本日の天気は晴れ。所により突発的暴風あり。





 譲は小さな木片に彫刻刀で彫り物をしていた。

 一見すると完成しているように見えるそれに少しずつ刃を入れていく。毘沙門天の姿をしたそれは神々しさの中に譲の想いが込められている証拠の様に僅かなやさしさが見えるもので。

 小さなそれはお守りのサイズで、傍らには数枚同じものが置かれている。

 スタンドライトで照らしながら真剣な表情で彫っていく姿はいつもの優しげな表情とは違い、何処か祈りを捧げる姿にも似ていた。

 そうしてその姿を一時間以上前から眺める姿がある。

 今日は偶々早く帰れたのだが集中している譲の姿を見て、音を立てないようにその姿を見守っていた。

 彫り終えたのか、溜息を吐いて上に掲げて完成度合いを見ている。

 納得のいくものだったのか、ふと笑んで襷を解く。

 身につけていたエプロンを取り、軽く着物を叩いて後ろを向いた。

 驚きに目を丸くした譲に椎原は心の底から笑んで抱きしめる。

「ただいま。」

「お、お帰りなさい。やだな、見ていたんですか?声を掛けてくださればよかったのに。」

 頬を染めて恥ずかしがる譲が可愛くて椎原は譲を抱えてリビングに向かう。

「あんまり真剣そうだったからな。」

「だからって見ている事は無いでしょう?いつから居たんですか?」

「一時間位前か?」

 その言葉に譲はふて腐れた表情になる。

「そんなに前に帰ってこれたのなら声を掛けてください。1週間ぶりなのに。」

「悪かった。だが、見惚れて声を掛けられなかったんだ。」

「また、そんな上手い事言って。」

「俺はお前にはいつも思っている事しか言わないぞ。」

 額に唇を押し付けると苦笑を漏らす。

「本当ですか?」

「本当だ。」

 額から眉間、眉、鼻梁、頬、そして唇へと唇が落ちて行く。

 重ねるだけの口づけから深く、強く重ねるものへ。

 上顎、歯の裏、下の裏側、喉の奥まで舌を這わせ、譲の息が切れ切れになって唾液が顎を伝っても止める事は無い。

 口腔の中を余すところ無く嘗め尽くしてから顔を上げると荒い息に潤んだ瞳、紅潮した頬の譲がそれでも必死に見上げている。

 椎原はその顔に笑う。

「誘ったな?」

 意識して声を低くする。

 その声に反応した譲は僅かに声を漏らす。

 その声こそ誘うもので。

 譲が何か言う前にもう一度先程の繰り返しをしながら裾を割った。

 右手は裾へ、左手は袂の中へ。

 抵抗する気配は無いが突然始まってしまったそれに驚いた体が横へとずれたが、椎原が口付けを外し、手を止めてから譲の瞳を覗き込むとふっと笑む。

 椎原も笑んでから再び手と唇を動かすと今度は声を漏らしながら譲の手は椎原の背中へと回された。





「お仕事はもう終わられたのですか?」

 共に浴室に入ってさっぱりしてからリビングへと移動し、ゆっくりと時間を過ごす。

 其処に宇治が居るという事はコトの最中にも居たという可能性があるのだが、その辺を気にしていては椎原の傍に居る事など無理である。

 宇治がお茶を用意してから風呂掃除に行くのを見計らってから譲は椎原の膝の上で苦笑した。

「嫉妬深いですね。」

 軽いキスを送ると同じくキスで返される。

「嫌か?」

「ちっとも。」

 キスが深くなり、再び始まりそうな気配に譲が椎原の手を押し留めて笑みを見せた。

 暗に今日はもう無理だと言う言葉に椎原も苦笑で返し、譲の手を引く。

 されるがままに懐深く収まると心地よい体温に眠気が襲ってくる。

「運ぼうか?」

 その問いに頷こうとしたその時、椎原の携帯が鳴った。

 舌打ちしてから電話に出た開口一番。

「するなと言った筈だが?」

 眉間に深く皺の入った顔はその道なのだと再確認させる顔。

 だがその顔にも譲は目を細めて頭を椎原の胸に預ける。

 その仕草に笑みを浮かべ、機嫌を直した椎原は洗い髪を撫でながら話を促す。

「で、用件は何だ。」

『それが。岡本組から直接連絡がありまして、今から“浮船”という料亭に来いと。・・・・・あの、譲さんを連れてという事でした。』

 機嫌を直した筈の椎原の眉間が再び深く寄った。

「どういう事だ。」

 一気に温度と声が下がり、電話の相手は小さく息を呑む。

 恐らく椎原の側近達は出払い、二番手の男なのだろう。

 椎原の怒気に慣れていない。

『い、いえ!あの、自分は伝言されただけでして!』

 引き攣った声を出しながら必死に受け答えする組員に溜息を吐く。

「・・・わかった。今すぐなんだな?」

『は、はい。すんません。お願いします。』

「お前もウチの人間ならもっと堂々としてろ。」

『はい。ではお車回しますので。』

「必要ない。宇治と荒木を連れて行く。」

 言い終えると同時に電話を切った椎原の膝から譲が立ち上がる。

「悪いな。」

 髪を梳く様にして撫でると譲は小さく微笑む。

「いいえ。仕方ないでしょう?で、僕はスーツの方が?それとも和装で?」

 萌黄の着物を纏った姿を見てから椎原は小さく頷く。

「羽織を羽織ったらそれでいいだろうよ。呼び出したのは向こうだ。」

「では、貴方のを。」

と譲は椎原と共にスーツを選ぶ為に立ち上がった。





 通された浮船という料亭はいかにも密談や談合に使われていそうな所だった。

 その中を椎原は堂々と、譲は静々と歩く。

 ひんやりとした離れの部屋に入ると其処には男が二人上座に座っており、笑みを浮かべて二人を出迎える。

「さあ、座ってくれ。」

「・・・失礼します。」

 寒い室内は譲の足に悪い為に早めに切り上げようと椎原は思った。

「それでどういった用件ですか、山口さん?」

 言われた男は笑う。

「まあ、そう急かすな。料理を運ばせるからそれまで待っていてくれ。」

「申し訳ありませんが、この後も押しておりますので手短に願います。」

 二人の男が苦笑しながら頷いて話を切り出した。

「実は、そこの男が作る板を俺達にも作って欲しいと思ってな。」

 その話しがいつかは出るだろうと思っていた椎原は内心眉間に皺を寄せる。

 何かを答える前に譲が口を開く。

「それは・・・私の作るものなど本当に手慰みのもの。人に見せられるものではありません。ましてや他の方に作るなんてとても・・・。」

 以前椎原が譲が作ったものを店舗に降ろそうかといった時と同じ言葉を譲は口にする。

「しかし椎原以外にも作っているのだろう?」

「ごく身近の方に偶々作ったものを差し上げただけです。」

 頑なな譲に男達の視線は椎原へと向く。

「だがこんな世界に身を置く私達はああいうものに弱いのだ。分かるな?椎原。」

 譲が作った銀製のそれは身を守るという、今実しやかに囁かれている噂。

 実際銃を向けられた椎原の部下達は弾丸がその銀の板に吸い込まれていくようだったと言っていた。

 譲には言って無いが実は椎原自身もそうだったので。(ちなみにその後無くしたといって新しいものを貰った。)

