十四夜〜企む佳人〜





   瑞樹は書類片手に溜息を吐いた。

「どうされましたか?」

 行田が傍でこちらを伺っている。

 傍にいた安藤は立ち上がると給湯室へと向かう。

「ん〜。何か気が抜けたというか・・・。」

 この部屋に居るのは安藤と行田だけ。

 つまり瑞樹の嘘に騙される人間は居ないと言う事だ。

 他の人間、中村以外だったら確実に騙せるか誤魔化す事が出来るだろう。そんな物憂げな雰囲気を瑞樹は纏っている。

 給湯室から戻ってきた安藤と行田は目を合わせると、口元だけ笑いながら訊ねる。

「で、何に行き詰っているのですか?」

 瑞樹好みに淹れられた緑茶を各々の前に置きながら安藤が微笑む。

「二人には誤魔化しが聞かないなぁ。義介さんでも時々は大丈夫なのに・・・。」

 今度こそ本当の憂いを含んだ溜息を漏らす。

「それは、私はあなたの師匠の位置におりますから。」

「私もあなたの腹心になりたいと常々思っている位ですから。」

「もう十分腹心だ。安藤が居ないと俺は困るよ。」

 瑞樹の言葉に二人ともとても嬉しそうに微笑む。

「安藤はともかく、どうして行田さんまで嬉しそうなんですか?」

「それは、息子の様に思っている人が心許せる相手を見つけたからです。」

 息子・・・・中村と同年代の行田は確かに年齢だけを考えると瑞樹位の息子が居てもおかしくない。

「まあ、俺も行田さんを父親みたいに思っていますから。」

「それは嬉しいですね。」

「じゃあ、もうすぐ父の日ですから行田さんに贈り物をしないと。」

 仄々とした会話に話が変わり、休憩も兼ねて暫くその話題に華が咲く。

「あ、でも中村さんが嫉妬しませんか?」

 安藤が首を傾げると瑞樹が綺麗な笑みを浮かべる。

「うん?その辺はフォローするから問題ないよ。プレゼントは何がいい?」

「そうですね・・・これからも共に居られる事、でしょうか。中村と瑞樹さんと佐倉さんと会の人間と。」

「無欲ですね。」

 優しく笑う瑞樹に行田は首を振る。

「今のご時勢こういった組織を継続させるのは難しい事です。ですから無欲ではありませんよ。」

 普段は厳しい行田だが、亢竜会の人間だったら昔堅気の人だと言う事は誰でも知っている。

 中村もそういう人間だから部下に慕われ、瑞樹も岡本組に居たときとは違い軽蔑の目に晒される事も無い。

 こういう三人、もしくは瑞樹と二人きりのときは砕けた口調で話してくれるが、中村や他の人間の前ではあくまでも中村の大切な人として丁重に扱ってくれる。

 そんな事はしなくていいと中村も言うのだが、けじめとしてすると言い張る行田は結構頑固でもあるのだ。

「じゃあ、安藤と二人で考えておきます。」

 瑞樹の言葉で休憩は終わり、再び作業へと戻っていった。



 昼過ぎになり、行田と別れて安藤と二人昼食を摂りに出掛ける。

 本日は安藤のリクエストで個室の和食処だ。

 壁は薄いが騒がしいので色々と話すのには結構便利である。

 座ると同時に注文して、お茶を飲むと安藤が微笑みながら瑞樹に問うた。

「で、何を考えて溜息を吐いていたのですか?」

 瑞樹は安藤を見る。

「ん?教えない。」

「この頃真剣に考えていたでしょう?店に来る時も。私に誤魔化しは効きませんよ。」

 さあ、言って下さいと促す安藤に瑞樹は苦笑した。

「個人的な事だからいいよ。」

「愚痴とかでは無いでしょう?この頃怖い顔をして居る時があるという事をあなたは自覚していますか?」

 絶世の美貌をしかめるが、その顔でさえ見惚れる程美しい。だが、安藤は見慣れていたので何とも思わない。

「そんな顔していた?」

「ええ。私はあなたと一蓮托生だと決めているのです。話してもらえませんか?」

 瑞樹は溜息を吐くと、安藤の目を見る。

「本当に聞きたい?」

「ええ。」

「色々と企みを。」

「何の?」

 瑞樹は安藤でさえ見惚れる美しい微笑を浮かべた。

「復讐。」

「誰に、ですか?」

「岡本組の館川と岡本組、組長。あとは岡本亮二に。」

「・・・・経済的にですか?社会的に?それとも普通ですか?」

「どれか、かどれもかは決めてないけど・・・社会的に、は無理だと思う?特に組長。」

 広げたお絞りを畳みながら伏し目がちにしている。

「そうですね。組長はけっこう力のある人ですけど・・・長期計画なら何とかなる、と思います。ですが、二人は分かりますが館川はどうして?」

 瑞樹は黙って傍に置いていた茶封筒を安藤に差し出す。

 丁度、料理が運ばれてきたのでさりげなくテーブルの下に隠す。

 セットだが、弁当の物を頼んだのでデザート以外が全て運ばれて来た。

 セッティングを終えるとスタッフは笑顔で去っていく。

 食べ始めた瑞樹を見ながら安藤は封筒の中の書類を読み出す。

 瑞樹が三分の一程食べ終えた所で書類を封筒に仕舞う。

「あっさり破滅させるのはどうかと思いますので、長期計画にしましょうか?」

 微笑む安藤に瑞樹は眉間に眉を寄せる。

「長期計画は難しいな。組長は病気であと幾許も無い。情報を警察にリークする手も考えたけど・・・俺達にまったく傷が付かず睨まれない方法で尚且つ満足するというのを考えていたんだけど、中々思いつかない。」

「では二人で考えましょう。もう1人位巻き込めれば良いのですが。ほら、三人寄れば文殊の知恵と言うでしょう?」

「椎原は協力してくれる。利害関係が一致した。いざとなったら行田さんと中村さんにも協力してもらうけど、メインであと1人、か。」

「では探しておきます。貴方に心酔している人は多いですからさほど時間はかからないでしょう。そうでなくても岡本組に深い恨みを持っている人間は幾らでも居る。私もその1人ですしね。」

 微笑む安藤に瑞樹は笑った。

「でももう自由なんだから好きにしたらいい。」

「では好きにさせて頂きます。地獄の底まで付き合わせて貰いますよ。」

 見合わせて笑う二人の間には誰にも切れないものが繋がっている。

「一蓮托生、か?」

「一蓮托生です、よ。」



 3日後、安藤から今直ぐ来て欲しいと電話があった。

 カンパネラは閑古鳥が鳴いており、中には女性が一人だけで他には誰も居ない。

「瑞樹さん、この人は伊東梓さんです。」

 意思の強そうな瞳をした女性がこちらを睨む様に見つめている。

「始めまして。瀬戸瑞樹です。」

 手を出すと、梓は無表情のままその手を取り握手を交わす。

「さっそくだけど、岡本組長を潰すって話は本当なのね?」

 腰掛けて、細いタバコを取り出しながらこちらを見る。

「ええ。貴女もそれなりの理由があるでしょう?」

 ライターを翳すと梓の眉が跳ね上がったが何も言わずにタバコを吸う。

 煙を吐くと、タバコを灰皿にねじ込む。

「共同戦線は張らないわ。一人でするより同時に始めたほうが良いと思っただけだから。」

 瑞樹と安藤は目線を交わすと、頷いた。

「分かりました。ではそれで。貴女の都合に合わせましょう。何日が宜しいですか?」

「不法滞在の中国人を雇っているからもう始めるわ。あなた方の邪魔をするつもりは無いけど、そっちも私の邪魔はしないで。」

 言いたいことはそれだけだと言うと、梓は堂々とした足取りで去っていった。

「中国人・・・・ねぇ。しかし、俺達とは手を組みたくない人間を仲間に入れるとは何を考えているんだ?」

 ため息を吐いた瑞樹の前にカクテルが置かれる。

 安藤が瑞樹の為だけに作ったオリジナルカクテルだ。

 琥珀色の、ジンジャーが僅かに入ったウォッカベースのカクテル。

 それを舐める様に飲む姿を安藤は見守る。

「私とあなたの事を。私はしばらく他の方と接触します。」

 笑みを浮かべた安藤を暫く見つめた後、瑞樹が小さく笑った。

「俺達を男娼だと見下げた奴は囮に使うのか?」

 安藤は微笑んだまま何も言わない。

「無理はしない。それは約束してくれ。」

 頷く安藤に瑞樹はキスをする。

「俺も・・・本領発揮といきますか。詳細はメールで遣り取りしよう。使うホテルは例のホテル以外使わない。」

「はい。」

 ポケットから取り出したピアッシングで安藤の耳に穴を開けた後、そこにピアスを嵌める。

 そして、色違いのものを自分にも嵌めた。

「無事で。いいな?」

 瑞樹程では無いが、細身の体をカウンター越しに抱きしめる。

 回された手は痛いほどにきつく、強い。

「あなたも。」

 互いに強く抱き合って離す。

「また来る。」

 強い笑みを浮かべた瑞樹を安藤も同じ笑みを浮かべて見送る。

「いつでも。オーナー。」

 閉じられたドアを安藤は客が来るまで見つめていた。

 ドア越しでも感じられる安藤の視線を受けながら通りを見る。

 足早に通り過ぎる人。恋人に腕を絡めて幸せそうな人。様々だ。

 目を細めて通り過ぎる車や人を眺める。

「どこまでやれるかな?」

 漠然と考えながら、だが根底に消そうと思っても消せない思いを抱きながら十数年の年月を掛けて作った人脈と手練手管を最大限に利用する時が来た。

 自分と安藤の力がどこまで通用するか分からない。

 もしかしたら思いを遂げる前に死ぬかもしれない。

 だが、恐怖は無い。

 妙な高揚感に包まれたまま、瑞樹は流しのタクシーを拾って乗り込んだ。

 

 その日、吾郷は仕事で東京に来ていた。雑事を終えて疲れた体を休めようと足早にホテルのエントランスを通り、角を曲がった瞬間人にぶつかった。

「おい!どこみとんのじゃ!」

 部下が怒鳴った相手を見ると、目尻の黒子が印象的な青年が座り込んでいた。

「すみません。前を見ていなかったものですから。」

 眉を顰めながらそれでも微笑む青年に吾郷は一気に欲情を掻き立てられる。

 だが、それを相手に悟られないように微笑む。

「いや。前を見ていなかったのはお互い様だ。」

 手を差し伸べると青年は礼を述べながら立ち上がろうとした。が、足を痛めたのか顔を顰めて再び座り込んでしまった。

 痛みを堪える表情は恐ろしい程扇情的で。

「大丈夫か?」

 心配そうな顔を作る事に成功したが、手は湿っている。

 それに気取られない様肩を貸しながら立ち上がらせた。

「このホテルに部屋を取ってるからそこで手当てをしよう。」

 一見人の良さそうに見えると言われる笑顔を浮かべて提案すると、青年は頷いた。

「すみません。お手数おかけして。」

 後ろから脇の下に回した手の感触で青年が細めの体型をしていることが分かる。

 だが、ただ細いだけじゃない。うっすらと筋肉のついた体だ。

 この体を思うままに撓ませたい。

 喉が鳴りそうなのを抑えながら部屋に戻る。

 フロントに電話して救急セットを持って来させると部下達を追い払い自ら手当てをした。

 軽い捻挫と言った所だろうか。

「ありがとうございました。」

「いや、こっちも悪いしな。」

 ミネラルウォーターを渡しながら言うと、青年は微笑む。

 控えめなその笑みに益々欲情を煽られてしまう。

 青年がペットボトルを開けて飲む仕草を黙って見つめた。

 水を飲む、その動く喉仏に噛み付きたい衝動に駆られる飲み方。濡れた唇。

 青年の唇からペットボトルが外れた瞬間、抑えていた衝動が一気に押し寄せて来た。

 そのまま肩をソファーに押し付けて唇を塞ぐ。

 息の呑んだ青年は慌てて吾郷の肩を押すが、それくらいの力では吾郷の体はびくともしない。

「んぅん!んんんー!!!」

 抵抗する声と動きを体で抑える。

 捻挫した方の足に腕を這わせて、強く握ると青年が小さな悲鳴を上げた。

 それによって開かれた口に舌を無理やりねじ込んで深く重ねる。

 嫌がり、逃げる舌を捕らえて絡め、唾液を飲み込ませる。

 息をする余裕が無い程追い詰める。

 右手で青年の肩を、胸を、腰を辿り、左手で中心を弄る。

 跳ねる様に動く体の動きを楽しみながら抵抗が無くなるまで続けた。

 息が上がり、ぐったりした青年を裏返しにすると救急箱から軟膏を取り出して目的の場所に直接出す。

「いや!嫌だ!」

 青年が必死でずり上がろうとするのを左脚を掴んで止め、中に指を入れる。

 一本、二本と指を増やして解す為に掻き回す。

「もうっ、もう止めて下さい。私が何をしたと言うんですか・・・。」

 悲痛な程の声が降って来るが、指を入れている中の程よい締まり具合に欲望は益々煽られて。

「お前、結構遊んでいるんだろう?」

 耳元で囁く様に言うと、青年は体を硬直させた後に全身の力を抜いた。

 それを怪訝に思いながらも指を三本に増やして中を解す。

「お願い・・・。止めて・・・。」

 囁くような、くぐもった泣き声を耳に聞きながら、後ろから一気に貫く。

  「あぁっ。い、・・・つっ。」

 強い締め付け、蠢く内部に一瞬で持っていかれそうになる。

「くそっ。」

 辛うじてそれを抑えながら激しく腰を動かす。

 硬直したままの背中に汗が落ちる。

 下を向いたままの青年の顔は見えないが、ソファーに爪を立てて白くなっている指は痛々しい。

 嫌がっているのにこれだけの動きを見せるなら積極的に動いた場合はどれ程の快感だろうと、頭の冷静な一部が考える。

 だが、現実は結局数分の内に中で爆ぜてしまった。

自分のモノを抜くと、白濁したものが一緒に流れ落ちる。その時に初めて自分がゴムを付けていなかったことに気付く。

 どんな時でも付ける事を自分に義務付けているのに忘れていたという事実に愕然とした。

 が、とりあえずバスルームに行って温タオルを作り青年の体を拭く。

 震える肩から背中のラインが綺麗な体にタオル越しで触れていると再び欲情しそうになるが、基本的に鬼畜ではない吾郷はそれを堪えて一通り綺麗にする。

「私を・・・・馬鹿にしているのですか?」

 小さな、だがはっきりとした声で青年が問う。

 その言葉に吾郷は驚いた。

「どうしてだ。」

「初めてでは無いのは分かったでしょう。」

 悲しみに溢れた声。

「・・・ああ。だが、馬鹿にしたわけじゃない。」

 強姦と呼べる行為に青年が感じたのが分かった。だが、それを盾にする気は無いし脅す気も無い。本当は青年をその気にさせて合意の上で事に及びたかったのだが理性が先に崩壊してしまったのだ。何の言い訳も出来ない。

