『楓』







 緑豊な離れの庭はその住人達の気持ちと心境と人格とは裏腹にとても美しい。

 一般庶民が所有するには維持費が掛かりすぎる庭と離れは既に芸術品の域だ。

 そんな美しい庭を障子をあけて見るのは籠の鳥。

 緑の色が目に鮮やかな楓を虚ろな目で見上げている。

 暑い空気と涼しげな景色とは裏腹だ。

 紬を纏ったその姿は周りの風景と相まって絵になるものだったが、本人のあまりの希薄な雰囲気の為に儚い雰囲気が漂う。

 銅製の風鈴が鳴っても、木々が囀っても、本家の家政婦が離れの掃除に来ても身動きすらしない。

 朝から掃除、食事の世話と来ていた家政婦は傍らに置かれた全く手のつけられていない食事に溜息を吐く。

「・・・譲さん、せめて一口でも召し上がってくださいな。」

 本家の人間が連れてきた人間でも、その立場は囲われものに限りなく近い譲なので嫌う人も多いがこの家政婦は譲に哀れみを感じていた。

 柱にもたれるようにして、顔だけは庭に向けている譲はその言葉が耳に入っていないようで、相変わらず虚ろな瞳で虚空を眺めている。

「譲さん。」

 肩を揺さぶると漸く正気に返ったのか、義務的な笑みを浮かべてそちらを見た。

「え、はい。なんでしょうか。」

 誰にでも丁寧な口調で話すのはそれが譲に出来る唯一の防御だから。

「お食事、朝も昼も食べられていないのですからせめてこれだけでも召し上がってください。」

 昼食の盆を下げて家政婦は野菜ゼリーと葛きりを譲に指し示す。

 譲はそれを黙ってみてから口元を緩ませる。

「そうですね、食べないと・・・・約束ですから。」

「約束?」

「ええ。“何があっても、どんな事があっても生きていろ。食べていれば生きれるからそれだけでもいい。そうしたらいつか絶対にまたみつけてやるから。”って。」

 口調からして男性だろうと検討がついたが、家政婦にはそんな事より食べる気になった譲の気持ちのほうが嬉しかった。

「そう。じゃあ、食べないと。」

「はい。」

 動くと鎖骨と首の中間にあたる部分に走った線がまだ生々しい。

 やっと瘡蓋が取れた所だが、始めにそれをみつけた家政婦はその時の状況を思い出して傷跡から目を逸らす。

 野太く情けない複数の声に不審を感じながら駆けつけてみるとこの離れの一室で数人の男達に囲まれ大型犬が控えていた。

 その中心に浅い切り傷と血と白濁した液に全身を塗れさせながら首元から大量の血を流す譲が虚ろな目をして天井を見上げていた。

 江上と男達は逃げた。

 男達はその場から。

 江上は日本から。

 それが一ヶ月前の事。

 江上のナイフで刺した傷は深かったが、幸い服に隠れる位置だったので気付かれることは無い。

 知るのはこの家政婦と当事者、そしてこの家のかかりつけの医師だけだ。

 江上が日本に居ない為に譲が出掛けても誰も咎めないので時々散歩に行く以外はこの離れでこうして虚ろな目をして庭を眺めているだけなのだが、この頃その時間が減っている。

 きっと散歩に行った際に誰かにあったのだろうと家政婦は思った。

「また、会えるといいねぇ。」

 零れそうになる涙を隠しながら微笑むと譲も笑う。

「そうですね。でも・・・・・あれ、どんな人だったかな・・・・。僕は・・・あの人と何処であったんだろう?」

 一人ごとの様にいいながらも何とか食べ物を食べようとする譲を家政婦は俯いて泣きながら震える声で言った。

「忘れていても、きっと、また会えるわよ。」

「・・・そうでしょうか・・・。」

 その言葉に励まされるかのように緑の庭を見つめ続けながら譲は呟く。

「ええ。だって、譲君はこんなにいい子なんだから。」

 まだ幼いといっても過言では無い痩躯を思わず抱き締めて家政婦は「こんなにいい子なんだから・・・・。」と言って涙を流し続けた。





「何を見ている?」

 工藤が椎原に問うと椎原が笑いながら目の前の楓を顎で示す。

「あれだ。」

 工藤は納得した顔で頷く。

「ああ、あの子か。」

 安物のスーツに身を包んだ二人は今、自分達が所属している組長の護衛で料亭に居る。

 老舗の料亭なだけあって見事な庭だが、二人には目の前にある楓しか目に映らない。

「いつか見つけると約束したからな。」

 一枚摘むとそれを月夜に透かす。

「だが向こうは覚えていないかもしれないぞ。」

 工藤のからかう声に椎原は笑う。

「当然だ。俺が忘れる様に言ったのだからな。」

 彷徨う様に歩いていた少年を見つけたのは中天差し掛かる真夏の公園。

 楓の下で熱中症にかかる寸前だったその子を二人は介抱したのだ。

 やせ細った体と鎖骨の辺りにある血の滲み出した傷口に眉をしかめたが、それ以上に生きる気力の無い少年に椎原は自分でも分からないうちに生きるようにと強く言っていた。

 今の自分の立場を考えればいつ死んでも可笑しくない立場なのにと内心自らを嘲笑しながら、それでも強く言い聞かせ、頷かせていた。

 虚ろな眼差しに少しずつ正気が戻り、自分を映し出したときによぎったものを把握出来ない程椎原は愚かではない。だからこそ。

「だが、お前が前向きになってくれてよかったよ。」

 夏の夜に相応しい落ち着いた声の工藤にふと、正気に返って椎原は笑う。

「なにがだ。」

「この頃のお前は自棄になっている所があったからな。そんなお前と心中なんざ御免だ。だが、いい目をしている。あの子のお陰かな?椎原幹部補佐殿?」

 からかいの混じった声だが、長年の付き合いの仲。案じていることくらい直ぐに分かる。

「悪かったな。」

「いや、いい。で、どうするんだ。乗るのか?」

 椎原は暫く考えた後口元に凶悪な笑みを刷く。

「そうだな。・・・・・・乗る。そうしないとあの子を探せないだろう?」

「まあ、そうだろうな。今のままじゃ死んでいくだけだ。どうせその道しか無かったことだ。どうせなら佐々木も引っ張り込もう。あいつはそういうのが好きだからな。」

「ああ。頼りにしているぞ。」

「どうせ一蓮托生の仲だ。まかせろ。」

 互いに笑いあって真夏の夜は更けていく。



 瑞樹に協力して自らの組を立ち上げるのはそれから数ヵ月後の事。



 そして、譲と出会うことが出来るのは更に7年後になる。  





  終わり





「蛍〜」で出ていた覚えていない出会い。現時点では、譲が自殺未遂した数日後に出会っていたことを譲だけが覚えていません。時期的には『月』の瑞樹たちが復讐を開始する三ヶ月〜半年前といったところです。
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