「しかし、本人が身内にしか渡せない程度のものだと言っているのですから。」

「俺等はそれで構わないと言っているんだ。さっさと了承しろ。」

 苛立ってきたのだろう、駄目だとわかれば凄んでくる。

 俯いている譲の眉間に皺が寄っているのが見えた。

 椎原が断りの言葉をもう一度言おうと口を開いたが、譲の方が先に言葉をつむぎ出す。

「分かりました。素人の稚拙なもので宜しければおつくり致しましょう。ただし、私は作るだけです。運や強さなど求められては困ります。作ったらそれだけですので、その後は絶対に何も言ってこないで下さい。」

 つまり効果が無くとも難癖つけるなと言う事だ。

「ああ、それでいいだろう。いや、椎原より話がわかるじゃないか!」

   高笑いする二人に譲は楚々とした所作で頭を下げる。

「では椎原も次の用事がありますのでこれにて失礼させていただきます。」

 その艶の滲んだ動作に二人の目が変わった。

「まあ、そう言わず少し摘んでいくといい。此処は珍しい料理を出すから話の種にはなるだろう。」

 そう言って引き止める。

 もう一人の男は黙ったままだったのだがいきなり口を開いて譲に問う。

「なあ、お前さん、椎原のオンナなんだろう?」

 既に有名事項なので誰でも知ってはいるが、誰も言わない事を男は堂々と口にした。

 譲は椎原の目を見てから小さく頷き、男に対峙する。

 目を若干細めて口元に笑みを刷く姿は下手な女は太刀打ち出来ない色と艶を含んでいた。

「はい。私は椎原のものです。」

「ほお、その尻でくわえ込んでいるという事か。どうりで椎原が大人しくしている筈だな。」

 嘲笑の笑みを浮かべた男に譲は何一つ動かされる事無く笑みを浮かべたまま。

「そうだと嬉しいですね。」

「はっ、男娼風情が言いやがる。」

 椎原は一瞬頭に血が上ったが譲の手が椎原の足に触れるを感じて何とか思いとどまる。

「そうでしょうか?」

「ああ、全くこんな奴と同席しなければならない上に頼みごととは。」

 同じ空気を吸うのも嫌だという風な男に譲は目を更に細めて口角を上げて対峙した。

 堂々としたその態度はとても罵られている側とは思えない。

「お話はそれだけでしょうか?」

「ああ?」

「それでは私共はこれで失礼させて頂きます。出来上がりましたら椎原に渡せば宜しいのですよね?」

 その男にしては小さく細い体から立ち上るものは裏の世界の住人である男達を一瞬絶句させるもので。

「あ、ああ。そうしてくれ。」

 立ち上がって軽く一礼すると笑みを残してその場を後にする。

 共に歩き出した椎原は料亭外で待機していた荒川に電話をして待っている間沈黙していたが、車に乗り、動き出した瞬間、笑い出してしまった。

「・・・雅伸さん。」

 笑い続ける椎原に譲は頬を染めて膝を小さく叩いた。

「雅伸さん笑いすぎです!」

 すねて窓の外に顔を向けてしまった譲の体を引き寄せ、足を自分の膝の上に乗せる。

「いや、すまん。ああ、面白かった。」

「笑いすぎですよ。」

 未だに椎原に顔を背けている譲に椎原はもう一度すまん、と詫びる。

「本当に悪かった。」

 それでも顔を向けない譲の耳元に囁く。

 だが、惚れ直したぞ。

 その一言に耳がほんのりと赤くなり、向けられた目線は流し目で、濃厚な艶が乗っている。

「それで誤魔化そうとしたって無駄ですよ。」

 強気な発言だが表情は別物。

「本気だ。綺麗だったぞ。」

「雅伸さん。」

 重なる唇は深い愛情と情欲が乗ったもの。

 そのまま家に戻った二人の夜は言うまでも無い。





 それから2日後。

 宇治が机に座って作業をしている譲に声を掛ける。

「譲さん、工藤補佐が参られました。」

 いつもは声をかけても作業中は集中しているので聞こえないのだがその日の譲はあっさりと振り向いて笑みを浮かべた。

「ああ、工藤さんが態々?」

 立ち上がり、小さな巾着を手にリビングへと向かう。

 襷を外しながら現れた譲に工藤も僅かながら驚いた顔をしたが、直ぐに平常心に戻す。

「出来上がられたと聞きましたので。」

 当然料亭での言動その他は上の人間なら椎原が惚気と共に話したので知っており、腹立たしい気持ちがある。

「はい。」

 通常、譲が身内の人にと一つ作るのに最低でも1週間は掛かっていた。

 なので2日で出来上がるというのは始めての事で驚いている。

 それも2つ。

「こちらになりますので宜しくお願いします。」

「・・・一応確認しても宜しいですか?」 

 勿論と笑顔を言う譲に頷いて巾着を開けると其処には千手観音が描かれた銀製の板が一枚。

 工藤や椎原が常に持ち歩いているものとは少々違い、若干線が薄く、何だか希薄な存在感である。

 だがしかし、そんな事より。

 一枚。

「あの。」

「はい。」

 宇治が淹れたお茶を飲みながら工藤が確認し終えるのを待っていた譲の顔が上がる。

「・・・・一枚なのですが。」

 工藤にしては珍しく言い淀んでしまった。

「はい。僕は一人からしか頼まれていませんから、一枚だけです。そうですよね?」

 実は料亭の離れ近くで待機していた工藤はその会話を仔細漏らさず聞いていたのだが、それが譲に知られていたとは思わず僅かに唇を開いてしまう。

「え・・ええ。」

「俺達、とは言われましたが、詳細は言われませんでしたし、書類を交換したわけでもありません。ですから発言された方の分のみと僕は判断しました。」

 頭の中で工藤は会話を思い出す。

 確かに、俺達に作って欲しいとは言ったが、何人分、とは言われなかった。

「・・・確かに、そうですね。」

 具体的な人数を言われた訳でも無い。

 頷いた後、工藤は断りを入れて椎原に電話を入れる。

『どうした。今、譲の所だろう?』

 書類を捲りながらペンを走らせる音が聞こえるので事務所に居るのだと推測できた。

「はい。それが」

 そう言って先程の会話を簡潔に言うと電話越しに椎原が笑う。

『そうか。・・・そうだな、丁度アメリカの整形外科の医師とコンタクトが取れた所だ。譲には治療の為にアメリカに行って欲しいと伝えてくれ。板の方を届けるのは一週間後でいいだろう。』