 いきなり顔面にクッションが投げつけられた。

「馬鹿にしています!馬鹿にして!馬鹿にしてっ!」

 ソファにあったクッションをあるだけ投げつけられる。それを黙って避けもせず受け入れて青年の顔を見ると黒子のある左の目尻から一筋の涙が流れていた。

「すまん。」

 荒い息の響く中、滅多に下げる事の無い頭を下げて許しを請う。

「本当に悪かった。」

 地面に降りて手を付く。本当に、自分でもあり得ない程欲情したのだ。

    下げた頭にクッションが強い力で振り回され体が僅かに揺れてしまう。だがそんな事より、二度、三度と往復するモノよりも青年が嗚咽を堪える声の方が堪える。

「悪かった。俺が本当に悪かった。だから、泣き止んでくれ。頼む。立っているのは辛いだろう。俺を詰るならせめて座ってやってくれ。一晩中でも罵倒して殴っていいから。」

 こんなみっともない醜態をさらしてでもこの美しい青年の悲しい泣顔は見たくなかった。

 立ち上がり、嫌がる青年を抱え上げてベッドに運んで寝かし付ける。

「触らないで下さい。」

 睨みつける目線に合わせると涙は引いていたのでホッとして微笑む。

「・・・なんですか。何が可笑しいのです。」

「いや、泣き止んでくれたからな。」

 青年は左の眉を上げて呆れた様に吾郷を見る。

「強姦した相手に何を言っているんですか。」

 その程度の相手なのだろうと暗に責められ、胸に来た。

「・・・・や、本当にすまん。謝る程度では済まないと分かっているが。」

 青年は布団を捲り、脚を床に下ろしてから歩き出す。それから床に散らばった服を黙って拾いながら袖を通し始める。吾郷の存在を無視しているがそれは無理をした姿だという事は震える肩をみればわかってしまう。

「どこへ・・・。」

 出来るだけ体に傷を付けない様に気をつけたとは言え理性を失った状態でそれが完璧だった訳ではないのだ。切れてこそいないがダメージはあるだろう。

 体を心配して青年を呼び止めると無表情の青年が振り向く。

「どこって、帰るんです。明日も仕事がありますし、ここへは注文していた服を取りに来ただけですから。」

 部屋を去る為にドアに向かう青年を追い越してドアの前に立つ。

「待ってくれ。動くのは得策じゃない。俺のせいだが・・・・俺が居るのが嫌なら別室を用意するから休んでいって欲しい。」

「何度も言わせないで下さい。私はここに服を取りに着ただけなんです。」

「だったら俺がそれを取って来る。だから休んでいてくれ頼む。」

 青年の顔は白い。元々白いが更に白い顔をしているのは体にダメージを受けているせいだというのは一目瞭然で。

「・・・・わかりました。」

 ソファまで歩き、ゆっくりとした動作で座ると財布を取り出して引換証を渡される。

「清算は次回お願いしますと言って下さい。」

「わかった。」

   備え付けの冷蔵庫からミネラルウォーターを出して青年に渡してから言葉を続ける。

「好きに使ってかまわないし何か注文してもかまわない。別室が良いなら用意する。」

「・・・・私はそこまで繊細では無いので。」

 小さく、自嘲するような言葉に胸が痛む。

「ではカードは持っていくからその間は部屋から出ないでくれ。」

 言い残して一階のフロントに行きその店の場所を聞いてから店に行くと女性店員が一人店仕舞いの最中だった。他の似たようなショップは既に閉店しているので、どうやらあの青年を待っていたらしい。

「これを頼みたい。」

 声を掛けると女性は笑顔でそれを見てから首を傾げる。

「あの、安藤様は・・・。」

「俺のせいで怪我をさせてしまったので代理だ。」

 女性は頷き奥からハンガーに掛けられたスーツを持って来た。

「御代は後程で宜しいのでとお伝えください。」

 畳んで紙袋に入れだした店員の手を止めさせる。

「安藤さんのサイズは全てわかるのか?」

 店員は頷き微笑む。

「はい。御贔屓頂いておりますのでサイズから好みまで把握しております。」

「では彼に合うものスーツと普段用の物を数種類用意してくれ。」

「畏まりました。少々お待ちください。」

 ホテルだからだろうか。スーツから普段着、パーティー用で必要なもの一揃い男女別に置いてある。どちらかと言うと女性ものの方が多い。

「お待たせいたしましたこちらになります。」

 ハンガーに掛けられたそれはスーツが二着と普段着用のものはガラスケースの上に置かれている。品のあるスモークグレイのものにインディゴブルーのもの。普段着はベージュのジャケットに白いスラックスを合わせたものとスモークブルーのセーターに グレイと黒の間の様な色をしたスラックス。靴下や下着、靴やハンカチはまた別に置いてある。

「それを全部包んでくれ。タグは外してから一式毎に袋に。」

 店員は頷いてから手早く袋に入れて吾郷の前に差し出した。それと交換ようにカードを出して一言添える。

「安藤さんが注文した服の分も一緒に。」

 カードを返されると無言で店を後にして部屋に戻る。エレベーターの稼動音が響く中、安藤という青年が帰ってない事を祈ってしまう。

(何を、らしくない事を考えているんだ俺は。)

 自嘲するが、それより祈るような気持ちの方が先立つ。

 ルームカードを差込みノックもせずに開けると安藤青年は湯を使ったらしくバスローブ姿でベッドに横たわりニュースを見ていた。CNNのニュースを流すように見つめる様に、思わずこちらに注意を向けさせたくなってしまう。

「服を取ってきた。確認してくれ。」

 目の前に差し出した紙袋を確認するとベッドの横に置く。二つある方の窓側のベッドを使っていたので反対側のベッドに腰掛けて残りの紙袋はその間に置く。

「・・・これは?」

「明日の服だ。どれが良いか分からなかったから何点か買ってきた。好きなのを着ると良い。」

「詫びのつもりですか?」

「いや、引き止めるのだからこれ位は当然だ。」

 といっても吾郷は共寝した相手を引き止めた事など一度も無いのだがそれは言わないで置く。

「・・・変な人ですね。」

 小さな声に振り向けば安藤青年はほんの僅かだが口元が笑っている。その微かな笑みに吾郷は笑みを浮かべた。

「何ですか。」

「いや、笑ってくれたのが嬉しくてな。ああ、名前すら名乗っていなかった。俺は吾郷。吾郷直司。」

「安藤栄です。」

 名乗られて名乗り返さない事も出来ただろうに安藤は不本意そうな顔でだが、名乗り返した。

「本当に帰らなければならないのです。店もありますし。」

「店?」

「ショットバーの雇われ店長ですから。」

「詫びとしてその店を買ってやろうか?」

「結構です。オーナーは良い方ですし。」

 安藤は立ち上がり、注文したという服に袖を通す。

「この服はお詫びとして受け取ります。では。」

 去ろうとする安藤の袖を掴みその動きを止める。

「・・・何でしょう。」

 目線だけ向けるその様は滴るような色香に満ちていて。

「じゃあ、せめて店まで送らせてくれ。」

「わざわざ自分の身を危険に置く馬鹿はいません。」

 冴えた瞳で語られると自分の身の置き場が無くなってしまう。だが、そんな瞳にさえも魅了される自分はもうこの青年の虜になっているのかもしれない。

「そんな事はしない。約束する。」

 安藤の暗に言う事を否定する。が、多分店を知れば通ってしまう事は確実だ。

 吾郷の必死さに溜息を吐いて安藤は頷いた。

「判りました。ただし送るだけです。店には入らず帰ってください。」

 その一言を聞いてから直ぐに携帯に電話して部下に車を回させる。安藤にと購入した服を持って車に乗り込むと、ここから20分程の表通りにその店はあった。ブティックや小物などの店が立ち並ぶ中で看板の出ていない上品な感じの木目の扉がそこらしい。

「ここで結構です。」

 強い口調で言われ、さすがに今日はそこまで図々しく慣れずに黙って頷いた。

「これは受け取ってくれ。お前に合わせて購入したものだし、選んだのは店員だ。」

 安藤は少しの間それを見つめ、溜息の後受け取る。

「判りました。今日の事は忘れます。ですからこの店の事も忘れてください。」

 言い終えると同時にドアを閉め店に入っていった。

 この距離がもどかしく、自分の失態が腹立たしい。

「吾郷さん、この後はどうしましょうか。」

 八つ当たりしたい気分だったが人に当たるのを良しをしない吾郷はホテルに戻るよう指示を出した。

 

 店内にあるモニターから吾郷が乗った車が去っていくのを確認すると思わず口元に笑みが浮かぶ。

 嗤ってしまう。

 思っていた以上に手ごたえがあり、こんなに易々と罠に嵌ろうとしている吾郷に嗤ってしまう。

 元々吾郷の好みが自分の様なタイプだと知っていたから近づいたのだが、堅実で有能だと聞いた割にはこんな簡単な手に引っかかる。

 美人局まがいの事なんて何度も経験しているだろうに。

 だが、自分のこの手の事は教わった相手が相手だ。そうそう見破られるとは思えない。

 きっとあの男は今頃自分のした事を後悔しながら怒っている事だろう。

「嬉しそうだね。」

 その柔らかな声と同時に裏口の方から表れた瑞樹に対して、安藤は吾郷に浮かべた微笑みとは別の柔らかい、だが深淵を覗かせる笑みを浮かべる。

「ええ。・・・とても。」

 瑞樹の傍に行き背中の大きく開いたドレスの後ろ側に回ってうなじの位置にある止め具を付ける。光沢のある濃紺の、マーメードタイプのワンピース姿の瑞樹はどうみても絶世の美女だ。

 夜の海を連想させる、黒と言うより紫に近い艶やかな髪を結い上げると美しさも二割り増しで、安藤は溜息を吐く。

「・・・どうした?」

「よく似合っていますよ。」

 安藤が選んできたドレスは瑞樹に似合っており、自分の選択が間違っていない事を確信させる。瑞樹の全体に美しく付いた筋肉は芸術的だが、その中で背中が妙に女性的で美しいのだ。そこを生かし背中は見せて首元はネックのあるドレスにしたのだ。胸元はどうにでもなる。

「それは、お前が選んだモノだからな。」

「誰と出掛けるのですか?」

「椎原。」

「でしたら安全ですね。」

「あいつは俺にそういった興味を持たないからな。」

 髪をシニヨンに結い上げて真珠が付いた櫛を挿す。

 それから首元にタオルを掛けてソファーに座ってもらい、ベース、リキッドを塗りアイライナー、マスカラを塗り仕上げにチークやその他を施していく。元々肌質は申し分無く、血色も良いのでしっかり化粧をする必要は無い。目元を重点的に仕上げる。

 あとは口紅だけという所で道具を仕舞っていると、その間に自分で口紅を塗ったらしく、カウンターにキャップが転がっていた。開ける時に投げたのだろう。

 きちんと化粧された姿は美しさを更に増しておりこの美貌の人を見慣れた安藤でさえも見惚れてしまう。

 もっともこの美しい人が一番輝く時はこんな顔では無いのだがそれは知らぬが仏というものだ。

 だが、この顔でも十分過ぎるほど美しい事に変わりは無い。

 安藤は瑞樹の実力を知っていても心配になり、思わず口に出す。

「本当に・・・・気を付けてください。」

「俺がハルトだと誰も気付かないさ。」

 瑞樹が唇を歪めて笑う。

「気付かれなくてもあなたに邪な思いを抱く人は多い。」

 本気で言うと瑞樹は肩を竦めて笑う。

「それこそ本領発揮だ。」

 ソファーから立ち上がり、安藤の手を借りながらハイヒールを履く。

「しかし・・・・女装はいいがこれだけは苦手だなぁ。」

 ヒールの踵を床に二度鳴らす。

「そんな事は人前でしないで下さいよ?・・・口紅が少し塗りすぎではないですか?」

 僅かに眉を顰めながらハンカチを取り出して口元に充てようとしたのを制し、瑞樹は嗤って安藤の唇に自分の唇を押し当てた。

「これで丁度いいだろう?」

 確かに口紅の色はちょうど良い具合になっている。

「まあ、そうですね。」

 瑞樹は背中を向けて手にしていたバックを振り回しながら安藤に手を振って裏口から出て行った。

 それを苦笑して見送った後、口元をハンカチで押さえる。ゆっくりと外して見ると濃い赤の痕が付いていた。ハンカチを内側に丁寧に畳んで内ポケットに仕舞う。

 それから耳朶に触れる。自然と零れる笑みは止め様が無い。止める気も無いが。

 これは恋ではない。だが、愛や恋と呼ばれる深い感情に自分は支配されている。

 喜ぶべき事なのか、悲しむべき事なのか。そんな事はとうの昔に答えが出ているので今更考えない。

 答えは一つ。

 歓喜すべき事なのだ。

 ただ一人と決めた相手の、その力になる事が出来る。

 他の人間の様にあの美貌の人の虜になり自滅するのでは無く、傍に居る事を許されたこの身が誇らしく愛おしい。

 しかも自分と瑞樹、二人が憎む相手を滅ぼす事が出来るかもしれないのだ。

 きっとその時の瑞樹は譬えようも無い程美しい。

 今からその事を考えると震えが来る。

 安藤は悩ましげな溜息を吐いて耳朶をゆっくりとなぞる。

 本人は気付いていないが、その笑みと溜息はこの空間に誰一人居ないのが惜しまれる程、美しく悩ましい情景だった。

 

