落花流水の情 





 譲はぼんやりとした頭で考える。

(どうして僕は此処に居るんだろう?)

 頭痛以上に痛むのは以前怪我をした足。

 裾を捲ってみると倍近く腫れ、色もどす黒いものに変わっていた。

 本当にどうしたのだろうと言う考えに囚われる。

(確か・・・・・。)





 その日。

 譲はお気に入りのカフェでお茶をしていた。

 値段設定が高いせいもあるのだろう、外観も雰囲気も庭も味も申し分無いのだが客は少ない。

 まあ、和食処だったら夜の定食が食べれる程の値段なので仕方無いとも言える。

 逆にその値段のお陰で人が閑散としている所も気に入っていた。

 街中にあるわけでもない、元華族の邸宅を改装して作られたカフェは知る人ぞというもので。

 週に一度は足を運ぶ譲は常連と言っていいだろう。

「本日のケーキはブルーベリータルトとオペラになっておりますが、どちらになさいますか?」

 渋みのある40代のティーマスターは上品な笑みを浮かべて譲に問う。

「今日のアールグレイだからタルトを」

「畏まりました。」

 カフェの営業日より結婚式や映像等の貸し出しの方が多いのだという庭と建物はなるほど雰囲気のあるものだ。

 英国風庭園は広く清潔でいて、懐かしさを覚えるもの。

 テラスも華やかなりし時代を思わせるもので、そこかしこの手すりや窓枠に描かれた細工は現代の技術では難しいものばかり。

 よき古き時代を凝縮させた空間は普通敷居が高いもの。

 だが此処は格はあっても傲慢さは無く、温かみに溢れている。

 現在たった一人の客である譲は木戸と共に寛いでいた。

 窓から溢れる陽光は寒さなど思わせる事無く頬を照らし、日陰になった所は静かさを思わせる。

「お待たせいたしましたブルーベリータルトで御座います。」

「どうも。」

 そしてこの建物に相応しい容貌のティーマスター。

 椎原も誘いたいのだが、残念な事に此処は昼間のみの営業なので未だその願いは適っていない。

「・・・雅伸さん、忙しいのですか?」

 紅茶を飲んでいる宇治に尋ねるとはい、という答えが返ってくる。

「もう直ぐ会合が近いので、その準備に追われております。」

「・・・雅伸さんが仕切るの?」

「はい。」

「名誉な事なんだろうけど・・・こんなに忙しいのは・・・体壊さないといいけど。」

 溜息を吐く譲に木戸は頷く。

「一息吐いたら数日休みにする予定だそうですから。」

「じゃあ、仕事の事を忘れてもらう為に別荘に行こうって頼もうかな。」

 お願いします、と仕事が趣味の様になっている椎原に唯一休暇を取らせる事の出来る譲に頭を下げる。

「僕が我侭を言うだけですから。」

 笑う譲に木戸は首を振って否定した。

「いえ、譲さんは常に会長の気を使ってくださってます。俺たちではどうしようもない事もありますから。」

 始めに荒川と共に譲の警護の任に就いてから、譲の椎原と三和会への心配りと優しさと愛情に感動しない事は無かった。

 だからこそ命掛けても守りたいと思う木戸は尊敬の念を譲に抱いている。

 世間のはみだしものである自分達に優しく笑いかけ、心配し、時には無理をしても“お守り”を作ってくれるのだ。

 三和会の面々は始めの頃こそ違ったものの、今は譲をその個人として認め、尊愛している者が殆ど。

 木戸の役目を羨ましいと思う者ばかりである。

 陽光の中笑う譲に木戸は強面を笑みに変え、そろそろどうですかと促す。

「うん。そうだね。もう直ぐ夕方だから。」

 そう言って笑顔で席を立とうとしたとき。

 カフェの入り口ドアが開かれた。

「・・・え、あれ?浅見?」

 今時の服装に染めた髪だがさわやかそうに見える青年が入ってきた途端に驚きの声を上げる。

「え?確かに僕は浅見ですが・・・。」

「俺だよ。伊賀!高校の時同じクラスだった!や〜懐かしいなぁ。」

 白いシャツにセーターにジーンズ、暖かそうなコートにマフラーと大学生らしい格好をした青年は譲に走り寄った。

「伊賀?・・・・もしかして、委員長の伊賀君?」

 上品な仕草で僅かに首を下げる譲に木戸が後ろから着物用の外套を掛ける。

 後ろを向いて礼代わりに微笑んでから外套に繊手を掛ける姿は一幅の絵の様に美しい。

 そうして足を外に向ける。

 暗にもう出る所だと二人して言っているようなものなのに伊賀と名乗った青年は嬉しげに笑いながら話を続ける。

「そう!その伊賀だよ!元気してた?」

「ああ、うん。元気だよ。・・・悪いけど、これから用事があるから・・御免ね?」

 艶やかに微笑む譲に一瞬見とれた伊賀は、だが、懐から名刺を取り出して渡す。

「これ、俺の携番だからいつでも電話してよ。今度合コンでも行かない?」

 名刺には合コン用なのだろう、名前と携帯番号、メールアドレス、大学名とサークル名が書かれてあった。

 誰もが羨む程の一流大学名前とそのスキー部だという文字が燦然と輝いている。

「・・・僕が高校中退したのは知っているでしょう?それに僕もそれなりに忙しいから。」

 やんわりと断る譲に、だが伊賀は強引に名刺を渡して譲の名刺を欲しがった。

「や、暇な時でいいからさ!こういう所でお茶してるって事は昼間は暇なんだろう?」

「今日は偶々。」

 だが結局仕事用の譲の名刺を半ば奪う様にして手に入れると絶対に連絡しろよと言って去っていく譲達を見送った。





 当然その報告は椎原に行く。

「今日、変な奴に会ったんだって?」

 帰宅してスーツを脱いでいる最中、それを手伝う譲にさり気なく聞く。

「ええ。と言っても高校の時の同級生で、相手はクラスの委員長ですけど。だから別に変では無いのですが・・・・。」

 と言いつつも譲の眉間には珍しく皺が寄る。

「何か違和感でもあったのか?」

 いえ、と首を傾げてみせる。どうやら譲自身もよくわかっていないようだ。

「そういうわけでは無いのですけど・・・でも、当時は殆ど口も聞いた事も無かったんです。」

 だからどうして話しかけたのだろうという事が違和感として残っているらしい。

「バスケ部のエースで、でも驕らない人だったから学校の中でとても人気のある人でした。

対して僕は目立たなかったし、いい噂なんて一つも無かったから誰も近寄って来ない人間だったのに・・・・本当にどうして今頃。」

 心底不思議だと思うと同時に、何か引っかかる所があるのか。

「名刺を渡してしまったので、宇治さんの仕事が増えてしまいますね。」

「それがあいつの仕事だし、勉強になっているからいいだろう。」

 笑みを浮かべて言う椎原に譲も微笑む。

「そう、ですか?」

「ああ、そんな事よりこちらの方に意識を向けて欲しいな。」

 キスをすると擽ったそうに肩をすくめる。

「今日は一緒に入るか?」

 いつもは部屋着に着替えて食事をするかニュースを見てから浴室へ行くのだが今日は違うらしい。

 風呂、と聞くと譲はそのまま頷く。

「髪、洗わせてくださいね?」

 甘える様に首に手を伸ばすと椎原は屈んで譲が手を回し易いようにする。

「譲の指は気持ち良いからな・・・」

 譲の背中と膝の裏を両手で軽々と抱えて、二人で笑いながら風呂場へと向かう。

 浴槽は常に一定の温度を保たれているので扉を開けると温かい蒸気が流れてくる。

 順番に軽くシャワーを浴びて体を洗ってからまず譲が椎原の髪を洗い、椎原が譲の髪を洗う。

 譲は指圧が以外と強いので実際気持ち良いのだが、本人はそれを椎原のお世辞だと思っており、椎原も実は丁寧に頭皮をマッサージする様に洗うので天国の心地なのだがやはり譲の世辞だと思っている。