 それで察した工藤の口元に笑みが乗る。

 これでも工藤は怒っているのだ。

「わかりました。それではその様に。」

 電話を切った後、凶悪な笑みを消して柔らかい笑みを浮かべて譲の下へ戻る。

「どうでしたか?」

「ええ。こちらから渡しに行くという事になりました。」

「そうですか。工藤さんもお疲れ様です。お昼は食べていかれますか?」

 台所に立ちたがる譲だが、長時間立たなければならない料理は椎原によって禁止されている為に基本的に荒川と宇治が料理を担当していのだが荒川は調理師免許を取得しており、下手な店より美味しいのだ。

「いえ、」

「荒川さんも今日はひとり分多く仕込んでいますから、ね?」

「では御相伴に預かります。」

 譲は微笑んでキッチンで料理を始めている荒川の下へ行き、伝えた後工藤の所へ戻ってお茶を飲む。

「譲さん。」

「はい。」

「アメリカの整形外科の医師の診察を受けれる様になったので暫く宇治達と行って貰えませんか?キャンセルの間に入れたので急な事となってしまいましたが、譲さんが嫌だというならやめておきます。」

 どうしますか、と尋ねる工藤に譲は少し考えた後口を開く。

「・・・出発は何日後になりますか?」

「四日後に。」

「四日後、ですか。」

「はい。」

 譲が微笑む。

 工藤も笑んだ。

「わかりました。態々お骨折り頂き有難う御座いますと間に入った方にお礼を申し上げてください。雅伸さんには僕が直接。

「はい。それはもう。」

 微笑む譲を綺麗だと工藤は思った。





 そうして旅立っていった譲を工藤は見送る。

 アメリカでは宇治と荒川が共に居る上に現地で日本人のコーディネーターも雇っているので問題は無い。

 事務所に戻った工藤は椎原の前で報告をする。

「譲さんは無事旅立ちました。」

「そうかご苦労だった。」

「一応不審気にしてはいませんでしたよ。」

「だろうな。」

「はい。・・・・本当に譲さんは。」

 苦笑する工藤に椎原も笑う。

「俺には勿体無いと言いたいのか?」

 どうでしょうかと誤魔化す工藤に椎原は溜息を吐いてから譲が工藤に渡した巾着を触る。

「これを・・・そうだな。佐々木に届けさせろ。」

「佐々木に、ですか?」

「そうだ。」

 不敵に笑う椎原の顔を見て一瞬眉を顰める。

 おそらく自分が届ける事になるだろうと思っていたからだ。

 だが佐々木のあの、飄々とした態度を鑑みると成程佐々木の方がいいだろうと思える。

「わかりました。佐々木が戻り次第伝えます。」

「ああ。」

「ところで、譲さんの治療の方は・・・・。」

「一応俺を立ててくれてアメリカに行ってはくれたが・・・譲は治す気はあまりないだろうな。」

「何故ですか?」

「俺が足の事を考えていた事くらい知っていただろうが、あいつは基本的に自分を大切にしない。不自由も、気にしていないんだ。」

 工藤の眉が寄る。

「少しは自分の事を考えてくれるといいと思うのは俺だけか?」

「いいえ。私もそう思いますよ。」

 僅かな時間沈黙が降りるが、工藤が微笑んで提案した。

「絵を送りましょうか。譲さんは桜を大層お気に召した様ですので、良い物を見つけて購入しておきます。」

「ああ、そうだな。そうしてくれ。」

 譲を知る椎原の下に居る者達は既に彼を姐さんと同じ立場だと心得ており、慕っているものもいる。

 そういう者達がいざ譲が危機に陥った時、命を投げ出す可能性は高い。

 だがその面を自己評価の低さ故に理解出来ていない譲は自分を餌に椎原の役に立とうと思っている事を椎原と工藤は知っていた。

「・・・今回の事で分かってくれればいいが、な。」

「譲さんは賢いですから分かっていただけますよ。」

 人を思いやると同時に敵には冷淡な気持ちを持つ譲は椎原の隣にふさわしい。

 工藤は換えが利かない存在、自らも大事に思える存在として思っている人として認識している譲に、今の様な意識でいてもらっては困ると思っていた。

 今回は上手く行けば、その譲の認識を変え、覚悟を決めさせる絶好の機会になる可能性がある。

「・・・ふふふ。」

「どうした。」

「いえ。楽しみだな、と思いまして。」

 椎原は苦笑した。

「争いごとが、か?」

 まさか、と否定してみせた。

「譲さんが成長する様を見れるかもしれないという事がですよ。」

 今、工藤の配下の者が譲に罵詈雑言を吐いた者達の敵を煽っている。

「あまり拡大させるなよ。」

「それは私の腕の見せ所ですが・・・でも、火事というのは何処に飛ぶか分かりませんからねぇ。」

 怪しく笑う工藤に椎原は無言で立ち上がり部屋のドアに手を掛けた。

「どちらへ?」

「見回りだ。今日の予定位把握してろ。」

「そう言われましても私は昨日今日と此処に来るのは今が初めてですから。」

 食えない奴だ、と小さく呟いてからドアを開ける。

「佐々木にお前から直接伝えたら一度社に戻ってくれ。」

 そう言って扉を閉じた椎原に工藤はとても楽しそうに笑った。







 譲がアメリカに行って3日後に抗争が起きた。

 千手観音を持っていた方は弾が銀板に当たり、致命傷は免れたがその弾が跳ねてどういうわけか膝を貫通し入院。

 もう一人の方は事務所が襲撃に遭い、地下に隠れて行方不明。

 出てきたとしても余程の事が無い限り面目を失った者としてこの世界で生きてはいけないだろう。

 そうして一週間が過ぎた時。

 毎日椎原の下へ掛かってくる譲からの電話の内容に“帰ってくる”という言葉が乗った。

『ドクターが言うには、神経が完全に切断されていて、もし手術をしたとしても少し膝が曲がる様になるだけだと言われました。』

 時々敬語が崩れる時もあるが、敬語の方が慣れている譲は基本的にこういった丁寧な言葉を使う。

「そうか・・・残念だ。」

『僕はそんなにも。あまり期待していなかったからかもしれません。それにこれが切欠で雅伸さんと出遭えたのですし。』

 可愛らしい事を言う譲に椎原はじゃあ、と低い声で囁く。

「独り寝は寂しい。はやく帰ってきてくれ。」

 譲の甘い吐息が電話越しに聞こえた。

『・・・はい。』

「いい子だ。お前に似合うと思って誂えさせていた新しい着物が届いたから、戻ったら着て見せて欲しい。」

『また無駄遣いをして。駄目ですよ?』

「譲が綺麗なのが悪いな。」

 笑って答えると電話越しにも鈴の様な笑い声が響く。

 ちなみに傍に居る工藤は笑みを浮かべ、佐々木は苦笑している。

 そしてこの電話がハンドフリーだという事に譲は気付いていない。

『ともかく僕にあまりお金を掛けないで下さい。今でも月々結構使っているのに。』

「俺の楽しみをあまり奪わないでくれ。」

『じゃあ、今度雅伸さんのフィッティングに連れて行って下さい。』

 スーツのオーダーを頼んでいる所の事だろうか?