 裏口から出た瑞樹は少し歩いて停車している車に乗り込む。

「遅いぞ。」

「化粧って言うのは難しいものなんだよ。それにハイヒールだから歩き難いったらない。」

 不貞腐れた顔で流れる景色を見ていると椎原が不機嫌そうな顔でこちら睨んでいる。

 それを無視して瑞樹は口を開く。

「それより頼んでいた手配は済んだのか?」

 約束していた時間より遅れた事を無かった事にされて椎原の眉が一瞬寄るが、その一言に頷く。

「ああ。全て手配済みだ。俺のオンナで、経営するクラブに所属させているというのだろう?」

「そう。それで問題ない。」

「名前は溝川亜紀。実在する人物だから本人はお前の企みが終わるまで隠れてもらっている。」

「上等。」

「それよりお前は本当にその線で行くのか?」

 大丈夫か?と言う椎原に瑞樹は嗤った。

「俺を誰だと思っているんだよ?」

 だが、この車内の立ち振る舞いを考えると不安は拭えない。

 何も言わず黙っていると瑞樹が笑って椎原の肩を叩く。

「大丈夫だって。俺だって命掛けてんだよ?椎原さんだって失敗したらそれなりの打撃を受けるだろうからそっちも頑張って。」

「・・・その割りに余裕そうだが?」

 瑞樹は背水の陣を敷いているはずなのに、まるで本当にパーティーを楽しみに行くような感じを受ける。

「演技は俺の十八番だからね。」

 絡められた腕は冷房のせいか冷えている。

「さて、「旦那様」。よろしくお願いしますよ?」

 いつの間にか到着していた会場のあるホテルの前で車は停まっていた。

 椎原は溜息を一つ吐くと車から降りて反対側に周り、後部座席のドアを開ける。

 中から出てきた瑞樹は椎原の手を借りながら車を降りてエスコートされながら歩く。

その二人の姿は一幅の絵の様に美しくすれ違う人が振り向き見惚れる。

 その視線を恥ずかしそうにうっすらと頬を染める姿は清潔な色香が漂っており、男の欲情を誘うもので。

 あまりの変わりぶりに椎原は内心目を剥いていたが、そんな事はおくびにも出さず瑞樹に微笑みかける。

「あの、人から見られている気がするのですが・・・・。」

 普段より少し高めの、女性では低いほうだが違和感の無い声で瑞樹・・・・ここでは溝川亜紀が居心地悪そうに口を開く。

「お前が美しいから見惚れているのだろうよ。」

 瑞樹に囁くように言うと、周りの女性の視線が一気に瑞樹に集まる。

「そんな・・・美しい、なんて。言われた事がありません。」

 視線を落とす瑞樹に椎原は笑い掛けて肩を撫でる。ホールを歩いている間中痛いほどの視線に晒されながら、それでも二人の演技は完璧に続く。

 そうして和やかな会話をしながらエレベーターの前に立ち、話をする。

「今日は気疲れするかもしれないから、何かあったら言う様に。」

「はい。」

 エレベーターに乗り込むと途端に甘い雰囲気は瓦解した。

 ただし、監視カメラはあるので表情だけは甘い雰囲気を残している。

「椎原さん、俳優になったほうが成功したんじゃないですか?」

「貧乏は嫌いだな。」

「ヤクザだって失敗したら貧乏じゃないですか。」

「お前こそ俳優を目指したらどうだ?まだやれる歳だろう。」

「今更っ。俺は実業家ですからね。」

 口元は互いを思いやる言葉になるよう動かしながら話す言葉は冷え切ったもので。

「ああ、ついでに腹話術師も大丈夫ですよ?」

「高校の時にクラスメートから習ってな。」

「へぇ〜。俺は高校なんて通った事も無いですから羨ましい限りですよ。」

「・・・・大学は行ったんだろう?」

「椎原さんと違って優しい義介さんのお陰でね。」

「元幹部と組長を比べるな。」

「今は組長でしょう。」

「だからといってたかるなよ。」

 瑞樹は何か睦言を言われたように頬を染めて椎原を見る。

「さて、計画が成功したら何か強請らせてもらいましょうか。」

「・・・・・成功したら、ものによっては考える。」

「了解。さて・・・付きましたよ。」

 音と共にドアが開かれる。

 椎原にはこのドアが運命のドアに思えた。

 

 賑やかな会場には表面上は和やかな雰囲気が。水面下では策謀の雰囲気が流れている。

 表面上を楽しむもの。水面下のものを笑顔の下に隠して駆け引きをするものと様々だ。

 そんな中、若くして組を持った椎原に妬みの視線や侮蔑の視線、軽んじた雰囲気が漂う。

 瑞樹はそんな事に気付かないという風にシャンパンを手に緊張した面持ちで椎原に寄って来た同業者と会話をしている。

「ほう。溝川さんは音楽がお好きですか。」

「はい。管弦楽を好んで聞きます。」

「ワグナーなどはお嫌いですか?」

「まだまだ不勉強でして、オペラは観に行った事が無いのです。」

「ああ、詳しい人と行った方が楽しいでしょうからわかりますよ。それにワグナーは難しい。椎原さんは博識だがクラシックは好みでは無いでしょうしね。」

「そうですね。そういう芸術関係はさっぱりでして。」

 暗に成り上がりだからと言われているのに椎原はそれに気付かないふりをして流す。

 恰幅の良い同業者は嘲りの笑みを浮かべて傍らに控える男を呼ぶ。

「私の部下だが趣味が溝川さんと同じでしてね。こんな所で楽しめないのは可哀想だ。椎原さんも仕事の話などがあるだろうし、暫く間こいつに貴女の相手をさせましょう。」

「それは有難い。では頼みます。名前は・・・。」

「佐川と申します。」

 現れた男は縁無し眼鏡の良く似合う一見細身の女性にもてそうな男だった。

 瑞樹はその男を見てほんの僅か頬を赤らめる。

「クラッシックがご趣味なのですか?」

「ええ。時間が無いのであまりコンサートには行けないのですが月に一度程。」

 佐川はにこやか笑みを浮かべているが目が鋭すぎる。

 あれでは瑞樹に敵わないだろうと椎原は内心嗤う。

「では佐川さん、亜紀を頼みます。」

 そう言ってその場を離れて椎原は自分の立場を強固にする為の根回しに歩き出した。

 数十分後、案の定瑞樹から{亜紀}用の携帯でメールが入った。

『佐川さんともう少しお話をしたいのでラウンジに行っても良いですか?』

 椎原は返信を一言入れて送る。

「椎原さんは何と言ってきたのですか?」

 ホテルのロビーでメールを開い見ていた瑞樹に佐川が問い掛ける。

「一時間ほどなら良い、だそうです。」

 笑顔で応えて携帯をバックに直すと佐川のエスコートでタクシーに乗る。

「でも、佐川さんってお詳しいからとても楽しいです。」

「いえ溝川さんこそ本当にお詳しい。良ければ今度一緒にコンサートに行きませんか。」

 瑞樹は輝くような笑みを浮かべる。

「本当ですか?私の周りってポップスが趣味の人ばかりでコンサートはいつも一人だったんです。」

 佐川の下心などまったく気付かないお嬢様ぶりに内心嘲笑ってしまう。

(馬鹿なお嬢さんだ。)

「そうなのですか?溝川さんの周りの人というと・・・。」

「私、お恥ずかしながら父の会社が倒産してしまって。それで椎原さんが経営しているお店で先日から働かせて頂いているんです。今日は女性同伴のパーティーだからと連れて来られただけです。」

 完全な情人では無いのだと言う瑞樹に佐川が優しく微笑んで肩に手を当てる。

「そうでしたか・・・。」

 佐川のこの微笑で落ちなかった女は今の所いない。脈ありだと感じたオンナにだけしてきた笑みである。

 目の前に居るこの女も例外なく嬉しそうに頬を染めて笑みを浮かべていた。

 かなりの美貌の女なので楽しめそうだとその下心を隠して女が話すクラシックの話にさも興味があるように相槌を打つ。

 本当の所クラシックを覚えたは前職であるホスト時代の時にクラシックを趣味としていた客が数人いたからであって個人的興味は全く無い。こんな風に語られてもかったるいだけなのだ。

「・・・佐川さん?」

 退屈だと思ったのが僅かでも顔に出ていたのか、溝川亜紀が首を傾げる。

 そのすらりとした首筋からは清潔な色香が漂っており早く目の前のオンナを乱したいという仕事では滅多に感じない欲望と焦燥感を感じていた。だがそれを全く表に出さず目の前の溝川亜紀の会話に併せる。

「いえ。苦労をされているのですね・・・。」

 優しく手を握れば、化粧の施された目尻にうっすらと涙が。

「そんな・・・。私の事なんて。」

「こんなに綺麗な貴女がなんて、という言葉を使わないで下さい。」

「佐川さん・・・。」

 傍からみたら騙している様には見えないだろう。

 もうそろそろ一時間だったので佐川は立ち上がり微笑みながら去っていった。

 それを手を振って見送る瑞樹を残して。

 佐川はエレベーターに乗ると短縮ボタンを押して電話を掛ける。

「思ったより浅慮な女の様です。」

 相手から笑い声と共に答えがあり、一言、二言の会話の後通話を切る。

 満足気な笑いを浮かべてエレベーターの天井を見上げた。  

 

 同時刻。シャンティガフを飲みながら夜景を楽しんでいる瑞樹の後ろに椎原が立つ。

「機嫌が良さそうだな?」

「・・・ええ。楽しい会話をしましたから。」

 赤い唇で微笑む姿は華も恥らう、という言葉が相応しい。

「今度お店に来てくださるそうです。」

 携帯を見せて音も無く振る。

「まあ、せいぜい売り上げを上げて借金を減らすんだな。」

「・・・はい。」

「だが、この携帯は預かっておこう。」

 携帯を取り上げて控えていた部下の一人に渡すと、部下はその場を後にする。 

   それから車に乗り込みホテルを後にすると椎原は溜息を吐いた。

「パーティーでこんなに緊張したのは始めてかもしれないな。」

 疲れた声を隠さずに言うと、瑞樹が笑う。

「そんな小さな男じゃないでしょう。それより安藤からの連絡は?伊東梓の動向が知りたい。よければそっちでも調べてくれ。」

「伊東梓?」

「三人目、だよ。」

「信用できるのか?」

「それはともかく、会長サマに復讐したいそうで。ただ、暴走しそうな気がする。」

「暴走?」

「中国人を雇ったと言っていた。」

「・・・ああ。」

「伊東梓次第じゃあ計画変更せざるを得なくなるから、それじゃあ困るんだよ。」

「確かに。お前の計画が変更してしまうと俺にも余波が来るから困る。」

 美男美女が高級車の中で話すのに相応しい会話では無かったがそんな事を言う人は誰も居ない。

 運転手も助手席に座っている椎原の腹心も自分が信じて付いて来た人間が賭けに出ている事を知っているのだ。

 自然、車内の空気は重くなる。

「悪いけど、伊藤梓に見張りを付けてくれないか?義介さんに頼むとばれてしまうから頼めないし、人を雇っても良いけどいつも頼んでいる人は今調査で海外なんだよ。だから信頼できる人が居なくて。」

