大変でしょう。生きる目的とも言うべきものが達成された今、今度こそ自分の為の人生を歩んで欲しいと思っています。それが難しい事も知っています。それでも、今集まった面々は幸せになる努力が出来る。だから今度こそ堕ちる事無く歩いてください。」
既に退職届を出している者もおり、二度と会う事の無い人同士も此処には居る。
だからこそ、今此処で互いの幸せを願いたい、と瑞樹は思った。
「私の出した答えに不満を抱く人も、それでいいと思う人も。区切りが付けられた人も。どうか、もう闇には捕まらないで欲しい。私が言いたいのはそれだけです。」
静かな声が響く中、皆真剣な顔でそれを聞いた。
「それでは皆さん楽しんでください。」
掲げたグラスに皆が同意する様に掲げられて飲み干される。
途端に話し声が始まり、会話を楽しむ者、食事をするものと様々に分かれていった。
「瑞樹。」
「はい?」
シャンパンを飲み干してから、テーブルに置かれた料理を皿に載せて椅子に座ると、隣に中村が座る。
「本当はどうして亮二を殺さなかったんだ?」
中村は室戸に死体処理まで頼んでいた事を知っていた。
小さな音楽と会話のせいで二人の会話を気にする者は居ない。
「・・・・本当は殺さなければ私の中の何かが終わらない、と思っていたんです。」
渡されたシャンパングラスの中身に口を付けてから溜息を吐く。
「始めから、そう思っていたんです。」
「10年前から、か?」
「ええ。でも、あの人は私が思っている以上に弱い人で。自分のしている事にすら気付いていない愚かな人だったんです。」
「だから惹かれたともいえるだろうね。その事に気付かなければ、強さにも思える愚かさだったからな。」
「多分そうなのでしょう。でも、斬りつけた瞬間。・・・・・・ああ、どうして自分はこんな人間に強い感情を持っていたのだろうと馬鹿らしくなってしまって。」
苦笑する瑞樹に中村も頷いた。
「それは・・・分かる気がするな。」
「という事は、岡本組長もそうだったのですか?」
「まあ、な。ただ、あの人は自覚した後は狂気の沙汰の様になって益々自分の地位を強くしていったから誰も復讐する事は適わなかっただろう。」
「そうですか。でも。」
「でも?」
「栄がいなければ私も今頃はきっと・・・・。」
「そうだろうな。」
「そうなっていたら共に堕ちてくれていましたか?」
「それはそれで楽しい事だったかもしれない。」
互いのグラスを重ねて音を立てれば美しい音がする。
「そういえば・・・白露を割ったとき、例えようもない程美しい音がしました。」
高価な物を割ってしまったというショックより、その美しい音に聞き惚れた覚えがあります、と瑞樹が語った。
「丁寧に作られ育てられたものが壊れる瞬間は例えようも無い程美しいものだからな。」
「どうしてなのでしょうね。」
「壊れる運命だからだろう。」
繊細なつくりのシャンパングラスを見つめて中村は笑う。
「儚くとも・・・割れても尚立ち上がろうとするものは繕いに出せばいい。見た目は悪くてもその足掻きは悪くない。それはそれで美しい、と私は思っているよ。」
瑞樹はその言葉に頷いてまた一口含む。
「此処に居る、お前によって繕われた者達はどういう風になるのだろうな。出来れば、割れても尚生き返ったのだと誇って欲しいものだ。」
「繕われて一番美しい姿になったのは栄でしょうけどね。」
「違いない。」
笑って互いに微笑むと中村は立ち上がった。
「お前も私から自由になっていいよ。」
「いいえ。私は私なりに貴方に対して愛情と執着を持っておりますので。」
はっきりと告げられたその言葉に中村は心の底から破顔する。
艶やかに微笑む瑞樹は中村の心を始めて逢った時から離す事が無い。
「嬉しい事を言う。」
「本心ですから。」
瑞樹は自分から中村の唇にキスを送った。
僅かな間、見詰め合って微笑んでいると、中村が何かを思い出したように、ああ、と声を上げる。
「忘れていた。岡本亮二の事だが、今までの事全てを調べ上げた岡本弘一によって軽井沢の別荘に一生軟禁だそうだ。本人もそれに逆らう事無く静かに日々を送っていると言われたよ。見てみたいか?」
瑞樹はゆっくりと首を振った。
「私の中でもう終わった事ですから。」
そうか、と中村は頷いて瑞樹に背を向ける。
