十三夜





   頭の中でラ・カンパネラが響く。

 口ずさんでいると、運転席から母が笑った。

「瑞樹は本当にその曲好きねぇ。」

「好きだよ。だってこれ凄く早いから弾いていて楽しい。」

 それだけでは無いけれど、この曲が一番好きだ。

 なんて曲だっけ?とクラシックに疎い母は首を傾げる。

「ラ・カンパネラ。鐘って意味だよ。」

「ふうん。何か坊さんが弾いてそうな曲。それより家帰ったらアレ弾いてよ。」

 あっさりと言い切って自分の望みを口にした。

「カノン?アヴェマリア?夜想曲?」

「最後の!」

 いくつになっても子どもみたいな母は自分にとって庇護すべき存在だ。

 教養も知識も無くて、練習中も邪魔する事が多いし家事が下手で殆ど俺にやらせる人だけど、包丁だけは触らせない。

 ヴァイオリンを弾いている人は指を怪我したら大事だと同僚に言われたらしい。

「わかった。」

「うん!それより今日はどうだった?」

「俺を誰だと思ってるの?」

「私の息子!」

「だったらわかるだろう?」

 今日は教師に紹介してもらったヴァイオリニストの指導を受けに入ったのだ。

 遠方なのと謝礼が高いので月に一度しか受けれないけれど、今日はバシバシ扱かれた。

 予定の時間をかなりオーバーしていたけれど、充実した時間だった。

 腹が立つ事も多いけど勉強になるし、楽しい。

 次こそはあの無表情を崩してやる、と毎回思って勇んで行くのだが未だに顔を崩せていない。

 でも次こそ、と闘志を燃やす。

「コンクールまで後どれ位?」

「一ヵ月半。」

「じゃあ、頑張んなくちゃね。」

 音楽をするのはとてもお金が掛かる。

 申し訳ないと思うのと同時に期待されている分だけ頑張りたい。

 俺の一番の観客はこの人なのだから。

 ご機嫌な母を観ながら何となく車の外の景色を観ていると反対車線から大型バイクが走ってくる。

 まだ陽が落ちていない時間という事とバイクの人がヘルメットを被っていなかったので走者の顔が見えた。

(うわー。かっこいい。)

 髪を靡かせ走るその人は逞しい体に相応しい男らしい容貌をしている。

 鉄骨を積んだトラックを牽制するように前を走るバイクがすれ違った瞬間目があった気がした。

 強い光を放つ目に体が震える。

 まるで、始めて満足のいく曲を弾けた時の様な恍惚とした感覚が体の中を巡っている。

(なに?)

 それを感じたのは一瞬で。

 目線でバイクを追っていると。

 突然、曲がり角でバイクが転んだ。

「あっ!」

 叫んだ声に母がバックミラーを見てからハンドルを切る。

 バイクを避けようとしたトラックがこちら側にハンドルを切ったのだ。

 スローモーションの様にトラック後部が迫り、鉄骨が崩れ落ちてくる。

(嘘・・・。)

 



「瑞樹!」

 目を開けると、心配そうにこちらを見つめている人が居た。

「え?」

「大丈夫か?魘されていたぞ。」

 体を支えながら上半身を起こすとミネラルウォーターを手渡される。

 それを半分ほど一気に飲むと頭がすっきりした。

「ああ。うん、大丈夫。起こしてくれてありがとう。」

 微笑むと中村はホッとした顔で微笑み返してくれる。ベッドの端に腰掛けて髪に触れられると、滑りが悪いので汗を掻いたのが分かった。

「いや。昨日が命日だったからな。」

 仕方ないさ、と煙草に火を付けながら軽い口調で言う。

 俺を慮ってくれるその言葉が嬉しくて、ベッドから一旦降りて中村の膝の上に座る。

「ねえ、中村さん。」

「ん?」

 落ちない様に腰を支えてくれている手を掴みながら肩に手を回す。

 バスローブを肩から落とすと、見事な刺青が姿を現した。

「これ、痛かった?」

「そうだなぁ。痛くないといえば嘘になるか。だが、耐えられない程では無かった。」

 淡々と答えてくれる。

 この人は俺に嘘を吐かない。

 そう、約束してくれた。

 多分俺の中で一番信用している人だ。

「栄子はやっぱり来ていた。お前の事心配していたぞ。」

 命日に墓参出来ない俺の代わりに毎年行ってくれる。自分が無理なら腹心の高橋さんが。

 母さんが死んでもう12年も経っているのに未だに命日には墓参してくれる人がいる。

 栄子さんは一番仲の良かった人。数回会っただけなのに未だに俺の事を心配してくれているのが嬉しい。

「俺も心配だがな。」

 脇の下から背中に腕を回して肩に頭を載せる。

 肩には銃創。

 腕にはナイフの跡。

「ねえ、これも痛かった?」

 銃創と傷跡を唇でなぞると、煙草の火を消して頬に手を添えてくれた。

 大きくて暖かい手。

 手に沿う様に頬を寄せると笑い声がする。

「お前は本当に猫みたいだな。」

 笑い声に釣られて俺まで笑ってしまう。

「そうだよ?中村さん猫、好きでしょう?」

 伸び上がる様にしながらキスをする。

「俺が好きなのは瑞樹という名前の猫だけだな。いい加減俺所有にしたいのだが?」

 腹筋の力を見せ付けるように俺を抱えたまま体を反転させた。

 そうして、頭に手を添えながらベッドに再び寝かしつける。

「駄目。待ってくれると言ったのは貴方ですよ?」

「そうだったな。だが、俺が諦めるのを待つのは無しだからな。お前が30になっても40になっても俺は諦めないぞ。」

 言葉では執着と恋慕を伝えながらも、辿る手は優しい。

 俺の負担にならない為にそうしてくれている。

「本当に、どうして中村さんを好きになれないかな。」

 思わず出てしまった本音に優しい声が降って来る。

「惚れた腫れたは本人でもどうしようも無いからな。俺はお前があいつに愛想尽かすのを待つしかないのさ。」

 無理強いはしたくない、と唇に囁かれる。

 月に一度の逢瀬。

 いや、約束か。

 肩と膝の傷跡に触れた後、キスをされる。

「・・・もう一回するの?」

 小波のような感覚に心を委ねながら目の前の大きな肩に手を載せると、微笑まれる。

 三白眼の、普段は一般人が避けて通るような人なのに笑うと可愛い。

「いやか?疲れているならこれで仕舞いだ。」

 頬に手を添えてなぞられる。

「中村さん、優しいから大丈夫だよ。」

 キスをねだると柔らかいキスをくれる。

 さわって、と言うと大きな手で頭の先から爪の先まで触れてくれる。

 優しい快楽、というものがあるならこの人が与えてくれるものがそうなのだろう。

 感覚としては男というより庇護者だ。

 誰よりも優しくて俺を想ってくれている。

 前にその事を言ったら、「俺のものになったら考えが変わるぞ。」と笑われたけど。

「痛むか?」

 半ば意識が飛んでいるのにいきなりそんな事を言われたので、何を言っているか分からない。

「何?」

「肩と膝だ。もう冬が近いから痛むかと思ってな。俺の別荘に行って来たらどうだ?」

 毎年言ってくれる台詞を口にされて、ああもう冬が近いな、と感じる。

「色々あるし、さすがにそこまでは許可されないでしょう。心配してくれて嬉しいけど、それより、ねぇ・・・。」

 膝で中心をなぞるように動かすと苦笑された。

「そうだな。悪かった。」

 再び覆いかぶさって来た背中に腕を回して、与えられる快楽を存分に享受した。





 パソコンの前に座っていると、インターフォンの音がしたのでロックを掛けて電話を取る。

 画面を見ると、三人の男達が立っていた。

「今開けます。」

 玄関に向かって、ドアを開けると全員が黙って入ってくる。

「珍しいですね。昼間から。どうしたのですか?」

「情人の部屋に理由無く来てどこが悪い。」

 無表情のままそう言われたが、理由無しにこの男が此処に来た事は一度も無い。

「それもそうですね。」

 だが、反論できる立場でも無いので黙ってコーヒーを淹れる。

 昼間から訪ねて来るのは始めてで、嬉しいと純粋に思う気持ちと、何か用事があるのだろうと言う思いがコーヒーを淹れる手を少し震えさせた。

 淡々として見える表情を懸命に作りながら岡本の分だけドリップで淹れる。

 三人分のコーヒーを淹れ終えて各自の前に置くと、岡本の座っている正面に立つ。

 コーヒーが飲まれる気配が無いことに、長居をするつもりの無い事が察せられた。

 やっぱり何かあって此処に来たのだろう。

 内心溜息を吐きながら、落胆する心を隠す。

「で、今日は何の用ですか?」 

 どうせこの部屋に居る時間は10分と無いだろう。茶菓子を出す必要は無い。

 用件は分かっていたが、一応聴いておく。

「兄貴が本家に来いとさ。」

「・・・・・優さんですか。」

「そうだ。」

「今からですか?」

「俺が何の為に来たと思っている。」

「・・・そうですね。」

 その場を離れて、部屋着からジャケットとパンツ、薄手のコートに着替えて用意していた紙袋を手にする。

 それから鏡で軽く全体をチェックすると3人が待つリビングに戻った。

「途中でアリアに寄って下さい。」

 一言だけ告げると先に玄関に向かう。

 それを慌てて1人が先に回り玄関を開けてくれた。

「ありがとう。内山さん。」

 岡本の情人に名前付きで礼など言われたことが無かったのだろう、驚いた目をしている。

 その横を通り過ぎてエレベーターの前に立って扉が開くのを待つ。

 鍵はオートロックになっているので問題ない。

 扉が開くと同時に3人が来たので一緒に乗り、地下の駐車場に降りると黒いベンツが留まっていた。

 いつもの事ながらこれは趣味が悪いよな、と思う。

 それも口にすることなく、黙って岡本達が乗るのを見てから後部座席に座ると車が動き出す。

 今日は雨も降って冷え込んでいるので膝と肩が痛む。

 中村の薦める別荘で温泉に浸かっていたらこの痛みは無いだろうな、と溜息が出そうになった。

「昨日は中村の所に行ったのか。」

 静かな車内で岡本の静かな声が響く。

「はい。そういうお約束なのでしょう?」

 外の景色を眺めながら答える。

「幾つになった。」

「26です。」

 岡本の情人になってから10年になるのだ。

 それなのに、中村は俺の過去も誕生日も好みも好きな事も親の墓も知っているのに、岡本は何も知らない。

(この10年、本当に何やってたんだろうな。俺。)

