かげろう








 かげろう


@ 光がほのめく。ひらめく。ちらちらする。
「時雨ゆく雲間に弱き冬の日の−・ひあへず暮るる空かな/風雅(冬)」

A 姿や幻がちらつく。「ただ今の御姿、まぼろしに―・へば/保元(下・古活字本)」

B 陰になる。日がかげる。「よられつる野もせの草の―・ひて/新古今(夏)」






 携帯の電話がなったのはキスをしている最中だった。

 事に及ぶ寸前のキスだったので、どちらの電話か分からないまま二人揃って無視を決め込んでいたのだが留守電にするのを忘れていた為に何時までも鳴っている。

 それでも無視して啓一は江木の腰に脚を絡め、より深いキスをせがんで快楽の淵へと誘ったのだが、無粋な電子音は止むこと無く二人を現実へと繋ぎとめた。

「・・・・・。」

「・・・・・。」

 互いに顔を見合わせて無視しようと促したのだが。

「・・・・・ったく!」

 いつまで経っても鳴り止まない電子音に腹が立って腰掛けていたベッドから立ち上がったのは啓一だった。

「俺の?それとも隆之さんの?」

 眉間に深い皺を作り苛立つ恋人に苦笑した江木もベッドから降りて、裸のままクローゼットに向かい自分の携帯をスーツから出して見せる。

「私のでは無いようだが?」

「じゃあ、俺のか・・・・まったく、こんな時間に誰が電話して来たんだよ。くだらない用事だったら唯じゃおかないからな!」

 啓一は仕方なく傍に置いておいたバスローブを纏って自分のジャケットから携帯を取り出して着信元を確認した。

 が、知っている番号では無いので無視して切ったのだが。

 再び携帯は鳴り出して、煩く催促する。

 江木を見ると苦笑しながら電話に出るように促したので舌打ちして電話に出た。

「はい。」

 自分でも物凄く不機嫌な声だと思うほどの声だ。

 まあ、当然である。

 誰だって欲望を抱えて、恋人との逢瀬を、しかも本番寸前を邪魔されたら不機嫌にもなるというもの。

 だが電話の主は淡々とした低い声で話しかけてきた。

『三枝啓一さんですか?○○警察署です。』

「ええ、そうですけど警察が私に何か?」

 いきなり名前かよ、と心の中で毒吐きながら、それでも仕事仕様で答えてしまうのは接客業の性か。

『賀川みやこさんをご存知ですか?』

「・・・姉です。」

 疑問を感じながら答えると、相手が溜息を吐くのがわかった。

 目線を動かすと江木が眉を顰めて心配そうに此方を見ている。

『今から○○警察署まで来て貰えないでしょうか?ご本人かどうか確認して頂きたいものですから。』

「何をですか?」

 啓一は自分の背中に嫌な汗が流れるのを感じた。

『二日前、ホテルの部屋で女性の死体が発見されました。ご本人かどうか遺体確認をして頂きたいのです。』

 その言葉に啓一は顔を引き攣らせる。

「・・・・・・・え?今、何て・・・・。」

 呆然とした啓一の声に電話の相手は淡々とした声で答えた。

『ホテルの一室で清掃員が部屋の掃除の為に入ったところ、女性が死亡していました。身元確認が必要ですので○○警察署に来て頂きたい。』

 啓一は携帯を床に落とした。





 動揺が激しく混乱に陥っている啓一を抱えて江木が警察署に到着したのはそれから30分後の事だった。

 何が何だか分かっていない啓一を支えながら江木は霊安室の場所を聞いてから向かう。

 そうして警察署の中でも静まり返った場所に入り、立会いの下シーツが捲られる。

「っつ!!!!!!!」

 啓一の平均より若干大きめな猫目の瞳が限界まで開かれて目元が小さな痙攣を起こす。

 手を強く握り締めた為に爪が食い込み血が流れ、噛み締めた唇からも流れ出し無機質的な床に赤い染みを作った。

「みやこ・・・みやこ、みやこっ・・・。」

 江木は啓一の肩を抱いて痛ましげに見遣る。

 だが、そんな気遣いも今の啓一には届かない。

 強く握りすぎて白くなった手を僅かに開いてみやこの頬に手を当てる。

 氷よりも冷たい頬から顎、首、むき出しになった肩に触れた。

「みやこ・・・冷たいよ。」

 いつも明るく笑っていた瞳と口元は閉じられ、化粧の気配すらない顔は血の気が無い。

「元々冷え性でとても寒がりだったのに、こんなに冷たくては寒くて仕方無いだろう?」

 語り掛けながら一週間前に美容室に行って新しい髪形に変えた髪を撫でる。

 首元にははっきりと線状の痣がどす黒い色で付いており、その線を辿って僅かに動かした項にも同じものがあった。

「刑事さん。」

 みやこの髪を撫でながら後ろに控えている人間に声を掛ける。

「はい。」

「姉は殺されたのですね?」

「検死の結果そうだと断定されました。」

 淡々とした声に、電話してきた人物がこの人だと理解できた。

「・・・・・・・・・・そう、ですか。」

 啓一は俯いてみやこの頬を数度なぞってその存在を確かめる。

「失礼ですが、賀川みやこさんはお母様は既に他界され他に親族は居ない天涯孤独の身のはずですが、貴方が賀川さんを連れて帰るのですか?」

 問いに今まで動揺していた筈の啓一は顔を上げてはっきりと答えた。

「俺はみやこの弟です。異母姉弟で、母親同士も仲が良かった。俺も母を亡くしていますから、証明が必要ならDNA鑑定でもしてください。」

 言い放った啓一にその人は首を振る。

「賀川さんは書類上は天涯孤独です。連れて帰る人が居るのなら問題ありません。」

「では貴方の自宅に連れ帰るのですか?よろしければ業者を紹介しましょうか。」

 その言葉に江木が口を開いたが、先に啓一が答えた。

「それには及びません。友人がそういう関係に詳しいので段取りが決まってから連れて帰ります。」

 一応礼儀として頭を下げてからいったん警察署の外に出る。

 付いて行こうとする江木を手で制してから、携帯を開いてメモリの2番を押して通話回線を開いた。

「あ、泰彦?こんな時間に悪い。葬儀屋でいい所を今すぐ紹介してくれ。・・・・・うん、そう。・・・・今は○○警察署に居る。」

 いくつか言われた後啓一は頷く。

「わかった。有難う。じゃあ、後でまた。」

 電話を切ってから再び署内に戻って刑事に向き直る。

「30分後位に来てくれるそうですから。」

 表情を消した顔で告げる啓一に刑事は頷いた。

「わかりました。」

「それとこれは俺の名刺です。」

 裏返してから手早く自分の携帯番号を書き込む。

「何かあったら連絡してください。」

 刑事はそれを受け取り、一礼してから去っていった。

「隆之さんも、もう帰っていいよ。俺は大丈夫だから。」

「いや、傍に居るよ。恋人がこんな時に傍にいないなんて私が耐えられない。」

 肩を抱く江木に啓一は無理をして微笑む。

「本当に大丈夫だから。葬儀の会場と日程がわかったら連絡するから今は帰って。明日も仕事でしょう?」

「だが・・・。」

「いくらこんな時でも社長であるあなたを休ませるなんて俺が許せないんだよ。」

 渋る態度に硬い声で告げると江木もようやく頷く。

「わかった。ただし小さな事でもきちんと連絡してくれ。私もみやこさんには世話になったのだから出来るだけ手伝いたい。」

 暖かく啓一を想いやる態度に泣き笑いのような顔でも自然と笑みが零れる。

「うん。有難う。困ったら絶対に電話するから。」

 江木の背中を押して外に押し出すと、その時ちょうどタクシーが目の前を走っていたので停めて無理やり乗せた。

「じゃあ、連絡するからちゃんと寝てよ。」

「わかった。啓一も・・・・難しいだろうけどきちんと食事と睡眠を摂るように。」

「うん。おやすみなさい。」

 言ってからタクシーに手で行くように促してドアを閉める。

 見送ってから再び署内に戻り、みやこの元へと戻っていく。

 何をするでも無く暗い部屋の中で姉であったその人を見続けた。





 葬儀社の車と社員、そして啓一の友人である高居泰彦が来たのはきっちり30分後だった。

「啓一。」

 小さな声を掛けられて振り向けば、泰彦が痛たましげな表情を啓一に向けてみつめている。

「泰彦、明日仕事だろう?締切りがとか言っていたじゃないか。」

「俺はお飾りの社長だからいいんだよ。」

 若くして莫大な財産を相続しマンションやビル等も持っている泰彦は働かなくて良いのだが、一応店舗経営もしているのだ。

「そうか。・・・有難う。」

「お前も疲れただろう、雑事は引き受けるから少しでも休んだほうがいい。通夜が始まれば寝る暇なんて無いからな。」

 肩を叩かれて促されながら署内を出る。

 泰彦の車はいかにも、なポルシェの車だったのに違う車が警察署の駐車場に鎮座していた。

「車、変えたのか?」

「まあな。」

 笑って助手席を開けて仰々しい仕草で促しつつ啓一を見る。

「どうぞ、美しい方?」

 啓一は泰彦がそういったジョークを好むのを知っていたし、そういう時は笑って乗ってやるのだが生憎今日はそんな気にはなれない。

「悪い。」

 一言で済ます啓一に泰彦は片方の眉を上げるだけで済ませて、自分も運転席に乗り込んで車を発進させる。

 安全運転で目的地に向かいながら、赤信号の時には啓一の様子を目線だけ遣って観察していたのだが、それすら啓一は気づかない。

「なあ、啓一。」

 目的地に着いて車を停めてから、泰彦は啓一の腕を掴む。

「なんだ。」

「無理はするな。俺は自由業で時間に自由が利くんだから頼っていい。だからそんな顔は・・・・するなという方が無理だが、何かあったら何でも協力するから絶対にお前一人で突っ走るんじゃないぞ。」

 泰彦の瞳は真剣で、頷くまで絶対に腕を放さないと語っていた。

 啓一は暫く黙って泰彦を見つめた後、溜息と吐いて頷く。

「・・・わかった。」

「じゃあ、俺の方からも調べておく。」

「有難う。」

「いや。俺もみやこさんにはお世話になったし、当然の事だ。雑事は任せろ。」

 頭を軽く撫でてから車から降りるように促す。

「一応、今日は通夜で明日が葬式という事にしてある。会場は此処。香典返しの品やその他全て決めてしまったが、希望があるなら言ってくれ。」

 細かい事を話しながら中に入る。

「まずはこっちが先だな。」

 頭を下げるスタッフに手で返しながら控え室となっている場所に二人で入って啓一に喪服を押し付けた。

「急いで手配させたから吊るしだが、我慢しろ。」

 啓一がそれを受け取ると泰彦も手早く同じく用意したのだろう喪服に着替えていく。

 二人が沈黙の中淡々とそれに着替える様は禁欲的でありながら妙にそっち系の人間がみればそそるものだったが、生憎と其処に居るのは泰彦と啓一のみだったのでその場面は誰にも見られる事無く終了した。