 どっちもどっちなのだが、逆を言えば互い以外に髪を洗う事が無いのでそれを他人に話せば惚気となる話だった。

 椎原の体に背中を預ける形で浴槽に入ると椎原が譲の髪を手で梳く。

 湯を温めるモーター音と水音だけが響く中、椎原の譲の髪を梳く手とは反対の手が足に伸びる。

 筋肉の付具合の違う左右の足は醜いと言えなくも無いが譲自身は気に入っているので気にしていない。

 椎原も気にはしているのだが、この傷が互いを結びつけた切欠となった事もあり実は愛おしいというに相応しい感情を持っている。

 互いにそれを知っているので傷に触れ、撫でる行為は愛情を伝える行為の様に思えるのだ。

「・・・何かあったら些細な事でも言ってくれ。そうしないと俺は仕事が手につかない。」

 傷痕に触れる手を見つめている為に俯いた状態となっている譲の項に唇を押し付ける。

 譲がくすぐったさと嬉しさで笑う。

「雅伸さんが工藤さんに怒られてしまっては大変だから、ちゃんと言います。」

「じゃあ、今日の事はどうして言いあぐねているんだ?」

 それは、と椎原の手を俯いた状態で見ながら口を開く。

「本当に、僕にもどうして伊賀さんが話し掛けてきたのかわからないんです。」

 髪を撫でる手が肩を包み込むようにして触れる。

「僕は、高校は中退して・・・・それに、学校でもずっと一人だったから。」

 細い肩がいつも以上に細く見えた。

「そうか。」

 後ろから抱きしめると、その腕に譲の手が触れる。

「・・・どうして・・・あそこに居たんだろう。」

 漏れる言葉は独り言に近い。

 触れるだけだった譲の指に力が入る。

 無意識の内に入っているその力が譲の不安を伝えている様で椎原も腕に込めて抱き締めた。

「譲・・・独りになるな。俺が居る。だから・・・。」

 互いに不安な気持ちは抑えられる事なく、互いへ縋る気持ちが力となって相手をきつく拘束する。

「雅伸さん・・・僕は・・。」

 だが譲はそれ以上何を言う事も無く、水音とモーター音が響く中長い時間そうしていた。





 数週間後、やはりというか、想像通り電話が来た。

 仕事用の電話なので宇治が取ると宇治相手だというのに伊賀は一気に捲くし立てる。

『浅見?俺、伊賀だけど。浅見に会ったっていったら』

 宇治は無表情でその会話を聞いていたが、横から譲が取り上げた。

「譲さん?」

 いつもは絶対にこんな事をしない譲なので宇治は驚きを隠せない。

「うん・・・・そう、いや、それはちょっと・・・・僕の方も時間が取れないし。」

 苦笑を見せてはいるものの、常に譲の傍にいる宇治には椎原同様譲の心の動きはよく分かる。

 今、譲はとても動揺していた。

「そうなんだ。・・・うん。・・・・そう。えっ!・・・それは止めて欲しい。・・・でも・・分かった。じゃあ、今から其方に向かうよ。」

 そう言って電話を切った譲は溜息を吐いて宇治を見る。

「今からちょっと出かけなければならなくなったみたいです。」

 笑みを見せるその顔は寂しさとどこか焦りを感じさせるもので。

「今から、ですか?」

 時刻は夕刻というよりは既に夜に近い。

 こんな時間には椎原の用件で無ければ殆ど出かけない譲である。

「はい。」

 懸命に普通の言葉を使おうとしていた譲に宇治はもう敬語でも何でも使いやすい言葉をと言ったので、敬語を常に使うようになった彼には珍しく普通の言葉で話していた。

「しかし・・・。」

 今からでは木戸はいないし、荒川に頼むとしても彼は出世して忙しい。

「今日は内密の方が嬉しいので、宇治さんだけでお願いしたいのです。」

 縋る瞳で見つめられ宇治は頷く。

「わかりました。車を用意してまいりますのでお待ち下さい。」

 譲は頷いて、羽織を取ってくる為だろう、自室へと向かった。

 宇治は一旦外に出て駐車場に向かいながら工藤に電話する。

 そうして経過を伝えると、わかったという声がした後電話は切られた。

 何事も無かったかのようにマンションの前に車を寄せて譲がエントランスに現れるのを待つ。

「お待たせしました。」

 涼やかないでたちで現れた譲に手を貸しながら車に乗り込み、言われた通りの場所をナビにセットする。

 繁華街の中にある合コン向きの其処には椎原や工藤達がいるオフィスビルとは正反対の場所にあり、彼等が駆けつけてくれるとしても時間がかかるだろう。

 その中へゆっくりとした足取りで譲は向かう。

「宇治さん。」

 店の前で突然止まり、譲は宇治に背中を見せたままで言う。

「出来れば僕一人で入りたいのですけど。」

 常に人がいる状態でも文句一つ言わない譲だったので宇治は内心驚く。

「ですが・・・。」

「駄目、ですか?」

 宇治はその意見に従いたく思ったが、首を振る。

「駄目です。」

 譲は少し俯いた後、振り向いて笑顔を見せた。

「そうですか。じゃあ、仕方ありませんね。この後も仕事があるのだと言いましょう。」

 小さく頭を下げて詫びをする宇治に譲が笑いかける。

「我侭を言ってすみません。・・・・・・・でも今からある事は極力口を噤んで貰う事を約束してもらえますか?」

 真剣な眼差しへと様変わりしたその顔に動揺してしまう。

「お願いです。」

「っつ・・・・・わかりました。但し、最低限になります。」

「ええ、それでいいです。」

 泣くのを堪えているかの様な笑みに宇治の胸は痛む。

「譲さん・・・・一体何が?」

 それには答えず、譲は前を見た為に背中を見せる。

「行きましょうか。」

 明るい、優しい声だったが宇治は不安を隠せなかった。





 寒空の下、駐車場と警備の都合上どうしても歩かなければならなくなった為に一応持ってきた外套が役に立っている。  着物用の外套は深い藍色で、椎原が拵えさせたものだけあってとても温かい。

 その温かさに励まされる様に中に入れば騒がしいが活気の溢れた雰囲気が一気に襲う。

「ここまで人が多い所に来るのは久しぶりです。」 

 実際譲が出向く所は人の少ない、レベルの高い場所ばかりだったので、この人の多さに酔わないといいのだがと宇治は心配する。

「そうですね。」

 譲が自分の名前を現れたスタッフに告げると席に案内された。

 騒がしい店内では無く、恐らくは予約しなければ取れない部屋だろう、外の喧騒が一切聞こえない部屋。

「伊賀さん・・・・いきなりだね。悪いけど、この後も仕事が残っているから」

 柔らかな笑みを浮かべて時間は取れないという風に告げると伊賀は笑って頷く。

 コートを脱ぐ事すらせずに立つ譲に苛立つわけでもなく、余裕の態度を崩そうともしない。

「うん。分かってるよ。・・・・でもその前に其処にはキャンセルの電話をして欲しいんだけど?」

「それは無理です。浅見にも都合というものが御座います。はっきりとした時間が必要ならば前もって電話をされてください。スケジュールにあわせてお答えします。」

 譲が何かを言う前に宇治が答える。

「浅見、この人は?」

「僕の秘書だよ。」

「秘書・・・へぇ〜、浅見も偉くなったんだね。」

 笑みを浮かべているが、譲には伊賀の本心が見えない為に何の緩衝材にもならない。

 不安を辛うじて隠しながら譲はその場に立っていた。

「とりあえずその秘書さんも一緒でいいから座ったら?」

 勧められれば座らざるを得ず、譲は椅子に座る。

 宇治は仕事があると言った通り、譲の背後に立ちいつでも立ち去る事の出来る様にしていた。

「秘書というよりボディガードみたいだね。」

 あはは、と明るく笑う姿は確かに大学生なのだが、宇治の睨みにひよっこである大学生が適うはずは無いのだ。

 伊達に工藤と荒川から直接頼まれたわけではないのだから。

「でも・・・・うん。君は邪魔だな。」

 伊賀は笑って注文する為のものであろう呼び出し用のボタンを押す。

 すると現れたのは。

 あからさまに下っ端だがヤクザと分かる者達。

 その程度の者達なら宇治は問題にしない。

 だが数が多かった。

 ざっとみて十数人。

 広いように思えていた部屋が一気に狭く感じる。

 その内の一人が譲に近づいたので男の腹部に蹴りを入れて引かせ、威嚇も兼ねてファイティングポーズを取る。

「三下が譲さんに触れようとするなどおこがましい。」

 切れ者のサラリーマン然とした雰囲気がガラリと変わり、男達はざわめく。

「いくら腕に覚えがあっても数ではこちらの勝ちですよ?」

 同時に4人がかりで掛かってこられ、それをいなす。

 背後に譲を守りつつの攻防戦はだが、伊賀が後ろから譲を羽交い絞めにした事により隙の出来た宇治が残り数名の男の内の一人が椅子で頭を強打した事により一気に不利となった。

「宇治さんっ!!!」

「ゆ、ずる、さん。」

 痛む頭を抑えつつ、それでも立ち上がる宇治に男達が飛び掛っていく。

「やめてください!伊賀さん、止めさせてっ・・・・っつ!!!」

 悲鳴の様な声を上げる譲に伊賀はハンカチを当てて気絶させる。

「譲さん!!」

 必死で残りの男達を倒している宇治だが更に数名入ってきた男達によって譲は連れ去られてしまう。

 布に包まれた譲の艶やかな髪だけが視界に残る。

 手を伸ばしても届かない。

「譲さんっ!!!!」

 容赦なく目の前の相手たちを殴っている宇治だが、数が多く、更に増えてしまっている。

 目の前で連れ去られた譲を追う事すら出来ず、殴り殴られされる内に宇治は気を失った。





 目を覚ました譲は大きな寝台に寝かされている事に気付く。

 眉を顰めて周囲を見渡せば、何処か椎原の別荘に似た雰囲気だ。

 恐らく此処は自分達の生活範囲とは違うだろう。

 空気が違うのだ。

 もう少し乾いた空気だ。

 完全調整された空気でもその土地の空気と雰囲気は隠せない。

 腕を動かしてみれば後ろ手に縛られていたが、足は何もされていなかった。

 恐らく手だけで充分だと思ったのだろう。

 ゆっくりと起き上がり窓の外を見ると雪が降り積もっている。

(という事は此処は一階?)

