鳴かぬ蛍が身を焦がす 





 日常の平和を楽しんでいた所に木戸経由で伝言が来た。

「明菜が弟が是非ともお礼をしたいと言っているとの申し出が来ていますが。」

 どうされますか、と譲の警護兼、世話役兼、秘書の宇治が手帳を取り出し訪ねる。

「ああ、うん。結局お店は三和会のものになったんでしょう?」

「違います。譲さん名義になっています。」

 ええっ?と眉を顰めると、会長の指示でと付け加えられて黙った。

「僕は・・・・飾りだけのオーナーですよ?」

「そういいつつも譲さんの助言によってカフェやダイナー、バーは繁盛しておりますから。ああ、あと明菜の店も相談役になって欲しいとの申し出が。」

 暇そうに見えて結構忙しい譲である。

「・・・これ以上仕事が増えるのは・・・。」

 自分の作品を売り物にする事を拒んだ譲は椎原から店を2,3店形だけまかされたのだが、譲の助言によって繁盛してしまった店は二号店を考えられている程。

 どうしようもない状態だった店ばかりだったのだが、人を見る目のあるらしい譲の人員配置によって譲自身が顔を出さずとも上手く経営されている。

 しかも本人の預かり知らない所で慕う人間は増える一方だ。

「とりあえず礼を言いたいという事ですから顔を出すだけだしてみては如何ですか?」

 その店の権利書とスタッフ共々譲の慰謝料代わりに貰い、今は楽な状態で営業させているとは聞いているものの、実状を知らない譲はそれもいいかもしれないと思った。

「そうだね。じゃあ、今日当たりそのお店に行く事にしましょう。」

 譲の言葉に宇治は頷いて車の手配を始めた。

 そうしてその日の夕刻。

 着流し姿で黒塗りの車から宇治の手を借りて降りた譲に少々強面の男が駆けて来る。

「譲さん!こちらにどうぞ。」

 譲の立場を正確に把握しているらしいその男は挨拶抜きに店の中へと案内した。

 営業にはかなり早い時間の為店内は閑散としているが、スタッフは既に勢ぞろいしている。

「・・・もしかして僕が来ると聞いたから皆さん早めに来られたのですか?」

「はい。今日は休業です。」

 その中で強面の男が頭を下げた。

「こちらのマネージャーを務めさせて貰っています」

「佐々木さんの下に居る、道也さんですよね?名字は知らないのですけど、とても優秀な方だと聞きました。」

 微笑む譲に道也は丁寧な仕草でソファーに座る様に勧める。

「一先ず先にお座り下さい。佐々木が名前を言わなかったのは、自分も佐々木だからだと思います。」

「ああ、そうですか・・・ではどうしましょうか、道也さんでもいいですか?」

「はい。」

 とりあえず表面は明るい性格の佐々木と違い、目の前の佐々木は寡黙な男の様だ。

「でも顔立ちが似ていますよね?」

「従兄弟です。」

「それで・・・。」

「私の事はともかく・・・先に明菜の弟に挨拶をさせましょう。」

 そうして着飾った少年、青年達の中から一人地味なスーツ姿の少年が前に進み出る。

 茶色の髪だが天然のものなのだろう、独特の雰囲気を醸し出し、大きな瞳が子犬の様で実に愛らしい。

 全身から香る様な色香はつい手を伸ばしてしまいそうになるもので。

「あの・・・甲田梓と言います。助けていただいて有難う御座いました!本当に、浅見さんが助けてくれなかったら僕は・・・。」

 心から感謝していると顔に書かれたその表情に明菜と共通のものを見て、思わず笑ってしまう。

「浅見さん?」

「ああ、すみません。明菜さんと似ているなと思って。」

 微笑む譲に梓は僅かに頬を染めて笑った。

 とても可愛らしい、魅力的な笑顔。

「本当に有難う御座いました。姉もとても感謝しています。」

「僕はただ指示しただけです。」

 いえ、と横から道也が譲に耳打ちする。

「佐々木が主に此処の手配などをしたのですが、譲さんが言わなければ絶対に此処は放置されただろうという事と譲さんがどんな方か自慢げに言われまして。」

 確かに譲は多少の指示を宇治経由で言ったが、だが。