「連絡が必要な人間は分かるか?」

「隆之さんと・・・みやこの会社の人。みやこの友達は一人知っているからその人に連絡すれば後は大丈夫だと思う。」

「そうか。じゃあ、俺が連絡してやるから貸しな。」

「あ、でもみやこの会社の番号知らないし、上司の番号なんて・・・。」

「俺を誰だと思っている。みやこさんの友人のと江木さんの番号さえ分かれば後は問題ない。」

 啓一は黙って自分の携帯を差し出す。

 それを受け取った泰彦は手早く番号を確認してから携帯を啓一に戻した。

「お前はみやこさんの前に座っているといい。俺が手伝ってやるから。」

 肩に手を置いて、二人で部屋を出てから啓一を棺の前に座らせて泰彦自身は廊下に出る。

 手早く連絡を取り、食事やその他の手配をしながら友人の一人である相川小鉄に電話を掛けた。

 長いコールの間に指示を終えてしまった泰彦は控え室に戻り電話の主が出るのを待つ。

『はい。相川です。』

「久しぶりだな。高居だ。」

『ああ、高居か。何だ飲むのか?』

 泰彦と相川は飲み友達と言っても過言ではなかったので相川の発言はいつものものだった。

「いや、違う。依頼をしたい。」

『それなら事務所を通してくれ。俺はしがないサラリーマンだからな。』

「優秀な探偵殿に依頼なんだけどな。」

 電話の向こうから相川が笑う声がする。

『どうしたんだよ。何かノリが無いぞ。』

「啓一の姉さんが死んだ。」

 泰彦の一言に相川の雰囲気が変わった。

『啓一は一人だろう?しかもお袋さんも死んでるし。』

「正確には異母姉弟で、二人とも婚外子だから書類上の繋がりは無い。だが、互いの親が知り合いだった事もあって仲は良かったんだ。」

『そっか。と言う事は正真正銘啓一は天涯孤独になってしまったと言う事か。』

「正しくは父親に該当する人物がいるだろうが、婚外子だから関係無い。そしてその姉さんの死はどうみても他殺なんだ。なのに警察が動いていない。それに新聞に死亡通知欄があるだろう?あれに掲載されていないんだ。」

『なんだそれは。』

「今は茫然自失していて我を失っているが、啓一もその事にいずれ気が付く。だがこういう事は早いほうがいいだろう?」

『まあ、そうだな。それでそのお姉さんの名前は?』

「賀川みやこ26歳。一条家関連ホテルを統括する本社のOLだった。死んだ場所はホテルと言っていたが、おそらくラブホテルだろう。写真は明後日にはメールで送る。」

 僅かな沈黙の後、相川が了承の返事を遣す。

『わかった。調べておく。また電話するが、メールと電話、どちらの方がいい?』

「メールだな。啓一が調べないと言うなら調査はその場で止めるから。」

『まあ、これは当事者が決める事だし、調べた結果知らなくてもいい事まで分かるかもしれないからな。』

「ああ。」

 恐らくはみやこの、啓一の知らない顔が出てくるだろうと泰彦は思った。

『じゃあ、ある程度の事がわかったらメールするわ。』

「頼む、じゃあ、今日は通夜だからこれで。」

 通話を終了させて泰彦は真夜中の、車が出入りする門を見つめた。





 溜息をついて室内に戻ってから啓一の元へ行くと、唯黙ってみやこの顔を見つめている。

「先週会った時は元気だったんだ。」

 小さな声に泰彦はそうか、と言う。

「美容室に、一緒に行ったんだ。一人で行くのは嫌だとみやこが言うから。」

 訪問者が誰も居ない広いホールに啓一の声が響く。

「新しい髪型にして、色も変えたから時間が掛かって。俺は2時間は待合室で待ったんだ。文句を言った俺にみやこは笑って謝って、その後一緒にイタリアンを食べて。みやこは食べ過ぎたと言っていたのにケーキを注文して持って帰ったんだ。」

 息を吸う音の後、啓一の喪服に染みが出来る。

「映画を観る約束をしていたのに美容室で時間が掛かりすぎて結局観れなかったから、また来週にしようって。笑って言って・・・。」

 俯いた為に項が露になり、それが哀れを誘った。

 その震える肩に手を置いて唯傍らに立つ。

「みやこ、来週って言ったんだ。来週は一日休みだから映画を観て、デートしようって。」

 泰彦は数度あったきりだったが、豊満な体で明るく笑う姐御体質の女性を思いだした。

「来週って、今日なんだよ。今日の朝九時カフェで待ち合わせをしていたんだ。映画館に行って、観終えたらお昼を食べてもう一本観るか買い物するかはその場で決めようって言ったのに・・・・。」

 嗚咽が聞こえ始め、その肩を抱える。

 肩に置かれた泰彦の手を啓一が握った。

 その力はとても弱いもので。

 重ねられた手の上に泰彦は反対側の手を置いて強く握らせる。

「そうか。」

「なのに、なのに・・・・どうして。」

 泰彦は正面に回り、啓一の体を抱きしめた。

 何も言わず、ただ、抱きしめる。

「うっ・・・みやこ・・・・。」

 スーツの片側が濡れるのを感じながら泰彦はただ啓一の中で何かが消化出来ればいいと只管に願った。

 一時間ほどそうしていると、泣きつかれた啓一はどうやら眠ってしまったようで。

「相変わらず子どもみたいだな。」

 呟いてから啓一を抱えて控え室に連れて行く。

 指示しておいた通り、もう一つの和室になっている控え室には座布団数枚と毛布がいつでも寝られる状態にされていた。

 其処に啓一を寝かしてから再びみやこの棺の前へと戻る。

「あの、高居さん。」

 この葬儀の担当者が静かに歩み寄ってきた。

「何でしょうか。」

「訃報の記事が無いので今日は来られる方は少ないと思いますが、一応仕出しは用意されますか?」

 泰彦は少し考えた後、首を振る。

「私と喪主の分だけで十分でしょう。明日は分かりませんが、一応連絡した人数分だけ用意して下さい。」

「わかりました。しかし、こんな綺麗な方なのに可哀想な。」

 やや同情の目を棺に向ける担当の者に泰彦は頷く。

「恐らく参列者自体も少ないと思いますので、献花はそちらの方でも入れてあげて下さい。喪主はショックで参っていますから明日、あまり参加できないと思います。」

「ああ、互いが唯一の身内と聞きましたからねぇ。それはショックだったでしょう。」

 頷き、棺に向かって丁寧に頭を下げてから担当者は去っていく。

 棺の中のみやこは大人しく、泰彦が知っている人物とは思えない。

「俺もショックを受けているのかな・・・。」

 目の前に、その亡骸があるにも関わらずまだ何処かで生きて笑っている気がする。

 突然、啓一と泰彦の前に現れて口を大きく開けて笑うのだ。

『吃驚した?あははっ。あんた達のその驚いた顔、可笑しい!』

 と言いながら。

 薔薇の花が良く似合う人だったので、華を手配した。

 きっと啓一は棺の中に入れたがるだろうと思ったので。

 物思いに耽っていると、慌しい足音と共に額に汗を掻いた男性が棺の前まで走ってくる。

 そうして、棺の中をのぞいた瞬間、崩れ落ちた。

「うそだ・・・。」

 右手に鷲掴みされた大きな薔薇の花束はセロハンの音を立てて絨毯に吸い込まれる。

「あの。」

 声を掛けるが、その男は呆然とした表情のまま宙を見上げていた。

「うそだ。」

 そうして漸く泰彦が視界に入ったのか、顔を向けてきた。

「なあ、これは良く出来た人形だろう?なあ。」

 引き攣らせた顔は何処か見覚えのあるもので。

「もしかして・・・江島さんですか?みやこさんの友人の江島悟さん。」

 泰彦の言葉に男はゆっくりと立ち上がる。

「ああ、そうだ。・・・・君は確か・・・・・・啓一君の友人の高居君、だったか?」

「はい。」

「という事は、これは・・・・嘘じゃないんだね。」

「俺も何だか嘘みたいに思えて仕方が無いですが。」

 江島はゆっくりと頷く。

「そうか・・・嘘じゃないのか。そうだよな。みやこが時間に遅れる筈が無い。だが、遅れてくれたほうが良かったよ。」

 整えられた髪を自分で乱してネクタイを緩める。

「今日、お約束していたのですか?」

「ああ。俺もいい加減けりをつけたくてね。きっぱりと振られて友人に徹するかと。」

 そうして、本人は笑ったつもりなのだろうが、顔が引き攣るだけで終わっていた。

「啓一君は?」

「寝てます。」

「そうか。俺は此処に居てもいいか?」

「ええ。今日は殆どの人が来ないでしょうから。」

 椅子を持ってきて勧めると薔薇を持ったまま座る。

「何か、本当に驚かせる為のドッキリかなんかだと思えるよ。」

「俺もです。」

 互いに疲れた顔を見合わせた。





 結局通夜には江島以外誰も来なかった。みやこの女友達は遠方に居るものも多く、間に合わなかったのだ。

 翌日の葬式には会社関係の人間と友人達が来たが、人数は少ないもので。

 だが、姐御肌の彼女を慕う友人は多く、啜り泣きの絶えず聞こえて来る。

 啓一は青い顔のまま喪主として挨拶をし、一応はその役目を果たした。

 参列者の中で、泰彦は悲しみとは違う感情を持っている人間数名を観察し続けた。

 冷たい雨の降る中で、読経中抜け出して受付場所に行って参列者の名前を確かめる。

 殆どが女性ばかりだったので、男性参列者の名前を見つける事は容易かった。

「遠藤学、一条越司、広川枝広・・・か。」

 一条越司は経済雑誌で見たことがあるから顔が一致する。みやこと同年代に見えた男は友人が元恋人という所だろう。もう一人の男は誰なのだろうか。推測年齢から考えると現在の恋人という線もあるが、上司か何かだろうか・・・。

