一目出遭ったその時から





   浅見譲はその光景を呆然と見ていた。

 このビルの清掃に雇われて一年。毎日する事は同じでも意外と疲れる仕事だったが、働くというのは楽しいことだと充実した日々を送っている。

 その日も、ビル前の植木の周りの草むしりを1人でしていると黒いベンツが停まった。

 この会社にこういう車が停まるのは珍しい事では無い。

 重役とか取引先などが来るので日に何度も見る光景だった。

 二台続けてベンツが停まり、開かれたドアから出てきたのは俳優かと思うほどの美丈夫だった。

(うわぁ。かっこいいなぁ。)

 高そうなスーツを着て部下を従える姿は堂に入っており、思わず憧れの視線を送ってしまう。

 もちろん相手はそんな事気付くはずが無い。

 だが、誰でも一度はあんな風になりたいと憧れてしまいそうな態度と容姿に男女問わず通りかかった人々は足を止めて魅入っていた。

 携帯の着信音が聞こえて、男が電話を取る。

 話しているのは英語で、譲には半分しか聞き取れない。

 大事な話らしく立ち止まって話している。

 その時、男が背を向けている車の辺りから人が動く気配がした。

 大通りに面しているこの会社の周りには人も大勢おり、男の周りの人間もそれには気付いていない。

 だが、妙に思ったのだ。

 それは直感とした言いようが無い。

 譲はその妙な気配の近くに疑われないように、掃除道具を持って移動する。

 ちょうど、男とその場所の中間地点に移動した時、男の部下の1人が譲を不信に思ったらしく近づいていた。

「おい、そこの奴。何をしている。」

 傍から見たら自分も不審者だと気付いた譲は謝ろうとした瞬間、背中の毛が一気に立った。

 振り向くと、その妙な気配だと思ったところに中年の男が立って銃を向けていた。 「死ねぇ!椎原!!!!」

 叫ぶと同時に男が銃を放った。譲はその時とっさに動いたが、自分が何をしているのか分からなかった。ただ、膝の辺りが一気に熱くなる。

 自分の周りの風景がスローモーションの様に見える。

 譲に声を掛けた男は銃を持っていた男に駆け寄り蹴り上げ拘束していた。

 素早い動きなのできっとSPなのだろう。

 凄い、映画の世界だと思った。

 得した気分だったのに、頭に衝撃が走った瞬間脚痛みが走りまわりの景色も普通に戻ってしまった。

 女性の悲鳴やざわめく音に首を傾げる。

 痛みを感じる脚に手をやると滑っていたので、見ると赤く染まっていた。

(ああ、僕撃たれたんだ。)

 とっさに、本当にとっさに飛び出したのだろう。

 少しずつ寒くなってくる。

 多分、出血量が多いのだ。

「おい、聞こえるか?」

 低いバリトンの声に重い、本当に重い目蓋を開けるとさっきの男が此方を覗き込んでいる。

「聞こえるようだな。もうすぐ救急車が来るからそれまで頑張るんだ。」

 誰かが横に回り、脚を布で縛っている。

 少し痛みを感じたが、段々と眠気が襲っていた。

「眠るな。おい。名前は何ていう。俺は椎原雅伸だ。」

 再びバリトンの男が訊いてきた。

「浅見、譲。です。」

「浅見か。血液型は?」

「・・・O、型。」

 眠るといけないのだろう、それが分かったので椎原の質問に答える。

「俺を庇ったのか?」

 少し小さな声だったので聞き取れずに少し首を傾げる。

 椎原がもう一度口を開いた時、救急車のサイレンが聞こえて来ると同時にストレッチャーの音がした。

 寝台に載せられて振動に痛みを感じていると、意識が朦朧としてくる。

 それからの事はよく覚えていない。

 意識がハッキリしたのは白い天井を見たときだった。

 寝ていたのだろう。

 横を見ると、点滴がささっている。

 少し上の方を見ると、豪華な華が飾ってあった。

 と言う事はここは病院。

 天国では無いのだろう。

 しかし。

 一度だけ見舞いに行った時は病室って結構騒がしいものだと思ったのに、とても静かだ。

 しかも何だか広そうだ。

 身体を起こそうとしたが、痛みが走り動かせない。

 点滴をされている左腕を眺めた後、右手で頭上のナースコールを押した。

『はい。目を覚まされたんですね。すぐに行きます。』

 明るい声で言われると、内線は直ぐに切られた。

 10秒程でノックの音と同時に看護士が入ってくる。

「失礼します。体調はどうですか?」

 言いながら体温計を渡される。手間取りながら体温計を脇に挟むと血圧を計られた。

「怪我している所以外に痛いところはありますか?頭とか。」

「いえ・・・。あの、僕は何処を怪我したんですか?」

 気になっていたので質問すると、一瞬動きが止まった。

「え?ああ、そうか。認識しない内に運ばれたんだったっけね。膝だったんだけど、幸い綺麗に抜けていたから治りも早いと思うわ。災難だったわねぇ。潰れた会社の逆恨みに巻き込まれるなんて。あ、お茶は此処に置いて置くから。何かあったらまたナースコールしてください。」

 言い終えるとあっという間に去っていった。

「看護士さんて忙しいんだなぁ。」

 1人で呟く。

 しかし、色々と気になることはある。

 例えば仕事。

 首になると収入源が断たれてしまうので困るが、それとなく首になりそうだ。

 とりあえず貯金は少しあるが、ここの入院費で飛んでいくだろう。

 これからどうしようと考えていると、ノックの後に誰かが入ってきた。

 紺のスーツを着たエリートっぽいだ。

 此方が起きているとは思っていなかったようで一瞬驚いた後、少し微笑む。

「良かった。目を覚まされたのですね。」

「え、はい。今さっきですが。あの、僕は何時間寝て居たのしょうか?」

 疑問に柔らかな声をした人は傍らの椅子に腰かけて答えてくれる。

 多分、色々話すことがあるのだろう。

「三日です。始めまして、私は椎原・・・貴方が庇った方の秘書をしております工藤英輔と申します。」

 丁寧に頭を下げられ、こちらも慌てて頭を下げる。寝たままだが。

「あ、こんな状態ですみません。浅見譲といいます。ビルの清掃員をしています。」

「いいえ、浅見さんの怪我はウチに巻き込まれた事なのですからお気になさらず。まずは、ウチの事に巻き込んでしまい申し訳ありませんでした。」

 深く頭を下げられてこちらの方が慌ててしまう。

 この人も、椎原さん程じゃ無いけどけっこうかっこいい。しかも存在感ある。そんな人に頭を下げられてはこちらが申し訳ないと思ってしまう。

「いえ、そちらのせいじゃないですし。だって貴方達も巻き込まれた様なものだと聞きましたから。」

 工藤は微笑んだ。

「そう言って頂けると、少しは罪悪感が薄れます。」

「工藤さんってかっこいいですね。」

 思っていたことを口に出すと、一瞬固まった。が、また笑ってくれる。

「同性から面と向かって言われたのは初めてですよ。」 

「え、言ってはいけなかったですか?」

「いいえ。」

「椎原さんもかっこいいですよね。凄く。お二人の勤めている会社ってかっこいい人ばかりなんですか?」

 工藤は本格的に笑い出してしまった。

 真剣に言ったつもりだが、どうやらつぼに嵌ったらしく笑い続けている。

「いえ、そういう訳ではありませんよ。」

 それから30分程雑談をしていたら、気になることを思い出した。

「へぇ。あ、仕事といえば。」

「はい。」

「僕、まだアルバイト扱いなので首になっているかも。」

「問い合わせてみます。」

「あ、えっとお願いします。社名は・・・。」

 社名と電話番号を伝えると工藤は手帳にそれをメモして立ち上がった。

「では直ぐに問い合わせてきます。今日中に分かると思いますので、夕方頃もう一度参ります。他には何か必要なものなどはありませんか?」

「いえ急がなくてもいいですよ。居るものというか、ロッカーから財布と携帯と鍵を取ってきて欲しいかな、と。着替えも要りますよね。」

 工藤は快く了承してくれた。

「わかりました。では一旦失礼します。」

「面倒かけます。」

 工藤は微笑むと病室から出て行った。





 エレベーターから降りると強面の男が後ろから付いてくる。

 そして玄関に出ると正面に停まっているベンツに乗り込む。

 動き出した車の中で先ほど譲が言った番号に掛ける。

 5分で話し終えると運転手に行き先を変更させて再び電話を掛ける。何箇所かに電話を掛け終えて懐に仕舞った時目的地に着いた。部下を待たせておいて、10分後には車内に戻り始めの目的地へと向かった。

 目的地は自分の会社。

 受付を無言で通り過ぎ、重役専用のエレベーターに乗り最上階へと向かう。

 「お疲れ様です」と声を掛ける他の秘書に頷きながら扉の前に立ち、ノックする。

 応えの後にドアを開けると椎原が書類にサインをしている所だった。

「浅見譲が目を覚ましました。」

 椎原の手が止まり、顔を上げる。

「思ったより元気そうでした。勤め先等の事を頼まれましたので、夕方もう一度病院に行きます。」

「何を頼まれたんだ?」

「首になっていないかどうかと言う事です。あとは荷物を取ってきて欲しいと。会社は準社員扱いでしたが、実際はまだアルバイトだったので首です。

ロッカーにあった荷物は全て取ってきました。着替えは手配しますので取りに行く必要はありません。」

 庇った為だとはいえ譲には災難でしかないだろう。

 さすがの椎原も後味が悪そうだ。

「病院に向かう時、嘉田も連れて行きます。」

 お抱え弁護士の名前を出すと、深く頷いた。

「あと、仕事の世話もすると言ってくれ。・・・どんな人物だった?」

「落ち着いており、好感の持てる人物でした。あと、少し気になったのが誰かに連絡しようかと言った時に少し顔を引き攣らせて断ったことです。ニュースでも彼の名前は出ていないので両親や友人達は心配していると思ったのですが。」

「そうか。分かった。仕事に戻っていいぞ。」

「ではこれで。」

 工藤は一礼すると部屋から去っていった。

 椎原は少しの間書類を読み決済を続けていたが、溜息を吐いて天井を見上げる。

「あの時、どうして俺を庇った?」

 小さな声は空間に消える。

 名を名乗ったとき、彼は笑ったのだ。

 嬉しそうに。

 優しそうに。

 その笑顔に自分は少しの間とはいえ惚けていた。

 もう一度あの笑顔を見たいと、そう思った。





 色んな検査の後昼食を食べてたったひとり、何をするでも無く唯ぼんやりとTVを見ていると、驚くべき映像が出た。

「うそ・・・。」

 シーツを強く掴んで自分を保とうとしても、頭の中がパニックになっていく。

 古いアパートの燃えカスがブラウン管に映っている。

 よくある・・・とは言い難いがたまにある映像だ。

 ただし、自宅でなければという言葉がつく。

 この怪我は仕方ない。

 自分から飛び出したのだから。

 でも、自分の帰る場所が燃えるなんて思いもしなかった。

 安普請で荷物なんて殆ど無い。

 でも、自分の帰る場所だった。

 そこが今、無くなっているのかもしれないのだ。

(大家さんに確認しないと)