「本当に僕は言っただけなんですけど。」

「譲さんが指示しなければこの店のスタッフは現状維持されていたでしょうから。」

「ですが・・・。」

「あのっ!」

 店のスタッフ全員が壁側に立ち大人しくしていたのだが、その中であからさまにハーフだと分かる少年が必死な顔で声を上げた。

「はい?」

 他の者がその少年を小声で咎めるが、譲が笑みを浮かべて促すのに勇気付けられて口を開く。

「その、店を辞めたい人は辞めていいって本当ですか?」

 譲は頷く。

「はい。このお店は既に僕のものですから。辞めたいと言っても大丈夫ですよ。じゃあ、今聞きましょう。辞めたいと思っている人は手を挙げて下さい。」

 すると6人が手を上げる。

「仕事の当てはありますか?」

 全員が戸惑った様な顔で互いを見た。

「無いのですね。」

 一人が手を上げる。

「はい。どうぞ。」

「ホストとしてでは無く、スタッフとして働きたいというのは駄目ですか?」

 道也と宇治を見れば僅かに頷く動作をし、宇治は小声で手帳を見せながら説明した。

「此処のスタッフは殆どが伊藤の者でしたので実質人手不足です。今はうちの下っ端を入れていますが・・・。」

「いつまでも借りているわけにはいきませんね。」

「はい。」

 譲は頷いて、発言した青年を見る。

「大丈夫ですよ。・・・但し、貴方が此処で働くという事は僕と他のスタッフにとっては良い事ですが、貴方自身は嫌な事が多いでしょう。望むなら他の店でもいいですよ?」

「いえ・・・此処で頑張ってみます。」

 その後はスタッフ達と色々と話し合い、暫く店を閉めて内装、外装、名前を変える事を決めた。

 それらが終わったのはかなり遅い時間だったのでスタッフ全員を誘って食事に出掛ける。

 アルコールが緊張を解したのか、ホストの少年、青年達も、スタッフもすっかり笑顔で譲に懐き、全員が上機嫌でその日が終わったのだった。





 今までの様な形態では無く、ホスト達には売春を強制しない。

 無理を通そうとする客は三和会から借りたガードマンにお帰り願う。

 その代わりホスト達は客と寝れば良いという考えは変えてもらう。

 過去銀座の店でトップを張っていたと明菜自身から聞き、宇治の情報もそれを裏付けるものだった為に明菜に教育係を頼む。

 捕まえられた際に店の備品を壊された明菜も店を再開するのは時間が掛かりそうだった為にこの依頼は渡りに船だった。

 知り合いの元黒服の男を連れて来た明菜の教育は厳しいもので。

 内装工事が終わるまでの約一ヶ月間の教育期間は彼等とホールスタッフにとって充実しへとた日々だったようだ。

 何処か諦めの雰囲気が強かった店のスタッフ達は内装が終わる頃には心に余裕を持った存在変わっていた。

 勿論変わらない者も居たが、此処まで金と熱意を掛けても変われない者は解雇である。

 付いていけなかった者は解雇、譲は教育期間が始まる前に通達した通りの事を実行した。

 譲の優しげな笑顔に舐めて掛かっていた者は改装が終了と共に教育期間の終了、解雇する者達を告げる譲に慌てたが時既に遅し。

 いくら椎原の情人だとしても本当にただ座っているだけではいくつもの店舗を任される筈が無いのだ。

 一応チャンスは与えるが、その努力を放棄した者は必要ない。

 情とビジネスのバランスというものは難しいものだがそれをあっさりやっていく譲だからこそ潰れかけた店舗を持ち直しているのだ。

 勿論譲の管理下にある店で働いている以上店のレベルを落とす者にも容赦なく解雇を告げる。

 スタッフが優秀なのもあるだろうが、短時間でも努力しているスタッフを見逃さず、蔓延する怠惰の空気にも敏感な譲だからこそ出来る事。

 そして貢献する者にはそれなりに報いる。

 だからスタッフは見ていてくれているという安心感とやる気を起こす。

 始めは唯懐いていただけだったスタッフとホスト達も改装が終わり、オープン間近となった時にはすっかり譲を尊敬するオーナーとして見ていた。