 だが視界が悪そうだ。

「目を覚ましたみたいだね?」

 ドアが開かれると同時に掛けられた声に振り向くと予想通り伊賀が微笑んだ顔で立っている。

「どうして僕をこんな所に?」

 微笑が薄っぺらいものに感じた譲は伊賀から視線を外す事無く問う。

「それは君が三和会会長の情夫だから。」

 譲はああ、と頷いた。

「つまり伊賀はヤクザと繋がりのある人間だという事ですね?・・・・元からそうだったのか、そうなったのか・・・どちらにしろ堕ちたものです。」

 淡々とした声に伊賀の嘲笑が響く。

「男の癖に男に体を売って生きてきた挙句、捨てられて退学して?それで今はヤクザの情夫なんてものをやっている、男娼として過去も現在も未来も生き続けているお前に言われたくないな。」

 高校在学当時から覚えていた違和感。

 それは伊賀の仮面。

 どんなに優等生面して、万人に優しさを振舞っていたとしても、その嫌悪や侮辱する視線や感情を完璧に隠す事など出来はしない。

 褒められ、受け入れられていると思っても、それはそうであって欲しいという願いの下自らにフィルターを掛けているだけなのだ。

 どんなに伊賀が笑って同級生と話をしていても違和感を感じていたのはそういう事だった。

 今になってわかる真実に、自分も“誰でもいいから自分という存在を受け入れて欲しい”と願っていた事を知る。

 だが今は違う。

 受け入れてくれる仲間がいて、最愛の人がいて。

 だからそんなまやかしは通じない。

 縋らない。

 そんな事をしてしまってはこんな自分に何一つ聞くこと無く愛情を溢れるほど注いでくれる椎原に顔を向けられないから。

(こんな男に僕は屈しない。)

 目に見える暴力は痛みを伴う。心にも体にも。

 言葉の暴力は心にのみ痛みを伴う。

 昔は感じたくなくてそれら全てを拒絶し感情の機微を無くしていた。

 一人になってそれらを少しずつ取り戻し、椎原と三和会の皆に会って今は溢れる程。

「僕を侮辱しても何も響きませんよ。」

 虚勢では無い、真実であるその言葉に伊賀の眉が上がる。

 高校時代の虚ろな目をした譲しか知らなかったからだろう。

 強い意志を持って真っ直ぐ伊賀を見る譲は椎原が見たら綺麗だと囁くもの。

 凄艶と寛容と慈愛とを持つと陰で言われている譲は伊達に三和会の下の者達に慕われている訳ではない。

 威圧感とは違うがそれに似た凛としたものを持つ今の譲に伊賀は表情はそのままでも一歩下がってしまう。

「・・・まあ、いいか。生身を渡してくれれば何をしても良いって言っていたし。ヤクザでさえ虜にしたその体を試してみよう。」

 圧し掛かられた譲は視線を逸らす事無く伊賀を見続ける。

 それに多少臆する気持ちを振り切って伊達は裾を広げて足を大きく開かせた。

 男達の下種な視線など嫌という程知り尽くしている。という事はどんな時に男というものが弱点を晒すのかも。

 譲は熟知していた。

 傷だらけの足とは違い、白い肌と大腿の誘うような柔らかい部分は傷は少なく、妙にそそる。

 伊賀も例外では無かったらしい。

 生唾を飲み込む嫌な音がした。

 男の意識を逸らさない程度に抵抗する振りをして・・・・。

 怪我をしている方の足で脇腹を思い切り打ちつけ、それに怯んだ隙にもう片方の大丈夫な足の方で渾身の力を込めて金的を蹴り上げた。

「っつ!!!!!このっ!」

 痛みで悶絶する伊賀を視界に入れながら縛られていた手を自分で解く。

 もしもの時の為に宇治に習っていたのだ。

「後でお礼を言っておかないと。」

 更に某バーの謎の魔性の人から習った方法で男の一番大事な所を押させる手の上から踵を降ろす。

 片方の足が悪い為に他の者がするよりは効き目が薄いが少なくとも時間は稼げるだろう。

 僅かに微笑んで窓を開ける。

 譲程度の細身なら充分脱出できる大きさだ。

 だが。

 窓を開けて下を見ると其処は。

 雪の降り積もった崖だった。

 どうりで脱出を防ぐための二階では無かった筈。

「・・・・残念だったな・・・。」

 痛みの為、額に冷や汗を掻き顔を歪める伊賀はだが、嘲笑した。

「さあ・・・・でも僕は君の思うがままにされるつもりは無いのですよ。」

 “例え虚勢でも余裕の態度を見せるのが一番だ”

 椎原が言っていた言葉が脳裏に浮かぶ。

(はい。雅伸さん。・・・・僕はもう昔みたいな自分に戻りたくない!)

 譲は微笑んだ。

 余裕と慈愛を現した様な笑みを。

 蹲りながら譲を見ていた伊賀は呆けた様な顔になる。

 それに対して益々笑みを深くする譲。

 そうして。

 その笑みを浮かべたまま。

 窓の外に身を翻した。

  



 転がり落ちたのだが、雪がクッション代わりになってくれたお陰で然程痛みは無い。

 だが転がった拍子に岩か何かで足をぶつけたらしく痛みを感じる。

 それに構っていられる暇などある筈も無く、譲は少しでも放たれるだろう追っ手から逃れる為に歩く。

 雪の山に着流しで歩くなど自殺行為に等しいと分かっているが、あそこに居るよりはましだ。

 捕まって椎原に迷惑を掛けたく無い、あんな男に好きにされたくない。

 その一心で足を進める。

 どれ位歩いただろうか。

 目の前に洞穴の様なものを見つけた時は既に視界が霞んでいた。

 熊の冬眠場所かもしれないという気持ちもあったがそれ以上に今は体力が限界だった。

 倒れこむ様にして中に入り、腕の力だけで少しでも奥に進む。

 重くなった髪と着物が疎ましい。

 こんなに冷えていては駄目だと頭では分かっているのに限界以上に酷使した体は言う事を聞いてくれない。

 眠ってしまっては駄目だと分かっているので必死で閉じようとする瞼を上げる。

 其処へ何かの気配を感じた。

 雪を踏む足音と共に近づいてくる気配。

「・・・・・え、本当に人だったかよ?・・・おい、あんたどうしたんだっ?!」

 譲の姿を見て慌てて駆け寄ってくる。

(ああ、これで助かるのか?)

 そう思えば自然と意識は遠のいた。





 目を覚ますと板張りの天井が見えた。

 こんな所は覚えが無いので違和感を感じる。

 身動きをしようとしたら足に痛みが走り、気を失うまでの事を思い出した。

「そうか。僕は助けられたのか。」

 着物というより浴衣を着せられていた為に違和感を覚えなかったから直ぐに思い出さなかったのだろう。

 柄物の浴衣を着せられている。

 上半身を起こした状態で顔を照らす方角を見ると窓の外の景色が広がった。

 陽の光が雪に反射したものが譲の顔を照らしていたらしい。

 それだけの風景だがとても心洗われる様な気がして思わず微笑む。

「あ、目、覚めてる。」

 突然入ってきたのは体格の良い男。

「大丈夫か?頭とか痛くないか?」

 体格の良い男は見慣れているが熊の様な男を見るのは初めてだった。

「はい。助けていただき有難う御座いました。」

 頭を下げると男は子どもの様な笑みを浮かべる。

「いやぁ。偶々だよ。しかし・・・あんた足が悪いのだろう?」

「はい。」

「ん〜、その足の所がな、石かなんかで強く打って、更に小枝かなんか突き刺さってたんで酷く腫れているんだよ。あ、枝は抜いておいた。一応熱もあるみたいだし、出来れば病院に連れて行ってやりたいんだが・・・。」

 そう言って男は窓の外を顎で示す。

 先程まで晴れていたのに今は雪がちらついている。

「生憎雪が積もっていて背負っていけなさそうなんだ。この周りは此処一軒だけだし・・・・。」

「電話は通じないのですか?」

「ああ、何か電線が切れてしまったらしい。」

 男は困り果てたという顔をした。

「すまんな。」

「いえ、僕は大丈夫です。」

「生憎薬は抗生物質と風邪薬位しかなくて・・・熱を下げる様な薬が無いんだ。」

 その答えにも譲は微笑んで頷く。

「大丈夫です。」

「いや、あんた多分熱で浮かされているから今は大丈夫なだけだって。」

 心配そうな男に譲は首を横に振る。

「そうではなく、こういう事は初めてでは無いので。」

 譲を治療した男は着替えさせる時に全身の刃物の傷や煙草の痕を見た筈。

「・・・・そうか。ともかく電話が直ったら電話するし、そうじゃなくても雪が止んだら背負ってでも病院に連れて行ってやるからな。」

 真剣な眼差しで言う男は水の入ったコップを渡し、飲み干すのを確認してから再び布団に横にする。

「あんた熱があるんだから少しでも横になっておけ。」

「色々とすみません。」

 頬が赤い譲に男は笑みを浮かべて首を振る。

「なに、困ったときはお互い様だ。」

 そう言ってから譲が気にしない様にとの配慮だろう、さっさと立ち去る男を見送ってから譲は目を閉じた。

 