「フィッティング・・・スーツをオーダーしている所に?」

『はい。』

 椎原は笑う。

「もしかしてまた勘の虫か?」

『っつ!!!知りません!』

 一方的に切られた電話に椎原は笑い続けてしまう。

「会長、もうそろそろ笑い止んでもらえますか。」

 と言いつつも工藤も何とか笑い止んだ状態で、佐々木に至っては笑い転げている。

「佐々木。」

 その様を見て凍える様な冷気を発しつつ、睨む工藤に佐々木は手を上げた。

「悪い!」

「口では無く態度で示してください。」

 言い放つ言葉は既に零下へと達している。

 実はこの3人、同じ大学の先輩後輩だったので、年長である佐々木は態度が崩れがちなのだ。

「佐々木。」

 椎原が言葉を発すれば、佐々木も何とか笑いを治める。

「すみません会長。」

「いや、いい。」

 溜息を吐いてから椎原は工藤を促す。

「はい。今は虱潰しに探しております。が、今の所見つかっておりません。」

「譲が帰国するまでに見つけて相手組織に差し出せ。借りも作れて一石二鳥だ。」

 工藤は頷いて、引き続き捜索の指示を出す為に退出する。

「佐々木は一応、あちらさんの病院見舞いに行ってくれ。」

「わかりました。」

 其々が退出した後、椎原は電話を掛けて応対を待つ。

「三和会、会長 椎原雅伸です。・・・はい。中村会長にお話があるのですが、宜しいでしょうか?」

 電話は望む相手に代わり、椎原の口元には親しげな笑みが浮かぶ。

「ご無沙汰しております。・・・ええ。はい。いえ、難癖を付けられては困るので手を打っているだけです。・・・ああ、はい。ではそうなりましたらお願いいたします。」

 そう言って電話を切る。

 これで根回しは終わりだ。

「さて、どう転ぶか・・・。」

 譲には極力見せない様にしている、極道らしい凶悪な笑みを浮かべて椎原は前を見据えた。









 譲は腕と膝の痛みを感じて目を覚ました。

(あれ?此処は・・・。)