「分かった。」

「しかし・・・・・その背中は・・・。」

 言い難そうに椎原が言葉を濁すのは滅多に無い事で、瑞樹は珍しく素直に答える事にした。

「ああ、傷の事?今時の化粧品はとても便利なんだよ。」

「化粧で誤魔化せるのか?」

「うん。店の女の子にしてもらった。見事なものだろう?間接照明の下かショール越しならまず気付かない。」

 瑞樹の体は満身創痍と言って良いほど傷がある。幼い頃の傷やその他諸々。背中にも一文字の大きな傷があったはずだと椎原は記憶している。

 あとは墨一色で描かれた蓮の花が腰骨の辺りに。

 美しい花には棘がある、と椎原は思うのだが中村義介は瑞樹を蓮に譬えて彫らせたらしい。

「だが刺青を見られたら1発でばれるぞ。」

 それほど中村が溺れて岡本本家から引き取り、一流の彫師に彫らせたという「ハルト」は有名人なのだ。

「その辺はまあ大丈夫。見せてあげてもいいけど?」

「遠慮する。」

 瑞樹は笑って肩を竦める。

「あれは墨じゃなくて白粉彫りなんだ。下手な男じゃあ俺の彫り物は見れない。」

 男の沽券にかかわる事をさらりと言われて椎原の顔が引き攣った。

「俺は見たからな!」

 妙に語彙が強くなってしまった椎原に助手席に座っている腹心は内心同情する。瑞樹・・・いや、ハルトのせいで自信喪失した男は少なくない。

「知ってるよ。椎原さんは上手だものねぇ。」

 カラカラと笑う瑞樹に椎原は項垂れた。

「いいじゃない。俺相手に練習したんだからどんな奴でもイチコロだろ?」

「それは・・・そうだが。」

 回数を重ねたと言う事はそれだけ醜態も晒しているのと同義語の様な気がする。

「さて、息抜きはこれくらいにして。」

 息抜きになったのは確実に瑞樹だけで、同乗している人間全員がパーティーより疲れてしまったのだがそんな事を気にしていられる程緩んだ人間は居ない。

「安藤が糸を引いている相手は?」

「吾郷といって別の組の傘下の若頭。館川がシマを持つ予定の近くにフロント企業を持っている。」

「介入すると思うか?」

「正直言って分からない。吾郷を選んだのは候補の人間から、安藤みたいなタイプを好む人間というので選んだから。」

 俺でも良かったんだけど安藤がこっちが良いって言うから、と瑞樹が零す。

「まあ、俺の培った人脈なんてたかが知れているけど使うに越したことは無いし。」  

  「お前は・・・・・もしかして・・・。」

 微笑む瑞樹は悪魔のようにも菩薩のようにも見える。

「さて・・・俺は今日から溝川亜紀だからな。もうすぐなんだろう?その部屋って。」

 ワンルームマンションが建ちならぶ地域に車が止まると瑞樹は音も無く降りて椎原に手を伸ばした。

 椎原は部屋番号を掌に書き、鍵を渡して手を離す。

「おやすみ亜紀。」

「おやすみなさい椎原さん。」

 少しだけぎこちない笑みを浮かべて瑞樹は建物の中へと入っていく。

 それを名残惜しげに見送ってから運転手に車を出させた。





 部屋に入って明かりを点けると溜息を付いてバックをベッドに放り出す。

 ワンルームの女性らしい部屋。

 小さなドレッサーに化粧品の数々がきちんとそろっている。

 備え付けのクローゼットには高くも無く安くも無いドレスやスーツ、普段用の服が並んでおりプラスチックケースの中には下着やパジャマまで揃っていた。

「・・・誰が揃えたのかちょっと聞きたいかもしれないな・・・。」

 とりあえずバスタオルと着替えを用意してバスルームに入る。

 ワンルームでは当たり前のユニットバスで瑞樹はまたしても溜息が漏れる。

 こんな感じの部屋はほぼ10年ぶりなのだが、仕方ない。

 瑞樹はユニットバスが嫌いだった。

 シャワーカーテンを引いて念入りに化粧品を落とす。顔と背中の。

 冷たいといっても良い温度で全てを洗い終えると濡れた髪をドライヤーで乾かす。

 本人よりも瑞樹の髪を大切に手入れしている安藤はここに居ないので適当にする。こう見えて瑞樹はそこまで肌や髪に執着していないのだ。

 なのに艶やかな肌は保っており、それらは全て安藤の手入れの賜物である。

 髪を乾かし終えて、携帯を手にして暗記している番号を押す。

「行田さん、俺です。」

『瑞樹さん。どうなさいましたか?』

 見た目は執事然とした男が穏やかな声で尋ねる。

「しばらくそちらに行けそうに無いのでお詫びを。」

『お忙しいのでしたら仕方ありませんよ。』

「はい。それとこの番号には掛けないで下さい。」

『わかりました。・・・どうぞお気を付けて。些細な事でも良いので手伝える事がありましたら遠慮なく。幹部としてでも個人としてでも良いので。』

 瑞樹は一瞬だけ息を詰めると偽りでない笑みを浮かべる。

「有難うございます。その時は・・・・・お願いします。」

 穏やかな声を聞いて自分が知らず知らず緊張していた事に気付く。

「電話してよかったです。」

『それは嬉しい事を。中村に繋ぎましょうか?』

「いいえ。甘えてしまいそうですから。」

『甘えられたら良いのです。中村も喜ぶでしょう。』

「今はその時ではありませんから。」

『そうですか。わかりました。それではくれぐれも気をつけて。』

 何度も繰り返される言葉に瑞樹は頷く。

「はい。」

 切られた回線の音を聞きながら目を閉じる。

 賽は投げられ既に動き出している。

 だが、どこか違和感を感じるのだ。というより頭の中で警報が鳴っている気がする。

 パーティーに出かけた辺りから。

 安藤が下手な事をするとは思えないし、協力体制を取っている人間が寝返ったとして、益を得る人は居ない。

 あえて言うならわからないのが斉藤梓なのだ。

 よく知らない人間が自分の計画の中に入るのが不安なのかもしれない。

 それもあるだろう。

 でもこの警鐘を無視できない。

 だが既に計画は進み後戻りも変更も出来ない。

 ジレンマを感じるがこのまま進むしか無いのだ。

 出来る事は斉藤梓の動向を把握しておく事位。

 この頭に響く警鐘を信じるなら既に遅いかもしれないけれどするに越した事は無い。

 携帯から再び電話を掛ける。

「椎原さん。岡本組長が襲撃されたかどうか調べてもらえませんか?あなただとばれない様に。」

『襲撃?そんな情報があるのか?』

「わかりません。ただ、何となく。」

『わかった。調べよう。最悪俺達はお前達を切り捨てるかもしれないからそのつもりでいろ。』

 上に立つものに必要なものとして非情さが求められる。その判断は正しい。

「俺も瑞樹に戻って安藤の所に行きます。」

 携帯を切ってから急いで着替えて目深に帽子を被り、男女の区別が付かないようにすると同じ階の住人が出てくるのを待つ。

 独特の足音を立てて三つ先のドアを通り過ぎエレベーターの前で立ち止まる。

「あら、亜紀ちゃんじゃない。」

 エレベーター近くのドアから出てきたのは派手な顔立ちの女性。

 帽子の下から微笑むと、嫣然と微笑まれる。

「・・・じゃあ、瑞樹さん私に付き合って頂戴。」

 笑って腕に絡みつき車のキーを手の中に落とす。

「場所は・・・・セレナーデまで。」

 

 セレナーデには既に安藤が到着しており、若干顔色が悪い。

「すみません、瑞樹。」

 その一言で椎原からの情報を待つまでも無く、計画が崩れ始めたのがわかってしまった。

「そうか。」

 微笑んで肩を叩くと、不甲斐無い自分が悔しいのか目が少しだけ光っている。

「気にするな。そもそも岡本組のトップに喧嘩売ろうという人間自体が少ないのだから仕方ない。」

 それでも瑞樹がもう少し様子を見るつもりだったのを知っているだけに安藤の落ち込み様は見ていて心配になるほどだった。

「俺だって、組長が病気で焦っていたんだ。お互い様と言う事だと思わないか?」

 笑って言うが、実際の状況はそんなに楽天的では無い。もしかすると、だが。

「さて、組長はどうなったんだ?」

「おそらくですが、伊東梓の雇った中国人に撃たれて死んだとなっています。公式では。」

 公式では。

 それがネックなのだ。

 岡本組を離れた今になってはあの兄弟にさぐりを入れるわけにはいかないし、他の組長も知らないだろう。

「そうか・・・・・安藤。」

「はい。」

「悪いが吾郷を早急に誑かしてくれ。いざとなった時隠れ場所を確保してくれる位には。・・・出来るか?」

「出来ます。」

「マヤ。」

 此処に一緒に来た女性に声を掛ける。

「はい。」

「お前は普段通りこの店を頼む。岡本組が来ても知らぬ存ぜぬを通せ。何も知らないと。ただのオーナーと雇われママだと言う事を通せ。いざとなったらバーの方も頼む。」

「でもっ!」

「じゃないと全てが終わって無事だった時に食い扶持が無くなるからな。この騒ぎに乗じて他の組や岡本達が此処を乗っ取ろうとする。それを守れと言ったんだ。俺の持ち物全てを。」

 マヤの髪を優しく撫でると、一瞬だけ目が潤んだ後強い光を宿して頷く。

「わかった。全てを守るのね。任せて頂戴。」

 微笑むマヤの唇にキスを送る。

「計画は今まで通りにする。始まったばかりで今止めると逆に怪しまれだろう。こうなったら組長の事は死んだと考えて行動する様に。ただし、もし生きていた時の事を考えた上での行動で頼む。だが表面上は死んだという事にする。」

 死んだと判断した上の行動で、もし生きていたとしても出来るだけこちらに火が飛ばぬよう。

 その難しい合間を縫った行動を求める。

 安藤は眉を寄せるがしっかりと頷いた。

「特にお前達は自分の保身を一番に考えろ。知らぬ存ぜぬを通しぬけ。」

 この店の黒服の一部の人間もしっかりと頷く。

「瑞樹はどうするのですか?」

 安藤が、それが一番気がかりだと言わんばかりに手を握って問う。

「俺は・・・・佐々木経由で情報を流すと同時にハルトとしてある人物に接触する。見知った相手だからすぐに情報は得られるし協力体制を取れるかどうか分かると思うからその時にまた一度各自に連絡する。連絡先は俺の携帯にしてくれ。以上。」

 全員が硬い顔をしていたが、瑞樹に逆らう気が全く無い事を意思表示するかのようにしっかりと頷いた。

「じゃあ、俺は自分のマンションに帰るから何かあったらいつものアドレスにメールしてくれ。電話は駄目だからな。」

 最後に余裕を見せる笑みを浮かべて帽子を目深に被ると店を後にする。それから流しのタクシーを拾って目的地とは逆方向に指示を出し複雑な道を行った後降りて逆方向のタクシーを拾い、遠回りしてマンションにたどり着いた。

 こういった事にそこまで慣れているわけでは無いせいか、撒いた車がうっとおしいと感じる程度には疲れている。

 だが、ここで頑張らなければ後が無い。そう自分を奮い立たせてパソコンの前に座った。

 メールを送る先は四件。

 その内二件は椎原宛と中村義介宛で。

 出来るだけ巻き込みたくないと思っていただけに悔しい思いはある。

 今自分は一人では無い。一人では無い事は嬉しい事ではあるけれど、その分責任はその人達の分まで圧し掛かる。

 今更自分の・・・・・・とは言えない状況にあり、頼るしかない。

 申し訳無く思うが、それでも少しでも自分の手の内にある人達は守りたいのだ。  

 

 吾郷はこちらに背を向けてシャツを羽織る安藤を起き上がって見つめる。

 あれから週に二度店に通い、口説き落として関係を持ったのが先々週の事。

 店が終わった後吾郷が常宿にしているホテルで逢瀬を重ねるというのが既に恒例と化しているのだが・・・。

 今ではすっかり安藤の体と本人に嵌っているといっても過言では無い。

 だが、しかし吾郷は裏の世界で生きている人間だ。安藤が自分に惚れているかどうか位はわかっている。

 そして・・・・・自分以外にも接触している人間が居る事も知っている。

 わかってはいるし、調べればその理由も直ぐにわかった。切り捨てた方が良いのも理解はしているが行動に移せていない。

「栄。」

 呼ぶと艶麗な笑みを浮かべて振り向いてくれる。

「なんですか?」

 安藤も手の内を知られている事を察しているだろう。その上で丸め込もうとしているのだ。

 度胸があるというべきか。それとも取り込めるという自身があるのか。

 シャツのボタンを一つ、二つ留めただけの姿で白い手を添えてくる。

 それだけで吾郷の情欲を沸き立たせ、溺れさせようとしている。恐れ入る手腕だ。

 事後の色気漂う姿とその仕草で微笑みながら頬を寄せて首を傾げるのだ。

「お前は何が望みだ。」

 静かな声で問う。

 すると安藤は何も答えずに脚で吾郷の中心を撫でる。

 優しげでいて、静謐を感じさせる笑みを浮かべて。

 その動きで反応を示したソレに目線をやり、手で握る。

「足りませんでしたか?」

 今の吾郷の言葉を無かったように振舞う姿に初めて苛立ちを感じた。

「栄。」

 咎める声で呼ぶと俯いていた顔を上げる。

「俺はそんなに使えないか。」 

 いいえ、と穏やかな声で言いながら撫でていた手を動かし始めた。

「では、何故。」

「あれは保険です。」

「保険?」

「いざとなった時の事を考えて保険に入る人は多いでしょう?」

 保険が要る程度の存在だと、暗に言われている事に気付かない程暗愚では無い。

「保険が要らなくなる為にはどうしたらいい。」

 既に溺れていると言っていい状態なのだ。今更取り繕わねばならないものなど無かった。

「私と瑞樹を匿って下さい。」

「そのために・・・・か?」

 有能だと言われのし上る為に多少なりとも汚い事もしてきたので裏切りも経験済みで、罵詈雑言も聞きなれて言いなれている筈なのに安藤に対してははっきりと口に出せない自分がいる。

「それもありますけど、私にも好みがありますから。」

 少しは気持ちがあると言われて、たとえそれが嘘だと分かっていても信じたいと思ってしまう。

「お前ともう一人を岡本組から匿えばいいんだな?」

「しばらくして私達の身が危なくなったら、です。」

 もしそうしたら自分が所属している組さえも危なくなる可能性もあったが、吾郷は頷いた。

「わかった。用意しておく。」

「それと、これは個人的な事なのですが、ある人を探して欲しいのです。探偵を雇っても判らなかった事なのです。」

 その一言で誰を探したいのか理解した吾郷はそれにも頷く。

「捕まえるだけで良いのか?」

「はい。」

 安藤は嬉しそうに笑って吾郷の胸に体を寄せてきた。

「もう一回、良いですか?」

 吾郷の胴を跨いで馬乗りになる。

「吾郷さんの、好きですよ。」

 手でソレを撫でてから自ら体を沈めていく。

 胸に手を置いて、恍惚とした表情で笑いながら締め上げてくる。吾郷は眉間に眉を寄せて締め付けに耐えると下から思う存分突き上げた。

 嫉妬と怒りと情念を込めて安藤を思う存分味わう。

「ふ、・・・あっ。・・ふふ。気持ち、良い・・・。」

 どこか余裕を感じさせる声に吾郷は益々猛り狂う。

 いっそう動きを激しくした吾郷の胸に爪あとが付く。

 いつもは優しげな笑みを浮かべて穏やかな雰囲気を持つ安藤が、今はどこか冷たく感じられる。

 だが、目を細めて赤くなった唇を上げる仕草に吾郷は初めて安藤の内面に触れた気がした。

 

 瑞樹がホテルの一室に招いた人物は睨むような表情のままルームサービスで頼んだフルコースを食べ続けている。

 入ったときから沈黙を続けているので部屋の雰囲気は重い事この上ない。

 護衛として付いてきた男達はドアの前で控えて無表情を保っているが額にうっすらと汗を掻いている。

 だが、当の二人は汗ひとつ掻く事無く平然として食事を続けていて。特に瑞樹は微笑みさえ浮かべているのだ。

 メインのステーキを大方食べ終えてナイフとフォークを左右に置くと、男が低い声で切り出す。

「何のようだ。」

「何って。一度きちんとお話したいと思ったのですが、駄目でしたか?貴方も了承したから此処に居るのでしょう?」

 数ヶ月前のような口ぶりでは無く、ぞんざいな口を聞く相手に何一つ不満を言わずに瑞樹は以前と変わらず礼を保ったままの会話を続ける。

「俺が呼び出しに応じたのはお前が怪しいからに他ならない。」

「そうですか。伊東梓の話をしたいと思ったのですが、人払いをしなくても良いのですか?館川さん。」

 館川は眉を顰めたが、言うとおりに護衛の人間を外に出す。一人を除いて。

「前回も傍に置いておいた人ですね。こんばんわ。」

 後ろに控えた男は一応役目なので話はしないが目礼をする。

「貴方より余程礼儀が良い人のようで。」

 笑顔でサラリと嫌味と告げると自分の頼んだ料理を食べ終えていた瑞樹はデザートワインを飲みながら口を開いた。

「伊東梓と会ったのはもう一ヶ月程前になるでしょうか。ご存知の通り行田さんとビジネスパートナーではあるように今は実業家を名乗っています。ですから少しでも信頼出来る人が欲しいと思い、安藤に頼んで岡本組長に対して私怨のある人間を探してもらったのです。共通項があれば仕事も上手くいくと思って。
想像以上に私怨を持っていたので業務提携はせず見張る事にしたのですが、連絡が取れなくなり心配でこうして会って話しを聞こうと思ったのです。この頃組長に何かありませんでしたか?杞憂であればそれでいいのですが。」

 ほんの僅か眉間に皺を寄せて心配そうに呟く瑞樹の顔に嘘は見られない。

 それでも若い頃から極道の世界に身を置き、塀の中でも生活した館川の顔からは厳しさが取れない。

「何故お前が組長の心配をする。組長だってお前が憎い相手の一人だろう。」

「別に憎くないですよ?」

「嘘だな。」

「指示したのは組長でもそれ自体は私に関係ないですから。」

 首を傾げる瑞樹に館川は再び口を開く。

「では何故俺を呼び出した。」

「そういう立場では無い事は重々承知していますが、岡本組の中で話しが出来そうな人は貴方だけだったので。」

「嘘だな。組長代理でも良かったはずだ。」

「・・・・組長代理を呼び出せと。それか本家に行けと言うのですか?そんな命知らずではありません。」

「俺はいいと思ったのか。」

「少なくとも、あの時の事を申し訳ないと思っているのでしたら来てくれると思っただけです。」

 笑顔の瑞樹に館川は黙って目の前のワイングラスを空にする。

「組長の身が心配というよりはその騒動によって亢竜会に余波が来るかもしれないという事が心配なんですよ。」

 何か知りませんか?と首を傾げる。

「これは極秘だが組長が狙撃された。」

 瑞樹の目が驚きに見開かれた。

「撃たれた?もしかして伊東梓が雇ったという中国人ですか?」

「いや、犯人は逃走中で探させている。その伊東梓という女が関わっているという情報は始めて聞いた。」

「確信は無いのですが、私達と話した時彼女が中国人を雇ったと言っていたのでもしかしたらと思ったのです。」

「有益な情報だな。」

「お役に立てたのなら何よりです。組長はご無事なのですか?」

「ああ。」

「それは良かった。」

「・・・・・・予断を許さない状況ではあるが。」

 その一言に瑞樹の眉が寄る。

「中村に教えても良いですか?」

「かまわん。」

「有難う御座います。ですが、もう闘病生活が長いはずなのにどうして狙撃なんて。」

「通院する途中だった。」

 瑞樹は俯く。

「そうですか。」

「嬉しいか。」

「いいえ。」

 真剣な表情で語る瑞樹は過去を彷彿とさせるものはひとつとして無く。

「重ねて言いますが、組長にもし何かあれば私も困るのですよ。ただそれだけです。」

 館川には瑞樹の真意は探れそうに無かった。

 