 それから次の日、雪は完全に止み美しい朝日の中男は譲を背負って山の中一本道に居た。

「悪いな。車は此処から一番近い家に預けているんだ。」

 話によると、男の家には道路が通っておらず車があっても無駄だと思っているので出かける時用の車は知り合いの家に預けっぱなしなのだという。

 雪をスコップで掻き分けながら男は進む。

「・・・・本当はその友人の家の方があんたが倒れた場所から近かったんだが・・・本当に済まない。・・・あんた・・・怒るなよ?俺が昔好きだった女に似ていたんだ。だから助けないとと思って・・・。冷静な判断が出来なかったんだよ。」

 背負われているので顔は見えない。

 だが耳が赤くなっているのがみえた。

「・・・いいえ。助けてもらって感謝しています。あの、僕まだ名乗ってもいなかったですね。浅見譲と言います。」

「ああ、俺は熊川護朗だ。まんまだろう?熊さんと呼んでくれ。」

 豪快に笑うその声は何処か温かみのあるもの。

「・・・うちの大きなテディベアも護郎さんなんです。」

「そりゃあいい!」

 感じる振動が心地よい。

「・・・ええと、浅見君?」

「譲でいいですよ。僕の回りはそんな風に呼んでもらっているんです。」

「へぇ〜。楽しい?」

「とっても。生きていた中で一番といっていい位なので、逆に怖くなるときはありますけど。」

「・・・そっか。」

 良かった、と呟く男に譲は見た目30代のこの人は色々人生経験してきたのだろうなと思った。

「熊川さんは」

「熊さん。」

「・・・熊さんはどんなお仕事をされているんですか?」

「俺は・・・あちこち写真を撮って回っているんだよ。あの家に居る時は休暇中。」

「じゃあ僕は運が良かったんですね。」

「そうだな〜。」

 譲を背負った状態でスコップで通り道を作りながら進む。

 熊川の体力の凄さがわかる行程だった。

 そうして2時間歩いた先にログハウス風の家が見えてきて、熊川が譲に笑いかける。

「ああ、あそこだ!もうちょっとで休めるからな!」

 熊川の歩みが速くなり、15分もすると扉の前に辿り着く事が出来た。

 ベルを鳴らすと数秒後にドアが開かれる。

「おう、熊か。どー・・・これまた別嬪さんを連れて・・・。」

「一応言っておくがこの人は男だぞ。」

「・・・え〜・・・・」

 心底落ち込む動作を見せる目の前の男に譲は思わず笑ってしまう。

「それより早く中に入れてくれ。譲は熱があるんだ。」

「熱・・・ああ、お前の家解熱剤無かったな。」

「ああ。」

 気軽に中に入れてくれた男は斉藤茂吉と名乗った。

 温かいホットミルクを提供されている間熊川は車にチェーンを張っている。

 そんな外の景色を気にする譲に斉藤は笑って話をしだしたのだ。

「笑って良いよ。俺といい、こいつといい名前がこれだもんなぁ。」

 あははと豪快に笑う男は陶芸をしているのだという。熊川とは同級生だという事から同じ年齢の筈なのだが若くも見え、老けても見える。

「つっても親の遺産食い潰しているから儲けは殆ど無し。好き勝手にやっているだけさ。」

 実は助けられてからまる一日寝ていたという譲は眠くなかったので病院に向かう車の中で二人が話す事を楽しげに聞いていた。

「俺もこいつも変り種だからな〜。」

「あ、でもちょっと見せてもらった焼き物は素敵でした。」

 世辞では無く本音で言う譲に斉藤は照れる。

「いや〜本気で褒められると照れるな。」

 明るく話の面白い斉藤と熊川に譲は退屈など全くせずに笑い続けてしまう。

「お二人とも面白い方ですね?」

「「いやぁ、こいつには負けるよ。酒豪だし。」」

 重なった言葉に一瞬驚いた後益々笑ってしまった。

 車で1時間半後に付いた病院で熊川に椎原への連絡を頼み譲自身は診察を受けた。

 雪の多い日なので若干患者が少ない為か、それとも譲が足が不自由な為か、いくつか車椅子付きで回る。

 そうして、全ての診察が終わり、職業的に淡々とした声だが僅かに同情の篭った声で口を開く。

 予想通りの医師の言葉に譲はただ微笑みを浮かべていた。    



 伝手を頼り、ヘリコプターを借りて、出来るだけ近いビルに降り立った椎原の顔には焦燥がありありと分かる程だった。

 走らなければ追いつけない程の速さで歩き、用意された車に乗り込む。

 運転手は付き合いのある組の人間だが、助手席に乗っているのは宇治。

 顔が腫れて腕は吊っており、更に傷も負っている事から熱も出ているのだが、その眼光は痛みなど感じていないかの様に炯々としている。

 割と若い運転手はその鬼気迫る様子の宇治と、黙っていても迫力のある上に今は抑えているもののそれでも溢れる恐ろしい程の威圧感を感じながら生きた心地がしなかった。

 普段なら二人ともそういった事に気が回るのだがそれ所では無い為に話し掛ける事すらしない。

 ちなみに後ろに付いて来ているタクシーに乗っている男達も同じ事なのでそちらの運転手も目尻に水を溜めて運転している。

 そうして彼等にとって地獄のドライブ30分が終わったのは病院に着いてから。

 タクシーには余分にお金を渡したのだが二度と乗せたくないと思われたのは当然の事だろう。

 慌てて去っていくタクシーとげっそりと疲れた顔をした若いものには見向きもせずに三和会の面々は黙って病院に入る。

 黒ずくめの服でも無く、強面でも無いのだが迫力ある面々に皆が避けて通す。

 スーツの集団が一様に顔を引き締めて通ればそれだけで怖いものもあるのだが、人間には本能というものが備わっているので。

 そうしてナースセンターに整形外科の場所を聞くと、その看護士はその迫力をものともせずに椎原の美貌に見惚れながら自ら案内を申し出た。

 流石に妙な目で見られたが案内してもらうのは助かる。

「頼む。」

 深いバリトンの声で言われた看護士は頬を赤らめて喜々として案内してくれた。

 宇治はきっちりと保険証を持ってきていたので受付でそれを出すのを忘れない。

 ちなみに木戸は譲を浚った伊賀を捜索する為のグループに入っている為に来ていない。

 そちらの方の捜索は皆が有る限りの情報網と足と怒りでもって探しているのでいずれ見つかるだろう。

 何よりその先頭に立っているのが佐々木だ。

 彼は情報収集に関して右に出るものが居ないという程の上に笑いながらも怒り狂っていたので馬鹿共が逃げられる筈も無い。

 窓の外で雪の降る中、診察中だというので全員が立って待つ。

 15分程待っただろうか、中から車椅子を押して現れた譲に宇治が駆け寄って土下座した。

「すみません!」

 謝った瞬間隣に居た男に頭を殴られたが。

「此処は病院内だ。他の人の迷惑になるだろうが。」

 それを譲を見ながら椎原は冷静な、低い声でそう言うと回りの人に軽く頭を下げる。

「お騒がせしました。」

 譲の姿を見てやっと平時の顔に戻った椎原の、深いバリトンの美声が響く。

 数人居た患者達も驚きつつも頭を下げ返す。

「雅伸さん、態々?皆さんも忙しいでしょうに。」

「心配だったんだ。これでも行くと言って聞かないものが多すぎて減らした程だぞ。」

 一応譲の為に笑みを浮かべてはいるが、目は笑っていない。

 頬の赤い譲を見るに熱がある事は明らかだ。

 攫われてから3日経過している。

 皆譲の体力が心配だった。

 無事に見つかって良かったと思うと同時にそれらを計画実行した面々全てを潰さないと気が済まないという気持ちが一致団結している。

 だがそれを譲には見せない。

「譲、助けていただいた方というのは?」

「あ、熊さんですか?・・・あれ?何処でしょうか。」

 首を傾げると廊下を見る。

「あ、熊さんです。」

 見ると体格の良い、正に熊という男が笑顔で歩いてきた。

 隣の男をはその男に体格は劣るもののしっかりとした体である。

 椎原はきっちりとした動作で歩み寄ってきた二人に頭下げた。

「この度は譲を助けて頂いたそうで。本当に有難う御座いました。」

 他の者達も威圧にならない程度にきっちりと頭を下げる。

「いや、俺らは偶々ですから。」

 そう言ってから熊川は譲に購買で買ってきた温かいお茶を渡す。

「こんなに人が来るとは思わなかったので譲の分しか買ってなかったんですよ。」

 すみませんねぇ、と言う熊川に椎原は頭を振る。

「お気遣い無く。・・・譲、足をどうかしたのか?」

 椎原は目敏く僅かに膨らんだ部分を見た。

 宇治は悲痛な様子を隠そうとしない。

「・・・・ごめんなさい。」

 苦笑と共に言ったその言葉で全てを理解した椎原は痛みを堪える顔をした。

 膝を折って譲の肩に顔を埋める姿に誰も声を掛ける事が出来ない。

「雅伸さん・・・。」

 譲以外は。暫く沈黙していたのだが仕立ての良いスーツ越しに背中を撫でる。

「僕は大丈夫ですから。ね?今日は」

「安静の為に数日入院だそうですよ。」

 言葉を続けたのは熊川。

 いつの間にか医師か看護士から話を聞いてきたらしい熊川が大きな体で音を立てる事も無く歩いてきた。

「言い忘れましたけど、熊川護朗と言います。ああ、譲の家のテディ・ベアと同じ名前だとか。」

「ええ。確かに。熊川・・・というと自然写真家の熊川護朗氏ですか?」

「はい。車を運転してきたのは斉藤ですけどね。」

「・・・陶芸家の斉藤氏ですか?」

「はいそうですよ?」

 何でも無い事の様に言うがこれは結構凄い事であった。

「雅伸さん?」

「ああ・・・・失礼しました。私は椎原雅伸。小さな会社を経営しております。」

 そつなく熊川に名刺を渡し、後ろに隠れるようにしていた斉藤にも渡す。

「へ?・・・って、去年位から時々俺の写真を企業で買ってくださっているトコですよね?」

 大きい体を僅かに丸めて破面した。

「はい。譲が気に入ってからは社のロビーなどに飾れるように購入させていただいております。斉藤氏の焼き物も譲が気に入っていくつか持っております。」

 譲が、という下りで熊川と斉藤の視線が当然譲に集まる。

「・・・そうだったの?」

 自覚の無い譲は椎原を見上げる様にして尋ねると笑って頷かれた。

「ああ。お前は名前では買わないからな。」

 純粋に好きなものだけを選ぶ譲の観る目を自慢する様に頭を撫でる。

「そうですか。それは嬉しい事です。自分の作品を気に入っている人を助けられて良かった。なぁ、斉藤。」

「ああ。」

 顔の造作も良いがそれ以上にその纏う雰囲気が出来る男と見せている椎原の笑みは完璧に“一般向け仕様”。

 傍を通りかかった看護士や医師が見惚れているのに気付いた譲の眉が深く、深く寄る。

「・・・・・雅伸さん。」

 どうしても、どうしても出てしまう嫉妬心を懸命に抑えながら声だけ掛けた。

 だがそれに椎原は気付かない。

 それでも椎原は譲一筋なので急いで譲の顔色を確認するかのように覗き込み、頬に手を当てる。

「どうした?足が痛むのか?ああ、こんな寒い所で立ち話をしていて悪かった。どうする?此処で入院するか?一応ヘリで来たから前回世話になった病院に移るか?」

 譲の一言に矢継ぎ早に言う椎原。

 そのまま車椅子毎抱えそう勢いに後ろから歩いてきた宇治が止めに入った。始めは確かにいた筈なのにいついなくなったのか全く気付かなかった譲は驚く。

「譲さん、掛かりつけの病院があるならそちらの方が良いだろうと言われましたので一先ず戻りませんか?お疲れならこちらで一泊します。」

 譲の秘書でもある宇治は皆が会話している間に諸々の手続きと説明をしていたらしい。

「え・・・僕は・・・あちらの方が馴れている事もあるので。」

 実際警備等の手配を考えると此処はあまりよくないのだ。

「・・・そうだな。熊川さん、斉藤さん、譲が本当にお世話になりました。」

 深々と頭を下げる椎原に二人は慌てる。

 どうみても見た目中身共に一流の男が普段着姿の自分達に頭を下げたのだ。

「や、そんな。当然の事をしたまでだから。」

「俺は車を出しただけだし。」

「いえ、お二人に助けていただかなければ譲は今頃どうなっていたか分かりません。本当にお礼のしようも無い程です。今日は急ぎでこんな形となってしまいましたが、後日またお伺いさせて頂きます。」

 自然な仕草で二人から住所と連絡先と電話番号を聞き出した後車椅子に座る譲を軽々と抱え上げて、その場に居たもの達に軽く一礼すると人一人抱えているとは思えない程颯爽と歩いて去っていく。