 痛む脚を無視して壁伝いにドアに向かい、廊下に出る。

 とりあえず、歩いてでもアパートに戻って確認しなければ。

 その一身で少しずつ前に進む。

 本当に僅かずつしか進まない自分の脚が恨めしいが、仕方ない。

 幸い看護士は廊下に居らず、エレベーターの前まで進む事が出来た。

 一階を押して壁に凭れ掛かって待っていると、音と共にドアが開かれる。

 先に人が降りてから乗ろうと脚を引き摺る様にして一歩前に進む。

「浅見さん。どうなさったんですか?」

 エレベーターに乗っていた人から声を掛けられて顔を上げると、朝会った工藤と強面の男性が二人驚いた顔をして立っていた。

「工藤さん・・・。」

 息が上がっていたので擦れた声になってしまったが、何とか声は出せた。

「まだ脚が痛むでしょう。とりあえず病室に戻りませんか?」

 譲の顔を見て何かあったのだと察した工藤は柔らかな笑みを浮かべて隣の男に譲を抱えるよう指示する。

 軽々と抱え上げられてあっという間に病室に戻り、ベッドの上に寝かされた。

 男は譲に一礼すると、ドアの前に行きそのまま立つ。

 どうやら彼は工藤の護衛らしい。

「さて、何があったか話せますか?」

 ゆっくりと、気遣う気配が濃厚な気配で促すように言う工藤に頷く。

「はい。あの・・・家が、すんでいたアパートに似た建物が、ニュースで燃えていたので・・・それで。」

 工藤は少しだけ目を見開くと、譲の肩に手を置いた。

「そうですか・・・。ではそれを調べてきましょう。住所を言って下さい。」

 譲が言うと、工藤がドアに立つ男に目線を遣る。すると男は一礼してから去っていった。

「今調べさせますから。すぐに分かると思います。後ほどウチの弁護士が参りますのでその時今後の事を少し話しましょう。」

 安心させようとする工藤の気遣いが嬉しくて、頷いた。

「あと、これは荷物です。着替えはこちらに。」

 渡された紙袋を見ると、ロッカーにあったものが綺麗に入っていた。もうひとつは着替えが数着とタオルや洗面道具等。だが見覚えの無いものだ。

「あの、これ。」

 言いたいことが分かった工藤は微笑む。

「あなたの家に無断で入るわけにはいきませんでしたので、こちらで用意させてもらいました。趣味が合わないかもしれませんが、とりあえずと言う事で。何か好みのものがあるのでしたら遠慮なく言って下さい。」

 袋の中身を手早く備え付けのロッカーに仕舞ってくれる。

「すみません、何から何まで。」

 恐縮する譲に工藤は首を振る。

「いいえ。あなたが庇ってくださらなければ椎原に当たっていたのです。その事を考えると何度礼をしても足らないほどなのですから気にしないで下さい。」

「でも、自分から飛び出したんですから。」

「浅見さんは無欲ですね。」

「・・・そうでしょうか?」

 首を傾げると工藤は頷いた。

 普段は結構人見知りする方なのだが、工藤からは何かしら負の感情が流れてこないせいか懐いてしまう。

 小さなノックの音と共に入ってきたのは先ほどの男だった。

「工藤さん、ちょっと・・・。」

 工藤はドアの近くに行き、男と話をするとこちらへ戻ってきた。

「浅見さん。火事で燃えたアパートはあなたの住んでいる所でした。」

 淡々とした声が胸に綺麗に落ちる。

 さっきとは違い、その事実を受け止めることが出来た。

「そう、ですか・・・。じゃあ、退院するまでに家を探さなきゃ。あとは通帳の再発行にバイト探し。他は・・・。」

「よろしければ私どもの方で用意させますが。」

「工藤さんの所は不動産もしているんですか?」

「多少ですが。あとは知り合いもおりますし、勤め先も紹介できますから浅見さんは治す事に専念して下さい。」

 ノックの音がしたので、ドア近くに控えていた男が少し開けて相手を確認する。

 開かれたドアからこれまた有能そうな男が入ってきた。二十代後半から三十代前半に見える男は紺のスーツに赤いネクタイをして、病院に居るより法廷やオフィスに居る方が似合いそうな感じがした。

「すみません、遅くなってしまって。」

 微笑みながら入ってくると懐から名刺を取り出し渡された。

【弁護士 嘉田 英治】

 普通は何処の顧問弁護士だとか、開いているか所属している事務所の名前が載っているはずなのに、ただそれだけ。それを知らない譲は何の疑問も浮かばなかったようだ。

「弁護士、さんですか・・・。」

 イメージ通りの職業だった。まあ、胸元のバッチがある時点で気付いても良さそうな物だが。

「そう。始めまして。椎原の会社の顧問弁護士です。今日は色々と話し合いに。まず、入院費その他はすべてこちらでお支払いさせて頂きます。もちろん退院後のリハビリ等もこちらで。人手が要るようでしたらその手配もしますので遠慮なく言ってください。」

 落ち着いた声だが、一気に言われて少し身体を引いてしまう。

「嘉田さん、浅見さんは今日目が覚めたばかりでまだ体調が万全とは言えない状態です。そんな風に畳み掛ける様に言って怯えさせないで下さい。それと火事で自宅が全焼したと言う事ですので住まいの手配も必要です。椎原と相談しますのでこの後同行してもらいます。」

 擁護してくれる工藤に譲は自分でも信じられない程信頼を寄せていた。兄が居たらこんな風かな、と密かに思っている。

 嘉田は譲を見ると、苦笑した。

「ああ、すみません。職業柄こういうものなので。」

「・・・・・弁護士さんって話が上手な人がなるわけじゃないんですね。」

 思ったことをそのまま口に乗せて言ったら工藤は肩を震わせながら笑い出し、嘉田は苦虫を噛み潰した顔をしている。ドアの前の男も平静を装っては居るが僅かに口元が引き攣っていた。

「あの、すみません。何か失礼な事を言ったんでしょうか?」

 工藤は笑いを止めて微笑む。

「いいえ。事実でしょうから問題ありません。それにこの弁護士先生にはいい薬でしょう。」

 嘉田を見ると苦笑して頷いた。

「浅見さんは正直な人柄のようだ。」

「そうでしょうか。初めて言われた気がします。」

「ともかくあなたは何の心配も要りませんと言いたかったのですよ。」

「はい。わかりました。」

 あまり長居しても、と言われて男達は退室していった。

 1人になると心持ほってしてしまう。それは長年の癖のようなものだからどうしようもない。工藤1人だったらそうでも無いが、それは自分の中でも意外な事なので除外できるだろう。

「何か、忙しない一日だったなぁ。」

 まだ夕食の時間になっていない程の時刻だったが、お腹も空いていないので布団に横になる。

 眠りは直ぐに訪れてくれた。





「で、退院までどれくらいかかると医者は言っていた?」

 後部座席に乗った二人は先ほどの笑顔など微塵もない。

「・・・とりあえず一ヶ月だと。だが、撃たれた場所が神経が通っている所だったから足に不自由が残ると言っていた。」

「治らないのか。」

「引き摺らない程度には回復するが、長時間立っていられないようになると。本人にはまだ話していないそうだ。」

 何と言う不幸の重なり。

「あと、浅見譲の身元は調べさせている。いくら椎原さんを助けた人とはいえ周りに何かあるようだったら問題だからね。今の所上がってきている情報は、浅見譲22歳、両親とも健在。父親は一流企業勤務、母親は専業主婦。近所の話じゃ一年前から姿が見えないそうだからその辺りから1人暮らしをしているらしい。大学は中退。とまあ、それ位だ。」

「・・・入院してから誰も見舞いに来ていないそうですから両親との仲は悪いと言っていいでしょうね。」

「まあ、近所の連中が可哀想な子だと言っていたらしいからそうだろうな。」

 煙草を取り出した嘉田を睨むと、恨めしそうにしながら懐に仕舞う。

「とりあえず社長に報告だな。」

 溜息を吐く嘉田を横目で見やって、部下に指示を与える為に携帯を取り出した。

 社の社長室に行き、報告を終えた二人を黙って見つめると椎原は溜息を吐いてから立ち上がる。

「そうか、わかった。嘉田は調査を引き続きしてくれ。工藤は裏を探れ。」

 以上だ、と続けた椎原に二人は一礼して退室した。

 時刻は午後四時半。

 椎原は少しの間考えたが、秘書に退社の旨を伝えると社内から出た。

 向かう先は病院。

 途中、電話で美味しい洋菓子店を聞き出してから其処で甘さ控えめのケーキを二つとクッキー等の詰め合わせを購入して病室に向かう。

 ノックをしたが、中から声が聞こえない。

 黙って開けると室内は静まり返っていた。

 どうやら寝ているらしい。

 年齢より幼く見える容貌は全体的に色素の薄い見た目と相まって人では無いような錯覚に陥る。

 触れるか触れないかの位置で口元に手を当てると微かな吐息を感じられたので安堵の溜息を吐く。

 無防備な寝顔は守ってやりたいと感じさせるもので。

 しばらくその寝顔を見守っていると、ほんの僅か眉間に皺が寄った。

 不信に思い顔を覗き込むと眉間の皺はどんどん深くなる。

 唇が開かれ小さな声で拒否の声が漏れる。

「いや、・・・いやだ。・・・いや・・・。来ないでっ・・・。」

 目尻から涙が一筋流れる。それを指で掬ってから、譲の頬に優しく手を当てた。

「大丈夫だ。お前が恐れるものはもう来ない。俺が守ってやる。大丈夫だ。」

 耳元に口を近づけて囁くと、否定の言葉が少しずつ小さくなる。

「これからはもう怖くない。俺が守ってやる。」

 それは譲を見た瞬間から覚えた感情。

 撃たれた時は怒りで頭が沸騰しそうだった。

 こいつは俺が守ってやるんだと、まだ何も知らない相手にそう、思ったのだ。

 今までどんな美人にも本気にならなかった自分が、一目会ったその時からこの存在に心奪われている。

 それは滑稽でもあり、嬉しくもあった。

 幸い運は自分に味方している。

 真綿で包み込むようにして愛おしみ、自分がいなければ生きていけないようにしたい。

 自分でも驚くほどの独占欲が溢れる。

 だが、それは本人に知られないように、怯えられないようにしなければ。

 鏡を見るまでも無く、今自分が企む顔をしているのが分かる。

 探るように繋がれた手に唇を落としその顔を眺める。

 強く握った手が少し動いてうっすらと目が開かれた。

「・・・・誰?」

 小さく開かれた唇が囁く。

「椎原。椎原雅伸だ。覚えているだろう?」

 口の中で椎原の名前を囁くと、譲はとても可愛らしい笑みを浮かべた。

「椎原さん。」

「何だ?」

 意識しなくても優しい声を出せる。

「夢、じゃ、ないんだ。」

「俺の夢を見たのか?」

 まだ、半ば夢の中らしい譲は素直に話す。

「嫌な事があって・・・そうしたら椎原さんの声が聞こえたんです。」

「夢の中でも現実でも俺はお前を守ってやるよ。」

 耳元で囁くように言ったら、どうやらそれが現実だと気付いたらしく顔が段々と赤くなって来た。

「え・・・え、えええ。」

 目線が繋がれた手に移ると益々動揺して首まで赤くなっている。

「ああ、魘されていたからな。」

 何でも無いことの様に言うと譲は恐縮してしまった。

「すみません。」

「俺がしたくてした事だから気にするな。」

 頭を撫でると少しだけ嬉しそうな顔をする。

「あの、改めまして、浅見譲といいます。」

「椎原雅伸だ。それと俺を庇ってくれて有難う。だがな、今後は自分を第一に考えてくれ。わかったな?」

 有無を言わせぬ口調に譲は驚いたが、心配してくれているのが分かるので頷いた。

「わかりました。」

「それと聞きたいことがある。」

「何でしょうか。」

「どうして俺を庇った?咄嗟にだというのは分かるが理由を教えて欲しい。」

「理由・・・・。」

 咄嗟に出てしまったのでというのは無しなのだろう。それ以外は。

「多分、多分ですが、かっこいいと思ったから。憧れめいた思いを抱いたからだと思います。」

 譲の言葉に椎原は微笑んだ。

 その笑みに譲は心臓を鷲掴みされた気がした。

(え?何で?どうして?僕はどこか悪いのかな?胸が、痛い?)