「大丈夫ですか?」

 囁く様な声で宇治が声を掛けてくる。

「・・・うん。」

 顔を上げると荒川と宇治に両脇を守られる様にしている為に視界が遮られてはいるが、縦横共に恰幅の良い男複数が室内に立っている事は認識できた。

 ゆっくりと思考が戻ってくると共に譲は現状を思い出す。

 日本に帰ってきて、もうすぐマンションだと思った瞬間、タイヤがパンクしたのだ。

 それで荒川が車を降りた途端、複数の男達によって拉致され譲は意識を失った。

「ああ、拉致されたんだね。」

「はい。」

 至極冷静な譲に安堵のしつつも厳しさを失う事は出来ない。

「多分だけど・・・・あの、銀板の人のどちらか、かな?」

「恐らくは。」

 譲関係の事なら全て工藤から情報を貰っている宇治が頷く。

「そう・・・。どちらだろうね。」

 此処までの会話は全て小声だったが、いい加減見張りの男達も気付いた様だ。

「てめえ、ぐだぐだ喋ってんじゃねぇ!」

 拳が譲目掛けて振り折されたが、それを荒川が自らの体でもって止める。

「荒川さん!」

 慌てる譲に荒川は大丈夫です、と冷静な声を出して頷いて見せた。

「ふん。男娼かばうとは、てめえも惚れているのか?」

 嘲笑に荒川と宇治の眉間に皺が寄る。

 この中で顔に表情が無いのは譲だけだ。

「・・・上が上なら下も下ですね。下品な上に考えなしな事この上ない。」

 普段は優しく響くその声が氷点下の響きを持つ。

 その事に驚いて宇治と荒川は慌てて後ろを振り向いた。

「ゆ、譲さん?」

 縛られ、身内の者に庇われている姿でも堂々とした態度で男達を見据えている。

 はっきり言って。

 かっこいい。

 宇治は状況を忘れて見惚れる。

「貴方方も男なら人を馬鹿にする前に自分を磨いたらどうですか?それでは単純に弱者の遠吠えにしか聞こえませんよ。」

 馬鹿にするでもなく、強がりでもなく、心底そう思っていると取れる発言と迫力。

 部屋の男達はこの中で一番の弱者である譲に気圧されていた。

「く、くそ!おい、ちゃんと見張ってろよ!」

 そう言って男達は部屋から出て行き、扉は鍵を閉められる。

「・・・・・組が違うとここまで極道の質は違うものなのですね。」

 ぽつりと酷い事を言う。

「はあ、そうかもしれません。」

 荒川が頷くと譲は動けないまでも眉を寄せ、荒川の顔を見る。

「すみません。僕の代わりに殴られるなんて・・・。」

「大丈夫です。」

 荒川なりに安心させる為に笑みを見せたが、強面の荒川の笑みははっきり言って怖い。

 だが、譲は荒川の不器用だが優しい所を知っているので怖いとも思わず微笑みかえす。

 椎原が自慢する華の笑みで。

「有難う御座います。」

「いえ、そんな。」

 慌てて首を振る荒川だったが、部屋の隅が動いたのに目を光らせる。

「誰だ。」

 するとふらつく足取りで殴られた後のある女性が現れた。

「貴方方のお世話をする様に言われたの。」

 なんとか口調だけは強がっているが体が震えている。

「そうですか。僕は浅見譲と言います。貴女は?」

「明菜、です。」

 一昔前のアイドルと同じ名前を女が発した。





「明菜さん。誰に殴られたのですか?」

 静かな声で問うと、疲れた顔の明菜は淡々とした声で答える。

「・・・・・ここの組員よ。」

 ただし、疲れてはいるが、何処か張り詰めたものを感じさせるもので。

「どうして。」

「弟が、馬鹿やって、いなくなったから探しに来たの。」

「正面から堂々と、ですか。」

 譲も淡々と質問を続けるが、それは生気の無いものでは無く、しっかりした、何処か優しさを感じさせるものだ。

「・・・っつ!そうよ!!」

 睨み付ける様に言い放つ明菜に譲は頷く。

「警察に言っても取り合ってはもらえませんからね。腹が立って、悔しかったでしょう?」

 ねえ、と言って見つめれば気丈にも今まで泣かなかったのだろう、その人の瞳から涙が溢れてきた。

「悔しいんですね。弟さんが大事なんですね。」

 縛られている為に手を伸ばして頭を撫でる事は出来ないが、言葉で優しく撫でる。

 譲の言葉一つ一つに頷く明菜は暫くして顔を上げた。

 化粧が崩れて結構凄いことになっているのだが、それを譲は全く気にせず微笑む。

「弟さんは今何処に?」

「多分、此処の組が経営している店に・・・・。」

 男娼として売られたのだろう。

「どうしてそんな事になったのですか?」

「・・・車に、自転車でぶつかったと聞いたわ。」

 譲の目が細まる。

「それは・・・明菜さん、弟さんて、こんな言い方嫌でしょうが、艶のある、男に人気のある子じゃないですか?」

 誰かが明菜の弟を大金出して、ヤクザと繋がりを持っても欲しいと思うか、駒として欲しいと思えば仕掛ける可能性は充分にある。

 勿論三和会でそういった事をすればただではすまないし、済ませない。

 水商売関係の店も割りとクリーンなのだ。

「・・・ええ。それでいつもトラブルが絶えなくて・・・・でも、こんな事になるなんて・・・。」

 雫が一筋流れるが、顔は生気が戻り、悔しそうな顔をしていた。

「もう一つ。明菜さん、お仕事は?」

「エステ関係の店を持っています。」

 既に明菜は敬語になっている。穏やかで優しいが威厳ある譲の前では自然とそうなるのだ。

「そうですか。・・・・宇治さん。」

「はい。」

「僕の、通じていると思いますか?」

 実は歯にGPSを埋め込んでいる。

 何もかもを取られた時の為に。

「恐らくは。」

「じゃあ、もう直ぐですね。・・・明菜さん。僕自身は権力なんて持っていませんけど、そういう人と知り合いですので頼んでみます。でも頼むだけですから、無理は出来ません。いいですか?」

 慈愛の笑みを浮かべて提案する譲に明菜の顔が呆然とした後輝く。

「ほ、本当ですか?」

「ええ。その人が駄目でもいろいろな人に伝手は持っていますから。」

(誰に頼んでも断らないと思う。)