 考えると溜息が出てしまうので普段考えない事にしているのに、年を聞かれたせいか考えてしまう。

 何をしていたかと言うと、唯寝ていただけ。

 しかもこの男とより他の男との方が回数は多い。

 情人というより岡本に囲われた男娼といった方がいいだろう。

 実際、陰でそう言われている事も知っている。

 まあ、16まで本当に男娼をしていたのだから仕方ないが。

 今は数人を相手するだけで済んでいる。

 どうやら岡本の兄が何か言ったらしい。

 それでどうしても断れない筋の人間だけ引き受けている状況だ。

 まともな性癖の持ち主ばかりで俺としては助かっている。

 会話の無い車内から外を眺めていると、目当ての「アリア」が見えたので運転席に向かって声を出す。

「すみません。そこで停まって待っていてください。」

 車は静かに停車する。

 傘も差さずに降りてから店内に入ると、開店したばかりだったので目当てのケーキがあった。

 いつもの様に幾つか注文して焼き菓子の詰め合わせを二つ別に注文する。

「いつも有難う御座います。」

 週に一度は来るので店員には顔を覚えられている。

「今日から新作が出ているのですよ。如何ですか?」

 笑顔で薦められたので、それも二つ追加注文して会計を済ませた。

 明るい声に見送られながら店を出て車に戻ると岡本が眉を顰めた。

 岡本は甘いものが嫌いで、匂いも駄目なのだ。

「何だそれは。」

 不機嫌そうな顔をしても顔の美醜は変わらないのが面白い。

「優さんが好きなものです。手土産に。」

 若頭である兄の大切な人が好きなものと聞いては黙るしかないようだ。

 雨なので窓を開ける事も出来ず、到着するまで岡本はずっと不機嫌なままだった。

 到着すると、数人の男達が出迎えに出てくる。

「お帰りなさいませ!」

 一斉に頭を下げられるが、それに岡本は鷹揚に頷くだけだった。

 だが、それもいつもの事なので誰も気にしない。

 玄関に入ると、スーツ姿の岡本の兄が立っていた。

「どうした兄貴。珍しいな。」

 岡本以外、俺も含めて頭を下げる。

 組長は病気療養の為伊豆の方に居るので実質的に組のトップはこの岡本兄だ。

 その岡本兄がこんな所で出迎えるなんて珍しい。

「いや、この頃お前は家に寄り付かないからな。」

 兄弟そろって美形の二人が揃うと圧巻だが、こんな所で立ち話をしないで欲しい、と頭を下げたまま思ってしまう。

 頭を下げているせいで、足に負担が掛かって痛みがひどくなった気がする。

 いや、この二人を前にしているからかもしれないが。

「30過ぎた男がしょっちゅう実家に帰ってどうする。」

 呆れたように言い返す岡本に岡本兄は鷹揚に笑った。

「まあ、それもそうだな。伊田君。悪いな、わざわざ呼び出して。優が君に会いたいと言ったものだから。」

「いえ・・・。」

「さっそくだが、優の部屋に行ってくれないか?」

「しかし、姐さんに挨拶を・・・。」

「あいつはスイスに旅行に行っていない。子供達も一緒だ。」

 だから、と促されたので一礼して離れに向かう。

 離れはバリアフリーになっており、床暖房完備だ。

 足音が聞こえたのか、沢口という優の世話係が入り口で待っていた。

「わざわざ有難う御座います。」

 極道という世界に身を置いているだけあって隙は無いが、腰はとても低い。

「いいえ。俺も優さんに会いたかったから。それとこれお土産です。」

 低い声で礼を言われると、お茶の準備をするために沢口は去っていく。

 1人で歩いて優の居室の襖を開ける。

 優はベッドの中で、凭れていた座椅子から身を起こしながら備え付けのテーブルから目を離す。

「瑞樹さん。わざわざすみません。」

 口では謝るが、顔はとても嬉しそうだ。

 テーブルの上に広げられているのは新聞各紙に週刊誌、パソコン。

「なに、株をしていたの?」

 優は顔を少し赤らめて頷く。

「この間、瑞樹さんに教えてもらってから楽しくて。」

 横からパソコン画面を眺めると、中々いい線行っているようだった。

「そう。良かったじゃない。暇が潰せて資産も増える。一石二鳥。」

「はい。それでお借りしたお金を返したいと思って。有難う御座いました。」

 傍らに置かれた茶封筒を手渡された。

 中身を見ると、貸した金よりかなり多い額が入っている。

「これ・・・多いよ。」

「そうですか?でも瑞樹さんのお金で儲けたものですから。それにそれを元手に僕も儲かっています。」

 今もですよ?とパソコンを指差す。

 どうやら優には才能があったようだ。

「そう。じゃあ、これは遠慮なく頂いておくね。」

 俺が受け取ってポケットに仕舞うのを見ると、優はとても嬉しそうに笑った。

 汚い事など知らない清純な笑み。

「それよりどこか悪いの?」

 いつもは車椅子に座っているか、椅子に腰掛けているのに今日はベッドに寝ている。 「いいえ。ただ、こんな日は傷が痛むので沢口さんが心配してベッドから出してくれないだけです。」