 首を傾げながら胸を押さえた譲に椎原の眉間に皺が寄る。

「譲?どこか痛いのか?」

 心配そうな声と名前を呼ばれた事にまた胸が痛くなった。

(また?どうして?)

 頭の中は疑問符だらけである。

「え・・・あの、何か胸が痛くて。」

「胸?ずっと痛むのか?」

「あの、何か鷲掴みにされたような感じなんです。」

「ここか?」

 椎原が譲の胸に手を当てた瞬間、譲の顔は再び首まで赤くなった。

「あ、あの、今は心拍数が上がっている、と・・・思います。」

 どうして何でしょう、と椎原を見れば、椎原は目を丸くしていた。

 が、また優しげな微笑を浮かべる。

「譲、「一目出遭ったその時から恋の花咲く事もある」って言葉知ってるか?」

 首を傾げる譲に上機嫌の椎原が言葉を続ける。

「つまり、一目惚れ。お前は俺に惚れているんだ。」

(惚れ、惚れている?僕が椎原さんに?)

 考えていると益々顔が赤くなっていく。

「ちなみに俺もお前に惚れているぞ。」

 笑みを浮かべたまま譲の耳元に口を寄せる。

「好きだ。」

 言われた瞬間、目眩がした。

「大丈夫か?全身赤くなっているぞ。」

 背中を支えられて寝かしつけられる。

「あ、あの・・・さっきの。」

 くらくらする頭で訪ねると、キスをされた。

(今の、キス・・・・キスされた!!!!!!)

 今までの経験でキスは気持ち悪いものだったのに、嬉しいと感じる。

 黙っている譲にもう一度。 

 今度は深く、譲に椎原の気持ちを伝える様に。

 愛おしさを込めて唇を舌でなぞり、上顎を舐める。歯列全てを優しく怯えさせないように髪を梳きながら辿り、唇を離した。

「俺がお前に惚れている事を信じるか?」

 言われている事が分からない譲はぼんやりとした瞳で椎原をみつめる。

 何も答えない譲に椎原は微笑んでもう一度唇を寄せてキスをした。

 再び歯列をなぞって今度は深く舌を絡める。

 互いの唾液が溢れそうになると角度を変えて椎原が飲み込む。

 そのキスの魅惑に耽溺している譲は自分から舌を絡めて来た。

 目を瞑っている譲と違い、その様子を逐一観察していた椎原は目を細めると譲の望むままに与えていく。

 最後に唇を舌で辿り離した時、譲は腰が抜けた状態で物事を深く考えられる状態ではなかった。

「また、明日来る。その時まで俺の言った事を考えて欲しい。」

 額に口付けると椎原は微笑んで去っていった。

 譲はそれをぼんやりとした顔で見送ると怒涛の一日を終わらせた。





 次の朝、出社した工藤は椎原が異様な程機嫌が良い顔を見て顔を顰める。

「どうした、朝から景気の悪い顔をして。」

 笑みを浮かべるが、秀麗な顔に載るその笑みは企んでいるとしか思えない。

「あなたがそんな風に機嫌が良さそうなので今日は嵐になるかと心配したのですよ。」

 溜息を吐くと、気持ちを切り替えて本日の予定を述べる。言い終えた工藤に椎原が顔を上げた。

「譲の住まいの事だが。」

 何故呼び捨てにしているのだろうと疑問に思ったが、それは追求せず答える。

「一応候補は挙げておりますので本日浅見さんに尋ねてから契約する予定です。」

「その候補全て取り下げて、俺の部屋にしろ。それとリフォーム業者を呼んで段差を無くす様に指示してくれ。期間は一ヶ月。その間は別のマンションに移る。」

「それでは浅見さんを手元に置くと言う事ですか?」

「ああ。それまでに全て終わらせておくんだ。いいな?佐々木にも期限を伝えておいてくれ。」

 言いたいことはそれだけだと言わんばかりに手元の書類に向かう。

 元が有能なだけに、内線を掛けて部下に指示をする様や第二秘書に書類を手渡し指示を与える様はとても素早い。

 長年椎原の腹心として傍にいただけにその変化には驚いてしまう。

 が、喜ばしい事だ。

 今まで誰にも心移さず謀略を楽しんできた人が唯1人に心を向けている。

 それが吉と出るか凶と出るかまだ分からないが、とりあえず今すべき事をするだけだと工藤は部屋を後にした。

 そのまま社を出て別の建物に入る。

 小奇麗なビルの中程にある事務所に入ると、佐々木がモニターを睨みながら煙草を吸っていた。

「予定変更だ。」

 工藤の言葉にいつも気障な格好をしている佐々木は眉を顰める。

「一ヶ月以内に全て終わらせる事、だそうだ。正式には浅見譲の退院まで。」

「一ヶ月ぅっ!!!嘘だろう!!」

 煙草が床に落ちたのにも気付かない程驚いたのだろう。歩み寄って煙草を拾い、灰皿に捨てる。

「なぁ。何かの冗談だろう?三ヶ月でもきつい仕事だぞ。」

「一ヶ月。決まったことで変更は無い。会長は浅見譲を自分のものにするつもりだ。」

 佐々木は懐から煙草を取り出し、傍らに居た部下がそれに火を付ける。

「ああ。それで、ね。でも珍しいこともあるもんだ。」

「珍しい所か初めての事だろう。」

「・・・・瑞樹さんは?」

「あの人は共犯者と言って差し支えない。」

「まあ、そうだろうね。それにどんな美人でもあんな血に飢えた様な人はごめんだ。」

「浅見さんは好感の持てる人だ。」

 工藤の言葉に佐々木が始めて興味を持った。

「へぇ。お前が言うなんて珍しい。どんな人だった?」

「傍に居ると落ち着く。それに素直で人を思いやる事の出来る人だった。」

 思い出すと笑みが浮かんでくる。

「ふうん。まあ、一ヶ月後には俺も会えるかな?」

「それまでに全て終わらせなければいけないがな。」

 工藤の突っ込みに佐々木は頭を抱えた。

「一ヶ月・・・・ちょっと辛いよそれは・・・。」

 頭を抱えた状態で佐々木が差し出した資料を受け取り斜め読みすると、工藤は嗤った。

「これなら俺の情報を繫げれば何とかなるかもしれないぞ。」

 さすがの工藤でも一ヶ月では終わらないと思っていたらしい。

「仕事の方も今まで手古摺っていた物が恐ろしい程上手く行っている。これも・・・。」

 工藤が自分の鞄から出した資料を佐々木に差し出すと佐々木が訝しげにそれを読む。

 が。読み進めて行く内に佐々木の顔にも笑みが浮かんだ。

「確かに・・・これだったら何とかなりそうだ。しかし、ウチに都合の良い方に事が進んでいる気がするのは俺だけか?実はこれも。」

 モニターを指で示すと、工藤名義や椎原名義で購入している株が上がり始めている。

「一昨日あたりからこんな感じなんだよ。」

「一昨日と言うと、会長が銃撃された日だな。」

「という事は・・・。」

 互いに顔を見合わせるが、何も言わずに手元の書類に目を落とす。

「では、私はこれで。」

「ああ、何か分かったら連絡する。そっちもしろよ。」

「分かった。」

 妙にぎこちない会話を終えると工藤はその場を去っていった。

 佐々木の横には部下の花田がコーヒーを持ってくる。

「あの、兄貴は何を調べているんですか?」

「花田。兄貴じゃない。所長もしくは佐々木さん、だ。今は暴対法厳しいから言い方には気を付けろ。このボケ。」

 毎日の様に言われている言葉に花田は肩を竦めて意思表示をする。

「兄貴は兄貴ですよ。外では言っていないからいいじゃないですか。」

 他の部下に比べて花田の口調は砕けている。

 ヤクザになってからも付き合いのあった友人の弟と言う事で可愛がっていたせいか此方も強く言えない。

 それに誰も居ないところではこんな風に砕けた口調だが、人の目があるところでは常に低姿勢を保っている。同級の酒田の前以外では。

「ああ、そうだな。それで?」

 半ばヤケクソ気味に聞き返すと、花田は満面の笑みを浮かべる。

「だから、何を調べているんですか?」

 指差すのは書類。

「この間会長が銃撃されただろう?」

「はい。犯人は逆恨みした社長だとか。」

「正しくはウチと取引していた会社の社長だが、水増し請求していたのが分かったので契約を打ち切ったら首が回らなくなり逆恨みして会長を銃撃した、だ。」

「はぁ。」

「だが、此処で疑問が出てくる。一般人がどうして拳銃を持っているんだ?それとあの時間に会長がそこに来ると言う事も。」

「うーん。今は一般人の方が怖いですからねぇ。あとは社の前で待ち伏せしていた、かな?」

 花田の答えに佐々木は溜息を吐いた。

「だからお前はいつまで経っても三下なんだよ。おい、酒田。お前は分かるよな?」

 傍で控えていた酒田を向くと寡黙な酒田は口を開く。

「チャカはどこかの組がそいつに与えたんでしょう。運よければ会長か工藤幹部、佐々木幹部を殺れるだろうと言う目論見で。実際はそのゴタゴタのウチにシマの何処かを乗っ取ろうとしたんじゃないでしょうか。定期的で無いあの時間会長が来る事を知っていたのは、会議を申し込んできた取引先の会社2社のみ。そのどちらかが他の組のフロントという事になると思います。岡本組の傘下ならこんな茶番をせずとも済みますので、他の組でしょう。」

 尊敬の眼差しで酒田を見る花田を無視して佐々木は酒田に書類を渡す。

「相手は大阪の組だ。工藤が持っていた情報を組み合わせるとまあ、よくウチの都合に合わせたもんだと思ったがこれは故意だと思うか?」

 速読の出来る酒田はそれを手早く読み終えると首を傾げる。

「故意、では無いと思います。これは相手側が不利ですよ。ウチは有利なんで問題無いですが。それと・・・。」

 酒田が耳打ちをした内容を聞き終えると佐々木が嗤った。

「そりゃあ、まあ。面白い話だな。」

「面白い、といいますか。」

 花田が首を傾げる。

「どういう事ですか?」

 その問いに今度は酒田が溜息を吐いた。

「つまり、ウチに幸運の女神さんが舞い降りたかのようにウチに都合の良い展開になってきているんだよ。これだったら一ヶ月要らないな。酒田、その女に事情を軽く話して上手くやれたら借金チャラだと伝えろ。」 