 ノアールの扉の鍵は掛けられ、中には瑞樹一人だけだった。

 酒に弱いわけでは無い。むしろ底なしだったが、別に好きというわけではなく仕方無しに飲んでる事が殆どと言っていい程で。

 唯一、好んで飲むのが安藤が作ったオリジナルカクテル。

 それを今日は自分で作って飲んでいる。

 窓一つ無い此処からは外の景色は見えない。

 暦の上ではまだ秋なのに随分と寒いと感じた。

 コートを脱ぎもせず、店休日の店内で一人カクテルを飲む。

 腕時計を見ると此処に来てから既に3時間が経過している。

「何、しているんだろうな。」

 呟いて苦笑する声は誰にも聞かれる事なく宙に浮く。

 復讐と安藤には言ったが、本当はそれが目的ではない。今後自分と安藤達の安全の為の行動のはず、だった。

 憎しみに走りそうになる安藤を止めなければならないのに、今の自分にそれが出来そうに無い。

 何故なら自分も内に抱える感情に走りそうになっているのだから。今はそれを抑えるのに精一杯で。

 岡本の下に居た十数年で抑える事に慣れたと思っていたはずなのに、どうやら届くかもしれない先に相手が居るとそんな慣れなど意味の無いものとなるらしい。

 殺してやりたい。

 そう、何度思っただろう。

 病室で目覚めた時。

 売り飛ばされた時。

 厚顔な叔父が借金を岡本に申し込み、受け入れられたと知った時。

 何も覚えてさえいない岡本に囲われた時。

 良心の呵責を感じて廃棄を命じられたモノを持ち続けていた医者からカルテを買い上げて、読んだ瞬間。

 岡本兄から優と会うように言われた時。

 全ての裏を知った時。

 その他にも数え切れない程。

 思い出すと、自分の生きてきた過去は全て憎しみを抑える事に専念していた様に思えてしまう。

 そんな事は無い、と自分に言い聞かせる。

 だが、心の奥底でもう一人の自分が言い聞かせる。

 いいじゃないか、もう十分に自分を抑えた。憎む相手全て消してしまえばいい。それが出来ないというのならせめてあの四人だけでも、と。

 胸の中で炎が燃えている。

 青い炎だ。

 穏やかな生活をしていても、忘れた振りをしていても決して消える事の無い炎だ。

 微笑んでいても体の中が熱い。痛い。

 今もこうして身の内を焼いている。

 安藤は、今赤い炎に身を任せようとしている。それを止められるのは自分だけだと理解している。

 彼の炎は相手を焼くと共に自身も焼くのだ。

 そんな姿は見たくない。

   だが、今抑えてもいずれ己を焼くであろうその炎を解き放つ事のどこが悪いのだ?

 相手が居なくなれば遅かれ早かれ自分自身を焼いて滅びを待つしかなくなるのに。

 そう、思う。

 抑えるか、解き放つか。

 どちらが良いとは言えない。

 抑えて未来、滅びるか。

 解き放ち、相手と共に滅びるか。

 それは自分にも言える事。

 確実に相手も滅びるならそれも悪くない。

 だが、かなりの確率でこちらだけが滅びる事だろう。

 そうならないために今は抑えなければ。

 わかっている。

 理解している。

 それでも心は望むのだ。

 瑞樹は自分の心を抑えられるうちに全てが終われば良いと心の底から願った。

 

 裏口が開かれる音がして振り向くと、足音と共に安藤が現れた。

 頬には三本の引っ掻き傷がある。

「それ・・・。」

「瑞樹、自分で作ったら不味いとか言っていませんでしたか?」

 思わず出た言葉に答えるより先に安藤がカウンターに置かれたグラスを見て眉をしかめる。

 そして手早くカクテルを作り瑞樹の前に置く。瑞樹が作ったそれを下げて洗う。

 一口含むと、やはり安藤が作った方が断然美味しい。

「美味い。」

「それはそうでしょう。好みのカクテルを注文しても誰も作れないと言って私をバーテンにしたのはあなたでしょう?」

 外ではシャンティガフを注文するが、バーテンに説明して作らせても今一好みでは無いのだ。

 だから元々どんな酒でも瑞樹好みに作るのが始めから上手かった安藤にこの店を任せ、オリジナルカクテルまで作らせて通っている。

「そうだな。で、それはどうしたんだ?」

「マヤから。」

「マヤが?」

 気の強い女性だが、暴力を振るう人では無い。

「憎しみに引き摺られてどうする、と。あなたが復讐と言う言葉を使ったのはそうしたいと思う心があるからだ。それは私も分かっています。ですが、実際は岡本組の内部を知りながら外に出た私達を守るための企みだと、知っている筈なのにあなたの苦悩を理解せずに我欲に走ってどうすると。」

「そう、か。」

「私もあなたも憎い相手が居る。ですがあなたは自分の気持ちよりも私達を選んでくれた。相手に届くかもしれない刃を持っているのにそれを振るわず抑えて。」

 瑞樹は黙ってカクテルを飲む。

「なのに、私はその甘美な毒に目が眩みそうになっていた。私まで暴走してはあなたの努力が無駄になり、私達は生きられなくなるのに。」

 飲み干したソレの縁をなぞる。

「すみません。私はあなたの腹心なのに。」

 柔らかく、だが苦痛を堪える表情で微笑む安藤の腕に瑞樹の手がカウンター越しに触れる。

「栄、いいから。俺だって殺したいと思った相手に惚れてしまったんだから。その間ずっと傍に居てくれたのはお前だし、これからもそうだろう?」

 奈落で共に生活して、岡本亮二に惹かれた時も、囲われの身になった時も。いつも傍に居てくれたのだ。

「ですが、私達が居なければあなたはもっと早く自由になれたのに。」

 そうして忘れる事は出来なくても、何か小さな幸せを見つけられただろう。

「その事で後悔した事は無い。お前達が居たから俺は今までこれ以上堕ちずに済んだ。俺がお前達に依存していたんだ。」

「瑞樹・・・。」

「だから、有難うな。」

 安藤の目から一筋の涙が零れる。

「泣くな。これからが正念場なんだぞ?このままじゃ俺達は岡本組によって消される。」

「はい。」

「吾郷は?」

「問題ありません。ただし、私とあなただけですけどね。複数を頼んだらさすがに断られたでしょう。」

「相変わらず・・・だな?」

「お褒めにあずかりまして。でもあなたには叶いませんよ。」

 二人で暫く笑い合うと一気に顔を引き締める。

「さて、早く片を付けないとな。義介さんと椎原には連絡済みだ。組長は撃たれたが生きているらしい。予断は許さない状況だと。」

「それは誰から。」

「館川。」

 胡桃を剥いていた安藤の手が止まる。

「瑞樹・・・。」

「一番良さそうだったんだ。話をしただけだから安心しろ。」

 目の前に置かれた胡桃を美味しそうに食べる。

「やっぱり北海道の胡桃が一番だな。」

 安藤が知り合いから取り寄せている胡桃は瑞樹の為だけのものだ。

「それはどうも。」

「怒っているのか?」

 笑いを含んだ声に安藤の溜息が漏れる。

「多少は。ですが、仕方ないと理解していますよ。」

「そっか。俺の分までお前が怒ってくれるから嬉しいよ。」

「・・・煽てたって何も出ませんよ。」

「それは残念。またフロマージュが食べたいと思っていたのに。」

 茶化す瑞樹の言葉に思わず微笑む。

「ではそれは終わったら作りましょうか。」

「終わったら、か?」

「ええ。終わったら。」

 相手の顔を見て微笑む。

「・・・きっと、あなたが私の心を読めるようになっても何も変わらないのでしょうね。」

 突然呟かれた言葉に瑞樹は満面の笑みを浮かべる。

 スツールから立ち上がり、内側から取り出した紙を目の前に置く。

 それからそのまま裏口に向かい、出て行った。

 安藤はゆっくりとその笑顔を噛み締めた後、紙に目を通して微笑んだ。

 流しの中に紙を置いて、マッチを擦り紙に火を点ける。

 その様子を見つめる目には強い決意を宿らせて。

 燃えカスを水で流し切ると全ての照明を落として安藤もその場を後にした。

 

 瑞樹はそれから昼間はほぼ毎日、溝川亜紀として佐々木と会った。

 佐々木は趣味がクラシックだと嘘を付く割に知識が貧相で、笑いを堪えて話にあわせるのが大変な位だった。

 喫茶店で、レストランで、コンサート会場で会うたびに嘘の情報や知識を愚痴のように教える。

 夜は椎原の持つ店で働く。

 殆どの男達が瑞樹の事を女だと信じて疑わず、男だとわかった人間もその美貌と話術の虜となり入店一ヶ月でNo.2となってしまっていた。

「お疲れ様でした。」

 本日の装いは和服。入っていきなり売り上げトップとなった瑞樹・・・ここでは亜紀に悪意を抱くものは居る。当然の事だが、オーナーの女だという触れ込みなので誰も手が出せない状態なのだ。

「お疲れ様。あなたはこれからもっと疲れるでしょうけど明日は遅れないでね。」

 微笑む人は瑞樹が来るまでトップの一角に居た女性だった。

「・・・そんなに警戒なさらなくても、もうすぐ辞める予定ですから。」

 苦笑する瑞樹にその人は驚いた顔をする。

「え?もしかして客を引っ張って行くつもり?」

 そんな事をされては店の売り上げ自体が落ちてしまう。

「まさか。お客様には言いません。借金を払ってくれる人が現れたので・・・あ、私実家の借金の為に売られただけで、元々ブティックの販売員なんですよ。だから払ってもらって辞めます。」

 毎日こんな装い疲れますよね。と明るく笑う瑞樹に女は頷いた。

「そう。おめでとう、と言うべきかしら?」

「どうでしょうか。それは辞められた時に。」

 言い終えると瑞樹はその場を後にし、それを見送った女は急いで比較的中の良い同僚に電話を掛ける。

 数時間の内のその会話は店の全員が知る事となった。

 瑞樹は俯いて嗤う口元を隠す。

 どうしてだろうか。この二週間、思い通りに事が進む。

 不安もあるが、それ以上に愉しい。

 表通りに出てから流れのタクシーを拾う為に待っていると、横から近づいてくる気配がした。

 だが気付かないふりをしてタクシーが来るのを待つ。

「亜紀。」

 既に恋人の様な扱いをする男はやはりというか佐々木だった。

「佐々木さん。こんな遅くにどうしたのですか?」

 内心を隠して微笑む。

「仕事帰りさ。亜紀の店が近かったからここで待っていたんだ。これから何か食べに行かないか?」

 今まで喫茶店などは行ったが、食事には行った事がなかった。

「そうですね。でも、今日は予約しているお店があるのでよければそちらでも良いかしら?」

 携帯片手に言うと佐々木の目論見が外れたのか、一瞬眉を顰めそうになったがそれを控えるという動作をした後に笑顔で頷く。

(ジゴロするならこれ位の演技完璧にしろよな。)

 嘲笑ってしまいそうになるのを堪えて瑞樹も微笑み返す。

「じゃあ、電話をするので待っていてください。」

 暗記している番号を押す。もちろん予約しているなんて嘘だ。

『はい。ボレロです。』

「本日予約している亜紀です。」

『申し訳ありません。本日は既に営業時間を終了しております。』

「いいえ。予約しています。オーナーにお願いしておりますもの。良い貴腐ワインが入ったと聞いたので。」

『少々お待ち下さい。』

 10秒ほど後に今度は別の男性の声がする。

『お待たせいたしました。オーナーにお話されているという事でしたが。』

「そう。話をしてたのだけど?」

『・・・・・・・・・・・・・・・・ああ、分かりました。お名前をお伺いしても宜しいですか?』

 笑いを含んだ声で名前を問われる。

「溝川亜紀です。一人の予約でしたが、もう一人男性を同伴します。名前は佐々木さん。」

『かしこまりました。今からこちらに到着するお時間はどれ位になりますか?』

「そうね、一時間位でしょうか?」

『軽いものでよろしいですか?』

「もちろん。それが希望ですもの。」

『ではお待ちしております。』

 そして通話を切ってから佐々木の方を見る。

「大丈夫だそうですから行きましょう?」

 丁度タクシーが来たので、手を上げて止めると先に乗り込んだ。  

 

 着いた所は洋館。

 一時間もタクシーに乗るという事を体験した事の無い佐々木は深夜料金プラスアルファでどんどん上がるメーターに血の気が引いたが、支払いは瑞樹がしたので内心ホッとしていた。