 優は組の岡本組と他の組抗争に巻き込まれ、勘違いで両親を目の前で殺された。

 本人も下半身不随になり、天涯孤独の身となったのを岡本兄が引き取ったのだ。

 一生涯面倒を見ると宣言されて。

 親を岡本組の人間に殺されたのは同じでも自分とは大違いだと、それを聞いた時内心大笑いした事を覚えている。

 それでも優を恨む気にはなれない。

 事実を隠す為の、庇護という名の監禁生活。

 自分はごめんだと思った。

「そっか。足は治らないのか?」

「そうですね。神経がズタズタだそうですから。」

 あっさりと言っても思うところはあるだろう。

「冬が近づくと益々痛くなるだろう?若頭に頼んで温泉の引いてある別荘地にでも連れていってもらったらどうだ?」

「温泉、ですか?」

 首を傾げる。

「行った事無いの?」

「昔は行った事ありますが、この足になってからはありません。」

「痛みが和らぐよ。伊豆なんか魚は美味しいし、温泉気持ちいいし、お勧めかな。」

「あの・・・瑞樹さんもどこか怪我をされた事があるのですか?」

「俺?どうして?」

「だって、冬に痛くなるとか温泉に詳しそうだし。」

 揶揄ではなく、心配してくれているのが分かるので苦笑してからパンツの裾を膝まで捲る。

「これ。8歳の時に交通事故にあって。後は肩。」

 軽い口調で言ったが、優は痛そうな顔をしていた。

「大丈夫だったんですか?」

「俺はね。半年入院してた。」

 ドアをノックする音がした後、沢口が部屋に入ってきた。

「失礼します。優様、瑞樹様からケーキと焼き菓子を頂きました。」

 絶妙なタイミングで声を掛けられて優の意識はそちらに向かう。

「えっ。有難う御座います。僕が呼び出した様なものなのにお土産まで頂いて。」

 恐縮しつつも美味しいそうなケーキに目を輝かせている。

 沢口はケーキと紅茶をテーブルにセットし終えると、優を抱えて椅子に降ろす。

 それは二人にとって当然の行為の様で、優も抵抗しない。

 捲ったパンツを元に戻しながら自分も優とは対面になる位置に腰掛ける。

「沢口さんも食べませんか。」 

 誘うと、一瞬迷ったようだったが一礼して座った。

「ではごちそうになります。」

「ケーキ一つでそんな事言わなくても良いですよ。」

 優は嬉しそうにケーキと摘んでいる。

「何か3人っていいですね。」

 1人の食事が美味しくないのは分かるので頷くと、沢口が気まずそうに目線をそらす。

「どうしたんですか?」

「いえ。自分の立場上優さんと食事をするのは憚られますが、お1人の食事が嫌だとは思わなかったので。」

「だったら食事中は傍に居てあげれば良いと思いますよ。」

 ねえ、と優を見ると満面の笑みで頷かれた。

「出来ればこれからそうして欲しいです。」

 透明感を帯びた容貌と雰囲気に優の周りから癒しオーラが出ている気がする。

「いいなぁ。綺麗な笑み。俺も欲しいよ。」

 そんな雰囲気を持っていたら自分の人生や周りの反応も違っただろうかと思ってしまう。

「え?瑞樹さんの方が綺麗ですよ?僕瑞樹さん以上に綺麗な人を見たこと無いです。」

 テレビでも居ないですよ!と妙に力説して言われてしまったので、笑ってしまった。

「沢口さん。始めて知ったけど、優って天然なんですね。大変だ。」

 いえ、と返事を返す沢口はこちらを見なかった。

 持ってきた本やDVD等を渡すと部屋を後にする。

 また来てくださいね、と笑顔で言われたので頷いて、庭を通りながら岡本の車をチェックする。

 どうやらまだ居るらしい。

 いつもならとうに帰っているのだが。

「どうしたんだろう。」

 考えても埒が明かないので、掃除をしている構成員に声を掛ける。

「すみません。」

「はい。」

 顔を上げてこちらを見ると嫌そうな顔をされた。

 だが、そんな事はいつもの事なので気にしない。

「岡本さんにこのまま帰っていいか聞いてきてもらえますか? あ、若頭でお兄さんの方です。亮二さんには分からない様にお願いします。俺には・・・ここは敷居が高くて。」

 最後に付け加えた言葉に当然だろうと言う顔をされたが、頷き去っていく。

 程なくして戻ってきた男は無表情のまま良いそうです、と答えた。

「そうですか。態々有難う御座いました。」

 軽く頭を下げて頭を上げると、相手の顔には嫌悪感が溢れている。

「・・・そんな、顔に出易かったら出世出来ませんよ?」

 苦笑しながら言うと、相手は腹が立ったのか思い切り睨み付けられた。

 殴りかかられる前に退散しようとその場を足早に去る。

 門を出ると、若干下を向きながら駅に向かって歩く。

 普通、情人なら警護が付くのだが俺は長いし、もう長い事岡本自身に抱かれていないせいもあって警護は付いていない。

 セキュリティーのしっかりしたマンションに住んでいる位だ。

「本当に、俺何やってるんだろう。」

 口に出して自嘲しても何も変わらない。

 段々歩くのが面倒になってきたので、大通りに出てからタクシーを拾う。

 外はまだ陽が落ちていない時間帯だったが、仕事帰りの会社員などが目に付く。

 普通に暮らしている人達が羨ましくないと言ったら嘘になるけれど、この生活以外選択肢は無かったのだから今更だ。

 10分程でマンションに着いて、部屋に入るとパソコンに向かう。

 昨日会ったときに頼まれた事務作業を2時間程で済ませると、それを印刷してデータを消去してからパスワードを打ち込み、コンビニに夕食の調達も兼ねて向かう。

 家にもFAXはあるのだが、殆ど使わない。

 中村に仕事を頼まれた時はコンビニでFAXする。

 手早くFAXすると、夕飯用の弁当を買う為に籠を持って店内のお弁当のある場所に向かう。

 今日はおにぎり3個だ。焼肉、タラコ、高菜。それと朝食用のヨーグルト。お茶とするめとミルクパン、ウイスキーを購入して店を出る。

 帰り道、公園の中に入ると、待っていたかのように猫が2匹来る。

 それにパンを千切って与えながら周囲に誰も居ない事を確認し、水飲み場に行って紙に火をつけた。

 燃えカスになったそれを水で流してからまた猫にパンを与える。

 全部千切って遠くに投げると猫はそちらへ一目散に駆けていった。

「猫は元気だなぁ。」

 独り言が多いのは自覚しているが、言った自分が年寄り染みた様に思えて嫌だったので渋面を作って再び帰路に着く。

 マンションの前には高そうな外車が停まっていた。

 ここは客人用の駐車スペースもあるマンションなので、こんな事はめったにない。

 少し警戒しながら目の前を通り過ぎたら、ドアの開く音がした。

「あなたが瑞樹さん?」

 出てきたのは水商売風の気の強そうな美人。それと後ろに岡本組の構成員。

「人に聞く前に自分の名前を名乗ったらどうですか?」

 俺の言葉に男の方が前に出て俺の胸倉を掴む。

「てめえ、亜里沙さんに何て口を聞きやがる。この男娼風情が!」

 亜里沙と言われた女の方はその様子を笑いながら見ている。

「と言うことは岡本の新しい情人?」

 亜里沙の顔が勝ち誇った顔をした。

「いいえ。妻よ。」

「・・・聞いてません。」

 せっかくの美人が台無しな程、亜里沙は醜い顔をした。

 嫌悪と侮蔑と人を馬鹿にした顔だ。

「そう。でももう直ぐ言われる筈よ。だって私、妊娠しているもの。別れを告げられる前にさっさと立ち去ったらどうなの?」

「そんな事言われても俺の一存で決められません。」

 嘘である。叔父が俺を売った金の分だけ俺は働いたと思うし、岡本の兄に頼めば開放されるだろう。

 だが、せめて諦めが付くまで少しでも傍にいたいと思ってしまう。

 俺がショックを受けて頷くとでも思ったのだろう。淡々と告げた俺に亜里沙の手が出た。

 爪が頬を抉って痛みが走る。

「男妾なんて目障りなのよ!私と岡本の為にも今直ぐここを出て行きなさい!」

 頬に手を当てると血がベットリと付いた。

 何も言わないでいると、男が俺の腹を思いっきり蹴り上げた。

 受身を取れずにモロに腹に入り、うずくまると今度は背中、腕、頭、足と容赦なく蹴られる。

 痛みに感覚が薄れて来たとき、腕に激痛が走った。

「いっ・・・・つぅ!」

 見ると右腕が逆の方向に曲がっている。

 亜里沙の笑い声が頭に響く。

「早く出て行かないと、次はもっと嫌な事をしてあげる。そうねぇ。男娼のあなたに相応しい方法で。岡本もあなたが邪魔だと言っていた事だし?」

 男を促して亜里沙は去っていった。

 体の痛みよりも最後の一言が響いた。

 亮二さんが俺を邪魔だと言っていた?

「傍に居る事も駄目なのか?」

 痛みが深いのか、言葉の刃が深いのか自分でも分からなかった。

 俺はどうしたらいいのだろう。




 目を覚ますと、白い天井が見える。

(どうしてここにいるんだろう。俺はまだ夢の中なのだろうか。)

 光差す方を見ると、窓から見える樹に鳥が留まっている。

 実に爽やかな景色だ。

 皮肉な程に。

「気が付かれた様ですね。」

 声の方を向くと、常に中村の傍に居る行田がこちらを見ていた。

「行田、さん。どうして此処に?」

 岡本が付けた人間ならともかく、中村の人間なんて・・・。

「この事、岡本は知っているのですか?」

「ご心配無く。中村が別荘に誘った事になっています。岡本は二つ返事でしたので。」

 いつもの様に淡々とした声を聞いていると、少しだけ動揺した気持ちが落ち着く。

「本当は中村が傍に居たがったのですが、いかんせん多忙の身でして。」

「当然です。組織の長がたかが男娼風情の怪我で仕事を放棄してどうしますか。」

 中村だったらそうしてくれるだろうという、そうしたがったという事に嬉しさを感じるが、彼は組織のトップなのだ。

 俺の言葉に滅多に笑わない行田が笑った。

「私も瑞樹さんだったらそう申し上げるだろうと言いました。

今直ぐにでも退院したいと思っていらっしゃるなら、中村の別荘にお連れしますが。」

 病院に良い思い出が無い事を知っているこの人は俺を気遣ってくれているらしい。

「そうですね。・・・どうしても無理なら諦めますが、担当医に聞いてきてもらえますか?」

 病院独特の匂いとこの天井を見つめているとどうしても滅入ってしまう。

 出来るなら此処じゃない方がいい。中村に迷惑を掛ける訳にはいかないからマンションに戻った方がいいだろう。

「あと、中村さんの別荘には行かずマンションに戻ります。」

「駄目です。岡本には別荘に行っていると説明しているのですから。

温泉も引いてありますから気持ち良いですよ。それにこの頃過労気味の者がおりますのでお世話と称して休ませる事が出来ます。

こちらとしては瑞樹さんの別荘行きは諸手を挙げて歓迎しているのですよ。」

 淡々とした声は本当にそう思っているのか、俺を気遣っているのかわからないけど甘えることにした。

「じゃあ、お言葉に甘えて。」

「分かりました。では担当医に交渉して参りますのでお待ち下さい。」

 行田が席を立つと共に、中村が俺を向かえに来る時に運転手を勤めている男が入ってきた。

「大丈夫ですか?」

 いつも無表情だが、男娼を向かえにいったりするのは嫌だろうと思っていたのに今日は笑顔だ。

「え・・・ああ、うん。大丈夫です。」

 笑顔で返すと顔を顰められた。

「でも酷い奴もいるもんですね。そんな綺麗な顔、俺だったら殴れませんよ。・・・あ、他意はありませんから!惚れてるとかそういうのじゃなくて・・・。」

 表情がコロコロと変わるのが面白くて思わず笑ってしまったら、顔と腹が痛む。

「すみません!笑わせるつもりは無かったんです。」

 焦りが顔に出てオロオロとし出したので、それを手で制す。

「大丈夫。そんなに心配しなくていもいいですよ。えーっと。」

「加藤です。」

「加藤さん、俺は道端に倒れた筈だから誰かが通報してくれたんですよね?」

「それ、俺です。行田に兄貴から瑞樹さんにサインを貰わなきゃいけない書類があるから行って来いって言われて、来て見たら瑞樹さんが倒れていたので兄貴に相談してここに運んだんです。
ここだったら知り合いの先生が勤めているらしくて多少の融通が利くとか何とかで。」

「そうだったんですか。有難う御座います。驚かれたでしょう?」

「まあ、これでもヤクザですから。でもやっぱり驚きました。」

「加藤さんって、俺はずっと無口な人だと思っていました。」

「運転している時とか組長の前だと緊張しますからね。これが素です。」

 あはは〜、と笑う顔は無邪気そうに見えるが野心が見えた。

「・・・俺に取り入っても何も無いですよ?岡本からは見捨てられるみたいだし。」

 笑みを浮かべながら何でも無い風に装って言うと、加藤の顔が真顔に変わっている。

「貴方は自分の価値を分かっていない。岡本の坊々はもっとわかっていない。
あなたが組長と行田の兄貴の手伝いをしてウチの組はどれだけ助かっていると思いますか?株とかそういうのじゃなくて、アドバイスや信用出来る人しかできない仕事をしている。
そういう人材は探しても早々見つかるものでは無いという事を知っていますか?
組長のお気に入りだからといって驕り高ぶる事をせず常に冷静、客観的な意見を言える。修羅場に対応出来る。
権力のある人に愛される存在でここまで出来る人はそうそう居ない。ウチでは貴方を悪く言う人は居ません。岡本組の馬鹿とは違いますからね。」