 と荒川と宇治は思ったが口にする事は無い。

「戻ったら荒川さん、協力してください。宇治さんは・・・工藤さんに断りが要るでしょうか?」

「いえ、大丈夫です。」

「では・・・僕はこういったの大嫌いなんですよ。だからついでに他の子も助けてしまいましょう。」

 大丈夫ですよ、と続ける譲に明菜は座った状態で頭を深く下げて床に水溜りを作る。

「ありが、とう、御座います。有難う御座います!お願いします。」

 うっうっ、とまた泣き出してしまった明菜に一同は状況を一時忘れ、顔を見合わせて微笑んだのだった。





 暫く待っていると階下から騒がしい音が聞こえてきた。

「雅伸さんかな?」

 首を傾げる譲に荒川が眉間に眉を寄せる。

「だとするとこちらも警戒しないといけませんね。」

 そう言って縛られていた縄を解き、譲と宇治の分もあっという間に解く。

「荒川さん、無理しないで。」

「ガキがいますから無理は出来ませんよ。」

 譲は懐を探るが、当然の様に其処には武器などない。

「僕は足手まといになってしまうから後ろに下がっているね。」

「お願いします。」

 譲が椎原の下に来てから始めての付き人となった荒川と譲の間には遠慮というものがあまりない。

 だが今は荒川自身も部下を持つ身の上に結婚し、子どもに居る身だ。

 無理は出来ない。

「自分が。」

 そう言って立ち上がる宇治を荒川は制する。

「お前は拳より頭脳の人間だろうが。そんなやつに怪我させてみろ。オレの面目丸潰れろうが!大丈夫だ、オレは譲さんのお守りがあるからな。」

 ドアの前に行き、拳を構えて息を殺して相手を待つ。

 そうして蹴り上げる様にして開かれたドアから入ってきた人物を問答無用で殴りかかる。

 だが、相手の方が強かった。

 拳を手で受け止めて反対の腕が荒川の顔面を狙う。

 一瞬、譲以外の全員が目を閉じたのだが。

「木戸さん!・・・じゃなかった、木戸。早かったんですね。」

 木戸本人たっての願いにより呼び捨てタメ口をするように心掛けていても、つい使いやすい方を使ってしまう。

「譲さんお怪我は御座いませんか?」

「はい。大丈夫です。」

 だが縛られていた腕は青黒くなっている。

 それを見て眉を寄せる木戸に譲は笑いかけた。

「これだけですから大丈夫。ああ、それと頼みたい事が。」

 木戸は大人しく近づいて譲の頼みを聞く。

 三和会の中で恐らくかなりの使い手の木戸は譲に対して絶対服従なので、こんな風に従順である。

 大型犬が小さな犬に懐いてる姿を見ているようで仄々するというかある意味シュールというか。

「わかりました。では調べておきます。」

「早急にお願いしますね。」

「はい。・・・それと、もう無理して言葉を変えなくても良いですよ。譲さんの使いやすいほうで。」

「・・・有難う。」

「いえ。」

 木戸は強面を僅かに綻ばせた後、譲を抱える。

「荒川さん、宇治さん、怪我は。」

「これくらい軽症だ。」

 不敵に笑う荒川と頷くだけの宇治を見て大丈夫だと思った木戸は歩き出す。

「明菜さんもおいで。」

 手招きする譲に誘われるままに着いていく。

 途中人間がごろごろ転がっているが、此処で気にする者はいない。

「雅伸さんは?」

「首謀者を締めています。」

 トップの人間らしからぬ振る舞いの上に椎原は割と穏健派なのだ。

 その言葉に宇治と荒川は驚いたが、譲が絡んでいるからだろうと納得してしまう。

「そう・・・僕もその場に連れて行ってくれる?」

「・・・え、しかし」

「連れて行って。」

「いえ、譲さんは体を温めるが先です。」

「大丈夫だから。」

「駄目です!」

 言い切ってから裏口用らしいドアから外に出て用意されていた車に譲を押し込む。

 当然の様に宇治は乗り、荒川は明菜を促す。

「明菜さんはオレの所に連れて行きます。」

「うん。お願いします。」

「お安い御用ですよ。ウチの奴も喜びます。」

 茶化すようにして笑った荒川に笑いかけて譲は車のシートに体を持たせた。





 2時間後、着いた場所はホテルで、其処で宇治の介添えしてもらいながら湯を使う。

「もしかして、マンションの方も襲撃されたの?」

「でしょうね。」

 普通ならこのままマンションなのだろうが、ホテルという事はそういう事なのだろうと二人は思った。

 監禁されたせいで宇治も過保護になっているのだろう、髪を乾かそうとしたら止められ、着替えやその他全て宇治がした。

 元々疲れてはいたのだが、それだけですっかり疲弊した譲はソファーで転寝を始めてしまい、宇治が寝室へと運んでくれる。

 そうしてうとうとしながらも意識は外に向かっていたらしく、声が聞こえた。

「無事で・・・・良かった。」

 静かな声が振ってきて、唇に何か柔らかいものが当たる。

「ま、さのぶ、さん?」

 夢の中で、椎原が来たのだから起きないとと思っても体が上手く動かない。

 身動ぎしたくても出来ない中で、優しい手が髪を撫でる。

 その手が嬉しくて、譲は微笑みながら本格的な眠りへと誘われた。





 夢も見ない泥の中、突如として額に唇を感じ、目をゆっくりと開けると其処には椎原が。

「起こしてしまったみたいだな。悪かった。」

 今度は唇に。

「待っているつもりだったんですけど。」

 微笑むと唇の端にキスが下りる。

「心配した。」

「ごめんなさい。」

 今度は譲からキスをする。

「巻き込んでしまったようだな。悪かった。」

 心からすまないと思っている顔に譲は苦笑してしまう。

「僕も不注意だったんですよ。」

 だが仕方の無い状況ではあった。

「だが・・・まあ、これは言い合っても仕方無いな。」

「そうですよ。」

 重なった唇は深く優しいもので。

「雅伸さん。」

「ん?」

 唇が離れて問うと、椎原は互いの顔が見れる位置まで引く。

「いつ此処に?」

「ついさっきだな。」

 ついさっき。

 という事は先程のキスと髪を撫でられた感触は夢なのだろうか。

 それとも・・・・・。

「どうした?」

 頬にキスをされて問われる。 

譲は笑顔になった。

「・・・何も。ただ、いつ戻ってこれたのかなと思っただけです。」

 僅かに汗の匂いのするシャツに包まれて、深く息を吸う。

 その中に鉄臭い匂いがあったが、其処は聞かない事にするのが暗黙の了解。

「譲?」

「あまり、無理はしないで下さいね。」

 相手の事ではなく、恨みを買うと返ってくる可能性があるから。

「ああ。お前の頼みだ。そうしよう。」

 そう言ってもいられない時もある事は椎原の傍にいれば嫌でも思い知るのだが、それでも。

「お願いですから、僕の居ない所で消えたりしないで下さい。」

「それはお前にも言える事だ。今回の事で思い知っただろう?」

 優しく問われ、譲は頷く。

 自分の代わりに殴られた荒川を思い出す。

 それに多分、慕ってくれている者達も同じ状況になったらそうするだろうという事を。

「俺がお前を愛しているのと同じ位慕っている者も居る事を覚えておけ。お前が危機に陥れば命を掛けてどうにかしようとする事を。」

「・・・はい。」

 既にこの身は自分ひとりのものでは無いことを。

 譲の瞳から一筋の雫が流れて落ちる。

 それを椎原は唇で拭った。





 互いに疲れきっているのは承知の上だったが、この胸の内に澱む不安を解消する為には体を重ねるのが一番だと経験上知っていた。

「大丈夫か?」

 前戯はおざなりで、指を入れて広げる行為が主なそれに譲は微笑む。

「大丈夫、ですから。」

 唾液のみなので然程濡れてはいない中だったが、疲れからか、程よく緩んでいる。

 互いに微笑みあって椎原が中に入ると互いに溜息が漏れた。

 痛みはあるだろうに、安心した様に笑う譲に椎原はキスをして、体を動かす。

 緩やかなものでは無く、自分本位な動き。

 只管に中に出そうとする前後のみの動きだ。