 半年は利益が出ないと考えていた譲だったが、想像以上にスタッフとホストが頑張ってくれて客を集めている。

 店が再スタートを切ってから僅か三ヶ月でスタッフの給料と純利益が出る様になっていた。

「この調子だと半年で内装代が返せそうですね。」

 宇治の言葉に譲は嬉しそうに頷く。

「うん。皆が思った以上に頑張ってくれているから・・・本当に凄いです。」

 冷徹な経営者では無く下の者を慕わせる経営者。

 宇治も譲の下で働けて幸せだと思う。

 営業時間終了間際に店に行くとオーナールームに通される。

 すっかり品の良い店と様変わりした店内は巧みな話術と良い酒、見目麗しい少年青年達とそれに執着する客達で溢れていた。

「今月も半ばを過ぎたけど・・・・ちょっと経費が少ない気がするのは僕だけですか?」

 マネージャーに問うと彼も頷く。

「はい。今まで性質の悪い顧客ばかりだったのでグラスが割れたりする事が多かったのですが、そういったお客様は出入り禁止としましたのでそのせいかと。」

 名前を変えても場所とホストが同じなら同じだろうと思って入る客が居る。

 値段設定の変更やシークレットルームの削除に腹を立てて、暴れて備品を壊す客が月に数度居たのだ。

 そういった騒動が減ったという事だろう。

「そう・・・これからもそういったお客様は出入り禁止にしてください。オーナーが変わって指針が変わったのだと説明も忘れずに。」

「はい。」

「それと逆恨みしてホストに危害を加えないとも限らないので、ガードはしっかりとお願いします。」

「勿論です。」

 穏やかにだが的確に指示をし、不明な点を指摘する譲の前では誤魔化し等利きはしない。

 どんな下っ端の人間でも自ら面接をする譲なので誤魔化そうという人間は滅多に居ないのだが。

 そうして営業時間が終了するとホスト達は足早に帰っていく者が約半分なのだが、今日は全員が残っている。

「皆さんお疲れ様でした。片づけを早く終わらせて何処か食べに行きましょうか。」

 譲の一言にスタッフは頷いて、ホスト達まで手伝って掃除を終わらせた。

 そうして繁華街の中にあるイタリア料理店を予約して皆で向かう。

 徒歩で移動出来る距離なのだが、譲の足が悪い事と警護の問題で車で移動。

 仕事後という事もあって皆良く飲み食べた。

「オーナー!今度日本酒も入れませんか?俺の顧客って日本酒好きな人多いんですよ!」

「あ、こっちもです。店だと格好つけてウイスキーを飲むけど日本酒もいいな、って言ってました!」

 バーテンを見ると彼も笑って頷く。

「そうですね・・・別に日本酒が悪いというわけでは無いですから入れましょうか。」

「・・・・ってお前が飲みたいだけだろう?」

 年長のホストが突っ込みを入れると周知の事実なのか笑いが昇る。

「いや〜、だってウイスキーとかコニャックばっかりってどうよ?」

「あ、今日欠勤だった雅人、どうも三和会との敵対勢力の幹部の愛人になったらしいって聞いたんですよ。宇治さんに言って調べさせた方がいいんじゃないですか?」

 情報通のホストが譲に言う。

「そうですね。調べておきましょう。」 

 有難う、と言うと笑顔になって頷く。

「いえいえ、オーナーのお役に立てるなら何より。」

 仕事の話が大半だが全員が楽しい気持ちなので決して固い雰囲気にならない。

 食事が終わり、車が来るまで僅かの間譲はスタッフ達と小噺をする。

 大した事では無く、今流行しているものから世界事情まで。

 立ち話で済ませても問題ない程度は心得ている面々なので、その辺は問題ない。

 そこへテノールのすっきりした声が響く。

「譲じゃないか。」

 艶やかな髪を揺らして振り向けば其処にはエリート然とした男が佇んでいた。

 エリート然とした男は誰が見ても振り向くほどの格好良い男だった。

 だがしかし。

 その男との再会を譲が喜んでいない事は誰の目にも明らかなもので。

「浩司さ・・・江上さん・・・・・。」

 呆然と呟き、顔面蒼白となった譲をその場に居た全員が心配する。

「久しぶりだな。」