 酒田は頷き、一礼して去っていく。

「兄貴、どういう事ですか?」

 今度は上機嫌で答える。

「つまりな、そのウチのシマを乗っ取ろうとした組の幹部が会長御手つきの女を無理やりどうかしたんだよ。誰がしたか分からなかったから調べさせていたんだが・・・。」

「組の女に手を出したらたとえ他の組のモンでも制裁を受けますからねぇ。」

「そういう事だ。しかし、お前は本当に本能でしか動いてないな。少しは頭を使え。」

 花田の淹れた不味い茶を啜ると溜息をまた吐いた。





 午後になってから椎原と工藤が来た。二人は譲が退屈しない様な話題を提供し、その間椎原は譲の髪を梳いたり手を握ったりしていた。

 照れてしまうが、それ以上に嬉しいのでされるがままにしていると工藤の目の前でキスまでされる。

 思わず工藤を見ると、微笑まれたのでどうしていいかわからなかった。

 譲が喉が渇いたと言うと、椎原自ら売店に行ってしまう。

「あの、すみません。お恥ずかしい所を。」

 椎原が出て行って直に譲は工藤に謝った。

「いいえ。椎原がこんなに執着している姿を見るのは楽しいですし、私個人もあなたを気に入っています。」

 微笑む工藤に譲が笑った。

「僕も、工藤さんを好きです。」

「その言葉は嬉しいですが、椎原の前では言わないで下さい。嫉妬しますから。」

 椎原が戻って来たのでそれ以上の会話は無かったが、互いの雰囲気が良くなっているのに気づいた椎原は眉をひそめる。

「こいつは俺のだ。手を出すなよ。」

 きっぱりと宣言されてしまったので譲は首まで赤くなる。

「わかっていますよ。浅見さんは、何といいますか、弟の様な感じを受けるので。」

「え、僕も工藤さんをお兄さんみたいに思っていたんです。こんな短期間で不思議なんですが。」

 二人微笑み合う間に椎原が割り込む。

「それ以上は無しだからな。」

「「わかっています。」」

 譲はまだ椎原に返事をしていないが、この言葉で既に返事はしたも同然だと言う事に譲だけが気付かない。

 今日は医師の診察と説明があるという事で、付き添いについて来たと言う二人は当然診察の場にも同席した。

 医師から脚の事を聞いたとき、何となく分かっていたのでそれ程混乱せずにいられたのだが傍に居てくれた椎原と工藤の方が痛々しい顔をしていたのでそれを宥める方が大変だった。

「俺を庇ったばかりにこんな脚になるとは。」

 昨日から知っていた事とはいえ、実際にその脚を見ると悔しさがこみ上げてくる。

「それもこれもあいつのせいだな。」

 半眼になって宙を見る椎原に工藤は頷いたが、譲は笑った。

「でもこんな風にならなければお二人と知り合う機会なんて一生無かったでしょうから、プラスマイナスゼロと言う事で。」

 至って暢気に言う譲に椎原は苦笑した。

「そうか。辛くは無いか?」

「今の所は痛くないですよ。それより今後のリハビリが憂鬱です。」

 リハビリの事を聞かされた時からそちらの方が気になるらしい。

「それに、僕は何にも持っていないのだから身体の一部が損なわれたとしても気にしません。」

 笑顔で何でも無い事の様に言う譲に椎原は自分の方が痛そうな顔をする。

 脚の診察をした時に見えた内股の傷。肉をナイフで抉った痕だった。

「何も無いなんて言うな。俺にはお前が必要なんだから。」

 今まできっと辛い目にあったのだろう。この二日間だけでもそれを察せられる無意識の行動や言動で胸が痛くなる。

 こんな、たった一言にさえ譲はとても嬉しそうに笑う。

「それと、退院したら俺のマンションに部屋を用意したからな。」

 決まったことを告げる。

 内心嫌だと言われる事も覚悟していたのに、譲は、華が咲いた様に笑って頷いてくれた。

 思わず頬に手を添えて口付けをする。

 抵抗せずに受け入れた事に気分を良くして、さらに深く重ねようとした。

 が。

「そこまでです。」

 工藤の冷静な一言に譲の方から唇を離す。

「おい。」

「いくらなんでもここは病院なんですよ。それ以上は退院してからにして下さい。それに譲さんも今日は疲れているのですから。」

 顔の覗き込むと頬をほんのりと赤らめている。

「あの、ここは病室ですから。」

 小さな声で言うのが可愛らしくて椎原は少し苛める事にした。

「だが昨日はしたぞ?」

「あ、あれは!!・・・・初めてだったし、吃驚していたし。それに・・・。」

 段々と小さくなる声に口元に耳を寄せる。

「ん?」

 何も言わないので今度は耳元で囁いた。

「俺はどこでもかまわないし、いつでもしたいのだがな?」

 意思を込めて肩をゆっくりと撫でると赤くなっていた譲の顔が一瞬にして真っ青になる。

 肩に置いていた手をどけて、もう一度耳元に囁く。

「キスは嫌いか?」

 青い顔のまま首を横に振る。

「じゃあ、俺は嫌いか?」

 また横に振る。

「俺はお前に触れたい。惚れている奴に触れる事をメイク・ラブって言うんだ。知っているか?」

 青くなった顔は元に戻っていない。だが、返事はしてくれる。

 首を横に振る。

「キスをするんだ。触れていない場所は無い位全身にな。頭から足の爪先まで全部。お前に惚れていると体に言う。言葉では無いもので。」

 耳元から少しだけ顔を離すと、ゆっくりとした動作で譲が椎原の顔を見る。

「俺がお前にしたい事はそういう事だ。惚れているから触れたい。だが、心も欲しい。分かるか?」

 ぎこちない動作で頷く。もう顔は青くは無い。

「じゃあ、もう一度聞こう。俺はお前に惚れている。お前は俺の事が好きか?」

 惚れているか、とは聞かない。どんな種類であれプラスの感情が向けられているならこちらに向かせるから。

「・・・はい。」

 小さな、震える声だったが確かに言った。

「そうか。今はそれだけでいい。明日は来る事が出来ないが、明後日は来る。何か必要なものがあったら工藤でも俺でもメールか電話をしてくれ。」

 優しい声でそう言うと、最後に小さいキスを唇にして椎原は背中を向ける。

 そのまま部屋を後にした。

 工藤も共に去った今、部屋の中には譲一人である。

 指先で触れると唇が熱い。

 具体的には分からなくても今の行動で椎原は譲が過去に何をされたか、していたか分かった筈なのに優しい言葉を掛けてくれた。

「メイク・ラブ。」

 椎原が残した言葉を反芻すると心に暖かなものが宿った気がした。





 それから退院するまで工藤は毎日様子を見に来てくれた。

 縁の無かった甘いものを工藤は度々持ってきてくれた。おかげで今はスウィーツの虜である。

 退院するという前日、この日も工藤は小さな箱を持って現れた。

「こんにちわ。調子はどうですか?」

 微笑みながら差し出される箱を目を輝かせて受け取る。

「今日も元気です。」

 促されて開けると、タルトとオペラが入っている。

「それはチョコレート専門店のケーキなんです。タルトはミルクチョコレートでオペラはビター。チョコレート、お好きでしょう?」

 さっそくタルトの方から口に入れると、口に入れた瞬間溶けた。その感覚が不思議で面白くて次々口に入れるとあっという間に無くなってしまった。

「凄い。美味しいですね。」

 感動している譲の様子を嬉しそうに眺めて、そば紅茶を置いた。

「口の中の味を流してからオペラを食べたほうがいいですよ?」

 素直に頷き、それに従う譲を温かい目で見守る。

「紅茶って、こんなに美味しいモノなんですね。」

 今までは病院が出しているお茶だったのだが、知り合いに陶器メーカーが出しているティーパックを貰ったのでそれを出したのだ。

「これはティーパックですよ。気に入ったならお茶の淹れ方の本と紅茶セットを差し入れましょうか?」

「本当ですか?ありがとうございます。」

 和やかな会話を遮る声がした。

「浅見さん、診察です。」

 穏やかな声の担当医が入ってきた。30半ばの医師は顔もそこそこで、看護婦の間でも人気が高いらしい。

「自分も同席して宜しいでしょうか?」

 いつもの様に工藤が申し出て、譲がそれに頷く。

 この男は何だか怖い。

 そう思っている譲に工藤の申し出は嬉しい。工藤がこの時間に来る事が出来ない時は部下を出すので医師の診察時間に一人になった事は無いのだ。

 足を軽く診てから医師は笑った。

「この様子ですと、予定通り明日退院出来そうですね。でも通院はしてもらいますから。」

 今後の事を話すと笑顔のまま医師は退室していった。

 一見普段通りに見えても心許している工藤の前では緊張していた事を隠せない。

「あの人が苦手の様ですね。」

 微笑ながら淹れ直した紅茶を差し出す。

「気付いていたから傍にいてくれたのでしょう?」

「そうですが、それだけではありません。」

「?」

 首を傾げる譲に工藤は笑って誤魔化した。

「明日は退院ですね。天気も晴れになりそうで良かった。」

 この窓から見える景色の中に桜がある。まだ硬い蕾だが、あと少しすれば咲き綻ぶだろう。

「浅見さん?」

 声を掛けられて、眺めていた景色から工藤の方へと顔を向ける。

「名前で呼んで下さい。色々お世話になっているし、その方が嬉しいです。」

 微笑む彼に自覚は無いだろう。だがその顔は男にとって・・・・・。

 工藤は内面の動揺を隠して微笑み返した。

「ええ。そうしましょう。譲さん。」

 自分がこの人を弟という位置づけしていなければ危なかったと内心胸を撫で下ろす。

(汚い大人にこの人は癒しであると同時に危ない存在だな。)