「・・・もしかして俺、褒められていますか?」

「それもありますけど、ウチでは貴方を正当に評価していますと言いたかったんです。ちなみに取り入る気満々ですから!」

 ここまで明るく言われると清々しい。

「加藤さんも運転手として別荘に行く予定ですか?」

「どうでしょうか。俺温泉って行った事無いんですよ。行田の兄貴に瑞樹さんから俺を運転手にする様に言ってくれませんか?ほら、腕は知っているでしょう?」

 笑いながらハンドルを持つ真似をする。

 確かに加藤の運転は上手かった。

「じゃあ、行田さんに言っておきます。」

 俺の言葉に嬉しそうに頬を掻いていると、想像していたより加藤は若いのかもしれないと思った。

 病室をノックする音がしてドアが開くと、行田が白衣を着た青年と共に入ってくる。

「伊田さんお加減は如何ですか?」

 優しい声が降りて来た。

「大丈夫です。」

「目が覚めたばかりですから無理はしない様に。右腕以外は折れていませんが、暫く痛むでしょう。

療養地が温泉という事ですので許可は出しますが、薬はキチンと飲まれてください。あと、塗り薬と湿布等を纏めて行田さんに渡していますから。」

「有難う御座います。会計はカードでも大丈夫ですか?」

 退院出来ると分かると気になるのは会計だ。外を見る限り朝だという事は一日入院。・・・幾ら掛かるんだろう。

「その点はご心配なく。瑞樹さんは今月こちらの病院に掛かっていたので保険証を取りにいく手間も要らなかったものですから清算済みです。」

 淡々とした口調で行田が横から口を出す。

「という訳です。伊田さんは何の心配も要りません。身体を治す事だけ考えてください。何かあったらすぐに最寄の病院でも良いので行って下さい。」

 じゃあ、お大事にと医師は去っていった。

「あの先生、行田さんに似ていましたね。」

 加藤が小さな声で言ったのが聞こえた行田が頷く。

「弟ですから。」

 ほえ〜、と加藤が情けない声を出す。

「弟さん、優秀なんですね。」

「愚弟ですが。」

 医者になれる程の頭脳を持つ弟がどうして愚弟なのか理解に苦しむが、兄弟を持たない俺には何の言い様も無い。

「そう、ですか。あの、行田さん。」

「はい。」

 行田は俺の傍らに寄り、椅子に座る。加藤は空気を察して出て行こうとするが制した。

「加藤さんも聞いてください。この怪我は岡本亮二の情人亜里沙が岡本組の下っ端にやらせたものです。 それと亜里沙は岡本の子どもを妊娠したと言ってました。それだけで亜里沙の事とその周りの事を調べられますか?加藤さんも。

あと、亜里沙にやられた岡本の情人も。淳子さんは俺の方から電話したら良いので他の人を。」

 行田と加藤は頷いた。が、加藤が首を傾げる。

「俺みたいな下っ端が調べても大した事は分からないと思いますが。」

「加藤さんずいぶんと女性に人気がありますよね。特にホステスの方。それと黒服の人とも仲が良いようで。」

 行田が加藤を見ると、加藤の額に汗が流れる。

「分かる範囲でがんばって調べますので!」

 満面の笑みだが顔が引き攣っている。

「ではお願いします。」

 既に用意されていた車椅子に行田と加藤の手を借りて車まで行く。

 自宅に寄って貰い、普段着に着替えてから一週間ほどの着替えと中村から貰った物やノートパソコン、貴重品を入れると結構な大きさになった。

「これで全部ですか?」

「はい。多くてすみません。重いでしょう?」

「いいえ。こう見えて俺は力持ちですから。」

 笑顔で答える加藤は車までもう1人と一緒に車まで行き、見送ってくれる。

「じゃあ、調べ終えたらそちらに行きますので。」

「お願いします。」

 運転手は見たことの無い人だ。

 助手席に行田が乗ると動き出す。

「行田さん、電話しても良いですか?」

「はい。どうぞお気になさらず。」

 すぐに携帯から電話を掛ける。

 10コールの後電話越しでも艶のある声が出た。

『はい。』

「瑞樹です。」

『瑞樹さん。どうしたの?もしかして・・・。』

「そうです。純子さんは大丈夫ですか?」

『大丈夫も何もマンションの前で待ち伏せされていてね。お陰で二週間は店に出れそうに無いのよ。まったく顔を狙うなんて最低よ!』

 溜息と共に憤慨する声が疲れを感じさせる。

「他の人は大丈夫でしょうか。」

『そう言っても・・・この頃岡本は古い情人を切っていたからどうとも言えないわ。 知っている子には連絡取ったけど、岡本と切れて半年以上経っているから被害は無かったようよ。』

「岡本の子が出来たと言っていましたが。」

『それも本当かどうか分からないわ。今ウチの店の子達が調べてくれているから分かったら連絡するわね。』

「有難う御座います。俺の方も頼んでいますから分かり次第電話します。」

『・・・FAXじゃ駄目かしら?』

「あのマンション、岡本所有なんですよ。」

『そう。じゃあ電話にするけど。メールの方がいいかしら?』

「そうですね。メールの方が良いでしょう。俺の方は右腕が折れているので電話にしても良いですか?」

『まあ、腕を折られたの?』

「はい。でも綺麗に折れているそうですから直りは早いと思いますよ。」

『そう。じゃあ、お大事に。』

「淳子さんも。」

 電話を切ると、パソコンを開いてメールをチェックする。

 返信が必要なものには返事を書き、要らないものは消去する。

 右手が使い難いせいでいつもの何倍も時間が掛かってしまった。

 全て終えて、片付けると行田がミラー越しに此方を見ている。

「大丈夫ですよ。痛み止めも飲んでいますからそう痛くは無いですし。」

「そうですか。・・・淳子という女性は【ノアール】のママですか?」

「はい。俺より長いですよ。といってももう殆ど切れている状態だそうです。 他に恋人も居ますから。もちろん岡本も承知していますよ。情人というよりアドバイザーの役割をしています。」

「淳子ママの所にも亜里沙が言ったと仰っていましたが。」

「顔を叩かれたみたいです。二週間位は店に出れそうに無いと言っていたので結構強く叩かれていますね。あ、休憩に寄って貰えますか?」

 運転手は低い声で了承すると、車は左折して駐車場に止まる。

「行田さん。運転してくださっている方を紹介してください。」

 病院から出る時は車椅子を使ったけれど、脚は捻挫程度なので歩けない事は、無い。ので自分で車から降りて行田に頼んだ。

「はい。自分の配下で市川です。」

「市川さん。ご挨拶が遅れてすみません。伊田瑞樹といいます。道中よろしくお願いします。」

 頭を下げると、上手くバランスが取れずに身体が傾いた。

 それを市川が支えてくれる。

 容姿は普通だが縦横あって迫力がある。

「有難う御座います。」

 笑顔で礼を言うと、眉が少し顰められた。

「いえ。当然の事です。何かあったら遠慮なく言ってください。」

 岡本組の人間から発せられる負の感情の雰囲気は欠片も無く、冷静に仕事をこなそうという気持ちが伝わってくる。

「多分本当に遠慮なく言うと思いますよ。」

「その方が自分は助かります。無言で相手の意図を測るというのが苦手ですから。」

 真剣な表情の為、冗談なのか本気なのか分からなかったが好感が持てた。

「良い部下をお持ちですね。」

 行田に言うと、初めてと言って良い程彼はうっすらと微笑む。

「有難うございます。人を見る目のある瑞樹さんに言ってもらって光栄ですよ。さあ、ここは冷えますから中に行きましょう。」

 促されるが、俺のテンポに合わせて歩いてくれる。

 中の売店で干物や饅頭、酒、飲み物、お土産用のお菓子などを買い込んで、表に出ている店で揚げ物や肉まん、焼餅も買い込む。

 そのまま近くのベンチに座って食べようとしたら二人に止められた。

「せめて車の中で食べてください。怪我人だという事を忘れていませんか?」

「こういうのは外で食べるから美味しいのですよ。」

 買ったものの中から二人に促すと、溜息をして揚げ物を口に入れる。市川は一礼してから。

「ね?美味しいでしょう?」

「本当ですね。こういうものは不味いと思っていました。」

「ここの揚げ物は昔から美味しいですよ。俺も食べるのは久しぶりですが。」

 熱々の鰯天にかじりつくと、鰯の味が口に広がる。

「久しぶり、ですか?」

 市川はどうやら顔に出やすい性格らしく、疑問が顔に出ている。

「かれこれ17年ぶり、かな。遠出なんて出来なかったら。これぞ怪我の功名。」

 17年前此処に寄った時、母と二人で買ったのを思い出す。あの時は二人で一つだった。

 味わいながら一通り三人で食べ終えると残りを一つの袋につめて車に戻る。

 静かに動き出した車の中で流れる風景を楽しんでいると、行田が珍しく躊躇った声で話しかけてきた。

「瑞樹さんは憎くは無いのですか?」

 中村の代わりに母の墓に行ったこともある行田はずっと疑問だったのだろう。

 躊躇いつつもはっきりとした声だった。

「憎いですよ。でも・・・好きになったのが先だったんです。笑いますか?」

 いいえ、と静かな声で言われる。

「俺が目を覚ましたのは事故から二週間後でした。退院出来る頃には全てが終わっていて、俺は何も知ることが出来なかった。 母さんが死んだ事もショックだったし、ヴァイオリンがもう弾けない事にも絶望を感じたんです。警察の人も方通りの事をか聞かなかった。 今考えたら裏で岡本組が色々動いたんでしょう。動いた警察の人間も俺が証言台に立てないように急いで終わらせた。 俺は、身代わりが出頭したことも知らなかったんです。だから、事故だといっても仕方ないと思った。相手は罪を償っているのだからと。叔父に引き取られた後はご存知でしょう?」

 エンジン音だけが響く車内で俺の溜息が大きく聞こえる。

「だから岡本組に売り飛ばされてもなんとも思わなかった。俺が売れてきて岡本が手を出したとき初めて知ったんです。服役しているのは本人じゃなく身代わりだって。 あの時は本当にショックだった。また逢えた事と罪を償わずに居るという事実に混乱して。何回か逢った後聞いたんですよ。 織部栄子という女性を知っていますか、って。俺の母の名前です。岡本は覚えてもいなかった。「そんな女は抱いてない」と言われました。その時が一番憎かったかなぁ。」