 念のために小鉄に頼んでバイトの子を入れてもらっているから撮影された写真で身元とみやことの関係は後で分かるだろうが。

 はっきり言って、この三人はみやこが死んだ事を悲しんでなどいなかった。

 三人とも淡々とした表情で内心は悲しんでいますという風を装ってはいたが、胡散臭すぎる。

 殺されたとは公表されていないから皆突然死位に考えているだろうが、事実を知っている泰彦にとってみやこに近しい男は皆怪しいように思えてならない。

 ホテルで殺された。

 行きずりの関係か無理やり連れ込まれて殺されたのならば新聞死亡記事や事件として記載される筈なのに無かった事の様にされている。

 それにみやこの友人関係は妙に権力を持った家の者が多いと啓一が言っていた。

 この三人もその可能性がある。

 広川はどうか分からないが、二人は一条財閥関係者。あれ程の財閥ならば警察に圧力を掛ける位簡単な事だろう。

 玄関まで出て、懐から煙草を取り出して火を付ける。

 雨が降っているせいか、妙に不味く感じるそれを肺に深く入れてから吐き出す。

 2,3度吸ってから携帯灰皿にねじ込んで蓋をすると、後ろから声を掛けられた。

「私にも、一本恵んで貰えないかね?」

 振り向くと、おそらく参列者の最年長だろう男が立っている。

 目じりと眉間の皺が妙に似合う、仕事の出来そうな男だ。

「ええ、どうぞ。セブンスターですが。」

「いや、吸えれば何でも。」

 火を付け、携帯灰皿を渡すと男は眉を顰めながら深く吸う。

「・・・・・不味そうですね。」

「普段はキャメルなんだよ。今日は忘れてしまって。」

「ああ、そうですか。」

 沈黙しても雨の音がそれを助けてくれる。

「あの・・・失礼ですが、みやこさんの上司ですか?」

 男はゆっくりともう一度深く吸い込んでから紫煙を吐き出す。

「一応直属だ。元、が付くがね。君は?」

「みやこさんの弟の友人です。姐御肌の人だったから結構構ってもらっていましたよ。」

「そうか・・・君は、その弟君が大事か?」

 初対面の人間にいきなり言われて答える筋は無かったが泰彦はしっかりと頷いた。

「はい。」

「だったら一条越司には気をつけろ。あいつは出世の為なら何でもする男だからな、傷心の人間に付込む事位平気でする。」

「それはどういう意味ですか?」

「これ以上は俺からは何も言えない。それに賀川君の事で一条の周りを探るのも止めた方が良い。もし弟君がしようとしたら止めてくれ。」

 男は懐から名刺入れを取り出して泰彦に渡す。

「遠藤学、一条グループ マーケティング部部長。」

「賀川君の荷物を取りに来る時はそれを出せば通してくれるだろう。弟君に渡しておいてくれ。」

「あの」

「何かを探ろうとするなよ。」

 吸い終えた煙草を携帯灰皿にねじ込んで泰彦に返すと、そのまま斎場から去っていった。

 背中に漂う哀愁を雨が助長させているな、とそれを見送りながら思う。

「何かを探ろうとするな、か。それって一条関連という事なのか?」

 今は萎れた花のような啓一だが、本来勝気で重度のシスコンだ。

 これを伝えれば絶対に探り出すに決まっている。

「さてどうするか・・・・・伝えるか、伝えまいか。」

 伝えれば啓一は元気を取り戻し、犯人探しを始めるだろう。だが、それには危険が付き纏う。

 眉間に皺を寄せて、泰彦は煙草をもう一本取り出す。

 携帯灰皿に入った二本の捩れた吸殻が何故か心に引っかかって仕方なかった。





 結局泰彦は遠藤が言った事だけを伝える事にした。

 それまで幽鬼の様になっていた啓一は聞き終えると瞳に生気を宿して真剣な表情に戻っている。

「それって一条関連が怪しいって事だよな?」

「うん。まあ・・・・。」

 相川に依頼した事も、自分の推測した事も黙っている泰彦は僅かに後ろめたい。

 そういう気持ちが顔に出ていたわけでは無いのだが、長年の付き合いのせいでその僅かな違和感を啓一は察知し泰彦を睨む。

 だが泰彦はそ知らぬふりをして自分で淹れた珈琲を啜る。

「・・・・・・。」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」

 暫く沈黙していたが、啓一の携帯が鳴り始めた。

 着信を確かめた啓一が、あ、と声を上げる。

「隆之さんだ。」

 目線で出ていいかと尋ねる視線に泰彦は呆れたような表情を作って立ち上がり、荷物を手にして玄関の方へと足を向けた。

「まあ、慰めてもらえ。」

「そ・・・そんな、今日は相談に乗ってもらうだけだよ。」

「今更だろうが。あ、明日10時に迎えに来るからちゃんと準備終わっておけよ。」

 溜息と共に声をだして泰彦はそのまま玄関に向かって歩き、本当に帰ってしまう。

「本当に相談するだけだっての。」

 泰彦の態度に恥ずかしさを感じつつも、恋人の電話に出ると柔らかな声で囁かれる。

『啓一大丈夫?ちゃんと御飯食べてる?これから御飯でも食べに行こうか?』

 心配性の恋人に啓一は思わず笑ってしまった。

「大丈夫だよ。普段通りとは行かないけれど、明後日から仕事にも行くし。」

『そうか・・・・。悪かったね。参列出来なくて申し訳ないと思っているよ。』

「仕事だったんだからしょうがないと分かってるし、ぼうっとした俺を見られたくなかったから・・・・。」

『そういう時こそ傍に居たいよ。また泰彦君が傍にいたんだろう?』

「それは、まあ。あいつは昔からの親友だし。」

『泰彦君は仕方無いとしても、悲しみに沈んだ君を他の男達の目線から守りたかったよ。昨日はどうして仕事があるんだろうと思わず秘書を恨んでしまった。』

「そんな大げさだよ。それに参列者の人は殆どが男性ばかりで、みさきの友人と元恋人の人と上司の人二人が来ただけだったから。」

『君は年上受けしやすいからね。その上司の人とやらが目をつけていたらどうするんだい?電話番号とか聞かれなかった?』

「あ・・・遠藤さんとていう人は名刺を泰彦に預けていったかな。でもそれは荷物を取りに来たと時の為だって言っていたし、もう一人の一条さんは何かあった時の為にって教えてくれただけだから・・・。」

『一条?一条って財閥のかな?』

「さあ・・・。」

『心配だな・・・私より好みだった?』

「まさか。確かにかなりかっこいい顔をしていたとは思うけど俺の趣味じゃないから。」

 笑って否定するが聞こえてくる声は心なしか低い。

『絶対に連絡なんて取らないように。きっと君に気があるから携帯番号なんて渡したのだからね。』

 決めつける江木だが、啓一にとってはいつもの事だったので話を元に戻す。

「それより相談したい事があるんだけど。」

 時刻は午後10時。

『じゃあ、今から迎えに行くよ。』

 江木は仕事中でも啓一の休みの日や休憩中だと電話してくるので、今日も残業中に電話していると思っていた啓一は慌てて断る。

「いいよ。仕事中でしょう?」

『まあ、そうなのだけどね。でもこれ以上オフィスにいても絶対に捗らない。君の顔を見て明日に備えさせてくれ。駄目かな?君の相談というのも気になるしね。でもメインは君に会いたいから。』

「仕事、急ぎじゃないの?」

『別に明日でも大丈夫なものだから。』

「じゃあ・・・。」

『30分もしたら着くから。』

 柔らかい声が途切れて通話が終わった。

「全く過保護なんだから。」

 溺愛されているという自覚のある啓一だったが、とても心地よいものだったので変える気は無いし互いがそれでいいのならそれでいいと思っている。

 親友である泰彦にさえ嫉妬心を見せる江木に辟易する事も無くは無いのだが、好きなのだから仕方無い。

 閉じた携帯を見て、思わず微笑む。

 江木が連れて行ってくれる店はネクタイは要らなくてもジャケットが必要な店が多いので自分のクローゼットから数枚の上着を取り出してみる。

 今日はグレイのハイネックに黒のスラックス。出した上着の中から黒を選んで袖を通す。

 おそらく当分明るい色を着る気にはなれないだろう。

 が、それでも今日は少しでも気分が明るくなればいいと思った。





 向かった先は個室のあるイタリア料理店。

 だが要予約の店なので前もって予約していたのだろう。

「食欲はある?」

「そこまでは食べられないけど。」

「食べられるだけで良いからね。」

 フルコースが運ばれてくるが、量は少なめなので食べやすい。

「イタリアンのフルコースって何かイメージとは違うけど、フランス料理より好きだな。」

「うん。啓一は此処の料理好きだからね。」

 大体赤を基調とした色使いの店なのだが、今日はカーテンがグリーンに替わっている。

「それで相談というのは?」

「うん。実は・・・。」

 と、泰彦から聞いた事をそのまま江木に話す。

「だから一条に関する誰かに殺されたかもしれないと思って・・・。」

「確かにあれは自殺では無かったし、警察が動いている気配が無いのも怪しい。」

「でしょう?隆之さんだって怪しいと思うよね?」

 江木はパスタを食べてから息を吐く。

「だとすると、相手から消される可能性だって十分にあるんだ。啓一が悔しいのもわかる。あんな素敵なお姉さんを亡くして悲しいのも。私だって悲しい。でもそれ以上に啓一を失うかもしれないと思うと恐ろしいのだよ。」

 俯く江木の頬に啓一は触れて輪郭をなぞる。

 男らしい、色気のある容貌。

 自分みたいな中の上程度の顔で何の取り得も無い男にどうしてこの何もかも一流の男が惚れているのだろうといつも疑問に思う。

 今もそう思った。

「大丈夫だよ。少しだけだし、危ないと思ったら諦めるから。ね?」

 心配そうに、それ以上に恐れを抱く顔をした江木の唇にキスを送る。

「本当に危ないと思ったら諦めるから。」

 二度、三度とキスをすると江木は溜息を吐く。

「だったら経過は逐一私に報告する事。それと調べている間は私の家に住む事。それが条件だ。」

「え?そこまでする?」

「元々一緒に暮らしたいと言っていたよ?それに何かあっては遅いからね。私の条件が飲めないのなら啓一がする事を全力で阻止する。」

 笑顔を作ってはいるが目は真剣な江木に啓一は押されつつ頷いた。

「わ、わかった。そうするよ。」

「私の方も協力するし、出来るだけ情報を集めてみるから。まずは何を調べたいのかな。」

「みやこが勤めていた一条財閥とみやことの関係。」

「だったら私が内部情報を集めよう。」

 僅かだが痛みを堪えるような微笑みに啓一の眉は寄る。

「・・・・どういう事?」

「私は一条分家の妾腹だから少しは顔が利く。」

 カルパッチョをひとつ口に入れてから啓一にワインを勧めてきた。

「車だから私は飲めないけれど、啓一は飲めるだろう?」

「う、うん。」

 頭の混乱をどうにかしたくてワイングラスの中身を一気に飲み干す。

「今まで黙っていてすまない。でも、これまでだったら言わなくても良い事だったから・・・。」

 言いたくなかったのだと続ける江木に啓一は首を横に振るしかない。

「そんな。誰だって言いたくない事だよ。俺だって父親が誰かなんて言ってないし・・・・・知らないけど。無理して言わなくても良かったんだよ?」

「だが、私の口以外で知れば君は私を疑うかもしれない。それはどうしても避けたかったんだ。君の愛情を失っては私は生きていけない。」

「隆之さん。確かにそうかもね。今知ってよかったよ。」

 既に皿は空になっていたので、デザートが運ばれてくる。

 プレートにはチョコレートケーキと洋ナシのジェラード。

 その後はそれを堪能しながらくだらない話で盛り上がった。

「少しは気分が晴れたかな?」

「そうみたい。有難う。連れ出してくれなかったら俺、ぼうっとしたままだったかも。」

 少しだけ笑ってみせると江木は啓一の頬にキスをする。

「無理して笑うことは無いよ。今は悲しくて仕方無いだろうから・・・・。今日はこのまま帰るとしようか。」

「え・・・でも。」

「恋人の弱みに付け込まないから安心して欲しい。今は体を休める事が一番だ。」

 啓一のマンションの前に停まった車の中で江木からのキスを受けてから降ろされた。

「今日は大人しくキスだけで我慢しているけど、元気になったらこの大人しくしている狼にご褒美を欲しいな。」

「うん。」

「じゃあ、明日迎えに来るから。何時がいい?といっても明日は外せない商談があって午後5時以降にならないと無理なんだけどね。」

「俺も方も軽く荷物を纏めたりするから・・・・・6時がいい。」

「わかった。」

 手を振ると江木の車はゆっくりと走り出し、視界から消えていく。

 それを見送る啓一は、少し疲れが取れたと同時に明日の事を考えながら自分の部屋へと戻っていった。





 翌朝午前十時きっかりに迎えに来た泰彦の車に乗ってみやこの勤務していた会社に向かいながら、泰彦は啓一に淡々と“当日”の分かった事を伝える。

「まず、某有名ホテルのツインルームを借りていたみやこさんはその日の午後6時にチェックインしている。そして、監視カメラに映っていたみやこさんと関係のある男が数名。」

「誰?」

「遠藤学が始めに来て、次に広川枝広、江島悟、江木さん、一条越司。」

「・・・・みやこの部屋を訪れた順?」

「違う。ロビーの監視カメラに映った順。実は江木さん以外の全員が一条関連企業勤務なんだよ。」

「え・・・江島さんと広川さんも?」

「そう。江島さんなんて階が同じだったらしい。」

 冷え込んだ車内がやっと暖かくなりだしたなかで、話している会話自体は体の芯が冷えてしまいそうなものだ。

「でも、どうして隆之さんまでそのホテルに居るんだ?」

「そのホテル、当日会議や研修会も開かれていたんだよ。だから誰が出入りしていても不思議じゃない。それにみやこさんの居た階の防犯カメラは処分済みで確認できなかったしな。」