 そうして目の前に聳える、と言ってもよい風格ある建物に首を上げて見つめてしまう。

 そんな仕草、態度こそ彼が二流の証とも言えるのだが、瑞樹はそんな事を教えてやるほど親切ではない。

「さあ、中に入りましょう?」

 いつの間に居たのか、ギャルソン姿の青年が門の前に佇み軽く一礼する。

「ようこそボレロへ。」

 上品な仕草で門扉を開けて中へと促す。

 落ち着いた仕草で堂々と中に入る瑞樹とは違い、物珍しげに首を回しながらも威厳を保とうとする仕草が逆に本人の品格を貶めている。

 瑞樹は思わず口元を緩め、その仕草にギャルソンが心持瑞樹を見た。

 館内は赤を基調としているが落ち着いた色合いをかもし出している。

「あら、カーテンが変わっていますね。」

「はい。クリスマスに近いのでグリーンにしてみました。いかがでしょうか?」

「赤と緑でクリスマスカラー。楽しくて良いと思います。」

 ギャルソンは入って左側の一室に案内すると、暖炉の前に瑞樹を案内して佐々木はその正面に。

 二人が手を拭いている間に食前酒と前菜が運ばれて来た。

 ギャルソンの男は一礼して退室する。

「では、健康に乾杯。」

「乾杯。」

 無音の食事は佐々木にとって居た堪れない。今まで行ったレストランはムードのある曲が流れ、相手はよく喋りこちらも褒めてというのが普通だったで。

「佐々木さん?」

「はい。」

 引き攣りそうになる顔を抑えて微笑む。なのに目の前の女は何の同様も見せずに食事を楽しんでいるようだった。

「もしかして、お口に合わないのですか?」

 首を傾げる瑞樹に佐々木は慌てて首を横に振る。

「いいえっ。・・・今夜はあまりにも貴女が美しいので見惚れてしまいました。着物姿も素敵ですね。」

 レストランに行くつもりなら着物は合わないだろうというのは言わない。

「そう、ですか?実はこの着物気に入っているものですから褒められると嬉しいです。」

 いつの間にか空になっていた佐々木のグラスを瑞樹がギャルソンに目線をやり注がせる。

「このワインはとても美味しいと聞いたので試してみませんか?」

 佐々木はテイスティングもせずに注がれたそれを不思議に思ったが、緊張を解す為にも口にする。

 想像以上にしっとりとした味わいで、あっという間に空にしてしまう。

「気に入っていただけたようで嬉しいですわ。」

 次々と注がれるワインをどんどん飲んでしまう。

 ともされているチーズも食べた事の無いもので。

 瑞樹がそれを微笑ましげにみながら不思議な仕草をしたのでそれを何となしに見ながらまた一杯と飲み干す。

「すみません。ちょっと失礼しますね。」

 瑞樹が席を中座してもギャルソンは佐々木の世話をする。

「これ、何て言うワイン?」

「貴腐ワインでございます。」

「ふーん。高いのか?」

「どのようなものと比べるかによります。」

「じゃあ、1995年の。」

「それよりは値が張るものでございます。」

 表情一つ変える事なく淡々とした声で答える。

 瑞樹が静かな足音で戻ってきた。

「亜紀さん。こんな高いワインを出して大丈夫なんですか?借金まみれなんでしょう?」

「そう。困りますわね。」

 瑞樹は静かに笑う。

「えー。それに此処も高そうだし。来ている服も全部ブランドものでしょう?金かかってるよね〜。俺、女の着るものには詳しいんだ。」

「あなたの本名は佐々木さんですか?」

「そうだよ。」

「あなたが所属している組の幹部の?」

「そう。うちで一番稼ぎがあるのは俺だからね。」

「私が話した事は全て組長に報告済みですか?」

「もっちろん。それが俺の仕事。」

 陽気に笑う佐々木に瑞樹が嗤う。

「そう・・・。ではこう伝えなさい。」

 瑞樹が近づき、耳元で囁く。

「岡本組長が襲撃されて、そちらの関与を疑っている。そしてそれには館川が動いているようだ、とね。」

「わかった〜。」

「私とこうして会話した事は忘れなさい。今までのように私がうっかり口を滑らせて話したことがさっきの一言です。いいですね?」

 頷く佐々木はとうとうテーブルに顔を伏せてしまう。

 瑞樹がギャルソンに指を振ると現れた数人で佐々木を抱えて部屋の外に連れて行く。

 そのまま瑞樹も部屋を出て二階に上がるとスーツ姿の男が立ち上がって出迎える。

「お久しぶりです。艶姿に眩暈がしそうですよ。」

「そんな事思ってもいないくせに。」

「いえいえ。薔薇を買ってきてプロポーズしたいくらいですよ。オーナー。」

 手の甲にキスを送ると瑞樹の目を見て微笑む。

「そんなのいいから帯を解いてくれ。苦しい。」

 溜息を吐いて背中を向ける姿に男は苦笑した。

「俺じゃなければ誤解しますよ。」

「お前はしないだろう。」

 しませんけど理性との戦いですよ、と笑いながら帯を取る。

 襦袢姿になった瑞樹はしどけない姿のまま椅子に座る。音も立てずに入ってきたソムリエがテイスティングをしてワインを注ぎ、椅子の横に設置されたテーブルにグラスを置く。

「悪かったね。あんな人間に飲ませて。」

 グラスを掲げて謝る瑞樹にソムリエは首を横に振った。

「いいえ。他のスタッフがしてくれましたので。」

「自白剤なんて、君には必要ないと思っていたけど以外と役に立つものだね。」

 横から笑って言葉を挟むと、ソムリエと瑞樹の目線が当たる。

「今回はたまたまだ。あいつが単純だったから催眠術も自白剤も使えただけで、他の人間には通用しないと思っていたほうがいい。お前はするなよ。失敗したときの方がリスクが高い。」

 男は首を竦めて笑った。

「次回は食事を楽しむために来てくださると嬉しいですね。」

 スタッフ一同の意見を代表してソムリエが微笑みながら言うと瑞樹も頷いた。

「そうだな。ここは居心地がいいから。今回は急で悪かった。」

「役に立てたのならそれで良いです。ですが、どうぞ無理はなさらず。」

 その言葉に笑いはしたが、頷かない瑞樹に二人の顔は僅かに硬くなった。が、今は唯黙ってその姿を見守る事にする。

 どうか、無理はしないで欲しい。

 それは彼を好きな人々が思う共通の言葉。

    

 

 その三日後、館川の設立した事務所が襲撃された。

 暴対法が厳しい昨今こんな手で出るとは思わなかったが、図らずも成功したこの対立が嬉しくて思わず口が緩んでしまっていたらしい。

 互いが陰険になればいい位に思っていたのに。

「嬉しそうだな。」

 情報をもたらした中村が瑞樹を見つめる。

「そう、ですか?」

 ネクタイを外しながら首を傾げて問うと頷かれた。

「ああ、獲物を見つけた笑みだった。」

 惚けたつもりだったが、長い付き合いとも言える中村には通用しなかった。

 瑞樹は既に着替えてこちらに来たのでグレイのパジャマ姿である。

 シャツとスラックス姿になるとソファーに座り込む。どうやら今日はその事で忙しかったらしい。

「館川に何かあるなら何でも嬉しいです。」

 とても二十代半ばとは思えない、可愛らしい笑みを浮かべて中村好みで作った酒をテーブルに置く。

 それを一口飲んでから瑞樹の腰を引き寄せる。

 中村は瑞樹から漂ってきた僅かな匂いに顔を顰める。だが、その事に対して何も言わずに唇を重ねると瑞樹をソファーに倒す。

 瑞樹は心得た笑みを浮かべて、ゆっくりと自分からボタンを外し袖を抜く。

 体の線を辿るように触れる指に溜息を漏らしながら中村のシャツのボタンを外してベルトを抜き、体の中心に触れる。

 互いに愛撫し合う姿は、傍から見る人間が居たとしたらそれだけで頬を染めてしまうほど淫靡で人の本能を掻き立てるもので。

 自分から脚を大きく開いて見せ付ける様にしながら自分の雫を使って中を解す。

 それさえも欲情をそそる為の行為。

 瑞樹は一旦起き上がってから自分が着ていた服のポケットからゴムを取り出し中村のソレに被せる。

 互いに座った状態のまま、瑞樹が自分から迎え入れて溜息を吐く。

 悩ましい声に、それだけで欲望を膨らませてしまう。

「ふふっ。」

 中村が動こうとするのを制して腹に手を置いて翻弄する為に動く。その動きだけで達してしまいそうな動きに辛うじてソレを耐えながらも益々蠢く内部に持って行かれた。

 男としてどうかと思うが、そんな時の瑞樹の笑みが美しくてそれでも良いと思えてしまう。

 互いに手早く処理をしてから服を羽織ると再び並んでソファーに座る。

 目の前のグラスを傾けてから瑞樹を見て、話を戻した。

「それだけじゃ、ないだろう?」

 瑞樹も一口含んでから中村に口移しで飲ませる。

「ばれましたか?」

「ああ。」

 今まで沈黙を守っていても、瑞樹のする事は大抵把握済みなのでそのフォローはするつもりだった。

「義介さん。」

「何だ。」

 瑞樹は中村の膝の上に馬乗りになり、妖艶な笑みを浮かべてから口付け寸前まで唇を寄せて囁いた。

「Do you want a get flag ・・・・・ for me?」

「旗を?」

「意味は行田さんに聞いたらわかります。高橋さんには決して言ってはいけませんよ?返事は明日電話で聞きます。」

「ここで意味・・・。」

 話は途中で遮られた。深く強いキスを仕掛けられて中村もそれに応える。

 暫くの間互いを貪るようにキスをして、笑みを浮かべた瑞樹が離れて部屋を去っていくのを見守りながら、中村は溜息を吐いた。   

 

 佐々木から連絡が無い事は分っていたので、安藤の部屋で珈琲を飲んでいると瑞樹の着信音が響いた。

「どうぞ、瑞樹。」

 安藤が瑞樹のコートから携帯を取ってきて手渡す。着メロは「ラ・トランペーサ」

「うん。ありがとう。」

「いいえ。ですが、行田さんにその曲は合わないと思いますよ。」

 瑞樹は笑って通話ボタンを押す。

「はい。」

『中村は会合中ですので、伝言を伝えます。「分った」です。』

「YESという事ですね。」

『そうです。それと、Do you want a〜ではなく、Do you get〜ではないのですか?』

「いいえ、wantは入れますよ。」

『・・・分かりました。それではお気を付けて。館川も馬鹿では無いので気付く可能性は十分にありますから。』

「ええ、ご忠告有難う御座います。」

『では私はこれで。』

 通話が切れて携帯を見つめていると、安藤が後ろに立ったままなのに気付いた。

「どうしたんだ?」

「瑞樹・・・・。」

 声が妙に低い。

「何?」

「髪を適当に洗っていましたね?それと肌の手入れもしていないでしょう。」

 カップを持っていた手が止まる。

「いや、だって結構大変だから。」

「じゃあ、どうして私を呼ばなかったのです。」

 安藤の迫力に瑞樹は腰が引けている。

「それは、・・・その、そういう作戦だし。」

「お黙んなさい。」

「はい。」

「あなたは今後一切自分で髪を洗わないで下さい。」

「・・・嘘だろう。」

「本当です。肌の手入れは基本は自分でしても良いですが、二日に一度は私がしますから。」

 断言されて、面倒だと適当にしていた事を後悔した。

「今日からキチンとするから。・・・それに髪を切りたい」

「駄目に決まっているでしょう?」

 柔らかい容姿に強い笑みを浮かべてバスルームへ強制連行された。

 それから安藤が満足するまで髪と肌の手入れをされてソファーでぐったりしていると時計は既に午後1時を過ぎている。

「髪と肌だけで3時間。」

 どこかすっきりした顔で満足げな安藤は瑞樹の足元に跪いて爪の手入れを始めている。

「なあ、もういいだろう?」

「駄目です。」

 爪やすりで綺麗に整えながら、喜ぶのは安藤。

「お前って本当に俺自身より俺が好きだよなぁ。」

「当然。」

 美しく流線型を描いた爪を見て微笑む安藤は本当に幸せそうで。

「あなたの美は私が守るのです。あなたもそれで良いと言ったでしょう?男なら一度言った事は守ってください。」

「無理。俺は嘘は言い飽きた程言ってきたから。」

「とりあえず私とは守ってくださいね。」

「お前の肌も手入れしてやろうか?」

「私は自分で出来ますから。」

 確かに、安藤の肌はとても美しい。

 実は瑞樹より2歳年上なのだ。

「あ。」

「どうしましたか?」

「俺の部屋に侵入者。」

 瑞樹の部屋は安藤のモニタールームから見ることが出来る。

「そのうち気付かれるだろうけど、あれは館川側の人間だろうからお前の事はわかっていないしな。」

 ノートパソコン持ち込んでいて良かった、と言いながら冷静に画面を見る。

 男達はデスクトップを抜いて箱に入れる。それから強盗だと見せかけるためだろうか、クローゼットや本棚から色々なものを引き出して荒していた。

 書類の類は全て持ち出して、貴金属も数点奪っていく。

「あ〜あ。あれ、一点もので気に入っていたのに。」

 溜息を吐く瑞樹に安藤尋ねる。

「取り返してきましょうか?」

「いい。まあ、あいつらも馬鹿じゃないだろうからあれは戻って来ないだろうし、注文した所にもう一度頼むよ。」

 安藤が頷いて、電話を掛け始める。

 それを他所にモニターを見ていると、その中の一人が隠しカメラの一つに気付いた用で急いで取り外して壊す。

 カメラは合計6個。その内壊されたのは3個だった。

 そうして男達は去っていく。

 それを見て、瑞樹も電話を掛けた。

「あ、行田さん。今、俺の所に強盗が入りましたので10分後警察に連絡をお願いします。」

『わかりました。』

「じゃあ、俺は部屋に戻るから。」

「はい。私も参りましょうか?」

「うん。作業は手早くしないとね。」

 目を見合わせて微笑みあってから上の階へと向かった。      

 

そうして、瑞樹は見事に儚げな美人を演じている。

 強盗が入ったという部屋で怯えそうになるのを必死で抑えている、というのを誰が見ても信じる位自然に演じていた。

「何を取られたのか分かりますか?」

「はい・・・あの、パソコンと仕事の書類全て。それと。」

 貴金属を入れていたという棚を見る。

「ここにあったものがいくつか無くなっています。」

「どういったもので?」

 それに応えたのは安藤。

「ピジョン・ブラッドの髪留めとアレキサンドライトのピアス。ブルーダイアモンドのネクタイピンとムーンストーンのネクタイピン。カフスはルビーとサファイア、トパーズのものが無くなっています。」

 既に自己紹介を終えているのでこの部屋の中を把握していても不思議では無いと、警察の人間たちは頷く。

「それでその貴金属の総額は?」

「わかりません。」

「は?」

「殆どが頂き物でしたので、値段が分からないのですよ。問い合わせても良いのですが、時間が掛かると思います。」

「何故ですか?」

「オーウェル家の方は多忙でしょうから。」

 部屋に沈黙が落ちる。誰だ?という声と共に驚愕を示すざわめきも上がった。

「オーウェルって、あのヨーロッパのオーウェルですか?」

 その中の一人が恐る恐る質問した。瑞樹は他の部屋に捜査員と共に移動しており居ない。

「はい。実は子どもが車に轢かれそうになっていたのを彼が助けたのです。それが偶々オーウェル家のご子息で、それから毎年彼の誕生日にこうして贈り物を。盗まれたものはその中の数点です。」