 今は分かりません、と笑って言うと助手席から行田が静かで柔らかな声を出した。

「そうですか。中村が、瑞樹さんの事を蓮の花の様だと言っていました。」

「蓮の花?」

「泥水の中で美しく咲く花だと。」

「俺は綺麗じゃないですよ。」

「泥の中だって綺麗じゃない。泥の中でも美しく咲けるという意味だと思います。」

「常に思っているのですが、中村さんって俺のこと過大評価しすぎだと思いますよ。」

 笑って否定すると、市川が横から一言だけ言った。

「自分も会長の言う事に納得しました。」

「・・・中村さんの下にはロマンチストが多いね。」

 苦笑が漏れてしまう。

「ああ、行田さん。水谷さんをご存知ですよね?」

「銃製造の水谷ですか?」

「そう、その水谷さんです。俺は水谷さんの番号を知らないので、伝言をお願いしても宜しいでしょうか?」

「分かりました。」

「”岡本の情人亜里沙経由の注文があった場合、チタンの特別製を作ってくださいと瀬戸瑞樹が言っていた”と。」

 行田は一瞬沈黙した後、口を開いた。

「チタン製、ですか。」

「はい。そう言えば分かりますから。」

 笑みを浮かべて言うと、行田は意味が分からないままでも頷いて、了承した。

「では、本日中に伝言しておきます。」

「お願いします。」

 怪我したばかりで身体が疲れているのだろう、眠くなってきたので目を閉じると小さな音で音楽が流れ出す。

 トロイメライ。落ち着いた音が流れる中ゆっくりと夢路を辿った。



 

   別荘に着くと、中から二名出てきて出迎えてくれた。

「道中お疲れ様でした。」

 1人は料理人らしく腕を捲くっている。

 もう1人は中村と逢う時に何度か見た顔だった。

「白石さんと・・・こちらは。」

「始めまして、古浦と申します。瑞樹さんの滞在中お世話させて頂きます。」

 柔らかな物腰とそれに合う顔をしている。

「こちらこそ始めまして瑞樹と言います。今回は皆さんに迷惑を掛けると思いますがよろしくお願いします。」

 二人とも丁寧に挨拶を返してくれた後、白石が俺を軽々と抱えた。

「脚を怪我されたそうで。こちらでは出来るだけ歩かない様にお願いします。」

 きっぱりと言われてしまうと、抱えられる事に抗議できない。

「じゃあ、お願いします。」

 市川と古浦が俺の荷物をトランクから出して中に運んでくれる。

 別荘は広々としていた。フローリングの床は玄関も廊下も広く部屋数も多い。通された部屋は和室だったが、暖かそうなラグが敷いてある。

 そこにゆっくりと下ろされて周りを見ると、窓からは紅葉の美しい山々が見えた。

「うわぁ。綺麗ですねぇ。」

 こんな綺麗な景色は本当に久しぶりだ。

「喜んでいただけたようで何よりです。それとパソコンの作業はこちらでお願いします。」

 窓の前に部屋の雰囲気に合った机が置いてある。デスクトップと共に設置されている機器を見ると、ネットも繫げるようになっていた。

「有難う御座います。」

 礼を言うと、笑顔で返してくれる。

 食事の時間まで間があるというので、風呂に入ることにした。

 10人位入れそうな石風呂で、一面ガラス張りの外は露天風呂になっていた。そこは小さな日本庭園になっており、贅沢な気分にさせてくれた。

 身体の痛みがゆっくりと解れるようで気持ちも落ち着く。身体に咲いた様々な色の花は客観的に見てかなり痛々しい。これを中村が見たら怒るだろう。

 顔にもある事は分かるが、見ないようにする。

 30分も浸かると身体は温もり痛みも軽減した様な気分になるから不思議だ。実際にそうかもしれない。

「温泉っていいなぁ。」

 嵌りそうだと呟きながら髪をドライヤーで乾かす。マイナスイオンで髪が痛まないドライヤーなのだが、誰が置いたのだろう。切実な誰かだろうか。

 浴衣に着替え脱衣所から出て部屋に戻ると、行田が入室を伺う声を出す。

「どうぞ。」

 火照った身体を開け放たれた窓からの風に晒しながら行田を見ると、一瞬目を見張るが何事も無くこちらに近づく。

「温泉って始めて入りましたが、いい物ですね。」

「それは良かったです。特にここは傷口などに良く効く温泉らしいので。近場ですし、たまには利用してください。」

 話しながら手元の書類を見る。

「報告が上がって参りましたのでご報告を。まず、伝言を伝えると「了解しました。」と言われました。既に依頼されていたようです。
次に亜里沙という女の件ですが、翼竜会傘下の店でした。3ヶ月前、岡本氏が接待で店を訪れた際に亜里沙から迫ったようです。情人というのも本当でした。ただ妊娠しているかどうかまでは確認できません。」

「・・・つまり病院に行ってないと。」

「そこまでは分かりません。」

「ああいうタイプの女はそれが本当なら既に岡本に言っているだろうし、仲間内に自慢している筈です。証拠が欲しいならエコーの写真や母子手帳というものがあるのですからそういうものを見せびらかすと思います。」