「・・・・・どうして泰彦はロビーの監視カメラの内容を知っているんだ?」

「俺が持っている店のメインシェフの弟がそのホテルのスタッフなんだよ。将来その兄貴とプチホテルを持ちたいらしくて俺に協力してくれたんだ。」

「・・・・・何か金持ってると大変だなぁ。」

「こんな風に役に立つ時もあるけどな。まあ、それは慣れたからいい。あと気になる事は、江島さんロビーに入った時点で薔薇の大きな花束を抱えていたそうだ。」

 最後の一言に啓一の眉が寄る。

「それって・・・。」

「不自然だよな。だって葬式の時も持っていただろう?」

 泰彦は目の前に見えた某ファーストフーズのドライブスルーに入り、朝食メニューを2人分注文してから車を進めた。

 受け取ったものは啓一にそのまま渡してから車を走らせる。

「あと一時間は掛かるだろうから食べろ。」

「え、でもそんなに時間は掛からないはずじゃあ。」

 此処からだと啓一の知る限りみやこの勤務していた場所にはあと20分もすれば着く筈。

「職場が変わっていた。研究所の方の秘書をしていたんだよ。」

「秘書って・・・。」

「とりあえずそっちを先に行く。もう一箇所の方には午後行くから。で、昼食を食べる時間無いかもしれないから食べとけ。結構こういうのもいいものだぞ?」

「確かにあんまり食べないよなぁ。」

 午後近い時間に始まる自分の勤務時間ではこういうものはあまり食べないのだ。特にファーストフード。

 卵とハムの挟まれたそれを食べてみると味は濃いが結構美味しい。

「でもこれ毎日食べていると体に悪そうだなぁ。」

「だからたまになんだろうよ。」

 泰彦の分を食べやすいようにしてから渡すと、片手で食べながら運転を続ける。

「一応な、顔見知りが殺したって事で調べているけどお前はそれでいいのか?」

「5人の中の誰かが犯人て事なんだろう?」

「とも限らない。俺達の知らない、でもみやこさんは知っている人がいるかもしれないからな。」

 珈琲の立てる湯気がいつもより暖かく感じられる、と啓一は思う。

「でも、だとすると・・・・。」

「ともかくこっちで交友関係を調べるから。」

「うん。有難うな。」

「今更だし、俺もみやこさんにはお世話になったから。」

 妙に不味そうな顔をして自分が頼んだファーストフーズを食べながら答える泰彦に啓一は少しだけ笑った。

「・・・なあ、それ不味いなら無理して食べる必要ないんじゃ。」

「や、口に合わないだけで不味いってわけじゃないから。」

「・・・お前生粋の坊ちゃんだから人口調味料合わないんだよ。無理して食べる必要ないって。」

「・・・・・・・う。何でこんなに美味しくないと思うんだ?お前は確か前に美味そうに食べてたよな?」

「だって俺庶民だし。確かにいい素材で作られた飯は美味いと思うけどこれも結構美味しい。」

「そ、そうか。」

「お前も無理して理解しようとしなくていいって。無理していると齟齬が絶対に出るからな。俺はそのままのお前でいい。」

 泰彦は食べていたものを袋の中に戻した。





 研究所は想像以上に広く警備も厳重だったが、泰彦が既にアポを取っていてくれたらしく身分証明書を提示した後すんなりと通してくれた。

「根回しが良いな。」

「まあ、その辺はコネだから。でも貰った名刺の事とみやこさんの事を言ったら納得してもらえたし。」

 受付で待っていたのはスーツ姿の女性だったが、彼女は一礼して自分に付いて来る様に言っただけでそれきり何も喋らない。

「ふーん。そっか。荷物は多いと思うか?これに入るといいんだけど。」

 持参したダンボールを示すと泰彦はさあ、と言う。

「でも其処まで多くないと思うぞ。」

 二人が雑談している間も只管沈黙していた無愛想な女性は突然止まる。

「此処です。終ったら内線の12番を押してください。」

 それだけ言うと立ち去っていった。

「・・・・・研究員の人って無愛想なんだな。」

「や、何か思うところがあったんじゃないのか?」

「どういう意味?」

「まあ、それはともかく中に入ろうぜ。」

 促されて入ると中には誰も居ない。6つ机があり、その内の一つに花瓶が置かれてある事からその机がみやこのものだと分かった。

 引き出しに鍵は付いておらず書類の類は既に片付けられた後のようで、妙に閑散としたイメージを与える。

 小銭入れや化粧ポーチ、生理用品が入ったバック、お菓子にガムとレトルトパックの食品に10秒チャージのドリンク。ガスライターに未開封のセブンスターライト。

 空ではなかった二番の引き出しにはそういうみやこ自身を窺わせるものが入っていた。

「あれ、みやこさん煙草吸うんだ。」

「時々ね。真剣に・・・・というより難題に当たって考える時にだけ吸うから滅多になかったけど。」

「即断即決の人が?」

「うん。だから年に一回あるか無いか位かな。でもそういう時に限って煙草が無い時が多かったから家と職場には置いてるって言ってた。だから殆どの人が知らないと思うよ。」

 ふーん、と泰彦は頷いて荷物をダンボールに片付ける。

「でも、此処にみやこが居たんだなと思うと感慨深い。」

 俯いて片付ける啓一を泰彦は黙って見つめながらダンボールに乱雑に入れられた物を綺麗に纏めていく。

「そうか・・・・・あれ、これって・・・何のノート?見てもいいか?」

 何処にでもあるノートだが、キャラクターものだというのがみやこらしくないように思えて気になった。

「うん。いいよ。それみやこが唯一といっていいくらい好きなキャラものなんだ。」

 つっぱっていても可愛らしさの残る猫のキャラクターのノートを目線だけ向けて示す。

「家にもグッズがあったと思うけど。」

 泰彦は思った。

(これ、啓一に何となく啓一に似ているよな。)

 だから好きだったのだろうと思う。

 中身を開くと観た映画の内容やレストランの批評、ショップの感想など日常的な事が書かれてある。行った日付と少しの感想があったので日記の役目も果たしていたのだろう。

 赤いペンで小さく丸印が書かれてある所は恐らく啓一と行ったのだと推測できるもので。

 ノートの中に一番多く書かれたイタリアレストランには泰彦も一緒に行った事があった。

「なあ、このレストラン。」

 ノートの部分を見せながら名前を告げると啓一の目が細くなる。

「ああ。喪が明けたら一緒に行こうか。みやこ、あそこの料理好きだったから。」

「そうだな。」

 元々そうあったわけではないみやこの私物はあっという間に片付き、ダンボールにはまだまだ入りそうな程余裕があった。

 泰彦が内線を押して片付けが終了した事を告げると1分もしない内に案内してきた女性が現れる。

「あと、ロッカーもあるから。」

 険のある言葉を淡々をした口調で吐きながらさっさと歩き出す。

「みやこさんが憎いのですか?」

 日差しが温かそうに見える廊下を歩きながら何でも無い事の様に泰彦が呟いた。

 女性は立ち止まって、眉間に皺を寄せた状態で返事を返す。

「憎かった、かもしれないわ。」

「何故。」

「同じ男と関係があったから。」

「それは誰ですか?」

「一条越司。一条家の人間で最低な男。」

「俺達が知る限りみやこさんは割と堅実な人と付き合っていたのですか。」

「・・・あの最低最悪な男に振られるという経験は無いと思うわ。」

「そうですか。」

「あの人、一応葬式には出たの?」

「ええ。」

「・・・そう。賀川もあいつに殺されたも同然なのでしょうに葬式に堂々と何の感情も表さずに現れるなんて、恨めしい事この上ないでしょうよ。」

 心の底から侮蔑する口調で言い捨ててから再び歩き出す。

「・・・そんなに最低な男でも貴女は好きなのですか?」

「そうね。もうそろそろ諦めたいと思うのだけど。」

「あの・・・みやこの、姉の死を悼んでくれて有難う御座います。」

「そんな事してないわ。」

「口でそう言っても多分そうなのだろうと思うから。」

「本当に、思ってないわ。ただ、賀川はそれでも笑っていたし、守るものがあるといつも言っていたから。」

「守るもの?」

「そう。弟があいつの毒牙に掛からない様に守るんだって。多分、貴方に手出しをさせない為に脅迫していたんだと思う。」

「・・・・みやこが?」

「それくらいしないと貴方を巻き込むなんて平気でする男だから。」

 絶句する啓一に変わり、泰彦が聞く。

「貴女方はいったい一条越司に何をされていたのですか?」

「・・・聞いたら軽蔑されるような事。この事でこれ以上何も言わないから。さっさとロッカーの荷物を引き取って帰って頂戴。」

 それきり何も言わずに更に足を速めて歩き出した女性に付いて行きながら5分ほど歩いたとき。

 恐ろしい程の男らしい、だが、艶のある優しげなノンフレームの眼鏡を掛けた美貌の男に出くわした。

 後ろには童顔の青年が書類を持って付き従っているのでそれなりの地位の男なのだろう。

「おや、君は賀川君の葬儀に出ていた・・・。」

「三枝啓一と言います。」

「この度は本当に残念な事で。惜しい女性を亡くしました。」

 丁寧な言葉に啓一も一応礼を言う。

「有難う御座います。」

「何かあったなら相談に乗るから。」

 心から故人を悼んでいる表情で名刺を渡すと男は去っていった。

 名刺には一条越司、 一条グループ、専務と書かれてある。

「この人が一条越司。」

 話を聞いてなければうっかり信頼感を抱いてしまいそうな人だった。

「連絡取るなよ。俺達風情には対抗できない相手だ。」

「うん。俺もそう思う。」

 角を曲がりかけた時に見えた横顔はとても優しそうに見えるもので。

「あの、聞きたいことがあるのですが。」

 泰彦がある事を思い出して、念の為に聞く。

「江島悟、広川枝広をご存知ですか?」

「その二人がどうしたの。」

「念のためです。」

「・・・・江島悟はマーケティング部に所属していて、賀川と仲が良かったという事くらい。あ、でも一回だけ喧嘩しているのを見たことあるわ。互いに真剣な表情をしていたから。内容は、みやこに一条と別れろと迫っていたわ。」

「広川枝広は。」

「営業部に属しているわ。契約件数がダントツだから結構な有名人よ。賀川との関係は知らない。すれ違っても目線も合わせなければ挨拶もしていなかったから。」

「そうですか。有難う御座いました。」

 女性は振り向いてロッカー室の扉を開けてみやこの名前が書かれた箇所を指差し同じ事を言ってから出て行った。

 



   部署を移動したのなら荷物は無いかもしれないが、一応香典返しを持ってマーティング部のある場所へと向かう。

 ちなみに一条越司には香典返しは郵送済みなので今日当たり届くだろう。

 受付で名前と用件、それと遠藤学の名刺を見せると直ぐに連絡が取れて会議室に通されてお茶を出される。

 だが、応対したのは遠藤ではなくみやこの大学時代の恋人の広川だった。

「久しぶり・・・といっても数日前に会ったけど。」

 見た目さわやか好青年の男を昔から好きではなかった啓一は一瞬眉を顰めたが、社会人となって数年経過しているので面の皮も厚くなっている。

「お久しぶりです。先日はご挨拶もせずに失礼しました。」

「遠藤部長は今席を外しているから私が用件を伺うよ。」

 嘘かどうかはともかく、何か特別に含む所があるわけではないので啓一は素直に箱を出す。

「姉の荷物が残っているかどうかの確認と香典返しを持ってきたのですが。」

 渡す相手を書いたメモを見せると広川は頷く。

 左薬指には銀色の指輪が光っている。

「そっか・・・ああ、この人数なら私が渡しておくよ。申し訳ないけど君達に中を歩かせるわけにはいかないし、呼び出すのも手間だから。それとみやこの荷物は此処にはないよ。移動したのは半年前だからね。」