 椎原が一瞬にして夢中になるはずである。

 あんな、無防備で相手を信頼している表情をされては。

 壊したくなるか、守りたいと思うか。

 それは人其々。

 自分と椎原は後者。だろう。多分。

 他人に対しては分かり難いが警戒しているのに、自分と椎原に対しては警戒を解いている。

 信頼されている。

 嬉しくないはずが無い。こんな純真な存在に心許させるものがある自分が嬉しいのかもしれない。

 守りたい、そう思う。

 頭を撫でると嬉しそうな顔をする。

 そのままじゃれ合っていると、ノックと同時に椎原が顔を出した。

「・・・・いつの間にそんなに仲良くなったんだ?」

 眉を顰める椎原に譲は笑みを浮かべる。

「こんにちわ。今日はどうしたんですか?」

 2日おきに来ていた椎原は昨日来たので今日は来ないと思っていたのだ。もちろん嬉しくないはずが無い。

 ほんの少し頬を紅潮させて笑う譲に椎原が歩み寄り、額にキスをする。

 工藤の前で何度もされているせいか、擽ったそうにするだけで抵抗せずにそれを受け入れる。

「で?いつの間に仲良くなったんだ?」

 工藤と鉢合わせした事の無い椎原にはこんなに密接出来る関係だとは思わなかったようだ。

「いつって。始めからです。僕にとってお兄さんみたいな感じなんですよ、工藤さんって。工藤さんも僕を弟みたいだと言ってくれて。」

 嬉しそうに、自慢げに言う譲を咎めるわけにもいかず、また工藤も邪な心を持っているとは思えない態度だったので仕方なく頷く。

「そうか。良かったな。」

「はい。何か、家族が出来たみたいで嬉しいです。」

「・・・・・・・・・俺も家族なのか?」

 わざと声に艶を含ませて囁くと、譲の顔が赤くなった。

「え・・・あの、雅伸さんは・・・。」

目を逸らして挙動不審になる譲を微笑ましい思いで見守る工藤と違い、椎原は譲を追い詰めるかのように近づき顔を覗き込む。

「ん?どうなんだ?」

 楽しげな声に譲が恨めしそうな顔で睨む。

「そんなの・・・・・知っているでしょう?」

 どうやら入院している間に色々あったらしい。

「知っている。が、俺はお前の口から聞いたことは一度も無いんだがな。」

「でも・・・。」

 恥ずかしがっている譲に椎原はため息を吐いた。

「俺はこんなにお前に惚れているのに、言葉一つくれないのか?」

 傷ついた、と言わんばかりにため息を吐いて俯く椎原は物凄く胡散臭い。

 ドアの傍に控えている部下の顔も引き攣っている。

 こんな言葉と様子を誰が信じるのだろう。

「雅伸さん。そんな、僕が言葉一つ惜しんだばかりに・・・。」

 譲は信じたようだ。

 恋は盲目、と言った所だろうか。

 内心唖然としている工藤を他所に二人は見詰め合う。

「僕は・・・雅伸さんが好きです。とても。」

 囁く言葉に椎原が演技では無い笑顔を見せた。

「そうか。」

 唇に小さくキスをすると額を合わせて微笑みあう。

 出遭ってから一月という短い間にしっかりとした絆を通わせた二人は幸せそうだ。

 二人だけの世界を作っている傍に居るのは中々辛いものがある。

「あの・・・大変申し訳ないのですが、そろそろ面会時間が終わりますので。」

 腕時計を指で示すと、椎原が物凄く機嫌の悪い顔になったがこれはどうしようもない。

「また、明日会えますね。」

 椎原を宥めた・・・訳では無いだろうが、絶妙なタイミングで譲が頬を染めて言う。 「ああ。また明日。迎えに来るからな。」

 頬にキスをすると見送る譲に微笑みを残して部屋を後にする。

 端正な顔を動かすこと無く病院を後にして車に乗った瞬間、椎原の発する雰囲気がガラリと変わった。

「それで、どうなった?」

 銜えられたタバコに火を付けて報告を始める。

「大阪の組は翼竜会傘下の組でしたので、潰しました。翼竜会、本部その他全てに報告了承済みです。元々ご法度のモノを扱う組でしたのであちらからも特には何も。ただ、そこの若頭が行方不明ですので探索中です。」

 行方不明という言葉に椎原の眉間に皺が寄る。

「今日中に探せそうか。」

「護衛の者以外を総出で探させていますが、今日中に見つかるかどうかまでは保障出来ません。」

 椎原は冷徹な目で工藤を見ると、口を開いた。

「病院の警護を増やせ。」

「出来る限り増やしていますが、病院という場所がらこれ以上は無理だと思います。」

 かと言って工藤や椎原本人が居れば襲撃の可能性が増える。敵はどこにいるか分からないのだ。

 後ろで椎原が舌打ちを打つのが聞こえる。

「明日の警護は増やせますので。」

 病院に強面の人間が居れば恐れられるし、譲が三和会に、椎原にとって十分駒になる人間だと教えてしまうことになるのだ。

 工藤は椎原の許可を取って、内密にSPを雇い警護させている。

 夜の間に何事も無いことを祈るしかない。

 ヤクザが祈るなんて事はありえないが。

 今日の予定は明日を空ける為に深夜までびっしりなのだが、椎原はそれを苦も無くこなしていく。  まるで追い風が吹いたような状況なので忙しいのだ。

 嬉しい事ではあるのだが、喉の骨が引っかかった様な違和感と何故が覚える罪悪感に眉間の皺が寄る。

 どうしてそう思うのか分かっているらしい椎原は工藤の肩を叩き、

「工藤、あいつは愛情に飢えているからな。お前も良くしてやってくれ。」

 朝と言っても過言では無い時間に自宅まで送った際に椎原が苦笑して言った。 





 翌朝、幸いにも何事も無く迎えられた退院日。

「お世話になりました。」

 工藤が用意した菓子箱を差し出すと、看護士の一人が笑顔で受け取る。

「いいえ。お大事に。」

 暖かな笑顔で見送る看護士達を背に椎原、工藤、譲は車に乗る。

「譲、足は痛くないか?」

 久しぶりに靴を履き、外に出た譲の体調を心配する椎原に譲は微笑む。

「大丈夫です。リハビリでも動いていましたから。」

 久しぶりの外の風景に嬉しそうな譲を微笑ましい思いで見守りながら額にキスをした。

「譲、どんな料理が好きだ?」

 笑顔で尋ねる椎原の声に工藤はすかさず携帯を手にする。

「どんな、ですか?」

「和食とかステーキとかって事だな。」

 譲は心持俯き、手を口元に遣り少し考えた後、恥ずかしそうに笑った。

「あの、僕あまり料理の種類を知らないので・・・わかりません。」

 譲の食生活が知れる一言だったが、椎原はそれを見た目はさらりと流して頭を撫でる。

「そうか。あっさりしたものが好きか肉類が好きとかはあるか?」

「それなら、あっさりとしたものが好きです。」

「では、立席のある和食で宜しいですか?」

 椎原が頷くのを確認すると工藤はすかさず電話をし、予約をする。

「福楽亭に予約をしました。」

 黙っている譲に椎原が説明をした。

「和食処で、有機野菜を使っている所だ。釜飯は食べたことがあるか?」

 首を振る譲に椎原は笑った。

「そりゃあ、残念。そこの釜飯を一度食べたら他は二度と食べられなくなるという店なんだ。初めて食べる釜飯がそこなんて、運が良いのか悪いのか。しかも得意客にしか出さないメニューだ。」

 楽しそうに話す椎原に譲の目が輝く。

「じゃあ、雅伸さんはそこのお得意さんなんですか?」

「ああ。俺も初めて食べたときは驚いたなぁ。月一の割合で通っている。」

 譲の肩に手を回して釜飯がどんなものか説明している姿は微笑ましい。

 楽しそうに笑う譲を観察して嬉しそうな椎原。

 だが、微笑ましいと感じるのは工藤だけのようで運転をしている部下は驚きを隠せないようだ。

 店に着き、見送ろうとした工藤と部下も譲たっての願いで同席する。

 工藤はどうとも思わないが、部下の男は尊敬する上司達と共の食事に緊張しているようだ。

 店のものに「いつものを人数分。」という一言で済ませた椎原を譲は尊敬の眼差しで見る。

 どうした、と目線で問えばため息の様な声で一言。

「かっこいい・・・。」

 このシチュエショーンでは一見、何とも無い言葉なのに譲の眼差しと吐息混ざりの言葉で部屋の雰囲気は一瞬にして濃いものへと様変わりした。

 工藤が部下を見れば若干前屈みである。椎原は譲の薄い肩を抱いて顔を近付けて口付けをしようとしていた。

「あ、あの、でも部下の方が・・・。」

 どうやら工藤の前でするのには慣れたらしい譲だが、それ以外の人間が居ると恥ずかしいらしい。

「譲。」

 低く、甘い、誘う声を椎原が発する。今まで遊んだ分全てを譲を篭絡させる為だけに使っているのではと思ってしまう位、椎原はキス一つでも全力を出している。
    そんな椎原に譲が敵うはずも無く。

「雅伸さん。」

 こちらは自覚なしの更に甘い声を出して応えている。

 世界は二人の為に。

 そんな言葉が後ろに見える程甘い世界を作っている。工藤はこの一ヶ月で慣れたが部下には辛いものがある様だ。特に独り身の場合。

 だがこれに慣れてもらわなければ警護が出来ない。

 隣に座る部下に小さな、低い声で注意する。

「慣れろ。」

 その一言で部下は察した。これからもこういう風景はしょっちゅうあるだろうから慣れなければならないのだと。

「はい。」

 普段の冷徹さは欠片も見せずに微笑む椎原は元が良いだけに譲も見惚れている。

 そしてうっとりとした、艶のある譲に椎原も見惚れている。どっちもどっちだが、傍に居るのは辛い雰囲気だ。

「失礼します。お待たせしました。」

 店員の声に工藤と部下は救いの声だと顔には出さないが思い、襖を開ける。

 テーブル席だが、襖となっている部屋に店員は静々と入り各々の前に料理を並べて笑顔で退室していった。

 色鮮やかで、春の季節感満載の料理に譲が歓声を上げる。

「うわぁ。凄い、綺麗で食べるのが勿体無いですよ。」

 釜飯はまだ火が点いたままなので先にそれらを食する。

 椀物は桜を模った生麩とみつばが入り、菜の花のおひたしや蕗の薹の天麩羅、桜海老の掻揚げ。がんもどきと里芋と人参の煮物に西京焼き。

 美味しそうに、幸せそうに食べる譲を椎原は目を細めて見守る。

 初めて食べる生麩を気に入ったらしい譲に自分の椀を差し出す。

「これも食べていいぞ。」

 譲の椀に生麩を入れてやると満面の笑みで礼を言う。

「有難う。雅伸さん。」

「生麩を気に入ったのか?」

 譲が嬉しそうに頷く。

「もちもちしていて美味しいです。」

「これを田楽風にして食べさせる店があるから次はそこに行こうな。あとは生麩の饅頭もあるんだぞ?」

 二人の間には食事をするには近過ぎる距離しかないがそれを指摘出来る人物は居ないので誰も言わない。

 それに譲の日溜りの様な笑みに裏の世界に身を置く椎原はもちろん工藤と部下もこの笑みを邪魔をする事なしないのだ。

 二人を微笑ましい思いで見守りながら工藤は中座する。

「これのお饅頭、ですか?」

「ああ、甘いものは嫌いか?」

「あまり食べたことは無かったのですが、工藤さんが色々持ってきてくれたのですっかり好きになりました。」

「そうか。」

 中座していた工藤が戻ってきた。

「失礼しました。」

「おう。」

 おおよそ食べ終わった頃に釜飯が出来上がったようだ。普通は中程で出来上がる位に調節されているのだが、ここにいるのは男だけ。食べるペースも速かった。

 椎原が譲の前にある蓋を開けると上品で良い匂いが広がる。

「わぁ。美味しそうですね。」

 甲斐甲斐しくも茶碗に移して渡している。工藤はそれをあっさりと見ないふりをし、部下は大量の冷や汗を掻いて必死で目線を逸らして自分は何も見なかったとマインドコントロール中だ。 

 譲は自分に甘い椎原しか知らないのでこれが椎原にとって普通だと思っている。少し恥ずかしいがそれ以上に嬉しいらしいというのが顔に表れている。

 一口食べて、顔が綻び左手で頬を押さえる。

「美味しい・・・。」

 潤んだ目を椎原に向けると、椎原は笑みを浮かべて自分の茶碗も差し出す。
「そっちはきのこだが、これは山菜、工藤のは地鶏だ。少しずつ食べて気に入ったのを沢山食べるといい。」