「それが無いという事は・・・。」

「まあ、憶測ですがね。」

「はい。あと、瑞樹さんと純子ママの他に暴行を受けたはエリという女性だけでした。」

「エリさんは岡本お気に入りだからね。でもエリさんにしたら直ぐバレるだろうに。」

「エリの場合は顔を軽く叩かれただけのようです。」

 それが何を意味するか。一目瞭然である。

「亜里沙は頭軽いのかな。」

「でしょう。今上がってきた報告は以上です。詳細は此方に。といっても今話した以上の事は書かれておりませんが。」

「分かりました。お手数おかけしまして。」

「いいえ。もう直ぐ昼食が出来上がると言われたので今丁度良い頃合でしょう。参りませんか?」

 立ち上がりながら差し伸べられる手を使って立つ。

 ゆっくりとしか歩けない歩調に合わせて行田も歩く。

 たどり着いた食堂にはそれぞれがそれぞれの笑みを浮かべて待っていた。

「すみませんお待たせして。」

「いいえ。丁度出来上がった時だったのでよかったです。」

 大皿に盛られた海の幸がとても美味しそうだ。

 促されて座った席には小さな土鍋が置かれている。

 手を合わせて蓋を開けると、雑炊だった。

 葱や卵と一緒に入っている魚らしきものは河豚だった。

「今日無理を言って退院されたばかりだと聞いたので、一応雑炊にしてみました。お刺身もありますが少しにしておいてください。」

 古浦が微笑みながら小皿に刺身を置いてくれる。

「凄く美味しいです。こんな豪華な雑炊食べたの初めてだ。」

 美味しいものを誰かと食べると幸せになれる。

「古浦の腕は確かですから。」

 行田も古浦の腕を褒めながら椀物を啜る。

 市川と白石は豪快な食欲を見せてくれた。

 和やかに食事をし、幸せな気分のまま布団に入る。

 水差しを持ってきてくれた古浦が窓を半分閉めながら囁く様に言った。

「ここには貴方を害する人はいませんので、どうぞゆっくりと身体を治してください。」

 もう半分目が閉じかけていたので寝たままの状態で頷くと、古浦は微笑みながら去っていく。

 暖かい日差しの中、柔らかな眠りが訪れた。 



 滞在したのは二週間。

 その間、本当に何不自由無く過ごせた。

 心がここまで凪いだのは始めての事で幸せだと思えた。

 そんな日々は唐突に終わりを告げる。

 戻っていた行田が訪れて報告したのだ。

「館川が戻ってきました。」

 館川。17年前の事故の際岡本の代わりに服役した男だった。

 出所した後、海外を拠点に仕事をしていると聞いていた。

 その男が戻ってくる。

 それに・・・。

「岡本から戻ってくるように連絡が入った。」

 小さく呟くと、行田は一礼して市川達に荷物を纏める様に指示を出す。

 揺れる気持ちは何に揺れているのだろうと、自分の心なのに問いかけた。

 俺名義で部屋を借りてくれる様に頼んでおいたマンションに着いて、荷物を軽く片付けるとスーツに着替えて岡本本家に向かう。

 車は呼ばずにタクシーで。

 本家の近くで降りてからそこからは徒歩。

 途中で買った手土産を片手に戸を叩く。

 すぐに構成員が出てきて中に入る。通された部屋には既に純子さんとエリが座っていた。

「瑞樹さんお久しぶりです。」

「大丈夫だったの?」

 23という年の割りに落ち着いているエリと艶のある純子に心配されながらの挨拶に笑顔で答えた。

「お久しぶりですエリさん。純子さんも。俺は大丈夫です。お二人こそ大丈夫でしたか?」

 今の所、亜里沙を除く情人は俺を含めてこの三人。

「見当はつくけど、いきなり切られるのはちょっと迷惑ねぇ。」

「そうですね。次のパトロンを急いで見つけないと。純子さん二号店出すと聞いたんですが、私を雇いませんか?」

「雇いたいけど貴女売れっ子だからお店が良いと言わないでしょう。」

 淡々とした、でも強い二人に笑みが零れてしまう。

「お二人とも強いですね。」

 二人は妖艶に笑っているだけだった。

 少しの間世間話をしていると、構成員の1人が先導して岡本と亜里沙が入ってきた。

亜里沙はまったく似合っていない大島紬を着て不恰好な歩き方をしている。

それにエリが一瞬噴出しそうになったが純子が足を指で抓んで堪えた。後ろには館川が控えている。

「三人共、突然だが切れてほしい。」

 前触れも無くいきなり言われた。驚いた顔をしているのが考えもしなかった事だと思ったのか岡本は言葉を続ける。

「この亜里沙に子どもが出来た。だから切れてくれ。金はここに用意してある。瑞樹はウチからの解放というのが手切れ金代わりだ。」

 純子とエリは黙って、差し出された封筒をバックに直す。

「わかりましたこれから一切こちらの組とは係わり合いになりません。」

 エリはきっぱりと言い切る。

「シマなのでそれなりに関わるとは思いますが、伊藤を通します。それでよろしいでしょうか?」

 純子は自分の店の黒服の名前を出す。

「俺も異存ありません。一週間以内に部屋を出ます。今までお世話になりました。」

 丁寧に一礼すると、横で純子が眉を顰める。視線を辿ると館川が俺達を凝視していた。

 エリも視線に気付いて俺を一瞬見る。目を合わせて少しだけ微笑むと、それを見た純子が岡本に妖艶に笑いかけた。

「しかし岡本さんも物好きですねぇ。いくらその女が好きだからといって他人の子を自分の子どもとするなんて。」

 赤い唇を上げながら、楽しそうに言った一言にその場が凍った。

「・・・どういう事だ。」

 低く、掠れた声で岡本が問うが笑みを浮かべたままそれを無視して立ち上がる。

「さ、私達はこれでこことは無関係になったのだし、さっさと退散しましょう?」

 俺とエリを促して部屋を出る。

 亜里沙が純子を殺しそうな勢いで睨み付けているのを軽蔑した眼差しと笑顔でかわし、悠々と玄関にから出る。

 表通りに出てからタクシーを拾うとあるレストランの名前を出してそこに車が走る。

 そしてその、イタリアンレストランの個室でシェフのお任せとワインを注文して店員が去った瞬間。

 純子とエリは堪えていたものを一気に出すように大笑いした。

「みた?あの亜里沙の格好!馬鹿みたい!」

「本当に何考えているのか!私本当に噴出しそうでした。あの時は有難う御座います。若いときにああいう着物は合わないものなのにそれさえ分からないなんて!」

 二人とも普段の妖艶さは影も無く大笑いしている。

 10分程笑い続けた後、目尻を拭きながら俺に詫びた。

「ごめんなさい。本当に可笑しかったから。」

 接客のプロであり、その身一つで相当額を稼ぎ出している二人には亜里沙の格好、立ち振る舞いが相当可笑しかったのだろう。

「着れば誰でも美しく見えるものでは無いのに、私達に見せ付ける為だけに着たのよ。あれはきっと。年相応のものを着ればいいのに。着物なんてまだ無理よ。」

 エリはそういって締めくくったが、亜里沙と同じ年の彼女の着物姿を見たことあるだけに何もいえない。

「あら、貴女は着こなしていたわよ。こんど水仙の着物を譲ってあげるから取りに来て頂戴ね。あれは私には若すぎるのよ。貴女だったら似合うと思うし。」

 エリは嬉しそうに礼を言って笑顔を浮かべた。

「ところで。落とし前はどうしましょうか?」

「そうねぇ。逆恨みもされているだろうし。」

 考えるように首を傾げる二人に俺は手を上げる。

「その事ですが、多分俺に集中すると思いますのでとりあえず一任させて貰えませんか?」

「どうして?」

「俺が一番長いし、男娼だったという事で心底軽蔑しているようだからです。」

 純子は嫌悪感満ちた顔をし、エリは軽蔑した顔をした。

「あの女何様ですか?」

「岡本本家次男の姐様ですね。」

「どうせ嘘がばれて簀巻きよ。妊娠も嘘なんじゃないの?」

 ノックと共に、前菜とワインが運ばれてくる。

 その間は誰も喋らず、店員が去るのを待ってから口を開いた。

「嘘の可能性もありますが、多分妊娠は本当でしょう。問題は亜里沙は同時進行で付き合っている男が居たという事です。」

「そうなの?」

「知り合いに調べてもらいました。しかも、亜里沙と一緒に俺達を暴行した男が居たでしょう?あいつなんですよ。誰にも言っていないそうですが、そういうのはふとした雰囲気でバレますから。」

「確かに・・・殴られて腹が立っていたから気が付かなかったけど、言われてみればあいつが間男なら納得できます。」

「私は他に男が居るという所までしか調べられなかったけど。それなら私達がどうこうする前にあいつは何処かに行くわね。」

 純子が赤い唇を片方上げて微笑む。

 エリも同意して、微笑んでいる。

 一見するとこの光景は両手に花。実に美しい光景だ。

 会話を聞くと、凍るだろうが。

 ご機嫌で色々な話題に花を咲かせる二人を前に料理を堪能する事に専念し、デザートを追加注文してから一息つく。

「美味しかったです。また三人で此処に来ませんか?」

 エリが華の笑みで提案すると、純子も嬉しそうに俺を見る。

「そうですね。これからは自由なのですからまた三人できましょう。」

 呼んで貰ったタクシーでエリと純子は車内から手を振りながらそれぞれ帰る。

 それを笑顔で見送ると駅に向かう方向に脚を向けた。

 きっかり一分後、駅への道から方向を変えて大きな公園へと向かう。

 公園の店で麩を数本購入すると、人目につき易いが声は聞こえにくい池の場所を選んで鯉に麩を与える。

「さて、何のお話でしょうか館川さん?」

 真後ろに立っているのは分かる。

「それと、人の後ろに立つのは止めて貰えませんか?命の危険を感じますから。」

 振り返らずにそう言うと、傍らに立たれた。

「警戒されなくても危害は与えません。」

「元、情夫なのですから敬語は必要ありませんよ。それにそのつもりが無くてもあなた程の腕の人が後ろに立たれるのは誰だって嫌でしょう。」

「では何故ここを選んだのですか?」

「危害を加えられないためですよ。」

「・・・ですから危害を加えるつもりは。」

「あなた自身には無くともあなたの後ろに居る人たちにはあるかもしれないでしょう?その理由もある事ですし。」

「ありません。」

「岡本が命じても?」

「そんな事は言われていません。」

「そうですか。」

 棒読みで答えて、口を開けている鯉に麩を与える。

「それで、話は何ですか?元、情夫に何を言っても無駄ですよ?」

「伊田瑞樹、いや、瀬戸瑞樹さん。」

 麩を大きく千切って粉にしながら池に落とす。

「覚えていたんですね。あなたの部下にこの会話を聞かせるつもりですか?」

「後ろに居るのは1人で、自分の信頼出来る者ですから問題ありません。」

「そうですか。」

 また棒読みで答える。

「あなたはどうして岡本の情夫になったんですか?」

「選択の余地が無かったからです。それ以外に理由がありますか?」

「そうだとしても、若頭に言えばあなたは自由だったはずだ。」

「そんなわけないでしょう。俺は借金のカタで売られたんですよ?」

「若頭は義理人情を重んじる人だ。」

「・・・だったら知っていてもいいとは思いませんか?」

 残りの麩を全て池に落とし、手を叩いてから横を向くと館川が真剣な顔で此方を見ていた。

「違いますか?売られてから12年。誰も気付かなかった。岡本に至っては覚えてさえいないのに。」

 傍から見たら綺麗な笑みを浮かべているだろうその姿は、館川にとって逆に見える。

 責められているわけでも無いのに、罪悪感が募った。

「お話がそれだけなら帰ります。」

「瑞樹さん。」

「ああ、でも岡本組で俺を覚えてるだけの人情のある人に始めてあったので時間の無駄では無かったですよ。」

 立ち尽くす姿を背に、瑞樹は悠然と去っていく。

 追う事も出来ずにその姿を見守るしか出来なかった館川は、溜息を吐いて煙草を咥える。

 すかさずライターを翳されて、それで火を付ける。

「館川さん、あの方って。」

 有能な部下が珍しく立ち入ったことを聞いてきた。

 紫煙を吐き出して、苦々しい思いを口にする。

「18年前、俺は亮二さんに付いていた。若頭から頼まれたんだ。その時亮二さんは荒れていて手が付けられなかったからな。 そんな時事故が起きた。バイクで転んだ亮二さんを避けようとして鉄筋を積んだトラックがハンドルを切った先に車があった。 結果トラックと車の運転手は死亡。同乗していた子どもは重症を負った。 当時ウチはいざこざがあって色々大変な次期で組長の息子が免許を持っていない上に二人も死なせたとあっては大事になると判断した俺は全ての罪を被ることにした。 警察にも金を払って事件をあやふやなままで終わらせたんだ。もちろん組長の指示で。」

「その時の子どもが伊田瑞樹ですか。」

「当時は瀬戸瑞樹だった。引き取られた先が伊田という家だったんだろう。だが、皮肉な事だな。」

「そうですね。」

「子どもの母親は俺が救急車を呼んだときにはもう死んでいた。血だらけになった腕で子どもが抱えていたヴァイオリンケースが妙に頭に残っている。車から出してやりたかったが、鉄筋に挟まれてどうしようも無かった。」