 それをその場に居た全員が身動きすらせずに見送る。

 忙しいはずの医療従事者でさえ数秒とはいえ立ち尽くしていたのはご愛嬌。

 完全に彼等の後ろ姿が見なくなってからやっと熊川が口を開く。

「・・・・あ。」

 熊川が言い澱む事など珍しく、斉藤は大柄な体を見上げる。

「どうした。」

「譲がどうしてあんな所に居たのか聞き損ねた。」

「・・・あれはわざとだろうな。」

 溜息を吐く斉藤に熊川は苦笑して頷くしかない。

 皆が見惚れる笑みで牽制し、質問する機会させ与えなかった事に今更ながら気付いた二人だった。





「あの・・・迷惑掛けてごめんなさい。」

「いや、いいんだ。」

「それで・・・その・・・。」

「概要は聞いているから大丈夫だ。」

 宥める様に背中を撫でる椎原に譲は頭を埋める。

 抱えたまま車に乗り、小さな振動のみを出して動き出す。

「医師は手配してある。だから暫く眠るといい。疲れているだろう?」

 膝からシートに降ろして頭を膝に乗せる。

 そうして用意されていたブランケットを掛けるとその薄い背中を撫でて眠りに誘う。  だが譲は眠くは無かった。

「雅伸さん。」

 体だけ横の体勢から真上に動かして椎原の顔を見れば手が止まり、視線を顔に移される。

「ん?」

 促すように髪を梳かれれば頭を振ってそれから逃れた。

「あの・・・僕、もう3日以上は髪を洗っていないんです・・・」

 紅い顔を益々赤くして言えば椎原は笑って髪に触れて、その上匂いまで嗅ぐ。

「譲のいい匂いがする。・・・時々風呂に入るのを止めさせようかな。」

 これ以上は無いという程赤くなって必死で首を振る。

「お願いですから・・・それは・・・・。」

 笑う椎原に対して僅かに睨みつければ耳元に唇を寄せられた。

「誘うなよ?これでも我慢しているんだ。」

「・・・誘っていません。」

 二人とも本当に小さな声だったが此処は車中。

 運転手が真っ赤になった。

 だが譲は気付かない。

 そのまま椎原の耳元で切ない声を出して囁く。

「遭いたかったです。僕、もう死ぬのかと思ったから・・・・・。」

「そうか。俺も遭いたかった。行方が知れない間眠れなかったよ。」

 笑う椎原の目尻が深くなる。

 言葉通り若干やつれた顔に手を伸ばせばその手を椎原の大きい手が包み込む。

「やつれてもカッコいいなんて・・・・詐欺ですよ?」

「譲もやつれた姿がなんともいえなくて、思わず押し倒しそうになった。」

 互いの言葉に小さく笑うが二人は本当にそう思っているのだからやっぱり他の組の者である運転手は辛い。

 瞳に互いの姿が映る程顔を近づけると譲が瞳を閉じる。

 それは周りにすらとても自然に思える行為。

 ゆっくりと頭を下げた椎原は額に、頬に口付けを落とす。

 そうして唇を重ねれば、舌を絡ませる水音が車内に響く。

 助手席に乗る宇治にとっては日常的だが苦行、運転手にとっては只管照れと眩暈の時間。

 だが二人にとってはいつもより短い時間だった。

「・・・・・あ、もう?」

「熱がある・・・無理をして上がってはいけないから此処までだ。」

 最後に重ねるだけのキスをしてから体を起こした。

 それまで優しく熱い目線だったのが一気に鋭く光り、運転手に視線を向ける。

 その代わり様に運転手は小さな悲鳴を上げた。

「ヘリポートまでの時間は?」

「はっはいっ!!!あ、あと15分程です!!!!!」

 顔色が悪い。

 別に椎原は特別脅す様な言葉を使っているわけでもなくそんな態度でも無いのだが、譲に向けられた視線を見た後一番初めに見られる者は大抵こうなる。

「そうか。時間はいいから安全運転で行ってくれ。」

 譲の周りの者は佐々木でさえ安全運転を心掛けるのだがそれを他の組の者が知る筈も無い。

「はいっっっ!」

 顔色の悪い運転手は必死で前を見ている。

「あの、大丈夫ですか?顔色が悪いですよ?」

 心配そうにする譲に運転手は絆された。

「い、いいえ。・・・・こんな上の方の運転をするなんて始めてですから緊張しているだけです。」

 目線を向けようとしたが宇治の殺意が込められた視線に気付いて顔を動かす事すらしない。

「そう、ですか?お疲れなら休憩を取った方が・・・。」

「いえ、本当に大丈夫ですから!」

 笑顔を作ると安心したように譲が微笑む。

 バックミラー越しにそれをみた運転手は顔を赤らめたが助手席からの殺気に再び冷や汗を流しながら前を見る。

 こんな事がヘリポートに続くまで続けられ、運転手は天国と地獄を行き来したような気分を味わったのだった。





 ヘリに乗ってからは早く、あっという間に病院が持っている屋上のヘリポートに着き、そのまま診察をしてベッドへ。

 当然、特別室。

 そうして落ち着いた頃には既に夕方になっていた。

 椎原は仕事があるので途中で帰ったが、宇治がずっと傍に居てくれたので安心して休む事が出来る。

 運ばれてきた夕食は、普通の病棟のものと変わりは無い。

「宇治さんも傷は大丈夫ですか?」

 腕を吊っている為に骨折をしているのだろうと思った。

 尋ねると宇治は険しい顔をして頷く。

「本当に、お守りできずに申し訳ありませんでした。」

「僕も軽率だったんです。警戒すべきでした。」

「いえ、せめて木戸をつれていればあんな事には・・・。」

「あの人数では一人増えた所で同じだったと思います。僕が応じなければ良かったんです。そのせいで宇治さんが怪我までしてしまって・・・。」

 ごめんなさい、とか細いの声に宇治は慌てて首を横に振った。

「謝りあっても仕方ありません。あの男が一番悪いのですし。」

 譲は苦笑したがそれを否定はしない。

 ゆっくりとした動作で箸を置く。

「もう少し食べられた方がいいかと・・・。」

 宇治の言葉に熱があるのは明白な赤い顔首を横に振る。

「でもこれが限界みたいです。すみません。」

 トレイを横に置いてからベッドを降り、備え付けの洗面所へと向かう。

 顔を洗って歯を磨いて戻るとトレイは片付けられ、お茶がサイドテーブルに置かれてあった。

 礼を言ってそれを一口飲んでから横たわると疲れが一気に押し寄せてきたようであっという間に眠りに就く。

 それを宇治は傍らで見守りながら険しい視線を外の風景へと向けると木戸が病院に入ってくるのが見えた。

 一分ほど待つと、木戸とグレイのスーツ姿の男が病室に入ってくる。

「交代だ。」