 促す椎原に譲は微笑む。

 微笑み返す椎原に部下はこの時間だけで自分の体重が減ったような錯覚に陥った。

 譲と椎原にとっては楽しい、工藤にとっては微笑ましい、部下にとっては苦行の時間が終了して車に乗り込むと店の前で待っていた男が窓から工藤に紙袋を差し出す。

「ご苦労だった。」

 受け取った工藤はそれを椎原に渡す。

「譲、これが麩饅頭だ。」

 紙袋の中には二つの透明の袋が入っている。
 笹の葉に包まれたそれは、張ってあるシールから店が違うものだと分かった。

 一つは白と緑が二つずつ、もう一つは緑が二つ。

「有難う御座います。」

 椎原に礼を言うと、差し出した男と工藤にも礼を言う。

いつも丁寧に礼を言ってくれる譲に工藤は笑みを浮かべ、車の外の男は一瞬驚いた顔をしたが無表情のまま一礼した。
 
 車は静かに動き出し、15分ほどでマンションの前に着いた。

 工藤はトランクから譲の荷物を取り出し、椎原は車内に手を差し伸べ譲が立ち上がるのを手助けしようとする。

 病院から貸し出された松葉杖があるので、と断る譲に椎原は男の色気を垂れ流しながら右手を背中に置き、左手を譲の目線の位置に揃えて甲を下に向け上品な笑みを浮かべて囁いた。

「お手をどうぞ?愛しい方。手袋が無いのが残念だがそこはまあ、勘弁してもらおう。」

 そんな仕草をされれば、しかも多少なりとも好意を持っている同士だったら断れるはずも無く。

 微笑みながら肩と手に手を添える椎原の存在を恥ずかしげに、だが笑みを浮かべて受け入れてエントランスに足を踏み入れようとした時。

 いきなり男が飛び出してきて銃口を椎原に向けた。

譲はとっさに椎原の前に飛び出す。

 そして、風船の割れる音。

「譲!!!」

 椎原の焦りが滲み出た声が沈黙と硝煙の匂いの支配する空間に響いた。



 正直譲も自分で何をしたか分かっていなかった。

 ただ、銃口が椎原に向けられていると思った瞬間体が動いただけ。

 そして目を思い切り閉じた。

 一度嗅いだ硝煙の匂いを感じながら自分の体に何の衝撃も無い事に疑問を感じて恐る恐る目を開けると・・・。

 厳しい目をした男が銃を撃った男を手早く縄で拘束している所だった。

 後ろの位置に居る椎原を見ようと首を回すと、痛いほどに抱きしめられる。

「譲・・・もうするな。」

 深い苦悩を感じさせる声に、今の自分の行動が椎原を傷つけた事に気付く。

「ごめんなさい。」

 前に回された腕を優しく撫でるように触れる。

 益々拘束する腕が強くなり身動きが取れない程だったが黙ってそれを受け入れる。

 僅かに震える腕を撫でて肩に頭を預けて。

 少しの不安と、それを凌駕する愛おしさ。

 自分を失うと思ったことによって、こんなに立派な男が震えている。

 それはどんな言葉を貰うより嬉しい事。

 湧き上がる気持ち。

 独占欲と支配欲。

 こんな感情が自分にあると思っていなかった。いつも、何もかも諦めて受け入れるしか無く誰かから僅かな関心を貰う為に多大な苦痛を受け入れ続けた日々。

 だが、今自分を抱きしめている男は何をしなくても愛していると言い、今失うかもしれない恐怖に怯えている。怒りかもしれないが、どちらにしても譲にとっては歓喜する事に変わりは無い。

 強い視線を感じて目線を上げると工藤が強い眼差しでこちらを見つめながら寄って来る。

 そうして、前回撃たれた時は礼を言った男は譲の頬を打った。

 軽い音に驚きを隠せない譲は呆然と工藤を見つめる。

「あなたは・・・どうして自分の身をそんなに軽んじるのですか。」

 低く、冷静な声だが、本気で怒っているのを肌で感じた。

 一ヶ月。

 それだけの間に自分はどうやら欲しがっていたものを手に入れたらしい。

 生きてきた中でこんなに嬉しいと思ったことは無い位だ。

 自分を支配する感情がそのまま顔に現れた様で、自然と笑みが零れる。

「譲さん・・・私の言ったことを聞いていますか?」

 益々低くなる工藤の声に譲は頷く。

「はい。もうこんな事はしない、と思います。」

「と思います。じゃ無くて、しないと言え。」

「と思います。では無く、しないと言って下さい。」

 前と後ろから一斉に攻められて譲は益々笑顔になる。

「譲!!!」

「譲さん!」

 真剣に怒る二人に笑みを振りまきながら譲は声を上げた。

「そういえば、さっきの弾はどこに当たったんですか?」

 首を傾げる譲の質問に答えたのは銃を撃った男を拘束した男だった。控えていたらしい部下にその男をまかせると笑顔で譲に歩み寄って来る。

「始めまして。俺は椎原会長の元で幹部を勤めている佐々木信吾です。弾はそこ。」

 地面を指差す方向を見ると、松葉杖が落ちていた。

「金具の部分に当たったみたいで、君は運がいいね。」

 軟派な印象を受けるがこの状況で笑っていられるのだがら一筋縄ではいかない人なのだろう。だが、自分には悪意を向けていないようなので安心できる。

「とりあえず・・・浅見さんも疲れたでしょうし、会長も自宅にお戻りください。」

 ため息を吐きつつ椎原と譲を促す。

「え・・・でも警察が来るんじゃ・・・。」

 その言葉に工藤は笑みを浮かべる。

「そのことなら大丈夫です。安心して休んでください。」

 部下に指示を出しながら佐々木と工藤は一人の部下を残してあっというまに去っていた。

 後には何も残らなかったのでさっきのことは夢じゃないかと思ったが、僅かに残る硝煙の匂いがそれを否定している。

「さあ、部屋に行こううか。」

 促す椎原について頭のどこかが麻痺したように、よろめきながら支えられて部屋に行った。

 初めての部屋に驚く心の余裕も無く、とりあえずリビングのソファーセットに沈み込む。部下の男は椎原と少し話した後別の部屋に行く。

「色々な事があって疲れただろう。」

 椎原自ら淹れたお茶を飲む。礼を言って受け取り一口啜る。この一月で工藤が淹れた緑茶の飲みなれたせいか妙に不味いお茶だったがその気持ちが嬉しいので微笑みながら飲む。 

「聞いてもいいですか?」

「何だ?」

 ソファーに座り、譲を自分の膝に抱え上げて額に額を寄せる。

「雅伸さん達ってヤクザなんですか?」

 椎原の肩に腕を回して尋ねると、ドアの方から物が落ちる音がした。見るとドアの入り口で部下の男が冷や汗を流しながら固まっている。それをあっさりと無視して譲に微笑みかけた。