 吸殻を差し出された携帯灰皿に捻じ込んで池に目をやる。

 瑞樹が大きく千切って放った麩が浮かんだままだった。





   泣き叫ぶ亜里沙を岡本は冷たい目で見遣る。

「この子はあなたの子よ!あんなあばずれのいう事なんて信じないで!」

 酷い、と泣く亜里沙を見ても何の感情も無い。

 そんな事より先程の、自分で言いながら、それにあっさり了承して去っていった元情人達の後姿に驚きと感じたことの無い気持ちを抱えてしまう。

 純子とエリは清々したといわんばかりの顔だったし、瑞樹は相変わらず読めない顔をしていた。

 どうでも良いと思っていたのに手放すと惜しいと思ってしまう。

 縋り付く様に腕を握り締めてくる亜里沙が疎ましい。

「ねえ、信じて頂戴。あなたを愛しているのよ。」

 聞き飽きた台詞だが、三人から言われた事が無かった事に今更ながら気付く。

「ねえ、亮二さん。」

 甘える様な声が癇にさわった。

「誰が名前で呼んで良いと言った。」

 低い声で睨み付けると亜里沙は一瞬驚いた顔をしたが、また直ぐに縋る様な顔をする。

「だって、夫婦になるし子どもの前で何と言ったらいいの?」

「それが本当に俺の子ならな。」

「あなたの子に決まっているでしょう!ねえ、亮二さん信じてよ。」

 二度も名前を呼ばれて頭に血が上り、亜里沙を叩いた。

「名前を呼ぶな。」

 叩かれた頬を押さえて蹲った亜里沙は顔を上げて岡本を睨み付けた。

「どうしてあんな奴等の方を信じるのよ。亢竜会の奴等が後ろで手を引いているのよ!証拠だってあるんだから。」

「亢竜会・・・。」

 そこの会長が瑞樹を気に入っていたはずだ。瑞樹を使ってウチのシマを乗っ取ろうとしてもおかしくない。だが、この女の思い付きの可能性が高い。

「そんなに言うなら証拠を持って来い。そうしたら信じてやる。」

「わかったわ!」

 今まで気弱そうに泣いていた亜里沙は身を翻して部屋から出て行った。

「内山。」

 呼ぶと隣室に気配を消して控えていた内山が傍に寄る。

「亜里沙を見張れ。組に害が及ぶようなら消せ。」

「わかりました。」

 足音を立てず内山は去っていく。

 妙な寂寥感が自分を襲ったが、一度頭を緩く振ってから事務所に向かった。





「瑞樹さん。魚が引っ掛かったようですよ?」

 行田が電話を切った後、そう言った。

「あれ、思ったより早かったですね?」

 加藤が荷物の整理をしながら横から軽い口調で口を挟む。

「そうですね。純子さんが最後に小さな爆弾落として行ったからでしょう。あ、それは右の棚にお願いします。」

 行田に頼んで用意してもらった瑞樹名義のマンションで、今日一日で買い揃えたものを片付けながらの会話は一見するととても日常的な風景だ。

「でも行田さんまで手伝ってもらって、すみません。」

「いいえ。瑞樹さんはまだ怪我も完治していないのですからお気になさらず。」

「有難う御座います。加藤さんもありがとう。」

「俺は瑞樹さんにごますっているだけですから!」

 満面の笑みでソファを1人で抱えると、瑞樹の指定した位置に動かす。

「こいつは力もあるし、行動力もあるのでこれからどんどん使ってください。一応料理も出来ます。」

「それは・・・頼りになるな。行田さんが言う位だから余程なんでしょう。」

 褒められた加藤は少し頬を染めて笑っている。

「でも・・・俺が払える範囲の部屋をとお願いした筈なのですが。」

 どうみても手頃なマンションでは無かった。常に管理人がおり、荷物の受け取りはそこで行われセキュリティは完璧。

「払えますよ?実は、恥ずかしい事なのですが今までの瑞樹さんの報酬で払えない月が何ヶ月かありまして、それをウチ所有の株券で支払ったのです。 それが偶々跳ね上がりまして、丁度その時会長が建てたマンションが出来上がりましたのでそのお金でこの一室を購入しました。 報酬その他の管理は任せてくださると行って下さいましたので言い難かったのです。」

 すみません、と頭を下げられば苦笑いするしかない。

 嘘だと分かっていても行田の言う事は妙に信憑性がある気がしてしまうから不思議だ。

「でも、こういう部屋って維持管理費が高いでしょう?」

「自分もここに住んでいますが、そこは身内という事で最低限にしてもらっています。」

 瑞樹の手を取ると、そこに値段を記す。

「え・・・こんな値段で良いんですか。」

「はい。自分はこの値段です。ちなみに会長もこのマンションにお住まいです。」

 加藤は洗濯機横の棚の配置に向かったようだ。組み立てる音がする。

「つまり、ここは亢竜会幹部のマンションですか?」

「いいえ、自分と会長だけです。あとは一般の方が。」

「もう一つ。俺がカタログで注文した品の請求書が来ていないのですが。」

「それは引越し祝いです。」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そうですか。」

 値段も考慮して注文したはずなのに、全て似たような品でも質が格段に違う物が届いている。

 これ以上何を言っても無駄だと思ったので黙って受け取ることにした。

「では、改めまして。引越し祝いの品有難う御座いますと中村さんにお伝え下さい。そしてこれからよろしくお願いします。」

 行田が珍しく、少し微笑んだ。

「こちらこそ良いビジネスパートナーを得られた事を嬉しく思います。来て下さって有難う御座います。よろしくお願いします。」

 和やかな雰囲気で微笑み合うと、行田が携帯を取り出す。

「とりあえず会長に報告しても宜しいでしょうか?」

「どうぞ。もう殆ど終わっていますし、事務所に戻られてください。でも加藤さんはまだ残って欲しいですが。」

「わかりました。」

 玄関が閉じる音を確認すると、加藤を呼ぶ。

「加藤さん。俺1人で出かけても良いですか?」

「え〜。駄目ですね。」

「でも極々個人的な用事があるんですよ。」

「それってつまり亢竜会の人間が居たら駄目って事ですよね?」

「そうなります。」

「うーん。」

 考えている加藤を横目に服を着替える。グレイのシャツに藍色のジャケット。黒いパンツ。懐には既に入れている貴重品が。

「分かっていただけたら出かけます。もう時間が無いので。」

「ええっ。」

「行田さんは直ぐに戻ってきますよ。スペアキーも持っているでしょうし。」

「じゃあ、一緒に行きます。」

「だから・・・。」

「俺じゃなくてSPの友人を連れて行ってください。」

「時間が無いから。」

「直ぐ下で待機してますから安心してください。」

「・・・有能ですね。」

 この際料金云々なんて言ってられないので了承してから、加藤と一緒に下に降りる。  だが、一応念の為に。

「そのSPの人って日割りで幾らかかりますか?」

「2万でいいそうです。」

 財布の中身を思い出すと、余裕なので安心した。

 玄関から外に出るとどこにでもありそうな乗用車が停まっている。

「室戸ー。お待たせ。」

 加藤が車をノックすると、ロックが外れて後ろに乗るように促された。

 車に乗ると、加藤が見送ってくれるなか静かに動き出す。

「どこへ?」

「ここです。」

 ポケットから取り出したメモ用紙を渡す。

「倉庫、ですか。」

「はい。それと着いたら外で待機していて下さい。」

「それじゃ仕事になりませんから。」

 言い切る室戸苦笑して外を見ると、もうすっかり暗くなり月が見える。

 月は、満月だ。

「知っていますか?満月の夜に事故が多いというのは。」

「さあ。知りません。」

「月の狂気にさらされるからだそうです。でも俺は、月は力を与えてくれると思っている。今日が満月で良かった。」

「物騒な事をされるのでしょう?」

 鏡越しにジャケットの内ポケットを見られる。

「やっぱりプロなんですね。」

 微笑むと、鏡の中の室戸が笑った。

「俺は貴方を知っていますよ。」

「俺も貴方を知っていますよ。」

 目線を合わせて笑い合うと、室戸が笑ったまま言った。

「同窓会は後日にしましょう。俺は付いて行きますから、せめて後ろを守らせてください。いいですね?」

「今日加藤さんが頼んだと言っていましたが、室戸さんから頼んだでしょう?」

「ええ。自分から頼み込んで了承させました。でも加藤は何も知りません。」

「で、しょうね。」

 それきり無言で車は走り目的地に着いた。

 四方1km程は無人になる倉庫の中の一つだ。

 開いたままの扉を音も立てずに入り、鍵は掛けずに閉じてから入り口付近のスイッチを入れる。

 一気に明るくなった中で亜里沙と岡本組の構成員がまぶしそうに手を翳している。

「こんばんわ。良い夜ですね。」

 華も恥らう笑みとはこの事だろうと、室戸は思った。それほど微笑んだ瑞樹は美しかった。

 事実構成員の男は見惚れている。

 亜里沙は憎しみの籠もった目で睨み付けているが。

「あら、卑しい男娼が何の用かしら?」

 不法侵入しておきながら堂々とした態度である。

「ここは亢竜会の倉庫ですよ。岡本組の人間であるあなたが何の様です。」

「だったらあなたも関係ないじゃない。」

 鬼の首を取ったといわんばかりの偉そうな態度である。

「俺は亢竜会若頭の行田さんとはビジネスパートナーなんですよ。今日はそこにある荷物を頼まれて取りに来ただけです。」 

 悠然と微笑む瑞樹に亜里沙は益々苛立った様だ。

「嘘つきなさい!」

「本当ですよ?実際に、鍵をこじ開けたあなた方とは違って俺は鍵も預かっていますし。それに。」

 悔しそうな顔で睨み付けて来る亜里沙に瑞樹は一歩近づいた。

 射撃なら射程距離内だ。

「ここには何もありませんよ。ただの事務用品置き場です。書類も何も、ね。それに亢竜会は薬は御法度なんです。そんな事も知らずに良く姐さんになりたいなんて思いましたよね。」

 微笑み続けながら瑞樹が言った言葉に亜里沙は真っ青になったあと、顔を真っ赤にして怒りだした。

 まさに般若の形相で。

「あんた・・・騙したわね!」

「いいえ。俺は保険を掛けただけです。網に勝手に掛かったのはあなただ。」

「岡本が私を選んだから嫉妬して私を陥れようとしているんでしょう!」

「俺は嫉妬なんてしていませんよ?」

「嘘だ!あんたが岡本を見る目は普通じゃない!」

「普通な訳無いでしょう?自分の母親を殺して、俺の人生を捻じ曲げておきながら罪悪感一つ無く、罪も償う事も無く悠々と生きている男を普通に見れるわけが無い。」

 え、と小さく呟いたのは構成員の男だった。

 亜里沙ははき捨てるように言う。

「そんなの関係ないわ。岡本にも亢竜会の会長や他の組の人間にも媚売って汚らしいあんたは死ぬべきなのよ!」

 すでに錯乱状態なのだろう、言語が繋がっていない。

 高笑いをしながら白いスーツの内側から取り出したのは銃。

 構成員の男は室戸と睨み合いをしているので動けない。

 二人は少しずつ距離を縮めている。

 亜里沙が取り出して構える様を瑞樹は首を傾げて見守る。

「瀬戸。」

 既に瑞樹より前に出ている室戸が声を掛ける。

 それには答えず、亜里沙に向かって淡々とした声で話しかける。

「撃つ気ですか?あなたには危険でしょう。」

 室戸には見えなかったが、瑞樹は心から馬鹿にした笑みを浮かべていた。

「おもちゃでは無いのですから下ろしたらどうですか?」

 亜里沙は癇癪を起こした様に両手を真っ直ぐ伸ばして、中央に構えると引き金を引いた。

 勢いに任せて二発。

 連続して引いたが、二発目の発射と共に突然銃を投げ捨てた。

「いやあ、熱い!!!!!!」

 構成員の男が急いで銃を拾うために駆け寄り、手に取ったが男も銃を投げ捨てた。

 その隙を狙って室戸が男に駆け寄り顎を蹴り上げる。

 一瞬で沈んだ男を動揺した目で見ながら亜里沙は呆然とした。

 室戸は銃を入り口とは反対の、事務用品が置いてある方へと靴で蹴り転がした。

 それを拾おうと亜里沙が駆け出そうとした時、頭に硬いものが当たっている事に気が付いた。

 振り向けないまま固まっている亜里沙に瑞樹は微笑む。

「特別製なのにサイレンサーも付けず、チタン製。あなたの愚かさが体現された様な銃ですね。」

「チタン製、ですか?」

 室戸が不思議そうに首を傾げる。

「そう。チタンって熱伝導が他のものと比べるとかなり良いから、聞いただけでは良い銃になりそうな気がするだろう?でも実際は熱くてどんな人でも二発以上は撃てないそうだ。」