「・・・ああ。」

 片腕を吊るした状態の宇治は黙って病室の出入り口に向かう。

 入り口にはもう一人護衛として佐々木の配下の男が立っており、その者も交代するようで目礼すると部屋を立ち去る宇治の後ろを歩く。

「工藤さんには?」

「伝えてあります。明日の午前中に見舞うと。」

「そうか。」

「宇治さん、工藤が“万全の体勢を整えておくように、薬など飲み忘れるな”との事です。」

「ああ、忘れていたな。」

 宇治は頷いて自販機で水を買ってから懐に分けておいた薬を一気に飲む。

「・・・宇治さん、薬は何か腹に入れてから飲まれませんと。」

「次からはそうしよう。」

 普段は自身の体調管理をきっちりとしている宇治でもここ数日は滅茶苦茶である。

「気をつけないと、な。またこんな事が起こったとき同じような結果になったら目も当てられない。」

 男は黙って頷いてそれに従った。

 木戸は宇治が何か言われる前に誰よりも彼自身が反省し憤っている事を知っているので何も言わずにそのままでいる。

 熱こそあるものの、安心したような笑みを浮かべて眠り続ける譲の顔を見て自分を安心させると護衛の男に僅かに頷き外に出た。

 木戸の仕事は譲の護衛では無い。

 本来なら宇治も昼間の世話のみなのだが本人が希望しているので許可を出されているだけだ。

 木戸の仕事は伊賀を唆した相手を見つけてそれなりの事をする事である。

 病院を出て直ぐに携帯電話の電源を入れ、同じく捜索に当たっている者達へと連絡を取った。

「俺だ。何か進展は?」

 簡潔な答えの後木戸は電話を切り自分で運転してきた車に乗る。

 エンジンを掛ける前に再び携帯を手にして今度は別の所へと掛け、その事と自らが仕入れた情報を伝えた。

 答えとこれからの行動を指示され、木戸は車を走らせる。

 向かった先は椎原が社長を務める会社が入っているビルディング。

 黒いスーツ姿で強面の木戸はここでSSとしてのパスを持っている為にあっさりと入る事が出来る。

 三和会のものでも此処に入る事が出来るのは極一部のものだけなのだ。

 社長室に辿り着き、ノックをすると応えの声があり中に入ると。

 其処には譲には決して見せない顔をした椎原が其処には居た。

「捕まえたか?」

 木戸程の男が冷や汗を掻く程の冷気が流れる。

「・・・はい。」

「そうか。」

 笑った椎原を見て傍に控えていた工藤も笑う。

 たとえどんなに温和な顔を持ち、情人にはとことん甘く、どうしてこの世界にいるのかと不思議に思われる程経営手腕が凄かろうと、彼はヤクザである。

 裏の世界に居るというのはそれだけでは無いのだ。

 しかも他の組長が怒鳴ったり殺気を露にするものより数倍恐ろしい。

「どうしている?」

「とりあえず生かしています。」

 その言葉に椎原は唇を僅かに上げる。

 舐められてはお仕舞いの世界に住んでいるのだ。

 報復はそれなり以上にするのが普通である。

 そうしてそれが芯まで惚れている者へ向けられた暴力なら尚更だ。

「しかし、本当にウチを舐めてくれたもんだな。」

「本当に。譲さんに手を出すなんて愚かにも程がありますね。」

 そんな椎原の傍に平然と居られる工藤も恐ろしい、と木戸は思う。

 木戸自身は強面だが割りとまともな方なので一見穏健派に見える三和会がそうでは無い事に時々恐ろしさを感じる。

 それ以上に彼等に対しての忠義心があるから付いて来られるのだ。

 そうで無いものは自滅するか死ぬかしている。

「では例の部屋に移しますか?」

「ああ、そうしてくれ。そうだな、佐々木に任せよう。後から見に行くと伝えてくれ。」

「わかりました。」

 己の仕事を全うする為木戸は一礼して佐々木の下へ向かった。





 翌々日の午前中。

 熱も下がって退屈を持て余していた譲の下へ工藤が見舞いに訪れた。

「熱が下がったそうですね。」

 譲が気に入っている店のケーキ箱を見せると早速部下にお茶を淹れさせる。

 チョコレートケーキとフルーツがたっぷりと使われたタルトは見た目にも美味しそうなものだった。

 早速フルーツタルトの方から口に運ぶと新鮮なフルーツがタルトとカスタードと合っており、相変わらずの美味しさ。

「美味しい。いつも有難う御座います。」

「いいえ。譲さんは美味しそうに食べられるのでこちらも買ってくる甲斐がありますよ。」

 工藤も自分用に買ったフロマージュを口に運ぶ。

「いつも工藤さんが自分で買いに行かれるのですか?」

「ええ。譲さんに持っていくものに手抜かりがあってはいけませんから。」

 あっさりと言うが結構凄い事である。

 だがいつもそうなので譲は凄いという事を知らない。

「体調が良くなりましたら美味しい懐石料理を出す店を見つけましたのでそちらに行きませんか?」

「わ、いいんですか?工藤さんが連れて行ってくれるお店はいつも美味しいから好きなんです。」

 喜ぶ譲に工藤も微笑む。

「そう言っていただけると嬉しいですよ。ちなみに二人でですが宜しいですか?」

「雅伸さんも工藤さんとなら二人で大丈夫だと言ってくれますから。」

 弟の様に感じるという事を公言している通り、譲に対しては誰が見ても兄弟の様に見える二人は見ていて結構微笑ましい。

「お暇だろうと思いましていくつかDVDを持ってきました。それと譲さんのお店の人達もお見舞いに来たいと頼まれたのですが、良いですか?」

「有難う御座います。ええ、でもそんなに気を使わなくてもいいのに・・・。」

「皆譲さんの事を好きなんですよ。大人数で来ると病院の迷惑になりますから上の者だけという事にしましたが、不満そうにしていたと伝言を伝えた部下が言っていました。」

 聞いておきながら事後承諾だが譲は気にしない。

 工藤は譲の言う事を大体把握しているから先回りしているのだと知っているからだ。

 信頼関係故の会話である。

 DVDも譲が好きそうなものをしっかりと見繕っているのが凄い。

 こういう事が出来るのは工藤と宇治だけだ。

 椎原はここぞという時に驚かせる事は得意だかこういう細かい事は工藤の方が得意である。

 社長もしている椎原にそんな情報を掴む時間も無いという事もあるが。

 椎原は時間があれば譲と一分でも長く共に居る方を選ぶので。

 譲が疲れない様に程よい時間で部屋を辞した工藤を見送ってから宇治は考える。

(譲さんの秘書という仕事を貰っているのだから自分もああいう風に出来なければ。)