「盗まれたものに何か特徴は?」

「これを触ってもよろしいですか?」

 棚の中に収められていた箱を指差すと、捜査員が頷く。

「このように箱にはオーウェルの文字が入っています。それと装飾品の裏側にも小さくオーウェル家の家紋が載っており、その横にはfor Mと。」

 中に入っていたブレスレットは真珠で作られており、留め具の部分に安藤が言った通り紋章と文字が刻まれている。

「これをお借りするのは怖いので、写真を撮らせていただいても宜しいですか?」

「大丈夫です。」

 本人に確認を得る前に頷く。

「わかりました。」

 写真を撮ってから溜息を吐いた捜査員に安藤が付け加えた。

「そういえば。」

「何か?」

  「髪留めは写真が残っています。」

 棚の一番上から箱を取り出して写真を探し出してみせると、パーティーでの一枚なのだろう。華やかなスーツを纏った瑞樹が微笑みながら金髪の美しい女性と並んでいる。

 光に反射して輝いている髪には確かに髪飾りが。

 詳細までは分からないが、大体の形状はわかる。そして、その中央にはめ込まれたピジョン・ブラッドだという赤い石はかなり大きい。

「これがそうです。返していただけるのならお貸しする事は可能ですが。」

「では、お借りします。」

 部屋に入った事のある人間のリストアップは簡単だった。本人と安藤のみだったから。

「それ以外の人間は借りてから誰も入っていません。」

 防犯ビデオは既に提供済みで他にする事が無ければもう引き上げても良いのだが、捜査員達は譬えようも無いほど美しく儚げな瑞樹をもう一度みたいと思っていたので安藤が淹れた珈琲を飲みながら同僚と瑞樹が戻ってくるのを待つ。

「他の部屋には盗られたものは無かったそうです。」

 確認を終えた捜査員が瑞樹と共に戻ってくると何とも言えない雰囲気に包まれる。

 潤んだ瞳で見つめられると何とも言えない気持ちになり、目を逸らしながらもまた見つめてしまう。

 彼の存在自体が人の根源を揺さぶる何かを持っているのだ。

「あの、犯人が見つかったら教えてください。それにしてもオーウェル家の方に何と言えば良いのか。」

 俯く瑞樹に捜査員達は慰めの言葉と共に、必ず犯人を見つけると決意する。

「必ず見つけて見せますから。」

 その言葉に瑞樹は微笑む。華の微笑み、と言っても過言では無いほど周りの雰囲気が華やかになる笑みを。

「頼りにしています。」

 捜査員達は意気揚々と去っていった。



 それを二人で見送り再び安藤の部屋に戻ると、紅茶とクッキーが供される。

「しかし、本当にお見事な手腕で。」

「どうも。しかし・・・あの髪飾りは迂闊だったな。」

 アップルティーの良い匂いを嗅ぎながら溜息を一つ吐く。

「そうですね。一応オーウェル家には伝えておきます。値段も聞かなければならないようですし。」

「うーん。上手くいかない事もあるんだな。強盗に入る事は計算済みだったけど。」

「まあ、全てが上手く行くとは限りませんよ。」

「さて、何日掛かると思う?」

「一週間位でしょうか。」

「それまでは沈黙・・・・かな。」

「椎原氏は忙しいでしょうね。」

「あいつも今が正念場だろう。」

 とりあえず後は事態が動くのを待つのみとなったのだった。

 

 電話があったのは3日後だった。

『犯人が残していった指紋の中から該当者が出ましたので今尋問中です。』

「わかりました。態々有難うございます。」

 電話を切ってから椎原に連絡する。

「館川は今拘束中。」

 それだけ言って椎原の言葉を待つ。

『・・・・何日位か分かるか?』

 僅かに緊張した声。

「そんなに掛からないだろう。強盗の容疑だから今日中か、あるいは。」

『わかった。』

 切れた電話に思わず笑みが浮かぶ。

 同じく電話があったらしい安藤の顔にも笑みが浮かんでいた。

「瑞樹。叔父様が見つかったそうですが今から向かいますか?」

 頬を紅潮させて佇む安藤はとても美しい。

「吾郷さんが迎えに来てくれたのか?」

「はい。下まできてくれているそうです。頼んでいなかったのですが私の探し人と一緒に。」

「優秀なんだな。じゃあ、俺も行くか。」

「もう大分寒いですからコートを着ていってくださいね。」

「お前もな。」

 安藤がこんなにはしゃいだ姿を見るのは始めてかもしれない、と瑞樹は思った。 

  

 足音も軽く下に下りると黒のベンツが停まっている。

 吾郷本人が降りて瑞樹と安藤の為にドアを開けてくれた。

「ありがとうございます。」

 機嫌よく笑む安藤に吾郷が笑う。

「いや。」

 乗り込んだ車内は快適そのもので。

 冷えたシャンパンを飲みながら瑞樹は吾郷を観察する。

 落ち着いた雰囲気を持ち、見た目に騙されない人間なら出来る男だと直ぐにわかるだろう気の回し方や態度をする。

 控えめではあるが安藤に対して愛情を注いで居る事は一目瞭然で、その瞳からは狂気すら感じさせるものがあった。

 もちろんそれが分かるのは瑞樹だからであって、他の人間は殆ど気付かない程隠し切っているものだが。

「吾郷さんって栄の事がお好きなのですか?」

 初対面では猫かぶるのは普通の事なので、丁寧な口調で話す。

「ええ。ですから協力しているのです。」

 分かりきった事を尋ねるのは安藤の目の前だから。

 二人きりだったら尖った言葉で別の意味を持つ話をしている筈。

「安藤の探し人は大丈夫ですか?」

「勿論。生きていますよ。」

「それは良かった。」

 二人とも笑顔で和やかな雰囲気を作る。

「二人とも、運転手の方が冷や汗を掻いて大変のようですから物騒な会話はその辺で。」

 苦笑しながら置かれているチョコレートを差し出す。

「さすが。栄の好みに合わせてありますね。」

「私は言った事が無いのですが。」

 首を傾げる安藤に瑞樹が笑う。

「吾郷さんは観察力がある上に色々な事を知っているらしい。良かったね。こんなに大事にしてもらった事ないだろう?」

 意味を解した安藤の頬がうっすらと赤くなる。

「・・・そうですね。」

「吾郷さん。脈有りのようですから頑張って下さい。応援していますよ。」

「それは嬉しい。よろしくお願いしますよ。・・・ところでお二人の年齢を聞いても良いですか?」

 身分では吾郷の方が上だろうに、安藤の上に立っている人間というだけで吾郷は丁寧な口を聞いてくる。

「自分は26です。安藤はその3歳上。」

「そうですか。失礼しました。」

 瑞樹と安藤を知る人は誰でも疑問に思う事らしいので気にしていない。

「いいえ。偶に聞かれますから。」

 本人達も年齢不詳に見える事は自覚している。瑞樹も安藤も若干の顔つきは変わっても10年前からあまり変わっていないので。

「それよりあとどれ位で着きますか?」

 それに応えたのは運転をしている男だった。

「15分程です。」

 その答えに吾郷は頷く。

 暫くの間誰も話さなかったが、安藤が小さく呟いた。

「何だかあっけないですね。」

 瑞樹も吾郷もその真意を正しく取れた。否、取る事の出来る側の人間だったので、吾郷は安藤の手に手を重ね、瑞樹は微笑んだ。

 

 着いた先は防音設備完備某ビルの地下。

 見張りが一人だけの其処に中年の男が二人転がっている。

 運転をしていた男が気を失っている男達を蹴って起こす。

 小さなうめき声と共に目を覚ました男達は目の前に立っている人物達に焦点を合わせるとすぐさま声を出す。

「瑞樹!こんな事をしたのはお前か!食わせてやった恩も忘れてなんてことをしやがる!」

「栄!会いたかったよ。俺も騙されたと気付いてから探したんだ。でも見つからなくて・・・やっと会えた。」

 二人とも殴られた後がある。だが、言っている事はまるで逆の事を言っていた。

 吾郷は安藤を見ると、少しも感情を動かされた様子の無い事に少しだけ安堵する。

「拓也さん。私もお会いしたかった。でも探しても見付からなかったから半ば諦めていたんです。」

 微笑む安藤は本当に優しげに見える。

「ああ、栄。」

「はい?」

「お前の事を忘れた事なんて無かった。」

「私もですよ。」

 深く笑む安藤に男は安堵の笑みを浮かべる。

「安藤って趣味悪かったんだな。」

 瑞樹が真顔で呟くと吾郷がそれに同意を示す。

「私もそう思います。当時の自分が目の前に居たらどうにかして目を覚まさせますよ。」

「無理だろう。安藤は情が深いから。」

「そうなのですか?」

 即座に答えた瑞樹の一言に吾郷は尋ねる。

「ええ。」

「それは・・・良い事を聞いた。」

 ありがとう、と吾郷は瑞樹に笑顔を付けて言う。

「今は趣味が良いみたいだな。」

 吾郷に笑顔を返した後安藤に言うと曖昧な笑みを浮かべる。

 その笑みに誰も応えることは無く、視線は再び二人の男に向かった。

「栄?」

 瑞樹は安藤の後ろに居るのでその顔は見えない。隣に居る吾郷は何の表情も浮かべていないので吾郷から安藤の様子を量る事は出来なかった。

「はい?」

 男の声に笑いを含んだ声で安藤が応える。

 嬉しくて、楽しくて堪らないのだろう。

 小さな笑い声が漏れる。

「ふふっ。この日が来るのを待っていたのかもしれません。」

 体を椅子に固定された男達の顔が段々と青くなっていく。

 安藤がポケットから取り出したのはバタフライナイフ。

「安藤それ所持禁止品。」

 見付かったらお縄だよ、と笑う瑞樹に安藤が振り向く。

 その目に狂気は宿っていない。吾郷が僅かに息を吐いた。

「あなたに言われたくありませんよ。」

 珍しく肩を竦める仕草をすると、ナイフを振りかざして一気に降ろす。

「うわああああああー!」

 大げさなほど大声を上げたのは年長の方。

「何をするんだ!」

「何って・・・・あなたが瑞樹にした事をそっくり返そうと思いまして。・・・とりあえずは。」

 ね?と笑顔で後ろを見る。

 瑞樹は左の眉を上げるだけで何とも言わない。

「俺が何をしたというんだ!あんなあばずれの息子に何かしたとしても俺が咎められる筋合いは無い!」

「私もあなたに何か言われる筋合いはありませんよ。」

 とても楽しそうな安藤に吾郷は瑞樹を見る。

「まあこんなに楽しそうな安藤を見るの久しぶりだし、いいんじゃない?とりあえず俺はそちらさんを好きにしようかな。」

 一瞬胡乱な眼差しを向けるが次の瞬間吾郷は少しだけ笑って頷く。

「わかりました。俺は新しい情報が入ったら知らせられるように上で待機しておきましょう。必要な人数は?」

「そうですね・・・5人程。では後はお願いします。」

 情欲を秘めた瞳で語る安藤は凄まじい程美しくみえた。

「瑞樹!叔父を見捨てる気か!?」

 叫んだ男の膝に安藤のナイフが刺さる。

「お前ごときが瑞樹を呼び捨てにするな。」

 淡々とした声に隣の男の方が青ざめた。

「安藤〜。煩いから二人とも猿轡しておいて。」

「はい。」

 始終笑みを浮かべる安藤と飄々とした顔の瑞樹。

 二人はやっと自分達がどうなるかを朧気ながら理解した。  

 