 一発だけでも熱かっただろうね、と何でも無い事のように話す。

「あなたは俺だけじゃなく、亢竜会まで巻き込もうとした。それは許せない。一人の人間が自分の私利私欲で組同士を巻き込んで戦争を起こそうとするなんて、それだけでも死に値する。ねえ、岡本さん?」

 え、と亜里沙の小さな声がした。

 足音と共に現れたのは岡本弘一と亮二の兄弟。それと。

「俺もいるんだがな、瑞樹。」

 苦笑まじりの声と共に中村が行田と部下数名を連れて入ってきた。

「亮二さん!この男が私を嵌めようと・・・!」

 涙を流しながら亜里沙が岡本亮二の下へ駆け寄ろうとした瞬間、小さな風船の割れる音がした。

「ぎゃああああああああああ!!!」

 のたうち回る姿に先ほどの姿は欠片も無い。

「俺は銃を構えていたんですよ?それなのに動くなんて愚かとしか言い様が無い。」

 溜息を一つ吐いて瑞樹は岡本達の方を向く。

「不法侵入ですよ。岡本さん達。」

 笑みを浮かべて。

 亮二の顔は真っ青になり、弘一は真顔だが額に一筋の汗を垂らしている。

「俺が許可したんだよ瑞樹。」

 中村が悠然とした足取りで微笑みながら瑞樹の傍らに立つ。

「だったら、良いです。」

 中村に微笑みながら銃は再び亜里沙に向ける。

「そんな構えで撃てる訳が無いと思わなかったようですね。銃は撃てば当たるものじゃないですよ?」

 ね?と行田を見る。

「そうですね。」

   淡々と同意してから岡本が気絶した構成員を引き摺って来る。

 岡本亮二の前に蹴り出すと中村の傍らに戻った。

「こいつが亜里沙の間男です。こんな人間の為にウチとそちらの戦争にならずに済んでよかった。そちらの構成員がウチのシマに来て荒らしていたのもその女の指示だったようです。もっともその男達は岡本さんの指示だったと思ってましたが。」

 亜里沙は岡本の権力を自分のものと勘違いしていたらしい。愕然とした表情を浮かべた岡本兄弟に中村が苦笑する。

「構成員の指導し直しをした方が良いようだな。」

 弘一の方は代行を務めているだけあって直ぐに立ち直り、中村に頭を下げた。

「この度はウチの不始末でご迷惑をおかけしました。お詫びは後日。」

「この男が悪いんだわ!皆、この男娼に騙されているのよ!!!」

 脚を撃たれて尚叫ぶ亜里沙に瑞樹が溜息を吐く。

「その口を今すぐ閉じないなら二度と喋れない様に喉を潰そうか?」

「何よ。本当の事じゃない!色んな人間に脚を開き続けているくせに!!!」

「女の口から出る言葉じゃないなぁ。訂正しておくけど、中村さんと岡本だけだよ。俺の意思は関係無い。」

 どちらも好きじゃないと取れる言葉を吐く瑞樹に中村が瑞樹の腰に手を回す。

「俺とも嫌だったのか?」

 微笑んでいるが、目は笑っていない。

「中村・・・義介さんは優しいから好きだよ。ずっと待っていてくれたし。」

 瑞樹の言葉に安心した中村は髪を撫でる。

「そんな腹の出たオヤジを選ぶなんてやっぱり男娼上がりは金目当て・・・。」

 また、風船の割れる音がした。

 今度は反対側の脚。

「岡本さん。顔だけはいいし、SMハード系の店にでも置いたらどうですか?詫びの足しにはなるでしょう。」

 綺麗な笑みを一瞬だけ浮かべた後、亜里沙を睥睨する。

「俺はどう言われてもいいけど、義介さんを悪くいうのはちょっとな。腹が出て居る事の何処が悪い。顔が良くても身体が良くても最低な人間はごまんといる。この人には敵わない。」

「・・・そんなに出ていないぞ。」

 小声の抗議を無視して下を眺める。

 流れる血が伝ってきたのを気持ち悪そうに一歩下がり、気絶したままの男の腹を靴裏で押した。

 蛙の潰れるような声と共に男が起きたのを確認すると室戸を見る。

「亜里沙の子の父親はお前だな?」

 目を開けた男は周りを見渡し、岡本達、中村を確認するとしっかり頷いた。

「意外と潔いな。」

 惜しい、と中村が呟く。

 亜里沙は男を睨み付けている。罵りたいらしいが、罵る力がもう無いようだ。

「亜里沙が亢竜会をも巻き込もうとしていたのを知っていますか?」

 口調がもとの丁寧なものに戻って瑞樹は訪ねる。

 男は驚いた顔をしてからゆっくりと首を振った。

「それでも、自分は共犯です。」

 きっぱりと言い切った男は全てを受け入れる覚悟をしている。

「潔いのは良いですが、亜里沙は妊娠していませんよ。」

 瑞樹の一言に男は愕然として、ゆっくりと亜里沙を見る。

 亜里沙は憎々しげに瑞樹を見るだけで男を見ようともしなかった。

 それで漸く、自分が利用されただけだと気付いたらしい。

 それでも男は黙って心持俯くだけだった。

「岡本さん。詫びの代わりにコイツをくれませんか?」

「しかし・・・。」

 言いよどむ弘一だが、中村の方が格が上。それにこれは内々に済ませたい事でもある。

「そちらもまだ姐さんが出来ると公表していないでしょう?お互いこうする方が良い。その女の身柄もウチで処分する。」

 決定事項として言い切った中村に弘一も頷いた。

「温情有難う御座います。」

 亢竜会の人間が無言で現れて、暴れる亜里沙の口を縛り連れて行く。 

「それじゃあ、次回の会合の時に。」

 その言葉に従い、再び頭を下げた弘一は呆然としたままの亮二を引っ張りながら配下の人間と共に去っていった。

「俺はあまり役に立ちませんでしたね。」

 室戸が溜息を吐いて微笑むと、瑞樹に向かって手を振り去っていく。

「室戸さん、今日の謝礼は・・・。」

「こんな働きでは貰えません。」

 歩きながらきっぱりと言い切りそのまま出て行った。

 のこったのは亢竜会の人間だけだ。

「さて、帰るか。」

 中村の言葉に皆で外に出る。

「せめて鍵の修理費と中の清掃代位請求したら良かったのに。」

 瑞樹の一言に行田が笑った。

「ではそうしましょう。」

 預かった男は別の人間達と共に乗り、中村の車には運転席に市川、助手席に行田、後部座席に中村と瑞樹が乗った。

「疲れただろう?」

 労わる中村に瑞樹が俯いて小さな声で呟く。

「・・・・・ごめんなさい。」

 何を言いたいのか分かっている中村は笑いながら瑞樹の髪を梳く。

「これから先お前は俺の傍に居るんだ。少しずつでいいから俺のことを見てくれればそれでいい。」

「今でも俺はあなたの事が好きだよ。」

「ありがとうな、俺の傍に居る事を選んでくれて。今日は疲れただろう、休むといい。」

 笑う中村に瑞樹はキスをする。

「本当に好きだから。」

 微笑んでもう一度。

「今日は嬉しいことばかり言ってくれるな。・・・もしかして血に酔っているのか?」

 中村に言葉に嬉しそうに微笑んだ。酔った状況と若干似ている。  が。

「そういえば、亜里沙はどうして義介さんのお腹の事を知っていたんですか?一時だけでしたよね?」

 首を傾げながら中村を覗き込む瑞樹に中村は思わず目線を逸らす。

 それを目を細めて見た瑞樹は助手席の行田に妖艶な笑みを浮かべて訪ねた。

「もしかして接待とかですか?」

「お察しの通りです。」

 あっさりと答えた行田に中村は「おいっ!」と叫んだが、瑞樹が顔を向けたので黙る。

「仕方ないですよね?だって接待なんですから。」

 妙に理解を示す瑞樹に冷や汗を掻きながら頷いた。

「でもこれからはそういう接待は止めて貰えますか?」

「だが、一応面子というものが・・・。」

 言いかけた中村を無視して行田に話しかける。

「行田さん。これから接待のある日は必ず教えてください。」

「わかりました。明日もありますが。」

 それを聞いた瑞樹は満面の笑みを浮かべる。

「そうですか。義介さん、行くんですよね?」

「あ、ああ。接待だからな。」

 こんなに緊張する事は自分の人生で無かったと中村は思った。

「でも閨の接待は止めておいた方が面子を保てますよ?」

「だが・・・。」

「まだ言うか。」

 中村の膝に乗り上げ、ネクタイを引っ張りキスをする寸前で止めて凝視する。

「瑞樹、何か性格が違う様な気がするが・・・。」

 中村の呟くような一言に瑞樹は可愛らしく微笑んだ。中村も、様子を伺っていた行田もその笑みに見惚れる。

「こんな俺は嫌いですか?」

「どんな瑞樹でも惚れている。」

 言い切った中村に瑞樹はその笑顔のまま小さくキスをした。

 そして、そのまま爆弾発言をする。

「搾り取ってやる。」

 誰も、何を。とは聞けなかった。

 凍ったような、だが熱い車内はマンションに着くまで沈黙し続けた。



 次の日、朝迎えに行った行田は疲れた顔だが幸せそうな中村と妖艶な瑞樹を目にして、その日の接待をキャンセルしたのだった。





   終わり








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