幸せは人それぞれ「あめゆじゆとてちてけんじや。」 突然発せられた言葉に宇治は振り向いて、微笑む。 譲の手には本があったからだ。 「宮沢賢治ですか。」 「うん。」 見ている先はつららの下がった屋根。 山深い湯治先で譲は窓越しにそれを、本を片手にずっと見ていたのだ。 「せっかく岩手に来たんだから花巻にも行きたいけど・・・。」 自分の足を見下ろして苦笑してみせる。 「これじゃあ、無理ですね。」 雪がクッションとなってはいたが、二階から飛び降り、不自由な足で雪山の中を着物一枚で歩き回った譲はやはりというべきか当然と言うべきか、足をかなり悪くしていた。 「そうですね。今回はおとなしく湯治に専念してください。」 「宇治さんは退屈でしょう?僕は今日はもう昼寝をしますから、どこか出かけられてはどうですか?」 「いえ、・・・・・・・では、この周りを散策してきてもよろしいでしょうか?」 断りかけた宇治だったが、譲が申し訳なさそうな顔をしたので言葉を切り替えると優しい笑みを浮かべて頷かれる。 「もちろん。行ってらっしゃい。」 抱えて布団に連れて行き、水差しを枕元に用意してから宇治は部屋を後にした。 仕事をしている仲居を呼び止めて良い散策先を訪ねると一般の者でも通りやすい道と土産物屋のとおりを教えられる。 「もう一人の方は今、休まれているので何かあったらお願いします。」 「はい、わかりました。」 鄙びた旅館の仲居は躾けられてはいるが、冷たい感じがまったくせず、譲はこの旅館の雰囲気を気に入っていた。 宇治は一礼してから外へと出る。 雪深い季節、丁度観光客や湯治客が来ない時間なのだろう。 人が閑散とした中コート姿の宇治は目立つ。 とりあえず本屋を探して譲が好みそうな本を数冊購入してから近くにあった古本屋まで足を運ぶ。 古い紙の匂いがする古本屋には誰もいない。 ゆっくりと本のタイトルを斜めに見ながらみていると、奥に座っている商売気の無さそうな店主と目が合った。 「いらっしゃい。」 「宮沢賢治の本はありますか。」 観光客だとまる分かりな宇治に店主は標準語で言葉をかける。 「ああ、大体揃っているよ。何を?」 「あまり有名でない話が載っているものと、銀河鉄道の夜を。」 店主は重い腰を上げて狭い店内を歩きながら本を抜き取っていく。 狭いと言っても天井までびっしりと詰まっているのだ。 冊数は膨大だろう。 だが店主はどこに何があるのかきちんと把握しているらしく、足に迷いがない。 「こんなものだな。」 会計用のテーブルに置かれたのは古びた本ばかり。 裏をめくると昭和のはじめに発行された本だった。 もちろん平成になってから発行されたものもあったが、宇治は古い方を手に取る。 十数冊の中から数冊見繕って会計を、と言うと店主は頷いて値段を言う。 古い本は価値がある。 だが思っていたより高い値段ではなかったそれに言う事などなく札入れから紙幣を取り出して支払うと釣銭を差し出されるが、宇治はそれを断り本を持つ。 「湯治かい?」 「私では無く主人が。足を悪くしたので。」 店主はああ、と頷く。 「ここの湯は怪我に良いからなぁ。」 わずかに笑って頷き店主はカウンターの下から2枚一組の煎餅を2つ取り出して渡した。 「茶の時にでも食べるといい。」 煎餅の袋を見つめた後宇治は笑って受け取る。 「ありがとうございます。」 店を出てからお茶受け用の菓子を選び、土産物屋で珍しいものを探す。 譲が好みそうなものを。 譲が喜びそうなものを。 すべて日常的にしている事だが、ここでは譲と宇治の二人きり。 時々木戸か荒川が様子見に来るが、ここを訪れてから5日。 そのほとんどを二人ですごしている。 勿論、マンションにいる時も宇治と譲は二人の時は多いが、ここで宇治は充足感を感じていた。 椎原は尊敬する相手だが、それでも、というところだろう。 泡沫の夢のようだと理解していても幸せだと感じてしまうのだ。 たとえこれが椎原から譲への罰としての湯治だとしても。 翠の匂い袋を見つけて見つめていると、店の者から声をかけられる。 「いかがですか?」 「ああ。」 しばらく見つめた後、それを購入して、増えてきた観光客達とは逆方向へと歩いた。 旅館にたどり着くと譲はすでに起きており、本を読んでいる。 「お帰りなさい。」 「ただいまかえりました。」 優しい笑顔に出迎えられて宇治は自然と笑みを作ってお茶の準備を始めた。 お茶ともらった煎餅を出すと思いのほか美味しい物で譲の顔が綻ぶ。 「このお煎餅おいしいですね。」 「本を購入した際にいただいたのです。」 買ってきた本を差し出すと譲の顔が輝く。 「わ、ありがとうございます。」 早速読み出す譲の邪魔にならない様に買ってきたものの片づけをする。 ふと、買ってしまった匂い袋を手に取り、それを譲には渡さずに、譲の着物を包んでいる畳紙に入れた。 補足:一番初めの台詞は宮沢賢治の詩集、春と修羅の「永訣の朝」より。宮沢賢治の妹が今際の際に宮沢賢治に言った台詞です。とても素敵で悲しい詩なので機会があれば一度読んでみてはいかがでしょうか。・・・・正しくは「あめゆじゆとてちてけんじや」でした。訂正前に読まれた方すみません。 ちなみに、譲はこんな風に自分が何かあったとき椎原の事を思いやる事ができるだろうかと想いながらつぶやいていますが、宇治はそれを知りつつ詩集を読んでつぶやいたのだと無理やり解釈して会話しています。報われない宇治さんですが、彼は彼なりに幸せなのです。 創作目次へ |