 半ば予想していた言葉に啓一は礼を言って立ち上がった。

「有難う御座います。忙しい中、お時間をとらせてしまいすみません。」

「いや、私もみやこの事に関してはショックだったから。」

 広川は苦いものを飲んで、でも笑うという感じの笑みを浮かべて手を振り、出て行く二人を外まで見送った。

 それを頭を下げての礼として車に乗り込んだ二人は穏やかな表情から一転厳しい顔付きになる。

「はぁ。あいつ、偉いんだな。・・・相変わらず癇に障るけど。」

「というより遠藤さんに連絡していなかったんじゃないか?」

「かもしれないな。俺の声なら知っているから後で遠藤さんに連絡しておくよ。」

「うん。俺は隆之さんと一緒だから心配されるだろうし。」

 泰彦以外の相手だとたとえ自分の贔屓にしていくれる顧客への定期連絡だろうと嫌がるのだ。泰彦と連絡を取る事に対して何も言わないのは一度言われて大喧嘩になって別れる寸前まで行ったからだけで。

「お前の話を聞いているだけだけど、江木さんて本っ当に嫉妬深いよな。この間は何だっけ?確かバーでちょっと色目を使った相手の胸倉を掴んだ、だったか。」

「うん。優しいし、かっこいいし社長なだけあってしっかりした人だけど、どうしてかなぁ。」

「お前に物凄く惚れているんだろう。」

「まさかぁ。あの人望めば選り取り見取りだよ。現に俺と一緒にいてもバーとかで男女問わず誘いに来るからな。」

 啓一はそんな人が自分の恋人なのが自慢なのか嬉しそうに話す。

 一応少しだけみやこの事から頭が離れた事を嬉しく思う泰彦は少し笑ってから更に江木隆之の話題を掘り下げる。

「へぇ〜。そんなにもてるんだ。」

「うん。ほら、隆之さんてフェミニストな所もあるだろう?」

「や、俺は知らないし。」

「そうなんだよ。だから女の人が誘ってきても相手をしてさりげなく断るんだよな〜。ああいうところかっこいいって思うよ本当に!」

「でもそれが江木さんには不満なんだろう?」

「みたい。どうして妬いてくれないかな、って苦笑される。」

 今まで付き合った人達の中で啓一が誰かに嫉妬した事は一度もない。それは愛情が薄いわけでは無く単純に嫉妬しない性質なだけなのだが、その事が原因で過去に別れた経過もあるほどなのだ。

「そっか。でも浮気とかされたら流石に怒っているんだろう?」

「うん。でも隆之さんの場合浮気の気配が全く無いけどね。いつ電話しても嬉しそうな声だし後ろには秘書の人しかいないし。」

 泰彦はこれが他の人物だったら惚気なんだろうなと思った。

「へぇ。やっぱり愛されているじゃないか。」

「そうかなぁ。」

 心底不思議そうに首を傾げる啓一は若干細身だがその実しっかりと筋肉の付いたまぎれもない男だ。

 にも関わらず可愛らしいとか色艶のある、という言葉が似合う。

「そうだよ。」

 誰から観てもあきらかな事なのに自分の事には疎い啓一は半信半疑のようで。

 だが、それでは泰彦にさえ警戒している江木があまりにも哀れというもの。

「一応信じてやれ。あの人は本当にお前の事が好きなんだから。」

「・・・うん。わかった。」

 頷く啓一の頭を後輩や犬にするようにかき回した。

 そうして送って貰った後啓一はみやこのものを点検生理しながらスポーツバックに暫くの間に使うものを入れて江木が来るのを待つ。

 時間より30分早めに着た江木は啓一の荷物を見て微笑んだ。

「服や下着、日用品何かは全て用意してあるからね。本当に身一つでいいくらいだから嗜好品だけ持って出ればいいよ。」

「うん。わかった。」

 それじゃあ、とパソコン、手帳、携帯、財布と読み掛けの雑誌、位牌と写真を一泊用の鞄に入れ、今日持って帰って来た物の中からみやこが愛用していたキーホルダーとペンを持つ。

 ノートは泰彦に貸し出したので手元には無い。

 何故か

『これの存在自体、念の為誰にも言わないように。もし聞かれたら無かったと言うんだぞ。』

 と言われたが、別段知る人もいないだろうから聞かれる事もないだろう。

「荷物はそれで全部?」

 鞄に入れたものの少なさに驚いた顔をしている江木に啓一は頷く。

「うん。何でもあるんでしょう?」

「勿論。じゃあ、行こうか。お腹空いた?」

「ちょっと。」

「じゃあ、喜んで貰えるかな?」

「何が?」

「着いてからのお楽しみ、だよ。」

 江木はそう言って微笑むと啓一の荷物を持って車に向かう。

 啓一がスポーツカーがあまり好きじゃないと言ってから買い換え、今日納車された国産高級車の乗り心地は最高でご機嫌な様子を隠そうともしない啓一に江木も笑って運転をする。

「笑ってくれた。」

「・・・え?」

「仕方ないけど、顔色も悪くて暗かったから。」

「・・・ごめんね。」

 俯く啓一に、タイミングよく赤信号になったので江木はハンドルから手を離して頬を撫でる。 

「仕方の無い事だよ。大切な人を亡くしたのだからね。私もみやこさんは好きだった。」

「隆之さん。」

 左手に唇を寄せてから再びハンドルを握って車は走り出す。

 着いた先は江木の自宅。当然の如く啓一も数回訪れてはいるが、何度観ても見慣れない程豪華なマンションだ。

 その内の上の階を押して開けば絶景と言うべき光景が広がる。

 いわゆる臆ションというやつで、風呂場も広ければ部屋も広い。

「啓一の部屋はこっち。」

 案内された部屋は品のよい木目調の家具で調えられた居心地の良さそうな所で。

 だが、しかし。

 引き戸になっているドアを開けると山ほどのスーツやジャケット、コート、スラックスが吊るされ、棚には春夏秋冬全てが揃った普段着(しかも有名無名、オーダーメイド取り揃え)が揃えられてあった。

 下着や靴下、靴も啓一自身が買わないようなものから趣味の合うものまで様々。小さな宝石箱の様な所にはカフスやネクタイピン等小物が。 

 セカンドバックやパソコン用と思しきバックから一泊用、長期旅行用のバックまで。本当に揃いすぎな程揃っている。

 まさかと思ってベッドの置いてある部屋に戻れば、そこには流石にテレビは無かった。

「あとはこっちだよ。」

 次に案内されたのは洗面所。

「別に啓一専用のバスルームを作らせても良かったのだけど、せっかく一緒に暮らせるのだからと思ってね。」

 コップに置かれているのは二つの歯ブラシにワックス。これも勿論啓一が愛用しているものが揃っている。

 リビングには大型テレビと一緒に真新しいゲーム機とソフトまで。

「・・・・・・・・隆之さん。」

「何か足らないものでもあった?」

 笑顔で問う江木の顔に啓一は苦笑した。

「何も此処まで揃えなくてもいいと思うけど?」

「元々一緒に住もうと言っていた時から揃えていたんだよ。そうしたらいつの間にかこんなになっていただけ。だから諦めて使ってくれると嬉しいよ。」

「といっても・・・・服だけでもかなりの。」

「それは私の自己満足だから。啓一はただ頷いてくれればいいんだ。出来れは笑って欲しいけどね。」

 腕を優しく握って啓一を椅子に座らせてから江木は冷蔵庫からプレートを取り出し、鍋に火をつける。

「さて、夕食にしよう。シャンパンは好き?」

「うーん。少し好き、かな。」

 その答えに頷いて出されたは氷の詰まったバケツに入ったピンク色のシャンパン。サラダにチーズにクラコット。

 少し待つと、ミネストローネが出てきた。

 その中には肉と魚は一切使われていない。

 初七日がまだなのでその辺を配慮してくれたのだろう。

「有難う、隆之さん。」

 注がれたシャンパンは気泡が立って美味しそうに見える。

 江木は微笑んで椅子に座るとグラスを掲げたので啓一も同じように掲げて二つのグラスを重ねて音を出す。

「あ、美味しい。」

「本当に?良かった。」

 結構いけるクチの啓一が喜んだので江木はほっとした表情をする。

「うん。この料理も美味しいよ。」

「頑張って作った甲斐があったよ。これからは毎日・・・は無理だけど出来るだけ作るから。」

「そんな。隆之さんの方が仕事忙しいでしょう?朝とか早く帰れた時は俺が作るから。といっても簡単なものだけど。」

「啓一の手料理が食べられるなんて嬉しいよ。」

 カニかまの入ったサラダを食べると、本物のカニと間違ってしまうくらいの食感と味がし、クラコットに乗った見た目はチーズの豆腐は豆腐というより何か別のものの味がした。ミネストローネはチキンが入ってない分あっさりしていたけれど、これはこれで美味しいと思えるもので。

 飲み終えたシャンパンの次は清酒と焼酎だったので刺身こんにゃくと生湯葉に生麩田楽、アスパラガスの漬物に野菜餃子と品が変わる。

「隆之さん、どれだけ作ったんですか?」

「これで全部だよ。でも簡単な物ばかりだったからそう時間は掛かってないしね。あ、締めにお茶漬けでも食べる?」

「うーん。俺昆布と梅の茶漬けが食べたいです。」

「じゃあ、私もそうしようかな。」

 そう言って江木が用意したのは玉露。

「隆之さん、茶漬けに玉露は合わないと思いますよ。」

「え・・・そうなの?」

「はい。」

 江木にお茶のストックのある場所を聞いてから其処をあけるとF&Mやら某陶器メーカーの茶葉やら様々な産地の玉露や碁石茶やらと高級だったり珍しかったりするものばかりがずらりとならんでいる。