 譲の秘書という仕事は今までの仕事と勝手は違うが勉強になるし、譲自身の人身掌握方法は側で見ていて凄いものがあるのでそれも先々自分の為になるだろう。

 その前に宇治自身が譲の側に居たいのだが。

 それから数日経過すると始めの緊張した雰囲気も周りから取れ始め、譲はゆっくりとした時間を過ごしている。

「宇治さん。どうしましたか?」

 おっとりと首を傾げる譲は今、ミステリー系のDVDを観ている最中だったはず。

「それ、面白くなかったのですか?」

「う〜ん。やっぱりアメリカ映画でミステリーは難しいみたいです。」

 苦笑しながら本当に面白くなかったのだろう、途中で止めてしまう。

「そうですか。ああ、譲さんゲームでもお持ちしましょうか?ミステリー系のゲームだったら暇つぶしには丁度いいですよ。」

 足だけでは無く、実は肋骨をも折っている為にあまり動かない方がいいと言われている譲はそれをきちんと守っている為に退屈なのだ。

「ゲームってあんまりきちんとした事が無いのですけど、面白いですか?」

「自分もそんなにはしないのですが、推理ものだったら割と面白かった記憶があります。」

「じゃあ、やってみようかな。」

 小さく呟く譲の言葉に護衛として控えていた男が音も無く部屋から去り、直ぐに戻ってきた。

 おそらく最低でも1時間後にはそれらが運ばれてくるだろう。

 皆、譲が伊賀がどうなったのか聞いてこない様に内心必死である。

 だが譲はそんな事を聞く気配も無く柔らかく微笑んで入院生活を過ごしていた。

 知り合いの組長達は流石に遠慮してもらったものの、譲がオーナーを勤めている店のスタッフ達は(それなりにおさえているものの)毎日だれかしら尋ねてくる。

 手土産は逆に気を使われるので皆示し合わせて、小さなあまり値の張らないものをと努力しているのが見え隠れしていた。

 ケーキや飴玉、流行の小さなおもちゃ、背中に当てるクッションなど(これはちいさくない上にそれなりに値の張るものだったので後からその人物への抗議があったらしい)、頬を赤くして持ってくる面々は微笑ましい。

 午後の夕方食事前の30分間と了解させているのでその時間にメンバーは集中し騒がしいが譲が嬉しげなので注意される事なく続いている。

 譲の入院期間は二週間。

 残りは自宅療養なので尋ねて行けないとばかりに押し寄せる面々に譲では無く多忙の為あまり見舞いに来る事の出来ない椎原の理性の緒が切れそうだ。

 その前に何とかならないのかと思うのだがその辺は工藤でさえも難しいらしく三和会自体は冷気が吹き荒れている毎日である。

 下の面々は早く譲が退院出来る様にお参りに行った程だという。

 治って欲しいのもあるのだが。

 ともかく平和なのは譲とその身近な人間だけであって、他は吹き荒れる冷風に耐えている日々であった。

      



 そんなこんなでやっと譲は退院する事が出来た。

 何故か佐々木と木戸は若干やつれていたが、それを口にすると彼等にしては珍しく慌てていたので譲は追及しない事にする。

「おめでとう御座います。」

 病院で手渡されては持ち帰る手間が要るだろうという配慮を働かせた人が多かったらしく、マンションに戻ると花籠や着物、置物、スイ―ツ等がリビングの一角を占拠していた。

「有難う御座います。でも、これって・・・・。」

 花屋が開けるほど・・・というのは大袈裟だが、本当に花が多かった。

「花が一番無難ですからね。」

 それを考慮した人々が品物となっているのだが、それも多い。

 だが譲の趣味内のものが多かったのでそれらは純粋に嬉しかった。

 花も勿論嬉しいのだが、こんなに大量だと花瓶が、と考えてしまうので。

「私からはこれを。」

 そう言って工藤が差し出したのは明らかに着物。

 畳紙を開くと正絹の着物が姿を現す。

 薄灰のものと浅葱のもの。

 見た目が涼しいそれはこれからの季節に丁度良いものだった。

「わ、有難う御座います。綺麗ですね。」

「譲さんには刺繍が入ったものも合うかと思ったのですが、夏場にはそれがいいと思いまして。」

 喜ぶ譲に工藤も微笑む。

 何の企みも感じさせない笑みは非常に珍しいものだったが、譲だけは見慣れたものなので動揺しない。

 こっそり隣で佐々木は驚いていたのだが。

「これは俺から。」

 佐々木が差し出したのは茶器のセット。

 アフタヌーンティーセットはポットからカップ、コーサーからともかく今すぐアフタヌーンパーティーが開ける程のセット。

 もちろん紅茶も付いており、F&Mのものが数種類箱に収められていた。

「有難う御座います。」

「いえいえ。」

「派手すぎるだろう。譲さんの趣味じゃない。」

 工藤が駄目だしをする。

「え〜?これでも地味目にしたんだけどな。」

 宇治は目線を逸らした。

 実際花柄のセットは大人しく上品なものを好む譲には少々派手だと思えるもので。 

客人が来た場合にもてなすものとしてはいいと思うのだが、趣味では無い。

 それに実は、以前に工藤が同じように持ってきてくれたセットがある。

 とても美しい白磁のもので、描かれた花柄も上品でとても気に入っているものがあるのだ。

「それにアフタヌーンティーセットは私が以前贈った事がある。」

「・・・・・それ早く言えよ。」

「あ、いえ、でもこういう柄のものは僕は買わないものですから。お客様に出すときに丁度いいです。」

 フォローする譲に佐々木は嘘泣きをして抱きつく。

「譲君は優しいねー。俺は心に染みました。」

 思わず肩に手を当てて苦笑する。

 そこへシャッター音がした。

 その後メール送信の音が。

「・・・・え?」

「会長に送りました。」

 工藤の満面の笑みは毒々しい。

 だがその笑みは譲の背中からの立ち位置で譲自身は見る事が無かった。

 当然、計算しての事であるのだが。

「・・・・・・お前、何の恨みがあってそんな事を・・・。」

「会長もお疲れでしょうから。」

「・・・・・ああ、オー人事に電話したい。」

「ふっ。何を今更ですか。仕事をサボった事は知っているのですよ。連絡がありましたからね。」

 佐々木はがっくりした顔で俯き譲に手を振る。

「そういう訳だからまた今度ね。譲君。」

「あ、はい。態々有難う御座いました。」  

 そのまま去っていった佐々木に譲は心配そうな目線を向けて眉を顰めた。

「大丈夫でしょうか。何かお疲れの様ですし。」

 工藤は今度は譲仕様の笑みを浮かべて首を横に振る。

「大丈夫ですよ。佐々木は仕事を放り出して来たので戻っただけですから。」

「そう、ですか?」

 物事を深く追求しない譲は頷いてそうなら良いのですけど、と言った。

    