 途中で切れたのだろう、僅かな血液が流れ、それが動きを滑らかにする。

 互いに自覚はしてもそれを止める事は無い。

 椎原は只管に体を動かし、譲はそれを受け止めるので精一杯。

 いつもは何もかも愛されていると互いに感じられる行為なのだが、今日は切羽詰った状態で慌しいものだ。

 ほんの数分で椎原は中に出し、譲も同時に吐き出す。

 ゆっくりと抜く動作に艶やかな溜息が出る。

「すまん。」

 白濁が僅かに血液を含んだそれに椎原が溜息を吐く。

 身動きしない譲の頬にキスをしてバスルームから濡れたタオルを数枚取ってきた。

 それでまず中を綺麗にしてから体を拭く。

「薬を買ってこさせよう。」

 新しいバスローブを着せ掛けて携帯を手にすると、譲はゆっくりと首を振る。

「これくらいなら大丈夫です。皆さんも疲れているだろうからこのままで。」

 時々、暴走したのかと思える程椎原を求める譲は怪我の加減も知り尽くしているのだ。

 その譲が大丈夫だというのだから、と、自身も譲の体温を感じたくて頷く。

「そうか。本当に大丈夫だな?」

「勿論。それに僕も・・・貴方を早く感じたかったから。」

 嬉しかったです、と続ける譲に微笑んで傍らに体を横たえる。

 密着する体に譲が幸せそうに微笑む。

 そのまま電池が切れるように眠りに就いてしまった譲は、だが、椎原の手を強く握ったままだ。

 その、何処にも行かせないという意思の強さと恋着を感じ、椎原も微笑む。

 疲れて眠りに就いているのだから、手を離しても気付かないだろう。

 だが椎原はそのまま自分の指も絡ませてその寝顔を覗き込む。

 僅かに青みがかった顔は血色が良いとは言い難いので、それを理由に旅行か静養させようと頭の中で考える。

 体は疲れていても、血を見たせいか、それとも怒りのせいか。

 眠れそうに無いのだ。

 暫くその寝顔を見ていると、携帯が鳴る。

 その音にも反応しない譲の額に唇を寄せてから携帯を開く。

「どうした。」

『例の組長がまた譲さんのあれを欲しいと電話が来ました。』

 佐々木の嘲笑まぎれの声に椎原は嗤う。

「譲は怪我をして病気療養に入る。だから請ける事は出来ないと伝えろ。」

 嘘では無い。だが数日もすれば直る程度のものだ。

 だが、それを知るのは三和会の一部の人間とその傷をつけた本人達のみ。

 三和会の人間は口が堅いので言う筈も無い。

 そして、傷を負わせた本人達は決して言わないだろう。

 既に言う為の口は無いのだから。

『わかりました。・・・しかし、本当に古狸は疎ましいですねぇ。』

 軽い笑い声。

「ああ、だが俺達はしがない二次団体だからな。」

 違法な事はせず、穏健派と名高い三和会。

 経営する店は右肩上がりで表の世界の方が良いのではと言われる程。

 だが椎原を含め、やくざと呼ばれる者達である事に変わりは無い。

 変わりは無いのだ。

 いざとなれば牙を剥く。

「ああ、配下の者達に程ほどにする様に言っておけよ?」

『ああ〜・・・・・気が向けば言っておきます。』

 忠告等の言葉を聞きたくないのか、佐々木はじゃあ、と言って電話を切ってしまう。

 沈黙を語る携帯を見つめて苦笑してから、椎原は携帯を外に控える部下に預け再び寝台へと戻った。





 だが問題が一つ残っている。

 仕掛けた張本人が未だ行方不明なのだ。

 その捜索を続ける中、譲は療養と称して椎原別荘へと行く。

 セキュリティー万全の別荘は一見すると普通の建物なのだが、実は地理、設備共に三和会第二の要塞。

 何かあったときには丁度いいのだ。

 そうして出立した面々は佐々木を含め十数名。

 腕に大げさに巻かれた包帯を見つめながら譲は溜息を吐く。

「譲さん?」

 別荘へは何度と無く足を運んでいるので慣れた道。

 その近くに譲が気に入っている喫茶店があるので佐々木と宇治、木戸を連れてお茶をしに行った。

「いえ・・・。」

 実は譲は張本人が捕まっていない事を知らないのだが、自分がマンションに残るとごねて困る人間が居る事くらい重々承知している為に何も言わずに此処に居る。

 蚊帳の外というのは寂しいものなのだが、それは自分を思いやっての事を知っているので責めるにも責められないし、聞くに聞けない。

「何でもありませんよ。それよりこの手はもう大丈夫かな、と。」

「いえいえ、譲さんの綺麗な肌にシミなんて作れませんからね!もう少し我慢してください。」

 怪我、といっても縛られた所だけなので擦り傷と青痣だけなのだ。 

 だがそれを見た知っている人達の顔ははっきり言って怖かった。

 一応、程々にと言ってはおいたのだが、然程効果は無いだろう。

「そう・・・ですか。」

 テイクアウトした喫茶店自慢のアップルパイの大きな箱を抱える。

 まだ温かいそれはシナモンの匂いを香らせ、先程食べたばかりだというのに食欲をそそってしまう。

 ちなみにこれは別荘で待つ人達への土産だ。

 譲はそんなに胃袋が大きく無いので入らない。

 それから10分ほど走っただろうか。

 車が突然停止した。

「木戸さん?」

 声を掛けると木戸が譲の方を見る。

「譲さん、少々お待ちください。」

 言い終えてから車を降りて前に行く。

 その固い顔付きに譲は僅かに反応した。

 そうして前を見る姿勢のまま佐々木に聞く。

「佐々木さん、もしかしてこの間の人達の一人ですか?」

 佐々木の眉間に皺が寄る。

 それが答えとなった。

「宇治さん。」

 佐々木の答えは期待せずに宇治を呼ぶ。

 助手席に座っていた宇治は振り向いて、しっかりと譲の目を見据える。

「はい。」

「あちらが飛び道具を持っていないかチェックできますか?」

 宇治は譲の意図を汲んで頷いてから車を降りた。

 数分後、譲の座っている側のドアを開けて宇治が手を差し伸べる。

「持っておりませんでした。」

 頷いてから譲は宇治の手を借りて車から降り立つ。

 佐々木が静止する声が聞こえたが、その声は聞かない。

 宇治に先導されて男の前に立つと其処には。

 料亭に行った際に譲を男娼扱いした男本人が立っていた。

 木戸により両腕を後ろにねじり上げられ、地に膝を付いてるので僅かに見じろぎする事しか出来ない。

「こんにちわ。ご機嫌いかがですか?」

 一応礼儀として挨拶をすると、前回はきちんとした身形をしていた男はスーツを着崩している。

「お前のせいだ!」

 皮肉を返すでもなく、返事をするでもない男の言葉に追い詰められている事は明白だった。

「何が、ですか?」

「お前のせいで俺はケチがつきやがったんだ!」

 とんでも無い言い掛かりに木戸は更に腕を捻り上げたが、相手もヤクザ。

 あまり効いてはいないようだ。

「僕は貴方に何もしていませんが。」

「ふざけるな!どうせ後ろで糸でもひいたんだろう!」

 譲は情けなくて溜息が出てしまう。

「まったく・・・・こんな男が人の上に立っているっていうんですから、下の者は可哀想ですよね?」

 降りてきた佐々木に問えば大げさな程頷いて同意する。

「本当に。タイミング悪かったとはいえ、可哀想ですよねぇ。」

「うるさい!!!」

 道路の周りは森林、人が滅多に通らない道なのでどんなに大声を上げても隣家には届かない。

 ・・・・・銃声ならば響くかもしれないが。

 心地よい風の吹く中、譲の肩まで伸びた髪が僅かにそよぐ。

「お前が、お前が悪いんだ!」

 後の喚きは譲には届かない。

 肩に羽織っただけの羽織を飛ばされない様に抑えて無機物を見る瞳で男を見つめる。

 一通り喚いて荒い息を吐く男を見ながら溜息を吐く。

 その様に余計苛立ったのか、譲にとっての禁句を吐いた。

「まったく!椎原の若造もこんな男娼崩れを妾にして!三和会も知れている!」

 退屈そうに聞いていた譲の瞳が変わり、ゆっくりとした足取りで男の前まで歩く。

 足が悪い為に早く歩けないのだが、それは威圧感を与えるものだと宇治は背中を見ながら思う。