 しかも。

「煎茶がない。そして当然ながら番茶も玄米茶もない。」

 寒い時期には必須の玄米茶まで無いのはさすが金持ちと言うべきか。

「あれ、でも泰彦は玄米茶を喜々として買ってたよなぁ。」

 首を傾げる啓一の手元がいきなり暗くなる。

「泰彦君がどうしたの?」

 後ろから覗き込んだ江木は手元にあるお茶を見た。

「え・・・玄米茶とか煎茶が無いなぁって思って。」

 正直に思ったことを言ったのだが江木に一刀両断される。

「泰彦君がどうしたの?」

 その顔は笑っているが妙に真剣だ。

「泰彦は坊ちゃんだけど、玄米茶好きだったなと。」

「ふうん。そうなんだ。お茶漬けには玄米茶とか煎茶の方がいいのかな?」

「うん。まあ。」

 江木は笑みを浮かべて立ち上がる。

「しばらく待っていてくれるかな?社に戻ればあるから取ってくるよ。私だって会社では飲んでいるからね。」

「え・・・そうなんだ?何か隆之さんて珈琲党なのかと思っていたから。それか紅茶。」

「色々だよ。珈琲の方が眠気が覚めるから飲んでいるだけで。ここには貰い物ばかりなんだ。」

「へぇ〜。」

「じゃあ、それまで待てる?」

「うん。」

 ちなみに江木の会社まで此処から片道30分はかかる。買いに行きたくても時刻は午後8時。日本茶が買えるような店が開いてる筈も無く。

 というより江木は何処で売っているか把握していなかった。

「急いで取ってくるから。」

「え・・・でも飲酒運転!」

「タクシー使うから大丈夫だよ!」

「あ」

 啓一が何かを言う前に江木は足早に部屋から出て行く。

 目を丸くして啓一は呟いた。

「大型スーパーのお茶屋ならまだぎりぎり開いているのにって言おうとしたのに。」

 庶民と金持ちの感覚の違いを知っている啓一は溜息を吐く。

「ま、知らないのだろうけど。」

 膝に手を置いて立ち上がり、啓一は片づけを始めた。





 メール一つで専属運転手を呼び出して会社では無い場所へ向かうのは江木。

「それで、賀川みやこは私の事を何か残した気配は。」

『ありませんでした。しかし三枝様がお持ちになった手帳の方、確認が取れませんので』

「それは私がする。あと煎茶と玄米茶を用意して持ってきてくれ。啓一がそれで茶漬けにしたいと言っている。」

『わかりました。それでしたら今から買ってお持ちします。』

「今からか?店が開いてないだろう。」

『いえ、郊外の大型スーパーや知り合いの飲食店に頼めば売ってくれますから。』

「そうか。・・・・・くれぐれも啓一とあいつには悟られないようにしろ。」

『承知しています。』

 そうして相手側から切られた携帯を見つめて江木は溜息を吐く。

「啓一。・・・・どうか、君だけはこのことを知らないままでいてくれ。」

 祈りは届くか否か。

 それは時の運というものだろう。





 同日。

 啓一と別れた泰彦は相川小鉄と知り合い・・・というより自分がオーナーをしているダイニングバーのシークレットルームで食事をしつつ話をしていた。

「それで追加項目って・・・俺はお前に頼んだ覚えは無いぞ。」

「俺だってみやこさんが死んだのには納得してないんだよ!個人的に調べたものを教えに来てやっただけなんだからな!」

 5人前の料理をあっという間に食べつくした目の前の男に泰彦は溜息を吐く。

「ただしあんまり危なそうなら手を引くぞ。」

「わかってる。だがなぁ。お前、早めに護衛雇っていた方がいいぞ?」

「どういう事だ。」

「うん。調べるならお前だろうと思われているんだろう、ウチから情報が筒抜けになる事は無いからな。・・・あのな。お前の家、見張られているぞ。」

「・・・・・え?」

「当然啓一の家もだが。」

 泰彦はウォッカを煽って小鉄の目を見る。

「啓一は江木の家だ。」

「江木って今の恋人か?」

「ああ。」

「だが、江木とやらも一応一条家と繋がりのある人間だぞ。大丈夫なのか?」

 眉を顰める小鉄に泰彦は頷いた。

「大丈夫だ。江木は啓一に本気だから危害を加える事は無いだろう。」

 酒は味と質を好む啓一とは違い、度数と量という二人は先程から一般的に薬用だと言われている程度数の高いウォッカを薄めずそのまま煽り続けている。

「はぁ。さいですか。」

 見た目が熊の小鉄が気を取り直す様に、ロックグラスに半分程注ぎ一気に飲み干す。

「氷も要るか?」

「酒はそのままで飲むもんだ。次は泡盛でも飲みたいんだが。」

「そうか。」

 3本目が空になったのを視認した泰彦はスタッフに内線で泡盛を瓶ごと4本とつまみを頼んでから4本目を掴んでグラスに注ぐ。

「それで?」

「ああ、その江木の話もあるんだが、お前、広川枝広という男を知っているか?」

「みやこさんの元恋人だろう?」

 泰彦の手元にあった4本目を小鉄が持ち、グラスに溢れるほど注いでから一気に飲んでまた注ぐ。

 それで空になった瓶をテーブルの上に置く。

 ちょどタイミング良くスタッフが泡盛4本とつまみを大量に持って入室し、手早くテーブルの上を片付けてから並べて退室する。

「何で別れたか知っているか。」

「聞いてない。」

「そいつとみやこさんは入社後1年は付き合っていたんだが、広川は一条分家のお嬢さんに見初められてあっさりと別れたんだと。みやこさん自身は何の感慨も無い風だったが広川が避け出したらしい。だから偶々別れたんだろうと言うのが大半の意見なんだが、実は広川はみやこさんとの本番シーンを隠し撮りして別れなかったらそれをAV関係者に売りつけると脅迫したらしいんだ。」

 泰彦の眉間に皺が寄る。

「・・・本当か?」

「ああ、だってこの話はそのAV関係者から聞いたからな。そいつ割と人情のあるやつで、渡された写しのテープはきちんと処分したんだが3年経っていきなりみやこさん本人がそのビデオがどうなったか確認しに来たんだと。やつは正直に広川との遣り取りとビデオの処分方法を事細かに説明したんだが、みやこさんは眉一つ動かさずにそれを聞いてから礼を言って去っていったと言っていた。」

「だがそれはコピーなんだろう?」

「まあな。だが、顔こそ映っていないものの奥さんあたりならみやこさんの相手が広川だとわかる程度の映りだそうだから広川本人は持っていないだろうな。」

「という事はみやこさんが受け取った?」

「処分した可能性は高いだろうけどな。」

 淡々と話す様は恐らく仕事柄こういう反吐が出る様な人間に慣れているのだろうと思わせるもので。

「つまり、広川はみやこさんが未だにそのビデオを持っていると信じていて尚且つ脅されるかもしれないと思っていたという事か。」

「俺の情報収集した限りでは自分を害する可能性のある人物はたとえ無罪でも潰すというのが広川という男だ。」

「みやこさん付き合っていた時はそんな感じじゃ無かったんだけどな。」

 本日数度目の溜息を吐く泰彦を横目で見ながら子鉄はグラスを傾ける。

「人は恐ろしい程容易く変わるものさ。特に権力と金に取り憑かれた人間はな。」

「そうか。それで怪しそうな人間はそいつだけなのか?」

「ところが。まだいる。」

「一条越司か?」

「ああ、そいつは一条家の中で後継者候補の一人だな。だが、一条家の次世代リーダーは一条章弘だと決まっているようなものだ。それで奴さんは手段を選ばず上を目指しているんだ。それこそ手段を選ばず。」

「それとみやこさんとどう関係が?」

「大有りさ。一条越司は自分と付き合っている奴を取引相手や敵対する相手に差し出して情報を集めていたんだからな。」

「それでみやこさんか。」

「ああ。見たことあるならあいつは相当の色男なんだろう?優しい言葉と紳士的な態度で相手を自分に嵌らせて自分の駒とするんだ。脅迫なんて事はしない。あいつは自分は決して危ない橋を渡らないんだ。まあ、ヤクザとの繋がりも囁かれているけどな。」

 泰彦は目の前の泡盛の瓶を睨みつける様に見つめる。

「みやこさんの場合、その取引相手とやらが妙に惚れ込んでしまって一条の裏の顔や一条財閥のばれたらヤバイ事まで教えたようなんだ。」

「その相手は?」

「一条の一番上にいる狸。」

「・・・・ああ、あいつか。」

 この店自慢のサラダを某チェーン店の牛丼でも食べるかの様に書き込みながら小鉄はとうとう泡盛を瓶から直接飲みだした。

「何か、お前妙に冷めてないか?」

「多分頭のネジが1,2本飛んだんだろうよ。これでもショック受けてるみたいだな。」

「そうか。話を続けるぞ。」

「ああ。」

「だから一条自身が手を下して無くても他の人間を使った可能性も残る。」

「証拠隠滅という事か。他は?」

「江島悟。まあ、結構ストーカーっぽかったらしいし、一ヶ月位まえから二人が言い争っているのを何人かが目撃している。この場合単純にいつになっても振り向いてくれないみやこさんにかっとなってという線が伺える。」

「だがそれだと警察を抑えられた理由にならないだろう?」

「警察を抑えたのは一条越司で間違いない。みやこさんが殺された事が公表されては不味いと思ったんだろうよ。」

「何故。」

「何故って、動揺する連中がいらない動きをされると困るからに決まっているじゃないか。」

「ああ。一条と名の付くものは本当に腐った連中の多い所だな。」

「まったくだ。悪い話しか聞かない。だが世界に名だたる企業だから相手にすればこっちが潰れる。」

 暗に危ないぞという言葉を無視して泰彦は小鉄に続きを促す。

 小鉄は溜息を吐いてからその続きを話し出した。

「あとは江木隆之。」

「江木さん?」

「そう。みやこさんと二人で数回会っていたようなんだが・・・江木が一条越司と異母兄弟だというのを知っていたか?しかも同じ歳。」

「・・・いや。」

「今の間は微妙に気になるが。まあいいか。その会っている時に少し険悪な雰囲気になっていたらしい。」

「何で今までの話は断定的だったのに今度は不確定的なんだ。」

 小鉄はふて腐れた顔になって泡盛を煽る。

「仕方無いだろう。相手は見かけただけだという奴しか居なかったんだから。しかも某有名ホテルのスタッフなもんだから口が堅くて。」

「そうか。」

「ああ、でも江木という男よりみやこさんの方が一方的に怒っている感じだったと言っていた。」

「みやこさんが?だがあの人はむやみに怒る様な人じゃないぞ。あるとすると・・・。」

「あるとすると?」

「啓一の事に関して。」

 互いに目を見合わせて立ち上がった。

「俺はそのホテルの方をもう一回探ってみる。」

「俺も・・・ああ、見張られているんだったな。だったらこの店に行ってくれ。ここに何か預けているかもしれない。だがお前じゃ信用されないだろうから俺の方で電話しておくし、行く前に電話をしてくれ。」

「わかった。お前はソレを読み直すとか色々調べごとをするんだな?」

「ああ。」

 ソレと言われたものはもちろん預かったノート。

「護衛は付けろよ。」

「ウチの店と契約している警備会社に頼むよ。」

「そうしてくれ。」

「啓一には。」

「全て分かってから教えるし、最終的に決めるのはあいつだから。」

「了解!」

 海軍式の敬礼をしてから出て行く小鉄を目線で見送ってから泰彦はノートの真意を知る為に愛用のペンを取り出して集中しだした。





 それから数日。

 見た目だけは元通りになった啓一だったが、普段明るい服を着るのに黒か黒に近い服を纏う姿はその心の痛みを如実に語っていた。

 そんな啓一を仕事の都合が揺る限り迎えに来る江木。

 それは微笑ましい光景でもあった。

 そうしてそれを建物から見守る小鉄。

 一応これでも啓一を護衛しているのだ。有休を使って。

 江木が来ればその日はお役目御免なのでそのまま向かった先は泰彦がオーナーの店。  入ると泰彦は既に酒盛りを始めていた。といっても彼の場合食べるよりゆっくりとした動作で飲んでいるだけなのだが。