 ホストとスタッフが譲を囲んでいる状態なのでそれ以上は近寄って来ないが、痛みを知り、敏感なホスト達は目の前の男が平然と人を心身共に傷つける人間だと察知していた。

 譲を傷つけた、叉はこれから傷つける可能性のある男を目の前にホスト達の表情は自然と固くなる。

 そんな雰囲気を察知しているのかいないのか。

 譲は青褪めながらも微笑む。 

「江上さん・・・ええ。お久しぶりです。息災の様で。」

「お前もな。しかし、お前らしい。男を侍らすなんて。」

 嘲笑では無く普通に笑っている所が逆に恐ろしい。

「侍らせてはいませんよ。この人達は僕の大事な家族ですから。」

 それでもその笑みを極力流してさらりと言う譲。

「ほぉ。そうか。」

「ええ。」

 常に優しげな雰囲気を纏う譲は今、目の前の男に怯えている。

 懸命に対峙していてもその気配はどうしても消えない。

 その態度を当然の様に受け止めると言う事は江上の前ではこの顔と気配が普通だという事を周囲に伝えていた。

 だがしかし。

 譲は一瞬目を閉じ、開いてから周囲の者達を見る。

 そうして微笑んでから大丈夫だと言う様に少しだけ微笑む。

 その微笑を江上は黙ってみてから口を開いた。

「ああ、今度の日曜は暇か?」

 その言葉に一瞬にして紙より白くなった。

「・・・え・・・。」

「暇かと聞いたんだ。久しぶりに会ったんだ、親交を深めようじゃないか。」

 そんな気が何処にあるのかと思わせる口ぶりに譲の周囲の空気が一気に悪くなる。

 譲が口を開く前に、ホストの中で可愛らしいが負けん気の強い子が眉間に皺を寄せて叫んだ。

「オーナーは暇じゃないです!日曜日は俺達と一緒に出掛けるって約束してますから!」

 子犬が吼えているみたいだが本人は必死だ。

 周りを歩く群衆からの視線を集める。

 元々ホスト達も江上も美形なだけあって視線はあったのだが、今はそれ以上だ。

 眼差し一つで睥睨する男相手にその子は譲の袂を掴んで対峙する。

「本当ですからね!ね?約束しましたもんね?俺達と遊びに行くんですもんね?」

 確かに先程の席で一緒に出掛ける約束はしたが日にちまでは決まっていなかった。

 だがしかし。

「ええ・・・そういう訳ですので。」

 譲の繊手がその子の頭を撫でる。

 すると、どうだとばかりに勝ち誇った笑みを浮かべて江上を見返す。

 だがその笑みすら江上の表情を変える事は無い。

 その事に不満そうな顔をした子の髪を梳く様にして撫でる事で宥めると、やはり子犬みたいに嬉しそうな顔をして一瞬にして機嫌を直した。

 袂を握ったままそんな風に見る顔に何とか自分のペースを取り戻した譲はその子の頭を撫で続けながら微笑んで断った。

 その微笑は三和会の一部の者が知っている、しっかりとした笑み。

 笑みを向けられて、始めて江上は眉を僅かに上げたが何かを言うでも無く名刺を差し出した。

「じゃあ、連絡しろ。」

 江上はそう言って立ち去っていく。

 人混みの中でさえ目立つ忌々しい姿をホスト達は睨みつける。

 だがそんな視線など晒されなれているのか全く気にする様子さえ無いまま見えなくなっていく。

 妙な迫力を持った江上が去るとその場は何となくざわめいた気がしてしまう。

 譲はざわめく周囲とは違い張り詰めていた緊張が一気に抜けてしまう。

 そうして頭の一部が白くなったと感じた時にはもう遅く。

「っつ!譲さん?!」

 糸が切れた様に意識を失ってしまった譲を支えたスタッフ達は騒然となった。





 譲が目を開けると其処は自宅ではなかった。

 白く綺麗な天井。

 回りは重厚な作りの本棚やデスク。

 役付きのオフィスと言った所だろうか。

「気が付かれましたか?」

 温厚そうな、始めて見る男が其処に居た。

「・・・はい。此処は?」

 起き上がろうとした譲をその人は制す。

「此処は三和会オフィス、工藤さんの部屋です。ですから安心して休まれてください。」

 譲は頷いて寝ていたソファーに横になる。