 それはか細い体に似合わず迫力のあるもので。

 男の正面まで来ると、繊手が上がり。

 振り下ろされた。

 暴力の全く似合わない顔と体から出された平手は男の頬を僅かに赤くするだけのものだったが男自身は呆然とする。

「人が大人しく聞いていれば・・・・。」

 淡々とした瞳で見下す譲に男を捕まえている木戸が震えた。

「椎原への雑言も三和会への貶し言葉も、誰が許したとしてもこの僕が許しません。」

 静かな森の中、譲のいつもは優しく響く声が、冴え冴えとした冷たさと怒りを含めて唇に乗る。

 そうして突然、突風が吹いた。

 羽織が風に飛ばされ髪が逆巻く中、譲の柳眉が上がる。

「男ならぐだぐだ言うんじゃない!この三下がっ!」

 再び繊手が上がり、今度は逆の頬を叩く。

 呆然としたその顔を見据え、睨みつけてから譲は身を翻し車に戻っていく。

 宇治は慌てて飛んでいった羽織を拾いに行き、その後ろには佐々木が従った。





 譲はその別荘にその晩泊まっただけで朝起きて直ぐに戻る事になった。

 慌しい滞在となったのだが、こんな時もあるだろうと思う。

 いつも通りの日常が戻ってきて笑みを浮かべる譲に宇治や木戸も安心そうだ。

 時々病院に行ったり買い物に行ったり、プールに行ったり形ばかりのオーナーになっている店に顔をだしたり。

 殆ど家に居る事が多いのだがそんな日々を送っている。

 椎原もあまり遅くなる事なく家に戻ってきてくれるので譲は上機嫌な日々が続いていた。

 結局、その男・・・譲は名前を覚えず仕舞いだったが、歴史ある伊藤組は大幅な縮小をせざるを得なかったが、諸々の禊をした後組自体は潰される事は無かった。

 仕掛けたとはいえ潰すつもりは無かった椎原が伊藤組と敵対勢力にあたる組との仲を取り持ち、警察沙汰になっていないという理由で取り潰しは無しにするよう上に頼んだのだ。

 そうしてある日の事。

「譲。今日は一緒に来て欲しい所がある。」

 椎原の頼みは嫌と言った事の無い譲は笑顔で頷く。

 その日も着流しに羽織といった格好で出向いたのは、前に行った事のある料亭。

「雅伸さん、もしかして・・・・。」

「ああ。一応詫びだそうだ。」

 椎原が頷いて笑ったので譲も頷く。

「そうですか。」

 背中に手を当てられて促すようにされて進む。

 そうして同じく離れで控える人間も工藤。

 笑って頷いてくれる工藤に笑いかけて譲は中に入る。

 そうして襖の前に座り、両手で僅かに開け、左手を内側に入れて半分開けてから右手で開けると。

 羽織袴姿の二人の男が座布団の横に座り、額を畳みに付けた状態で下座に座っていた。

 驚いて口を開いたまま固まる譲を起こして二人で中に入ると年長の男の方が頭を下げたまま口を開く。

「この度は愚息が迷惑を掛けた事、心からお詫びする。」

 潔い姿に椎原は男の近くに寄り、肩を持つ。

「伊藤前組長が年少の私に頭を下げる事はありません。どうぞ顔を上げてください。」

 そうして上げた顔は。

 映画でみる昔気質の極道そのもの。

「浅見さん、といったか。お前さんにも迷惑と暴言を吐き掛けたと聞いた。それもこれも親であり、前組長である俺の責任だ。本当にすまなかった。」

 またしても頭を下げる。

 隣の男は頭を下げたままだ。

「そんな。頭を上げてください。」

 慌てて言うと前組長は頭を上げて譲を見る。

「本当に俺の責任だ。しっかりと鍛えなおすから勘弁してやってくれ。」

「僕は今後椎原と三和会に雑言を吐かなければそれでいいです。」

 微笑む譲を見て前組長は目尻をを下げた。

「そう言ってもらえるとほっとするよ。しかし、中々肝が据わっているそうだな。いや、羨ましい。椎原会長は良い連れを見つけられた。」

 椎原も笑う。

「自慢の情人ですので。さて、詫びも済んだ事ですし食事にしませんか?」

 暗にもう一人の人物も頭を上げる様に言うと前組長の一言で顔を上げる。

 その男はこの離れと森の中の道路で譲を罵った人物だ。

 だが以前浮かべていた、馬鹿にしたような目ではない。

 その瞳を不思議に思いつつ譲は僅かに口角を上げる。

「ああ、・・・・雅伸さんを罵った人。」

 笑顔で言う。

 譲に他意はない。

 名前を知らず、どんな地位であるのかさえ知らない。

 そんな人物をどう言うべきか迷った天然な所のある譲は正直に言っただけなのだ。

 だがその言葉に譲以外の全員が固まる。

 三和会に大きな借りが出来てしまった以上、伊藤組の中外にいる者達は口を挟む事は出来ない。

「譲・・・それはちょっと。」

 思わず椎原が言うと譲は首を傾げた。

「じゃあ、どんな人なんですか?僕はこの人の名前も呼び方も地位も知らないので。」

 そうしてそれに反応したのは前組長。

「何だ。お前は2度も会っておきながら名乗りもしなかったのか!」

 もの凄い形相で隣の息子に怒鳴った。

「伊藤前組長、落ち着いてください。」

 椎原が間に入ると咳をしてから正面を向き、譲に笑いかける。

 本人は雰囲気を和らげる為に笑ったのだろうが、剛の者が笑っても怖いだけだ。

 だがしかし。

 強面の者には慣れている譲には好意的に映る。

「愚息が失礼をした。我々は伊藤組の者で、隣に居るのは私の息子で現組長の伊藤泰彦、私は昭泰と言う。」

「浅見譲と言います。特に組などには入っておりません。」

 丁寧に返す譲に伊藤昭泰はほう、と言う。

「礼儀正しい若者のようだ。」

「いいえ。普通の事でしょう。」

 囲われ者だと言っても一般人。なのに怯えもせず笑う譲を伊藤昭泰は一気に気に入った。

「そうかそうか!いや、話に聞いてはいたが、中々面白い人のようだ!」

 豪快に笑う伊藤昭泰に譲は笑みを浮かべ、その笑みも気に入られてしまう。

「今日は遠慮なく飲み食いしてくれ。」

 運ばれてきたものは様々な珍味や新鮮な魚介類。

 酒も高価なものから珍しいものまで所狭しを並べられた。

 その豪快さと懐の深さに譲は目の前の老人に好意を抱く。

 椎原も目の前の前組長である伊藤昭泰を嫌いでは無いらしく、老人が勧めるままに杯を重ねる。

 そうして暫くした後。

 浴びる様に飲み続けた伊藤昭泰はとても上機嫌だった。

 譲に今度一緒に飲みに行こうと誘われ、椎原が足に悪いからと言うと、じゃあ、旅行だ買い物だ囲碁だと言う。

 旅行はともかく囲碁なら出来ると言うとその約束を取り付けて譲の繊手を両手で包んで握手する。

 豪快に笑う前組長を部下の者達が何とか連れ出し別れる事が出来たのは、料亭に入って3時間後の事だった。

 別れる際にすっかり大人しくなった伊藤組長が丁寧に再度詫びて来たのが印象に残る。

 ちなみに伊藤組の者からは平謝り状態だった。

「あれじゃあ、どっちが接待したのか分かりませんね。」 

 マンション戻った後、苦笑しながら言う工藤に譲も笑う。

「そうですね。でもあの前組長さん、面白かったですから。僕、おじいちゃんに会った事無かったので何だか嬉しかったですし。」

「前伊藤組長は昔気質の上に懐が深い事で有名な人物で、慕う者も多い人なのです。悪い人では無いので譲さんが嬉しいのならそれでいいのですよ。」

「はい。」

「後で幹部の者が詫びに来るだろうな。」

 こちらが内密に仕掛けたとはいえ、ご禁制のものに触れていたのだ。それを揉消し更に潰されるのを救った三和会にはどんな事があっても返せないほどの貸しを作ったも同然。

 苦笑する椎原に工藤は頷きつつ明日のスケジュールを確認した。

「ですが大丈夫だと言って置きましょう。」

 ちなみに詫びとして前もって渡された現金は譲の口座に入っている。

「そうしてくれ。」

 和やかな雰囲気の中、譲はやっと一通りの事が終わったのだとほっとしつつ共に笑った。 





              おわり







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