「よう。」

「ああ。」

 座ると同時に頼む前に次々と酒と肴が運ばれてくる。

 美味しそうなそれらに目が行っている間にスタッフは退席し、部屋には沈黙が流れた。

 が、何かを話す前にと小鉄はあっという間に大皿を空にして瓶は2本目を開ける。

 その時になって漸く泰彦が口を開いた。

「江木が隠したがっていた事がわかったよ。」

 淡々とした声に小鉄は瓶から直接飲みながら目線だけ遣す。

「なんだ。」

「江木は一条越司の異母兄弟だと言っただろう?」

「ああ。」

「『一条家』の人間は殆どと言っていい程野心家だったり鬼畜だったりするという話に違わず江木も今の会社を軌道に乗せるために色々な手を使ったらしい。」

「それで?」

「一条家の次世代のトップはまだ決まっていないんだ。一応一条章弘だろうという話だがまだ決まってはいない。一条越司はトップになりたいが故に様々な手を使っている。」

「つまりみやこさんが一条越司の手の内にあり、尚且つその古狸とやらのお気に入りという事から啓一経由で弱みとか弱点を掴もうとしたって事か。」

「まあ、そういう事だ。」

「・・・ん?でも何でそれが隠したい事と繋がるんだよ。・・・・・・・あ。ああ、そういう事か。」

 泰彦は頷いてスコッチウイスキーが入ったグラスを煽る。

「そう言うことだ。情報を引き出す為に付き合いだしたつもりが本気になってしまった。」

「だが、啓一は妙に潔癖な所があるからそんな事実を知れば江木と別れる可能性大。だから何としても隠したいという事か。」

「まあな。」

「なあ、啓一って妙に相手を嵌らせるような気がするのは俺だけか?」

「というより血だろう。みやこさんもそうだったから。」

「あ?だったら一条なんかに手駒にされる事は無かっただろうよ。」

 泰彦は溜息を吐く。

「いいか?一応広川とはみやこさんは結婚を考える位には好きだったんだよ。」

「それは初耳。」

「実際卒業前や就職後のデートに式場周りなんてしていたらしい。啓一が愚痴っていた。」

「あいつシスコンだからな。」

「みやこさんも充分ブラコンだったけどな。」

 話す間も食べ続ける小鉄を横から見ながら泰彦はグラスを煽る。

「で、続きだが、そこまで考えていたにも関わらず二人は別れた。しかもかなり手酷い方法で。まあ、言うのは癪だが捨てられた。そこへつけこまれたんだろう。」

 その言葉に小鉄は皿から顔を上げた。

「みやこさんが、か?」

「誰だって弱っている時はある。というより一条越司が巧みだったんだろうな。」

 溜息の様に吐かれた言葉に二人とも黙って酒を煽る。

「・・・・・・・・・ああ、こういう仕事をしていると人間の嫌な面を腐るほど見るけどな、本当に腐ってる。」

「誰が。」

「広川も一条、だ。」

「江木さんとか江島さん、遠藤さんは?」

「わかんねぇな。会ってないし。」

 勢いよく瓶の中身が空になり、床に投げ捨てるのを眉を顰めて見ながらもそれを注意はせずに話を続けた。

「全員会ってないだろう。」

「一条は前の仕事絡みで会った事もあるし、一応あいつ絡みの仕事を2,3した事がある。江木は単純に啓一の護衛で見た。」

「それで?」

「江島も見たぞ。啓一とみやこさんのマンション近くで。」

「・・・・・ほ〜。」

「で、君は誰がみやこさんを殺したと思う?」

「俺に分かるかよ。お前は?」

 泰彦はその問いを無視してみやこのノートを出して渡す。

「この中に書かれてあったレストランに行ってもらっただろう?」

「ああ。あれは驚いた。」

 中身は広川がみやこを脅迫したビデオだった。

 そして手紙。

「一条は啓一をも手駒にしようとしたらしい。それと遠藤も一条の配下だと。宛名は啓一じゃなくて俺宛だった。啓一を守ってくれ、と。」

「・・・つまりみやこさんは自分がいずれ消されると思っていたと?」

「ああ。もし今回の件がそうだとしなくても、いずれ殺されていたんだろう。」

「でも何でみやこさんはお前に手紙とビデオを託したんだ?他の奴でも良かっただろうに。」

 その問いにも答えずに泰彦は宙を睨みながらグラスを傾けた。

 



 同日。

 今日も迎えに来た江木と共にマンションへと帰って一息を付く。

「隆之さん、無理しなくていいんだよ?俺は一人でも帰れるから。」

「私が心配なだけだよ。だから甘えさせてくれ。」

 夕食は帰りがけに食べてきたので後は入浴後寝るだけとなっていた。

「俺、明日の事で確認する事があったから隆之さん先に入っていて?」

 といってもユニットバスなら客室に備え付けられているのだが、二人とも浴室を好むために順番に入っている。

「そう?でも今日は冷えるから程ほどにね。」

「電話するだけだから大丈夫だよ。」

 互いに微笑んで江木は浴室へ、啓一は自室となっている部屋へと行く。

 高層マンションの特質として眺めの良い夜景が見える浴室は江木が此処を決めた理由となったほどのものだ。

 常に入れる様になっている浴室で体を洗い、体を浸す。テレビも見る事が出来るが、普段はCDだ。

 甘く掠れた声をした歌姫のシャンソン。

 数曲目の「枯葉」を目を閉じて聞いていると浴室の扉が開かれる。

 目を開けてみれば啓一が僅かに微笑んで中へと入ってきた。

「一緒にいい?」

 江木は僅かに戸惑いを感じた表情をしながらも頷いて立ち上がる。

 軽く体を洗う啓一の背中を海綿で洗うのを手伝い僅かな悪戯をしながら二人湯の中に入った。

 CDはショパンのものに変わっており、今は「雨だれ」が水音の響く中流れている。

 江木の膝に乗り体を預けた状態だった啓一が体の位置を変えて向かい合い唇を舐めて上目遣いで江木を誘惑した。

「啓一?」

 警察署から連絡が来た日以降一度もそういう雰囲気にならなかったので、落ち着くまではと思っていた江木は困惑を隠せない。

「しよ?」

 啓一は再び江木の唇を舐め、今度は舌を絡める。

 児戯のようなそれは段々と深くなり、恋人を思いやって自制心を懸命に働かせていた江木もそれに引き摺られてしまう。

「啓一、だが・・・。」

「しよ?・・・何だか不安なんだ。」

 眉を少し下げて微笑む姿に江木は苦笑した。

 それを了承と受け取った啓一は自らの指を舐めて後ろに忍ばせる。

 手伝いをしようとした江木の指をもう片方の腕で制して艶やかに微笑んでみせた。

「みてて?」

 そうして解れた体を右手は江木の肩に置き、左手は中心にあるそれを支えてゆっくりと体を落としていく。

 顎を上げながら微笑む、その艶やかな表情に見惚れながら江木は啓一とその間目を合わせ続けた。

「大丈夫?」

「うん・・・平気。」

 額に汗を掻いているのは場所の問題だけではないだろう。

 だがその姿さえも魅惑的なもので。

 昼間と夜の顔が恐ろしく違うのだ。

「気を使わなくてもいいんだよ?」

 上に乗っている啓一の腰を少し持って浮かそうとする江木を啓一が止める。

「俺が、したいんだ。隆之さんこそ大丈夫?」

 啓一を迎えに来たいが故に仕事を持ち帰っているのを知られていると気付いた江木は苦笑する。

「あれは・・・啓一が同じ屋根の下で眠っていると思ったら疲れでもしないと眠れなくてね。」

 すればよかったのに。と啓一は呟いて自ら動き出す。

 共に動こうとした江木を制して啓一は一人動く。何処から学んできたのかと思うほどの動きで江木を翻弄し、あっという間に互いが弾けてしまった。

 その余りの速さに互いは苦笑するしかなく。

 しばらくそのままで笑い続けいてた。





 そうして寝室に舞台を移し、2時間後には疲れきった啓一は熟睡しており。

 その姿を愛おしそうに眺める江木。

 啓一が、自分の愛情を芯から信じ切れていないのは知っている。

 だからこそ、絶対に知られてはならない秘密を抱えた江木は神経を張り続けていたのだろう、自分でも疲労を感じていた。

 自分が調べた内部情報は大して役に立たないものばかりで、少し自己嫌悪を感じる。

「それでも、私は。」

 泰彦に対して隠し切れない程の嫉妬を抱えながら江木はその夜を一睡もせずに啓一の傍で過ごした。





 同日深夜。





 一条越司は某ホテル最上階の夜景を見ながら口元を歪める。

「まったく、手間のかかる事だ。・・・・お前もそう思うだろう?」

 丁度シャワーから出てきた童顔の秘書にガラス越しに問うが髪を拭きながら近づいてくる青年は黙ったまま一言も発さない。

 持っていたグラスをテーブルに置き、ソファーから立ち上がって青年が歩いてくるのを待つ。

 瞳に動きの無い青年は一条の傍へと来ると立ち止まる。一条は目を細めた後青年をベットへと放り投げて自分もベットへと沈んだ。





 江島は過去に数回訪れた事のあるバーである人物を待っていた。此処を選んだのはダイニングバーで騒がしいので自分達の会話が他人に聞かれ難い為である。

 聞かれても江島は困らないのだが、今からの会話と行動を邪魔されては困るのだ。

 来るかどうかはわからなかったが、あるモノを提示したので来る可能性は高いと踏んでいる。

 そうして自分の予想通り男は来た。

「久しぶり、というべきかな?」

「社内では会う事もあるが、話すのは久しぶりになるだろうな。」

 余裕を見せる男に江島の眉が若干寄る。

「さて、用件は手短にしてもらおう。可愛い妻と子どもが待っているのでね。」

「一条分家のお嬢様と結婚したからって無理して愛妻家気取るなよ、広川。」

 僅かに笑みを浮かべて言い放つ江島に今度は広川の眉が寄った。

「僻みか。」

「まさか。そうでない事はお前が良く知っているだろう?」

 醜く歪んだ江島の顔を見て広川の顔にもやっと僅かな同様が走る。

「何が目的だ。」

 江島が広川を呼んだのはかつて広川がみやこを脅したビデオを持っているという事だった。

「何だと思う?」

 口元を片方歪めるその笑みに広川は冷徹な瞳で見返した。





 誰も居ないオフィス内で遠藤は一人仕事をしていた。

 一条家の中で後継者候補に付くもの同士派閥が出来ていたが、抜きん出て優秀と言われている一条章弘は自分の派閥あるなしに関わらず能力のあるものを採用するタイプだったので遠藤は今の地位に居る。

 新人の時から縁あって一条越司の手足となって働いてきたが色々思うところもある。

 彼は手段を選ばなさ過ぎるとこの頃とみに思う。

 その隠れた腹心の遠藤自身も汚い事を見、してきたが、死んだ賀川みやこの弟でさえもその傷心に付け込んで手駒にしようとする一条の手口に嫌悪感を感じている。

 今更だという気持ちもあるが、自分が散々手を染めてきた黒い事を背負え切れなくなってきているのだろう。

 溜息の変わりに紫煙を吐いて、所々明かりの灯っているオフィス街を眺めた。





 その翌日。

 泰彦からの連絡で仕事中にも関わらず慌てて駆けつけた啓一と小鉄は久々の再会に喜ぶ余裕も無く泰彦に詰め寄る。

「「犯人が分かったかもしれないって本当か?!」」

 みやこが死んだとされるホテルの一室で悠然と珈琲を飲む姿に噛み付くように言う二人は泰彦を凝視した。

「多分、だ。確証も無ければ証拠も無い。だから今、その人に来てもらっているんだ。約束の時間までまだ間があるけどな。」

「はぁ?!お前、この間俺が聞いた時には何にも言わなかっただろうが!」

「俺には!何にも言っていないぞ!」

 詰め寄る二人に眉一つ動かす事無く対応する。

「言ってないからな。」

「あんなに協力したのにか!」

「俺は当事者だぞ!」

「確証が無かったから。」

 自前のモバイルを眺めながら言う泰彦に小鉄が切れた。

「無かったからと言って、どうして俺に何も言わないんだよ!」

「俺にも!」

 怒鳴り声の後、少しの沈黙が続き泰彦の溜息と共に静かな声が漏れる。

「俺だって自分の想像が外れてくれればいいとすら思っていたんだから言えるわけないだろうが。それとこの結論に至ったのは今日、しかも3時間前だから。」

 遠い目をした泰彦を見て啓一はやっと目の前のソファーに座り、先を促す。

「で?」

「お前と会っていた刑事さんに会った。そして少しの事を教えてくれたんだ。元々疑問に思っていた事だったから・・・・だが啓一には聞き辛い事だ。聞くか?」

 目線を上げれば思案気な泰彦と啓一の目がぶつかる。

「今更、だ。」

「そうか。じゃあ」

 そういって泰彦は小鉄と会話した事を簡潔に話す。

「そして、刑事と話した事は二つ。此処のホテルで殺されたみやこさんからは性交の後が無かった。でもチェックインしたのはみやこさん本人。」

「それってどういう事だ?」

「それは後で言う。もう一つは持ち物は一切持ち去られていないという事だ。」

 首を傾げる啓一と小鉄に泰彦は真剣な顔を向ける。

「これはあくまでも予測であって俺の推測に過ぎない。でもその人の意見を聞けばまた分かる事があるかも知れないから呼び出したんだ。特に啓一、これはお前が当事者だから言うんだが、俺はお前がどうしたいかで判断する。つまり、俺は犯人が分かったとしてもお前が通報しないというなら黙っておく。それを前もって言って置きたかったから二人を呼び出したんだ。」