「そうだ。・・・嫌か?」

 頬に手を添えて見つめると譲は花が咲いた様に微笑む。

「嫌、じゃないです。皆さん良くして下さいますから。」

 ヤクザと聞いて引かない人間はそういない。

 だが譲は笑みを浮かべたまま椎原に触れる。

「僕に触れるだけだったのはヤクザというのを僕が知ったときの事を考えていたからですか?」

 譲の穏やかな声が椎原に問う。

「いや。お前を大切にして、自分のものにしたかっただけだ。譲はこういう事をされるのを嫌いなようだったから。」

 真剣な瞳で譲を見つめる椎原に譲は自分の帯を解いた。

 既に部下の存在は忘れられているが、部下も目の前で帯を解き着物を脱ごうとしている譲に見惚れて動かない。

 現れた細身で白い肌は欲情を誘うというより敬虔な気持ちになるもので。

 椎原の膝に乗っている為下半身は辛うじて隠れている。

 だが、それよりも・・・。

「僕は男を知ってます。」

 晒した体には、肩から胸のあたりまでいくつもの煙草を押し付けた後が付いていた。

 譲が背にしている部下の目には背中にナイフの手だろうか。走る痕が見える。

 綺麗な、と男に対しては異質な言葉だがその言葉が相応しいと思う肌にあるその傷痕はいっそう惨たらしい。

「こんな体でも雅伸さんは僕を愛おしいと、欲しいと思えますか?」

 口調は問う形だが、譲は既に雅伸の答えが分かっているようだった。それでも一抹の不安を隠せないのか瞳が僅かに揺れている。

「僕は何度もこの傷を付けた人と寝ました。その人が僕に飽きたので僕は今一人なんです。」

 椎原は黙ってそれを聞いていたが、着物を丁寧に直し始める。

「雅伸さん?」

「・・・聞いていいか?」

「はい。」

「お前はその男を好きだったのか?」

 手早く帯を締め譲の顔を見る。

「いいえ。」

「お前が惚れたのは俺だけか?」

「はい。何なら小指を切って差し上げましょうか?」

 古風な、だが真剣な言葉に椎原は笑う。

「いや。それよりお前の心が欲しい。」

「もうとっくに差し上げています。」

「俺がお前を籠の鳥にしたいと言ったら怒るか?」

 椎原の腕が譲の体をきつく拘束する。

「あなたが僕のものになるなら自分で籠に入りましょう。」

 互いの声が真剣なものから段々と甘さを含んでいく。

「どんな事があっても俺はお前に惚れている。」

 現に、と自分の膝の上に座っている譲に腰を押し付ける。

 僅かに頬を染めて椎原を見る譲からはえもいわれぬ色香が漂って椎原の欲を刺激した。

「俺はどうやら独占欲が強いらしい。」

 譲の口元に唇を寄せると譲の瞳が閉じられる。

 椎原は目線で部下に出て行くように促してから深く、強く唇を重ねた。



 翌日から譲は籠の鳥になった。

 といっても日中見張りというより世話係といった感じの男二人が付き、出掛けるのは自由で椎原もよく連れ出すので今の所閉塞感は無い。

 元々一年前まで心理的な閉塞感の中長年生きてきたせいか逆にこの環境を自由と考えている。

 誰かが常に自分を気にかけ、愛してくれる。

 それが自分も愛おしいと本気で思う相手なのだから嬉しいと思いこそすれ、嫌だとかは思わないのだ。

 だが、椎原はそうでは無いようで。

「お前を信用していない訳じゃないんだが、時々自分でもこの心の狭さにため息が出る。」

 だがお前を自由には出来ないんだと苦笑いをする。

 そんな時は頬を撫でてキスをして、譲なりに甘えるのだ。

「僕はこの状況に満足していますよ?」

 幸せだと、囁く。働く事は嫌いでは無いし過去とは違い自立心がある今、時々何かをしたいと思うときはあるけれど。そんな心の動きは愛おしい人の心と比べれば瑣末な事で。

「すまんな。」

 椎原は譲の心の動きさえ悟ったように謝る。

 首を振って微笑むと頬を寄せ合ってじゃれ合う。

 それからエスカレートするときもあるけれど、互いの体温を感じながらただじっとしている時の方が多い。

 日々を重ねる毎に色々な想いも積もっていく。かけがえの無い日々。幸福と呼べるもの。

 時々夜中に目を覚ます。

 幸せすぎて不安なのと昔の夢を見て。

 そんな時は必ず椎原も起きて、何も言わず譲を抱きしめてくれる。

 椎原の優しさに時々涙が出そうになる。

 夜の事も、今の所最後まではしない。

 今でも十分だと椎原は笑うが、それは譲を思いやってのことだと知っている。

「焦らなくていい、心は手に入れたのだから。だからゆっくりと体が順応するのを待つさ。」

 頼み込んで、いざ本番になったとき震えた譲に椎原は優しく諭すように言った。

 ただ、体で触れられていない所は無い。

 本当に頭の先から爪の先まで全て指と唇で触れられた。

 夜、服を脱ぎ時間を掛けて互いに触れ合う。

 何も無い夜もある。そういう時はただ寄せ合って眠るのだが、譲はそんな時間がとても好きだ。

 幸せな日々を過ごしていたある日。

 その日はリハビリと診察の日だったので運転手の荒川と世話係の栄の三人で病院に行き、全てを終えて玄関に立ったのは午前十一時だった。

「あ、もうすぐお昼ですね。ご飯はどうしましょうか。」

 普段は栄が作る。僕も時々作るが栄の仕事を取るわけにはいかないので。それに栄の料理は美味しい。だが、病院帰りは大体外で食べるのが慣例になっている。

「そうですね。今日は何を食べたいですか?」

 栄の上司は工藤にあたるせいか、栄は僕の好みのレストランや店を熟知しており察するのも早い。

「うーん。どうしようかなぁ。」

 病院前の半分葉桜となった桜を見ながら考えていると目の前に車が二台止まる。

 即座に荒川が譲の前に立ちはだかり栄は腰を屈める。が、車のナンバーを確認してから警戒を解いた。

 降りてきたのは椎原と工藤、佐々木。

 椎原は笑みを浮かべて譲の手を掬い上げて車に促す。

 限りなく黒に近い紺のスーツにワインレッドのネクタイ。ネクタイピンは譲が選んでプレゼントしたものだ。

 譲は内心嬉しく思いながら首を傾げる。

「どこに行くんですか?」

「それは着いてからのお楽しみ、だな。」

 後ろを見ると佐々木と工藤は後ろの車に乗り換えて、荒川と栄は乗ってきた車に乗るために駐車場に向かっている。

「腹は空いているか?」

 首を横に振ってから車に乗り込む。ゆっくりとした動作だったら足を引き摺らずに済むのだが、動くのが遅くなるため周りの人間に申し訳ないといつも思ってしまう。

 特に、こんな風に誰かを待たせてしまう場合。

 回り込んで反対側のドアから座った椎原が苦笑して譲の肩を軽く叩いた。

 それに笑顔で応えて走る風景を眺める。

 車の振動は僅かなのに段々と目蓋が重くなってきた。

「着いたら起こすから寝ていて良いぞ?」

 自分に凭れ掛けさせながら囁く声を聞き、頷く。

 心地良く慣れた体温に眠気は益々襲い─。

 目を覚ますと堅いものが頭に当たる。体をゆっくりと起こして現在状況を確認する為に寝起きの頭を動かすと、外の風景で夕刻だと言う事と自分はどうやら椎原の膝枕で寝ていたらしい事が判る。腰の辺りを見るとにスーツの上着が掛けてある。感じる視線に合わせると椎原が微笑んでいた。

「良い夢を見れたようだな。」

 まだ完全には覚醒していない頭で頷くと膝に抱え上げられる。

「寒くは無いですか?」

 ジャケットを着たままの自分はともかく寝ている間ずっと譲に上着を貸していたのだ。冷えてはいないだろうかと心配になった。

「鍛えているからな。問題ない。それに温度設定をあまり低くしていないから寒くないだろう?」

 確かに。病院では脚が痛んだのに今は痛くない。今は春だからそれほどでも無いが、今日は妙に冷えていたので。これでは夏の店内や冬が思いやられると今からため息が出ていたのだ。

「有難うございます。雅伸さん。」

 下の位置にある唇に触れるとキスを返される。深く、優しく。

 唇が離れると膝の上からシートに戻される。

「もうすぐ着く。楽しみにしていろ。」

 何か驚かせようと企んだ顔に浮かんだ笑みが譲の胸を打った。





 車が白砂の音を立てながら目の前の建物の手前で止まった。

 木で作られた塀がある為中は見ることが出来ないが、平屋だという事と緑溢れる敷地である事は覗えた。

「ここは?」

 譲の問いに椎原は笑うだけで答えない。  

 助手席に座っていた男が譲の方のドアを開けると、先に下りていた椎原が手を差し伸べる。

 その手を借りて車から降りると椎原が譲を抱え上げた。

「いいか。俺が良いと言うまで目を閉じていろ。」

 喜色の表れた声で言われ、譲はおとなしく目を閉じて手を椎原の肩に回す。

 白砂を踏む音の後、石畳の音に変わり鳥の鳴き声と葉の鳴く音がいっそう大きくなる。

 どれくらい歩いただろうか。椎原が歩くのを止めて譲を抱えなおした。

「いいぞ。」

 目を開けると一本の大きな桜の木が夕日を背に満開で迎えてくれていた。

 声も無く見惚れていると夕日が落ちて当たりはうっすらと暗くなり始めている。その変わり様もまた美しくて更に見惚れてしまった。

 完全に陽が落ちて僅かにライトアップされた桜の木が益々幻想的な雰囲気を醸し出している。

「どうだ。綺麗だろう?」

 自慢げに言う椎原に譲は強くしがみ付く。

「うん。有難う。」

 嬉しくて涙が出そうだ。その感情のまま顔に手を差し伸べると、椎原の頬が少し冷たいのに気付いた。 

   それもそのはず。自分が見惚れている間ずっと此処にいたのだから。まだ花冷えのする季節。しかも桜を見ている間ずっと譲を抱えていたのだ。

「あ、ごめんなさい。重いでしょう?」

 慌てて降りようとしたが、腕に阻まれて下りられない。そのまま桜に背を向けると目の前に濡れ縁に降ろされる。靴を脱がされて椎原も靴を脱ぐと再び抱えられて椎原はどんどん歩いていく。

 あまりに早く歩くのでしがみ付くようにして捕まるしかない。

 そうして良い匂いが漂う部屋にたどり着くとようやく降ろされた。

 そこにはいくつか繋げられたテーブルの上に所狭しと並べられた料理の数々が。そして見知った大勢の組員が座してこちらを見つめている。

 上座に椎原が座ると目線の全てが椎原に集まる。



「今夜は無礼講だ。楽しんでくれ。」

 掲げられた杯を椎原が飲み干し、全員が同じ事をする。譲も慌ててそれに習いお猪口の中身を一気に流し込むと咽て咳き込んでしまった。

 それを微笑ましい笑みで工藤が見守りながらお絞りを差し出す。

「有難う御座います。」

 口元を押さえて礼を言うと一気に座が和んだ。

 それからは本当に無礼講で、こういうものが始めての譲もその様を楽しく眺める。

 といってもテレビで見た事のある馬鹿騒ぎではなく、あくまでもこの上品な場所に相応しい騒ぎ方だった。

「楽しんでいらっしゃいますか?」

 工藤が横に来て水菓子を差し出す。

「はい。こういうの初めてなので楽しいです。あの、宴会っていうんですか?はこんな風なのが普通なんですか?」

 工藤が周りを見渡すと、頷いた。

「ウチでは大体こんな感じです。場所を弁える人間が多いですから。ただ、普通の騒げる所だともっと騒ぐみたいですが。ああ、組合の正月なんかは演歌が熱唱されたりします。」

「・・・津軽海峡雪景色とかですか?」

「・・・それは女性歌手の歌なのですが。」

「じゃあ・・・・与作?」

「・・・かもしれません。」

「もしかして工藤さんも歌うんですか?」

「私は歌った事無いですね。ちなみに会長も歌いません。あそこは接待の場ですから。」

 へえぇ、と頷く譲に工藤は微笑む。

「雅伸さんって演歌よりゴットファーザーのテーマ曲とかが似合いそうですからね。」

「ご存知なんですか?」

「曲だけなら。面白いですか?」

「ええ。私は好きです。譲さんなら『海の上のピアニスト』や『シザー・ハンス』が好きそうだな、と思いますが。」

「うーん。それがですね、僕は映画を最後まで見たことが無いんですよ。全部途中まで。」

「映画館でですか?」

「いいえ。家で。ドキュメンタリー映画とか歴史ものとか色々なんですけど。」

「そうだったんですか。では譲さんは映画鑑賞が趣味だったんですね。」

「そう、なるのでしょうか?あとは彫金。中学の時のクラスメイトで趣味だった人が居て教えてもらったんです。そんなたいしたものは彫れないのですが。」

「彫金、ですか。どんな物を彫るんですか?」

「猿とか不死鳥とか・・・お守りになりそうな物を彫ります。今は雅伸さんに頼まれて毘沙門天を。普賢延命菩薩とか観世音菩薩の方が良かったんですが雅伸さん本当は阿修羅が良いって言ったんです。それで間を取って。でもヤクザなんですし、命を守護してくれるほうが良いと思いませんか?」