「私の様な立場の者が居ては他の人は楽しめないだろう。椎原とは後日話せばいいから我々はこれで帰らせてもらうよ。」
「此処に居る者は皆貴方と椎原に感謝しこそすれ、憎みはしていませんよ?」
「それでもヤクザ者という生理的嫌悪感は除けない。そういうものだよ。今日くらいはそんな感情から開放されたいだろう。それじゃあ、また。」
右手を軽く振って、椎原達を促して彼等は静かに去っていった。
「瑞樹。」
その背中を見続ける瑞樹に安藤が声を掛ける。
「栄。」
振り向くと目の前にはフロマージュが。そして安藤の隣には真壁がケーキを持って立っていた。
「はい。約束のフロマージュですよ。」
「ありがとう。」
受け取り口に含むと、口中で溶ける感触が何とも言えず口元が緩んでしまう。
「美味しい。」
微笑む瑞樹に安藤は満足げに笑うが、真壁は心底不満そうな顔をした。
「安藤はそれを私にくれないのだぞ。酷いとは思わないか!」
「何度も言うように、これは一つしか作らなかったものですから上げられません。」
「じゃあ、今度作ってくれ。ケーキというものは美味い!」
「駄目です。」
「どうして!?」
「これは瑞樹の為だけに作るものだからですよ。私が作るものより美味しいものを作る店を知っていますから其処から買ってきて上げますよ。」
「店?という事はこれが沢山並んでいるのだろう?連れて行け!」
頬を染めて喜々とする真壁の本日の装いは振袖。
「もう世間には慣れたのか?」
真壁がボレロに住みだしてから2週間が経過していたが、もうそろそろ外を歩かせてもいいかもしれないと思った。
「ええそれはもう。瑞樹には言っていませんでしたが、昨日三河さんと一緒に浅草まで出掛けたのですよ。」
「順応力高いな。」
「ふふふふふ。私は何事にも前向きなのだ。もうジーンズも持っているぞ。」
「そっか。頑張ってくれ。」
「当然だ!もう一般常識は身についていると三河からも言われたからな。来月はディズニーランドに連れて行け!」
高笑いしながら食べ終えたケーキを補充する為か、去っていく真壁に瑞樹は苦笑する。
「昔のお嬢様というのはあんなに元気なものなのか?」
「真壁が特別だと思いますけど。あと、特技は占いだそうですが、本当に当たりますよ。」
「じゃあ、その方面で仕事をする事にしたのか?」
「そうしたいと言っていますので来月あたりから始めようかと。」
「・・・・・強いなぁ。」
「医師に診察させた所、両性具有というより殆ど女性だという事らしいですから。女は強しという事でしょうね。それに開放感もあるのでしょう。」
これからすべき事は沢山ある。
身を守る術を探す事。
異端となった自分達の仲間を見つけ、少しでも情報を集める事。
これまでした事の残存処理。
岡本本家であった事は隠しても知れる事なので、それらの対応もしなければならない。
生きるという事はそれだけで大変だ。
だが、それでも自分達は此処にいる。
「これから暫く忙しそうだなぁ。」
溜息と苦笑を同時にすると安藤は隣で艶やかに笑って頷く。
「そうですね。でも、その方が良いでしょう?」
「かもしれない。」
僅かに触れる指は暖かく、絶対と言う言葉を信じない互いだがそれでもお互いへの絶対は信じている。
「まあ、何とかなるだろう。」
「ですね。」
互いが傍に居る限り。
言葉にしなくても伝わり、その絆は更に強固なものへ。
異端となってしまった身だが、一人では無い事はとても、良い。
言葉に出来ない関係。
する必要の無い関係。
それは互いを縛るものでは無いのだ。
身を浸す甘美な感覚。
自分達が手に入れたものは、決して永遠ではない。
そんなものは欲しくない。
常に流動するもの。
そうして傍らに居る存在。
欲しかったのはそういうものなのだ。
今はこの手の中に。
「幸せ、という事なのかな?」
自分の手を見つめて呟く瑞樹に安藤は微笑む。
「それもこれから考えれば良い事なのでは?」
「かも、な?」
何かに囚われずに生きるのは久しぶりで戸惑う事もあるだろうが、きっと楽しい事もあるだろう。
「とりあえず、来月はディズニーランドですからそれを楽しみに仕事しましょう。」
頷いて、自分も呪縛から開放された人の為の宴を楽しむ為に輪の中へと入っていった。
おわり
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