 暫く沈黙の後、小鉄が口を開く。

「わかった。これは俺にも口止めしておきたかったらなんだな?」

「そうだ。」

「じゃあ、俺は、話し終えるまで黙って聞いておく。」

「そうしてくれ。二人とも隣の部屋で待っていてくれ。ドアは少し開けておくから会話は聞こえると思うけど、俺が呼ぶまで絶対に音を立てたり出てきたりするなよ?」

「うん。」

「じゃあ、俺は啓一をいざとなったら抑えておくよ。」

 頼む、と泰彦は言って二人を隣室の寝室へと追いやった。





   そうして十数分後。

 内線の電話に承諾した泰彦は同時に珈琲も注文する。

 その数分後、ノックの音に返事をし、入ってきた人に礼を言う。

「お呼び立てして申し訳ありません。」

「いや。」

 相手に座る様に促して互いに対面する位置に座ると、タイミング良くホテルスタッフが珈琲を持ってきたので受け取りに立ち上がり相手の前と自分の前に置く。

「単刀直入に言ってもいいですか?」

 静かな声で言う泰彦に相手が頷く。

「・・・・・貴方がみやこさんを殺しましたね?」

 息を呑む声も衣擦れの音も無い。

「どうして、そう思ったのかな?」

 暫くの沈黙の後言った相手の言葉に泰彦は淡々とした声で話し出す。

「まず、みやこさんは殺人にも関わらず警察が動いていません。これは圧力が掛かった結果でしょう。だから俺はみやこさんがファッションホテルで死んだのだと思った。一流企業のOLがラブホテルで殺されたなんて外聞悪いですからね。しかも漏れては危ない事情もあったから、これが一条越司の配下のものなら誰でも圧力をかけられたでしょう。でも違った。みやこさんはホテルで殺されて、しかも痴情のもつれでは無かったのだから。」

「・・・それで?」

「だとするとどうしてみやこさんの死は隠されたのか。それは表沙汰になっては困る人間が居たからだ。ちなみに圧力を掛けたのは一条越司です。これはとある筋から聞いたので間違いありません。つまりみやこさんを殺した犯人はみやこさんと繋がりのある人物。尚且つ一条越司が隠したいと思った人間になります。この時点で広川枝広は除外されます。
何故なら広川さんは一条越司の後継者争いに邪魔になる人物だから。残るは遠藤氏、一条氏、江島さん、江木さんになります。でも遠藤さんは動機が薄い。一条氏は可能性としてとても高いでしょうが、あの人はするとしたらその筋の人に依頼して終わりです。行方不明にするなり明らかに事故だと思えるようにさせるでしょうね。
江島さんは半ばストーカーと化した人ですが、真剣にみやこさんを好きだった。だから逆恨みの可能性もあるし、何か言われてかっとなってという可能性もある。そして江木さん。みやこさんから一条越司の弱みや情報を得ようとしてその弟である啓一と付き合いだした。でも啓一に思いもかけず真剣になってしまい、逆にその動機を隠さざるを得なかった。
その動機に気付いたみやこさんと口論になっているのが目撃されていますし。啓一を繋ぎ止めたい一心で衝動的に首を絞めてしまった可能性がある。」

「つまり私ともう一人が容疑者と言う事かな?」

「違います。もう一つ。みやこさんは自分が殺されるかもしれないと思って様々な証拠を残していました。一条越司の悪行に、広川が脅迫に使ったビデオ。その他様々なものを俺宛に。その中に一枚の小さなメモがありました。中には一行だけ書かれてあり、『啓一をお願い』と書かれていたのです。俺に、です。何故俺なのでしょうか。啓一を真剣に愛している貴方にでは無く。それは簡単です。みやこさんは啓一の前では仲良さそうにしていても信用していなかったんだ。啓一の恋人である江木さん、あなたを。貴方の悪行らしきものは一切書かれていませんでした。でも貴方には託せなかったんだ。」

 相手は、江木は小さな溜息を吐いた後カップを取り上げて一口含んだ。

「それだけが理由なのかな?」

「始めは疑問だけでした。啓一を深く愛している貴方が何故通夜にも葬儀にも出席しなかったのか。小さな疑問だった。殺してしまった後貴方は一条越司を頼り証拠を揉み消してもらい、無かった事にしたがそれでも不安は残っていた。一条越司と啓一の前で会った時、妙に感の良い啓一に疑問に思われないだろうかと。だから仕事を理由に出席しなかったのではないですか?まあ、後で異母兄弟だという事を話しましたが、貴方は落ち着きすぎていたんです。俺と啓一が会う事にもあまり良い顔をしなかったのに文句一つ言わず、俺の呼び出しにも応じた。俺を消すつもりだったんですか?」

「・・・・・・・。」

「でもそんな事はどうでもいいです。俺も消されるつもりは全く無かったので。貴方は小鉄・・・つまり、見知らぬ男が啓一の周りをうろついているのに動揺して啓一とみやこのアパートを探すのを後回しにしてしまっていた。その間に俺がビデオ等を見つけたのですが、貴方はともかく行動言動が自然すぎて無理があったのです。」

 江木は再び既に冷め掛けた珈琲を飲む。

 空になったカップをソーサーに戻して泰彦を見る。

 その瞳は何を考えているのか分からない。

「もし、そうだとして、君はどうしたいんだ?通報したいのかな?自首を勧めたいのか?」

 その問いは考えるまでも無いものだった。

「どうもしません。俺にはそんな権利もないし、江木さんの住む場所で市民の義務とやらを発揮する気も無いですし。」

「では何故。」

「それを決めるのは俺じゃない。啓一の権利です。」

「啓一の?」

 眉を顰める江木の顔を見たまま泰彦は声を出す。

「もう出てきていいぞ。」

 その声に江木がまさか、と呟く。

「隆之さん。」

 青い顔をした啓一が小鉄に支えられながら出てきたのを見て江木の体が震えた。

「啓一。」

「隆之さん、本当に?」

 今まで動揺もせず、何を考えているかすら分からなかった江木だったが啓一問いに唇が震える。

「それは・・・。」

「俺とはみやこから情報を引き出す為のものだったんだ。そしてみやこも殺したんだね?」

 青い顔のまま、何も写さない瞳で問う啓一に江木が駆け寄り肩を掴む。

「違うんだ!確かに近づいたのはそれが理由だが、でも、君を見た瞬間から、本気で・・・。」

「でも切欠はそうだったんだ。」

「信じてくれ!」

 啓一は小さく息を吸って、もう一つ言葉をつむぎ出す。

「そして、みやこを殺したんだ?」

「啓一、聞いてくれ。」

「俺の大切な、大事な、世界でたったひとりの姉さんを。」

「啓一・・・。」

 瞳すら合わせようとしない啓一に江木は掴んでいた腕の力を無くしてしまう。

「全部、嘘だったんだ?騙していたんだ?」

 呟くような声の後、啓一は決定的な言葉を吐く。

「・・・もう、二度と俺の前に現れないで。顔も見たくない。声も聞きたくない。」

 小さいが、ハッキリした声に江木の体が傾ぐ。

「・・啓・・・一・・。」

 そうして江木に対して背を向けたまま振り返る気配も無い啓一に江木の顔面は蒼白になった後、幽鬼の様な顔と動作で部屋を出て行った。

「啓一。」

 ドアが閉まって暫くしてから泰彦が呼べば啓一はゆっくりと振り返る。

 その頬には一筋の涙が。

「これでよかったのか。」

 その問いには答えずにただ黙ってその場に膝をつく。

 泰彦は眉間に皺を寄せて先程江木が出て行ったドアの前にも声を掛ける。

「あなたも、これで良かったですか?」

 いきなりの事に小鉄は一瞬眉を顰めたが、さすがに探偵、警戒しつつ自然な態勢を取り啓一の前に立つ。

 ゆっくりと開かれた扉から入ってきたのは。

 コート姿の江島だった。

「俺は江木とやらが犯人だろうとどうでも良い。」

 そうして浮かべた笑みは狂気の笑み。

「俺が憎いのはみやこが死ななければ、苦しまなければならなかった切欠を作った広川だ。」

 僅かに乱れて額に落ちた髪が狂気を一層彩らせている。

「だから。」

 笑みを浮かべたまま、江島はゆっくりとコートの前を広げた。

 中のスーツはどす黒い色に染まっている。

 それに息を呑む人間は・・・此処には居ない。

「・・・・・今から警察ですか?」

「ああ。ただ顛末が気になっただけだから。」

「今から直接向かうなら車で送りますよ。」

 その言葉に江島はやっと、普通の笑みを浮かべて頷く。

「そうだな。そっちの方が良さそうだ。」

 泰彦はその日始めて少し微笑んでから江島を促す。

 扉を閉める際に首だけ回して啓一を見る。

「啓一、それでも、江木さんはお前を真剣に好きだった事だけは疑うなよ。」

 俯いたままの啓一を見て、小鉄に後を頼むと言い残して扉は閉じられた。





 後日。

 広川を刺した江島の供述により広川がみやこを脅迫した件は世間の知る所となり、そんな人物を企業の上の者にしているとして一条関連企業はメディアで相当叩かれたがみやこが一条越司の下でしていた事は表ざたにならなかった。

 みやこを真剣に愛していた江島にとってみやこの名誉は何よりも守りたいものだったのだろう。

 そしてもうひとつ。

 みやこを殺した犯人は見つからず、ただ、小さく会社社長があるホテル近くのビルから投身自殺をした記事が掲載された。

「結局、啓一とみやこさんには悪いが、江木も江島も可哀想な気がするよ。」

 再び泰彦がオーナーを務める店で呑んでいる小鉄。

「そうか?」

「広川は自業自得だろうけどな〜。」

 小鉄の集めた情報筋では、広川は重症を負った上に当然の様に離婚とクビが即座に決定し、その後の行方も知れないという。

 本日の酒はバランタイン。

 世界で売られているものより日本に輸入したものの方がやっぱり美味しいと呟きながら、その美味い酒を瓶で飲む小鉄。

「何で江木さんと江島さんが可哀想な気がするんだ?」

「だってよ、結局、二人ともみやこさんと啓一に惚れなきゃこんな事にはならなかっただろう?」

 溜息を吐いて再び瓶を傾ける。

「そうだとしても、それが幸せだと思うか?」

「違うのか?」

「俺はそうは思わない。」

 泰彦は一応ロックグラスに注いだバランタインを口元に傾ける。

 肴は既にないので二人ともグラスと瓶を傾けるのみだ。

「何で。」

「江島さんは真剣にみやこさんを好きだった。江木さんもそうだ。

そこまで誰かに惚れる事が出来るのも一種の幸せだと思わないか?」

 小鉄は首を横に振る。

「俺にはさっぱりわからない。」

「誰かに真剣に惚れたらわかるさ。出会えた僥倖を。たとえそれが自分を破滅に導く出会いでも。」

 啓一は、今はショックで魂が抜けた様になっている。

 だが、時は流れるのだ。少しずつ心を癒していけばいい。

 泰彦は僅かの間目を瞑り、誰かに向かってグラスを掲げて揺らした。








                          おわり



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