 椎原が仕事を終えて戻ってきたのは午後9時だった。

 いつもの帰宅時間を考えるととても早い。

 きっと無理やりにでも切り上げてきたのだろう。

「お帰りなさい。」

「ただいま。退院おめでとう。」

 渡されたのは小さな陶器で出来た稲荷。

 お守りにという事だろう。

「有難う御座います。」

 嬉しくて撫でれば椎原が譲の頭を撫でる。

「会長、それでは失礼します。」

 部下の者達と宇治が声を掛けるとそちらを向かずに譲を見つめたまま椎原は頷く。

「ああ、ご苦労だった。」

 静かに去っていく部下の人達の足音を聞きながら譲は顔を上げる。

 僅かに微笑んだ椎原が譲を見つめていた。

「・・・・御飯は?」

「食べてきた。」

「今日は仕事を持ち帰っていないですか?」

「ああ、終わらせてきた。」

「・・・明日は?」

「遅いからゆっくり出来る。」

 譲は花が綻んだように微笑む。

「雅伸さん・・・。」

 ゆっくりと背中に手を回して息を吸う。

「譲。」

 椎原もしっかりと腕の中の存在を確かめる様に髪に鼻を埋めて互いの存在を確かめあった。

「雅伸さんの匂いだ・・・。」

「ああ。」

 きつく、では無く柔らかく優しく抱きしめあう。

 顔を上げると頭から椎原の顔が外れて視線が合う。

 目を瞑ると当然のように額、瞼、頬、鼻、唇にキスが降りてきた。

 ゆっくりと時間を感触を楽しむようなキスを繰り返して寝台へと向かう。

 譲を抱えて歩けば互いに笑みが零れる。

 白い絹のシーツに降ろせば衣擦れの音が響き、それすらもなんだか笑えてしまった。

 頬を触れ合わせ、互いの髪の感触を楽しむ。

 笑いが漏れれば互いに微笑みあい、肌の感触を確かめ合う。

 欲情では無く確かめ合う様な仕草なのだが、譲は椎原が欲情しているのを知っていた。

 だが傷の事を慮っている。

 既に体を覆うものは何も無い。

 譲も椎原も互いの肌を感じている。

「雅伸さん。」

 耳元で囁くと僅かに椎原の体が動く。

「譲・・・誘うな。」

 擦れた声に自然と笑みが浮かんでしまう。

「誘っちゃ駄目ですか?」

 態と甘える様に声を出すと譲に触れている手が硬直した。

「っ・・・駄目だっ。」

 譲は手を椎原の中心に伸ばして撫でるようにして上下する。

「僕は誘いたいです。他でされたらすっごく困りますし。」

 眉間に深く皺を作り、目を眇めて懸命に堪えている姿を見て譲は可愛い、と思った。

 知り合いのバーテンが、相手が困惑して賢明に堪えている姿は凄く可愛いですよ、と言ったのは本当だと思いながら。  

「譲・・・・勘弁してくれ。」

「駄目、ですよ。僕だって貴方に触れたかったのだから。」

 その気になってくれるように手を動かす。

 足を自ら広げて椎原の足に絡め、空いている手は自分の唇に埋める。

 たどたどしい動きは馴れていない事を明白にさせていたがその懸命に誘う姿に椎原が落ちた。

「・・・負けだ。」

 小さな声に譲は動きを止めて心から笑む。

 苦笑しながら顔中にキスをする椎原にキスを返していると足をさらに広げられて指を埋められる。

 濡れている感触はローションか、それとも。

 椎原に馴れた体はあっさりと椎原を受け入れられる様になり、寝ている状態で片足を上げられてゆっくりと椎原が入ってくる。

 吐息だけが響く中で椎原へと指を伸ばせば絡められ、キスを送られて恍惚となってしまう。

 激しいとは程遠い動きに声が漏れる事は無く、だが体は嬉しさに満ちる。

「雅伸さん。」

「・・・ん?」

 欲望の赴くまま動きたいのを堪えている椎原は息が荒い。

「好き、です。」

「ああ。」

 まどろむような体の動きとは別にキスは深く激しいものを贈られる。

 その思いやりと激情が嬉しくて譲はその間中ずっと微笑んだままだった。

 



「・・・聞いてもいいですか?」

 行為を終えても繋がった状態で、だがゆっくりとした時間を過ごしていた椎原に譲が尋ねる。

「ん?」

「伊賀さんはどうして僕を?」

 椎原の胸に埋めていた顔を上げると椎原も見下ろしてきた。

「・・・薬に手を出していた。」

「薬ってドラッグですか?」

「ああ。」

 譲は溜息を漏らす。

「だがまだ手を出したばかりだった。うちの敵対勢力の組織から買っていてな。」

「そうですか。後は何となく。僕を馬鹿にした目で見ていましたから、何かの拍子で話を聞いて自分から言い出したのでしょう?」

 椎原が譲の髪を梳くと譲は目を細めて微笑んだ。

「そうだな。どうやら伊賀は最近父親の会社が倒産したらしくて今までの様に坊ちゃん暮らしが出来なくなっていたらしい。結構金を使っていたらしいから、まあ、逆恨みだろう。」

 喫茶店で会ったのは偶然か故意か。

「ああ、喫茶店で会ったのは偶然だといっていたぞ。それで思いついたと。」

「じゃあ、また行ってもいいですか?」

「ああ。今度は俺も連れて行ってくれ。」

「勿論。・・・それで、伊賀さんはどうなったんですか?」

「・・・流石に一般人だからな。多少痛めつけて放免する事を決めた。」

 眉間に眉を寄せて言う椎原に譲は安堵の溜息を吐いて頷くと、疲れが溜まっていたのを無理した為に一気に眠気が襲ってくる。

「雅、伸・・・さん・・僕、は・・・」

「明日聞く。疲れただろう?俺は何処も行かないからもう寝ろ。」

「う・・・ん。」

 その一言聞いて、小さく息を吐いた後は深い眠りへと落ちていった。

    



 譲に言った事は嘘ではなかった。

 ただ大幅に内容を省いた内容だっただけ。

「あっさりとこちらが引いては面目が立ちませんからねぇ。」

 というのは表立っての事であって本当の理由は。

「「「譲に誘拐&強姦未遂&大怪我させておいてそれきりで済むと思っているのか」」」

 である。

 伊賀と後ろに立っていた者達を捕まえた木戸は椎原と佐々木と工藤からボーナスが出たが、木戸はそれを断った。

「それより今後この者達の処遇を引き受けたい。」

 もちろん駄目だとのお答え。

「コレは私が引き受けます。」

 工藤が笑顔で言い放つ。

「いや〜俺でしょう。情報収集したの俺だよ?」

 佐々木は首を振って軽々しいような言葉で応戦するが目は笑っていない。

 幹部が殺気を露に睨みあう。

 笑顔と笑顔のそれは部屋の中を零下にした。

「とりあえず、どちらか決めた後木戸はそっちに一時的移動という事でいいだろう。」

「・・・有難う御座います。」

 佐々木の後ろに付いていた者は顔色を青くしながら腕を摩っているというのに椎原は苦笑を浮かべながら余裕である。

 癖のある二人を従えているだけはあるのだ。

 こういう時に椎原は凄い、と感じる者が多い。

「さて、今日の業務は終わりみたいだからな、俺は帰ろうか。」

 終わりと言うより仕事にならない。

 意識を集中させて睨みあいを続ける二人を置いて、椎原は木戸を連れて外に出る。

「あの、伊賀は今何処に居るのですか?」

「留置所だ。」

「・・・は?」

 意味が分からず問うと、椎原は唇を片方歪めた。

「ああいう手合いはな、犯罪歴があると無いのでは人生は大違いなんだよ。ただ、血液検査には微量にしか出ない程度にしておいたから直ぐに出てくるだろう。生活の激変という同情余地もあるしな。俺たちの仕置きはそれからだ。」

「・・・・・・・・・そうですか。」

 表の世界では犯罪者、裏の世界では三和会を敵に回した伊賀の人生は生きながら死んだようなものだろう。

 椎原はあっさりとした顔をしつつ、そういう手を打つのだ。

「俺たちは舐められたら終わりだからな。心しておけ。」

 強面の割に極道というには真っ当な神経を持つ木戸に椎原は時々こうやって教訓を言う。

 それは椎原が木戸を気に入っている証拠だったのでしっかりと頷いてみせると笑って頷かれた。

「そうか。お前はこの世界から足を洗った方がいいんだが・・・譲の護衛はお前が適任だ。もう少し頑張ってくれ。」

「自分は今に満足してます。」

 多少暴力的な事に抵抗が無くても、いかにも極道という顔をしていても、陽の光が似合う者が居る。

「そう言ってもらえると嬉しいが・・・その内正式に抜けてもらって譲専用のボディーガードとして契約してもらうからな。」

「宜しいので?」

「ああ。」

 明るく笑う椎原に木戸は益々忠誠心を高めるのであった。

「譲さんは足の具合はどうですか?」

「・・・・・前の所とほぼ同じ所をやっている。見た目は変わらないかもしれないが、痛みは酷くなるだろうから気をつけて遣ってくれ。」

「はい。」

 木戸も譲の事は椎原の大事な人として認識していると同時に譲自身の陽だまりの様な優しさに心癒されている。

 譲の事を気遣うのは本心だったので嫌がある筈も無い。

「会・・・社長、本日の予定は?」

「ああ。譲が言っていた喫茶店に行こうか。譲は家に居るんだろう?」

「はい。」

 譲の位置は常に把握出来る様にしたので位置確認は直ぐに出来る。

「お部屋で寛いでいらっしゃるようです。」

 加えて宇治からの定期報告もあるので譲がどんな状態か何をしているか直ぐに分かるようになっていた。

「そうか。」

 今日は書類仕事だけの予定だったとはいえ、こんなに早く帰れるとは思っていないだろう。

 椎原は口元に笑みを刷く。

「驚く顔が楽しみだ。」

 驚いた後きっととても嬉しそうな顔をして椎原の目を楽しませてくれるだろう。

 上機嫌の椎原を乗せて車は譲の待つマンションまで車を走らせる。

 到着まで後15分。

 想像通りの出迎えをしてくれた譲に椎原が熱烈なキスを贈るまで後17分だった。





「私が引き受けるといったでしょう?」

「や〜俺だろう。」

 椎原が出て行ったのは気付いていたが、それ処では無い二人は数時間経過しても互いに譲らなかった。

 二人の部下は凍死寸前である。

「・・・・・・・・・・仕方ありません。何か勝負事で決めますか。」

「それしかないだろう。」

 二人はふと外を見ると社所有の空き地が見えた。

 雑草だらけのその空き地に二人共視線がいった事で何をするか決定。

「あれでいいですか?」

「そうだな。綺麗になって一石二鳥だ。・・・おい、下のやつ全員集めろ。」

「互いに同じ数の方がいいでしょうね。20人ずつでどうですか。」

「そうだな。」

「ではこちらも下のもの・・・そうですね力のあって器用なものを集めなさい。」

「「今すぐ」」

 工藤と佐々木の部下は一礼すると駆け足で伝言ゲーム状態になり、ゴミ袋、手袋等の草むしりに必要な道具を集めるのに必死になった。

 大人気ないと思いつつも二人が真剣な為に部下たちは必死でそれらをこなしたのだった。

  



終わり









目次へ  
1   inserted by FC2 system