「とりあえず、俺達にした事は全て返させてもらうよ。」

 笑顔で安藤の元恋人に微笑んだ後、吾郷の部下の顔を見る。

「この中でS資質で男でも大丈夫な人はいますか?」

 艶のある極上の笑みを浮かべた瑞樹に見惚れながらもその中の2,3人が手を上げる。

「そう、じゃあ、まずこいつから。オヤジも大丈夫な人はこいつを。出来れば複数の方がいいな。」

 その気が無い男達でも極上と言って差し支えない瑞樹に見られながらするという行為にそそられたのか、手を上げなかった男達も加わる。

 この場に居るのは瑞樹と安藤を除いて6人。

 三人ずつが男にのしかかる。

 猿轡をされた二人はくぐもった悲鳴を上げるが既に痛めつけられた体ではろくな抵抗も出来ない。

「俺は始めから強姦だったんだよね。だからオヤジの方はそうやって。安藤は?」

「私も始めはそうでした。でも快感を感じさせるように仕向けられたので・・・・。」

 笑いながら言う安藤からも滴るような色香が流れている。

「じゃあ、そっちはそうするか。一回終わった後にこれを使ってください。」

 渡したのは小さなカプセル。

「直接入れてくださいね。」

「わかりました。」

 しかし、制裁等でするならともかくその気にならなさそうな男に快楽を感じさせるというのは結構キツイ注文である。

「ふふっ。皆さんも大変でしょうから、一つ。」

 唯快楽が好きなだけの女性には出せない色香を持つ安藤が躊躇いがちの男達に微笑む。

「私の目からみて、一番上手く出来た方はその後私がお相手しますよ?」

 傍から見ても極上だと分かる安藤が情欲を称え、微笑みながら言う姿は凄まじい。

「それは、本当ですか?」

 今まで沈黙を守っていた男の一人が掠れた声を出す。

「私が男でも構わないという人なら、ですが。」

 この中には安藤と吾郷が逢瀬を重ねる時運転手を勤めた人間も混じっている。事後の安藤がどんな様子か知っているだけに、生唾を飲み込む音がした。

「頑張って下さいね。」

 6人の男達は俄然やる気を出したようで、我先にと二人に飛び掛っていった。

 醜い声が上がる中、男達は瑞樹と安藤に見られているという一点で本能を掻き立てられて達するのも早かった。

「安藤。本当に良いのか?」

 その様子を眉一つ動かさずに見ながら安藤に聞くと、笑いを含んだ声が返ってくる。

「ええ。私は誰に縛られている訳でもありませんし。それにこれ位のご褒美を上げたい位嬉しいのですよ。」

「そうか。ならいい。」

 猿轡を咬ませられ手首を後ろに縛られてみっともなく悲鳴を上げ続ける二人。

 床には白と赤の混じったものが落ち続けている。

 既に3週目を迎えているので、安藤の元恋人は嬌声を上げているが何の感情も動かされるものでは無かった。

 最後の一人が達し、虚ろな目をした二人を放り出して並んだ6人に安藤が微笑む。

「それでは、一番悲鳴を上げさせられたあなたに。」

 一人の男を指名して、安藤は自分から服を脱ぎ脚を広げる。シャツ一枚だけの姿になった安藤に指名された男は自分の中心を用意されていた濡れタオルで拭う。

「優しいのですね。」

 微笑んだ安藤に男はフラフラと近づき、口元に近づいたが、そのまま止まる。

「大丈夫、キスをしても良いですよ?」

 囁く声に促されて初めは唯触れるだけのものをして段々と深いものへと変わる。

 残りの男達はそれを唯立ったまま見ていた。

 キスをしながらゆっくりと広げた足を男の胴体に絡める。

 絡めた足を、男の情欲をそそるように動かしていると、唇が顔の輪郭を辿り喉仏へと降りる。舌を出して舐め取る動きを見せると安藤が仰け反った。

 唇が半開きになり、半眼の目からは快楽を伝えている。

 ボタンを外して鎖骨から肩の骨、胸、腹へと舌と唇、指が辿り安藤の口から甘い吐息が漏れた。

 安藤の中心にも男は舌を這わせる。

 中心から後ろの其処まで舌を辿らせ、中に入れてまた戻る。

 そんな焦らす様な動きに安藤の手が男の中心に伸びて蠢く。

 周りにもそうしていると分かる動きだ。

 男が達しそうになると手を止めてしまう。

 恨めしげな男の目を笑みで受け止める。

 そして中に指と舌を這わせられて十分だと判断した安藤は男を寝かしつけて圧し掛かり、自らの重さで男のものを体内に沈めていった。

「少しだけ、待ってください、ね。」

 吐息荒く、艶のある目線で言われて男は唯阿呆の様に頷く。

 息が整ってきたのを見計らって男が下から突き上げると、背中が綺麗に撓む。

 声は出なかったが溜息のような吐息が滴る。

 瑞樹はその様子を何の感慨も無く見つめている。

 虚ろな目をした男が小さな声で呟いた。

「栄・・・。」

 その妖しいまでの色香に迷っている男達にその呟きは聞こえない。

 が、瑞樹と安藤にははっきりと聞こえた。

 安藤は男の方を見ると。

 嗤った。

 その笑いさえも妖しく美しい。

 安藤の下で無心に情欲に仕えている男は直ぐに達した。

 その男に優しく微笑みながら自分でソレを抜く。

 うめき声を上げたのは安藤では無く男の方。

「気持ち良かったですか?」

 今までの艶のある姿などまるで無かったかのように慈愛を見せる笑みで男の頬を撫でる。

 男は呆けたような顔で頷いた。

「はい。今までで一番。」

 妙に幼く思える声に安藤はそれは良かった、と声を掛けてから手早く始末する。

 始末するときでさえ、見ている男達の情欲をそそるかのようにゆっくりと自分の中に指を入れて掻き出す。

 置いてあった濡れタオルで拭くと、あっさりと服を着込みその場に立っている男達に微笑んだ。

「では、私達は用がありますので今日はこの辺で。3日後にまた参りますから。」

 お願いしますね、と声を掛ける安藤に男達は呆けた顔で頷いたが瑞樹の声で正気に戻る。

「その間この男達は貴方達で死なない程度に地獄を見せてください。」

「わかりました。」

「ご褒美はその時に、また。」

 頬を染めて言う安藤に瑞樹が目線を遣ったが、黙って背を向ける。

「お願いしますね。」

 嬉しげな安藤もその場に背を向けて歩き出す。

 ドアが閉まった音でその笑みの呪縛から開放された男達は二人に地獄を見せる為に動き出した。 

 

 瑞樹と安藤が地下から出てきたのは入ってから約3時間後だった。

 先に上がってきた安藤に気付いた吾郷が振り向くと、晴れ晴れとした表情の安藤に眉を顰める。

「もう気が済んだのか?」

 訝しげな声で問う吾郷に安藤が微笑む。

「いいえ。ただ、時間が無いので今日はこの辺で。あと、部下の方々に指示を出しておりますが良いですか?」

「こっちも助かる。あいつらは俺に忠誠を誓ってくれている上に有能なんだが、血が好きなやつらでね。こういうのが大好きなんだ。」

「役に立てたのならなにより。」

 現れた瑞樹は、流していた髪を一つに纏め項が露になった姿をしている。

 頬に付いた僅かな血痕がいつもの彼自身とは違う雰囲気を醸し出していた。

 人ではないと言われれば納得してしまいそうな程妖しい艶を纏った瑞樹にその場から誰も動けなくなる。

 そんな中で安藤が脚を動かした。

「瑞樹、血が。」

 安藤が懐からハンカチを取り出して其処に軽く当てるように拭こうとする。

「いい。」

 人差し指で血を拭ってから、それを口に含んだ。

 ゆっくりとした動作で唇から引き抜く仕草は人の欲を一瞬にして掻き立てるもので。

「う・・・不味い。」

 眉をしかめて言った言葉に誰もがほっとした。

「それは血だから、そうでしょう。」

 吾郷が心境を押し隠して言うと安藤の目が吾郷と瑞樹から反れる。

「まあ、そうなんだけど・・・。」

 不満気な声を出す瑞樹に安藤が声を掛ける。

「椎原氏に連絡を取らなくて良いのですか?」

 瑞樹は頷いて携帯を取り出し電話を掛ける。

「どうなりましたか?・・・ああ、うん。・・・・そう。・・・・・・わかりました。では一時間後にそちらに伺います。」

 携帯を降ろすと瑞樹は微笑んだ。

「さて、移動しようか。」

 その一言だけで後は何も言わない。

 大通りまで吾郷の車で移動し、後はタクシー。

 運転手に万札を差し出して微笑む。

「30分以内に着けたら差し上げますよ。」

「・・・任せてください。」

 大通りでは無く、裏道に継ぐ裏道を法定速度を越えて走る。

「瑞樹・・・私にも教えて下さい。」

「後でね。その方が手間が省ける。」

 運転手は相当な腕前だったようで目的地に25分で着いた。普通の腕前では30分はまず無理な場所だったにも関わらず。

「有難う。受け取ってください。」

 正規の料金とは別に万札をもう一枚差し出した瑞樹に運転手は一枚だけ受け取り、残りを返す。

「お約束ですから。」

「じゃあ、これはあなたの連絡先を教えてもらう代金として。」

 微笑む瑞樹に運転手は少し考える仕草を見せた後、眉一つ動かさず自分の名刺を差し出した。

「じゃあ、またね。」

 走り去るタクシーを見送った後、建物の中に入る。

 今日は日曜日。此処はオフィス街。

「此処は?」

「椎原が経営しているフロント企業。」

 裏口らしき場所に回ると其処には一人の男が立っていた。

「お久しぶりです。」

「そうですね。」

 笑顔で挨拶を済ませると、男の案内で地下から隠し扉に入る。

 更に金庫の中を通り、辿り着いた先には椎原が居た。

 何十ものモニターには他の組の内部が写っており、混乱する様子がとてもよくわかる。

「ふうん。何したんだ?」

 瑞樹の声に振り向いた男は嗤った。

「色々、だな。」   

 

「色々、ねぇ。例えば?」

「密輸ルートを警察に流した。」

「普通、相手組織とかじゃないのかな?」

「敵対する可能性のある組織はウチだからな。」

「ふぅん。」

「館川は今署内だからついでの質問もしやすいだろう。」

 嗤うその姿はまさしく闇の住人と言えるもので。

「今時ヤクザなんてマフィアと対して変わらないからなぁ。」

 大変だねぇ、と宥めるように微笑む瑞樹に椎原も頷く。

「義理人情なんて通用しないのが今の世界だからな。館川は能力もあるし、いずれ潰しあう時が来るとは思っていたんだ。それが今になっただけの事。」

 岡本組は違法のものを流す事を法度としていない。

 他の組では法度としている所が多いが、岡本組組長自体が世間では違法とされるもので昇ってきたと言う事もあり、暗黙の了解で許されているのだ。

 それが世間の知る所となった場合はまた別ではあるのだが、今の所そんなヘマをした組はいないので岡本組傘下では収入源の大半が違法なものである。

 ところが椎原は20代後半で組を立ち上げた事もあり、収入源は全て合法のものである。

 二次団体の館川の組と三次団体の椎原の組。どちらも立ち上げて間もないのに上納金はトップクラス。シマも隣り合わせ。

 争いは必須。

「既に敷かれた道を歩いている感は否めねぇが、この手が最善だったな。」

「そうだね。」

「まあ、敷いた本人が本当に棺桶に入ってくれたなら言う事ないんだが。」

「・・・本当にそうだね。」

 淡々とした会話をしていると安藤が横から口を挟んだ。

「追い込んだ状況なのだと言う事はわかりますが、このまま何もしなかったらこちらが追い込まれます。その先はどうするのですか?」

 椎原と瑞樹の間で会話は成立しているらしいが、他の人間はわかっていない。薄々と気付いてはいるのだが明らかにするために口をだした。

「瑞樹が佐々木という男が所属している組が館川の組と敵対させているだろう?」

 椎原が落ち着いた声で話した。

「ああ、はい。そういう事ですか。瑞樹はそれで良いのですか?」

 安藤が瑞樹を見ると、瑞樹は冷めた目でモニターを見つめ続けている。

「俺はいい。私怨はあるがそんな事をしたら俺達の基盤が崩れるからな。」

「あの、すみません。俺にはよく判らないのですが。」

 手を上げたのは椎原の部下。

「お前は相変わらず飲み込みが悪いな。」

 呆れた声の椎原に男が謝る。

「すみません。」

「まあ、いい。工藤。」

「はい。では私から。佐々木が所属している組と館川の組が敵対しているというのは事実なんです。シャバのルートの取り合いで。それでその組が今館川が居る署の近辺にヒットマンを控えさせています。私達が動くのは彼らが失敗した後ですね。失敗しなければこの隙に館川が持っていたものを吸収します。ただそれだけの話ですよ。」

 話は単純だがする事は単純では無い。

「ですから此処でモニターに張り付いているんです。」

 男は納得した顔で頷く。

「ああそうだったんですか。しかし警察署の目の前でなんて凄いですねぇ。」

 感心する男に椎原が哂う。

「花火は華やかなほうが楽しいだろう?」

 その言葉に誰も反応しない。

「悪趣味だな。」

 呆れた声を出した瑞樹は溜息をついて、ソファーに座り込む。

「ちょっと疲れた。」

「しかし、何か色々と仕掛けた割りにあっけないですね。」

 男の一言にその場に居た椎原、工藤、安藤、瑞樹の視線が一気に集まる。

「な、何ですか。」

「・・・・・これからが忙しいんだよ。仕掛けが失敗したら椎原が仕掛け直さなけりゃいけないし、成功しても吸収に動かなければいけないし、この機に乗じて二次団体へ昇格する用意もしなければいけない。忙しいだろう?まあ、俺達も疑われる事は分かりきっているから此処に居るんだけどな。」

「これもアリバイ作り。今度出す店のアドバイザーとして二人を雇ったという書類をつくってあるしな。」

「正規の弁護士を使ってね。」

 溜息を吐く二人に安藤が苦笑した。

「本当に、忙しくなりますね。」

「そうだな〜。あ、俺達はあと数日使うから。」

 何の、とは言わない。

「わかった。岡本組長の事がわかったら連絡する。」

 苦笑が漏れる部屋の中でモニターの場面に動きがあった。

「お、綺麗に当たったな。」

「いい腕してるなぁ。」

 映画のワンシーンのように言うがこれはリアルタイムで起こっている事実である。

「さて、仕掛けが成功した所で上にあがりましょうか。」

 工藤の言葉に全員が頷き、エレベーターに乗る。

 風は此方に吹いているようにみえた。   

 

 瑞樹は警察に呼ばれなかったが、椎原は呼ばれた。

 当然の事だが取り調べは直ぐに終わり、戻ってきた椎原は雑事に追われている。

 館川は意識不明の重態。

 そんな状態が一週間続いたある日の事。

『組長が今朝方息を引き取ったそうだ。今日が通夜になるからお前も安藤と一緒に来いと岡本本家から連絡があった。』

 椎原の開口一番の言葉に瑞樹の眉が寄る。

「それは誰からの電話だ?」

『当然、組長代理の兄貴の方だな。』

 横でそれを聞いていた安藤の眉間にも皺が寄った。

「俺から電話してもかまわないか?」

『大丈夫だろう。』

 それを言うと、通話を切る音がした。

「椎原は忙しいようだな。」

「そうですね。今が正念場でしょうから。」

 二人で見合わせて笑うと携帯を握り直してボタンを押す。

『はい。』

 記憶にあるより落ち着いた声が響く。

「お忙しい所申し訳ありません。ご無沙汰しております、瑞樹です。」

『ああ、瑞樹君か。』

「はい。この度はご愁傷様です。」

『ありがとう。元々病持ちだったからね、覚悟だけはしていたから。優も君に会いたがっていたよ。』

「私はすでに岡本のものではありませんのでそちらの方には敷居が高くて・・・・。」

『そんな事を気にする事は無いからまた遊びに来て欲しい。』

「有難うございます。では折を見て伺わせていただきます。それと、椎原から聞いたのですが私も通夜にとのお話でしたが・・・。」

『ああ、君もウチに長く縁のあった人だし、安藤君もそうだろう?だから来て欲しいと思ったのだが。』

「代理がそうおっしゃるのでしたら伺わせて頂きます。」

『ありがとう。通夜は夕刻からだから。』

「はい。」

『それでは、悪いが忙しいのでこれで切らせてもらうよ。』

「こちらこそお時間を取らせてしまいましてすみません。」

『いや、気にしないでくれ。それじゃ。』

 切れた音を聞きながら、瑞樹が目を細くして宙を見る。

「瑞樹・・・。」

 安藤の優しげな風貌に不安の一文字が過ぎっているのを見ると、安心させるように微笑んだ。

「大丈夫、とは言いがたいけどやれる事はしておこう。夕刻から通夜だ。俺とお前二人で来いだと。」

 硬い表情で頷いた安藤は指示すべき事を既に理解して実行に移している。

 瑞樹も中村、マヤ、などに連絡を取った。

 全てを終えた時にはもう日が傾いており、安藤は最後に電話を掛ける。

 隣の部屋で、密やかな声で交わされる言葉に瑞樹は微笑む。

   (本当は置いて行きたいが、そうしても無駄だろうしな。)

 安藤は心を預けられる人を見つけたのだ。相手も本人も自覚しており、そんな二人を裂く真似はしたくない。

 だが、何を言っても安藤は付いて来るだろうし、置いていっても瑞樹に何かあれば安藤も同じ目に遭うだろう。

 だったら二人の方が良い。

 瑞樹は安藤だけに背中を預けられるのだから。

 細々とした事は全て片付けて、その他は中村に一任している。

 隣室からの密やかな声は止んでいた。

「さて、これが終わったときはどうなっているんだろうな。」

 後ろに佇む安藤に笑ってみせる。

 何があっても大丈夫だと。

 安藤も余裕の笑みを向けた。

 たとえそうでなくても笑ってみせる。

 それが自分達の矜持なのだから。

 黒いコートを翻し、その場を後にした。

 残った微かな二人の匂いは、誰が嗅ぐ事になるのだろうか。

 それは神・・・・では無く、時間が知る事となる。  

 

終わり

 



 





 
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