 譲にしては珍しく不貞腐れたような顔をしてため息を吐いた。

「私にも彫ってもらえませんか?阿修羅を。」

「工藤さんに?喜んで。でも何で阿修羅何ですか?」

「この世界は戦えなくなったら終わりです。ですから進む事を守護してくれる方が私は嬉しいのですよ。」

 譲は笑顔になった。

「わかりました。雅伸さんのを彫り終えたら作ります。」

 二人で微笑みながら会話していると椎原が譲を呼んだ。

「じゃあ、僕はこれで。」

 譲が椎原の元に移動するのを目を細めて見つめると工藤は立ち上がり、廊下に出る。

 どこかに電話をして手配をすると再び、何も無かったように部屋に戻り宴会を楽しんだ。

 宴もたけなわになり自室に移動すると譲は小さな笑い声を上げながら庭に面した窓を見つめる。

 本館の他に離れが幾つかあるこの旅館で、桜が自慢の離れを借りたのだ。最低限のライトアップだが今日は満月。幻想的な風景がそこにあった。

「綺麗。」

 酔ったのだろうか、ほんのりと赤い頬と潤んだ瞳で桜を見上げる。

「気に入ったか?」

 後ろから抱きしめるように座り譲の顔を覗き込む。

「うん。そういえば、誰にもお客さんと会わないね。」

「ここは貸切が可能なんだ。一番良い日をと思って女将に頼んでおいたからな。」

「そうなんだ。」

 どうやらあまり頭が働いていないらしい。深く物事を考える事が出来ないようだ。それは椎原にとって好都合。

「ああ。また来年も来たいか?」

「うん。皆と一緒に来たい。」

 譲から椎原に凭れ掛り、顔を上げて口付けをねだる。

 深く、ゆっくりとした動作で合わさった唇からはアルコールの匂いがした。

「譲、酔っているのか?」

 小声で囁くように尋ねると譲が笑う。

「酔っていません、よ?」

 酔っていないという人は酔っている。これは常識。

 椎原は笑って譲を抱え上げて敷かれた布団に降ろす。

「服のままでは寝れないから着替えた方がいいぞ?」

 椎原の言葉に譲は頷いて服を脱ぎだした。緩慢な動作で脱ぐ姿は妙に色香を感じさせる。

「譲、そんな脱ぎ方だと誘っているみたいだぞ。」

 笑って脱ぐのを手伝おうと手を伸ばすと譲が「むぅー。」と子どもみたいな声を出した。

「雅伸さんも着替えるんです!」

 逆に椎原の服を脱がそうとするのでそれを笑って見守る。

 ネクタイを外し、上着を脱がして布団の横に置いていく。釦は上手く外せないらしく手間取っていたが何とか全て外した。

「出来た。」

 満足げに微笑んで譲は自分のスラックスを脱いで傍らに置く。そうするとシャツと下着だけの姿になる。

「中々誘う格好をしてくれるな。」

 開いたシャツの隙間から手を差し入れて体の線を辿りながら釦を全て外す。

 仰け反った顎の線を舌で辿りながら残った手を下着の中で入れる。

「はっ。あ、あぁ。」

 気持ち良さそうな声に椎原はゆっくりとした動作で両手を動かす。

 体の力が抜けて布団に横たわると譲は椎原の肩に手を回した。

 額を合わせて微笑みあう。

 肩から背中を辿るその手は既に愛撫のそれで。

 その感触に椎原は目を細めて譲を見ながら自分の手も本格的に動かす。

 自然と開かれる脚の間に体を入れて下着を脚から抜く。自分もスラックスを脱いで生まれたままの姿になると再び譲に覆い被さって全身にキスをする。

 顔、肩、胸、腹、脚。

 特に怪我をした脚は念入りに舌を絡める。

 譲は殆ど声を漏らさない。

 ただ吐息が部屋に広がるだけなのだが、そこがまた椎原にとっては堪らないのだ。

「譲、譲。愛している。」

 脚に愛撫を施しながら誓うように言うと頬に手が触れる感触がした。

「僕も、愛しています。」

 少しずつ顔を近付けて暫く互いを見つめ、唇を合わせる。舌は絡めず、合わせるだけ。

 唇を離すと譲がゆっくりとした動作で、だが自然な事だと思わせる動作で脚を開いた。

 目線を合わせると譲が微笑んでいる。

 椎原の手を両手で掴んで指を口の中に含んでたっぷりと濡らす。人差し指、中指と口に含んで行き上下させて椎原の欲情を益々煽る。もう十分濡れた頃指を抜き、何も言わずキスをしながら奥に指を伸ばす。

 人差し指を入れるとき、譲の眉が寄ったが何も言わない。逆に目線で微笑んでくれる。

 大丈夫、だと。

 体は少し緊張しているのか硬かったが、出来るだけ力を抜こうとするその健気さが愛おしい。

 指で奥を探る。慎重に、だが確実に。

 譲の体が跳ねた。

 口元を押さえているので声は漏れなかったが吐息が一段と甘くなっている。

 予想がついた場所をもう一度辿るとまた体が跳ねる。

「ここ、か?」

 譲が目を閉じたまま頷く。

 指を増やしてなぞると譲が小さな声を上げる。

「雅伸、さん。もう・・・来て。」

 甘える声に今まで堪えていたものが溶けるのを感じた。

 深く絡めるキスをして譲の意識をそちらに向かわせながらそこの自分のものを充てて。

 一気に奥まで貫いた。

「んっ!んんんんっ。」

 目が限界まで見開かれ衝撃を受けている事が分かる。

 眉間に皺が寄り、汗が出ていた。胸は大きく上下して心臓は大きな音を立てて鳴っている。

 椎原は唇を外して顔中にキスをして落ち着くのを待つ。

 やがて心臓の音はそのままでも眉間の皺は和らいで譲は微笑んだ。

「大丈夫か?」

「大丈夫、です。雅伸さんは?」

「ん?大丈夫だ。」

「気持ち、いい?」

 椎原は目を細めると頬にキスをする。

「ああ、今直ぐにでも持って行かれそうな位だ。そうなったら男としてみっともないから、動いてもいいか?」

 笑いを含ませた言葉に譲は小さく笑って頷いた。

 実際、このままでも十分達く事は出来そうな感触だったが譲を気遣いながらゆっくりと動き出す。

 背中に添えられた手が僅かに強く充てられる。

 段々と強く上下に動かし右手で譲のそれに触れて手を上下に動かす。

 激しく動かすと背中に爪が立てれた。それが妙に嬉しくて更に激しく揺する。

 吐息は甘く、唇は赤い。顔は苦悩と官能を感じさせる表情をしており、その表情だけでも達けるな、と椎原は思った。

「ま、さの、ぶ、さん。もうっ。」

 甘さが滴る声で言われて思わず中に迸らせてしまった。それと同時に譲も達ったらしい。

 互いに荒い息のまま唇を重ねる。

 自分のペースを最後まで維持できなかった事が心残りだが、それ以上に充足感があり自然と笑みが浮かぶ。

 息が落ち着いて来たのを見計らって自分のモノを抜く。

「んっ。」

 小さく漏れた声に再び挑みたい気持ちに駆られたが、かろうじて我慢をする。

「譲、風呂に行こう。」

 目線で問われたのでキスを落として答える。

「中に出してしまったからな。出さないと。」

 譲は一瞬考えた後ほんのりと頬を染めて上半身を起こしてから立ち上がろうとした。

 それを腕で制する。

「だって、綺麗にしないと。」

「自分でするつもりか?」

 頷く譲に椎原は問答無用で抱え上げて備え付けの半露天風呂になっている風呂場に行き、抱えたまま床に座った。



 そうして片足だけ自分を跨がせた状態にさせて中を掻き出し綺麗にした後はボディーソープで全身を洗い、髪も洗った。

 始めは恥ずかしがって嫌がっていた譲も段々と笑いながら互いに洗い合った。

 譲の指でマッサージするように洗われる髪は気持ちよく、幸せな気分にさせてくれる。

「髪を洗うのが上手いな。」

 褒めると嬉しそうに笑って更に丁寧に洗ってくれた。

 目に入らない様に配慮されながら流し終えると、ざっと体に湯を掛けて湯船に浸かる。

 膝に抱えたままだが、今度は背中を凭れさせる格好を取る。譲が椎原を振り向き首を傾げた。

「どうした?」

「雅伸さんはいつも僕を抱えますけど、重くないですか?」

「お前は軽いからな。」

 笑って言うと、複雑そうな顔をする。

「それは・・・嬉しいような、悲しいような。」

「太れない体質なのか?」

「かも、しれません。」

 椎原の腕を持って繁々と見つめる。

「どうしたら雅伸さんみたいになれますか?」

 筋肉質な体になりたいらしい。

「体質だろう。一応週に三日ジムに通っているが。」

「それ、僕も入りたいです。」

 妙に真剣な目で頼むので笑いを堪えて頷く。

「わかった手続きはしておく。そこは温水プールになっているから問題ないだろう。」

 怪我のせいで初めて会ったときより更に痩せてしまったのを気にしているのを知っているので元々勧めようと思っていたのだ。

「ありがとう。」

「ただし、無理をしない事。脚が痛むようならすぐに止める事が条件だ。」

「はい。」

 飲酒後運動をしての入浴は好ましくないのですぐにあがる事にした。

 椎原は甲斐甲斐しく譲の世話をする。

 体を拭いて浴衣を着せる。さすがに下着は嫌がられたので諦めたが。

「そういえば。」

「ん?」

 庭に面した場所に座布団を置き、再び譲を横抱きにして桜を眺めながら髪を梳いていると思い出したように椎原に凭れかかっていた体を起こして顔を合わせる。

「何も言われていなかったから着替えも何も持ってきていないのに・・・・下着は新しいものがありましたよね?」

「ああ、用意させていたからな。明日の着替えもあるから心配するな。」

「じゃあ、今日の服を仕舞わないと。」

「鞄は工藤が持っている。」

「え・・・・じゃあ、朝取ってこないと。」

「部下が片付けるから問題ないだろう。」

「・・・・それはちょっと。」

 自分の脱いだ服や下着を人に片付けさせる事が出来るほど譲の心臓は強くなかった。

「そうか?」

「自分でしたいです。」

 真剣に頼み込む譲に椎原は笑って了承した。





 膝の上で寝入った譲を使用していない方の布団に寝かしつけると離れから本館の方へと歩く。途中、警護をしている部下を見つけて工藤を呼び出させる。

 程なくして浴衣姿の工藤が現れた。

「部屋にシアタールームを作るように手配したのですが宜しかったでしょうか?」

「譲が好きなのか?」

「のようです。」

 椎原は頷いてから煙草を咥える。工藤が火を付け、紫煙を吐き出してから思い出し笑いをした。

「会長?」

「譲の奴、人に自分の服の片付けをさせるのが嫌なんだと。」

「では朝方鞄をお持ちしましょう。」

「・・・・・俺はこのままが良いが、そうはいかないだろうなぁ。」

 籠の鳥のままでは譲が窒息してしまうような気がするのだ。

「譲さんの彫金の腕はどれ程ですか?」

「まあ、普通に売っているものと変わらない。が、あいつの作るものは魂が籠っている。」

「では、それを委託でどこかの店に卸すというのを提案されてはいかがでしょうか。」

 椎原は黙っていたが、工藤の差し出した携帯灰皿に煙草を捻じ込んで眉間に皺を寄せて暫く逡巡していたが、重々しく頷く。

「お前からそう提案してくれ。」

「わかりました。」

「それとあちらの動きはどうだ?」

 譲にここの桜を見せたかったのは本当だが、対抗している組織に動きがありそれを誘い出すために事務所を留守にする必要があったのだ。

 情夫の為の旅行という名目なら相手も油断して動くだろうと。

「まだありません。」

「なら此処にあと二、三日滞在するか。」

 一見静かだがこの旅館、離れの周りには十数人の警護を置いている。

「さて、俺はもう一眠りする。お前も今日は寝ろ。」

 離れに戻る椎原を見送りながら工藤は自分の携帯を見つめた。





 結局滞在した日数は四日間。その間譲は温泉に浸かり、豪華で美味しい料理を満喫してご満悦だった。

「ありがとうございました。またのご滞在をお待ちしております。」

 清楚な印象を与える女将に見送られて旅館を後にする。

「でも、こんなに滞在して大丈夫だったんですか?」

 首を傾げる譲に椎原は笑った。

「ああ。滞在している間に色々とゴタゴタしていたことが一気に片付いたようだ。暫くは平穏だろう。」

 意味深な言葉に譲は何も問わない。椎原が組の裏側の事にあまり関わって欲しくないと思っている事を知っているからだ。だから、今話した事はうっかり漏れた事だと思う事にする。

「そうですか。皆さんに危険が無いなら何よりです。」

 この数日間で直接譲を知らない組の人間も譲の人間性に触れて安心していた。男だという事を気にする事無く椎原の大事な人として再認識を強めている。

「そうか。」

 ご機嫌な椎原に譲が微笑む。

 甘い雰囲気を醸し出す二人に運転席と助手席の二人は少し辛い思いをしたが、それは仕方ない事と諦めるしかない。

 世界は二人のためにと言う言葉が似合う雰囲気は旅行前より益々濃いものになっていた。





 マンションに戻った譲が、空室になっていたはずの部屋がシアタールームに様変わりしていることに驚くのはまた別の話。





 おわり





目次へ
1   inserted by FC2 system