「始めまして私は朽葉りょうと言います。譲さん・・・・あ、すみません。工藤さんがそう言うものですからすっかり移ってしまって。お噂はかねがね。」

「・・・いえ、僕も名前の方がいいですから。それで、どうして朽葉さんがこんな所に?」

 温和そうな顔をしている朽葉はとてもじゃないがこちら側の人間には見えない。

「それは私が工藤の情人だからですよ。」

「・・・・工藤さんの恋人?」

「違いますよ。情人です。恋人ではありません。私の立場に人間は一人ではありませんからね。」

 何でも無い事の様にさらりと言った。

「つまり私はその他大勢の一人なのですが職業が職業なので此処に入れたという事です。」

「といいますと。」

「私医者なんですよ。」

 内科医ですけどね、と付け加えて笑う朽葉に譲は笑う。

「面白いんですね。」

「同僚には言われますよ。」

 言いながら脈を取り傍に置いてあった鞄に聴診器を仕舞う。

「貧血を起こしただけの様ですから問題ありませんけどあまり体が丈夫では無いようですので無理はしないように。いいですね?」

「はい。有難う御座います。」

「いえいえ。偶々近くにいたものですから。」

 朽葉はそう言って笑う。

 ノックがしたので朽葉どうぞ、と柔らかい声を掛ける。

 入ってきたのは椎原。

「譲大丈夫か?」

 眉を寄せて譲が横たわるソファーまで歩くと背中に手を回す。

 いつもの様にしっかりとでは無く優しく触れるか触れないかの優しさで。

「はい。僕は大丈夫です。」

「・・・・・そうか。じゃあ帰ろう。」

 掛けられた毛布ごと抱きかかえて立ち上がると朽葉がドアを開けてくれる。

「わざわざ済まなかったな。」

「いいえ。私も譲さんに会えてよかったですから。」

「ありがとう。」

「お世話になりました。」

 そう言って去っていく椎原と譲を笑顔で見送ってから朽葉は溜息を吐く。

「まったく・・・・・呼び出した本人は何にも言わないのに。本当に貴方の言った通り譲さんは可愛い人したよ。」

「そうだろう。」

 隣室に控えていた工藤が出てきて嗤う。

「まあ、いいですよ。貴方に捕まった私が悪いのですし。」

 肩を竦めて診察用の鞄を持って歩き出す。

「何だ、帰るのか?」

「これでも私は忙しいんですよ。」

「じゃあ何で歓楽街近くにいた?」

 朽葉は立ち止まって振り向く。

「欲求解消。誰かさんは中々相手にしてくれませんからね。」

「相手をして欲しいのか?」

「ええ。でももう解消してきたのでいいです。それじゃあ。」

 明るく笑って立ち去る朽葉の背中を見て工藤は軽く笑うと開けられたままだったドアを閉じる。

「まあ、いい。それより・・・宇治。」

 廊下で呼ぶと何時の間にと他に誰か居れば言いそうなほど気配を消して宇治が現れた。

「はい。」

「調べろ。」

「かしこまりました。」

 一部始終は店のボディーガードとして働いている三和会の者から聞いている。

 名前と勤務先が分かっているのだから調べるのは簡単だ。

「ああ・・・あの探偵事務所に連絡をした方がいいか・・・・。」

 譲が獲得してきた某興信所の紹介状はとても重要なものとなっている。

 どんな事でも詳細に調べ上げる其処は紹介状やその他諸々の条件が合わないと仕事を請けてくれない為に裏でとても有名な所なのだ。

「では早速手配いたします。」

「出来るだけ早くと伝えてくれ。」

「はい。」

 厳しい顔をしたままの工藤に同じく厳しい顔つきの宇治は直ぐ様手配をする為にそれぞれ動き出した。

 譲を抱えた椎原は車の中ではそのままの状態で只管譲の髪を梳き、到着すると抱えたまま部屋に入る。

 部下の者達は椎原の譲への執着は熟知しているのでドアを開ける、エレベーターのボタンを押す等の事意外はせずに補助に徹した。

 そうしてそのまま二人はベッドルームに入っていく。

 木戸はそれを見送ってから二人の為の夜食を作ってから階下の自室へと引き上げた。

 椎原は譲を寝台へゆっくりと降ろしてから顔中にキスをする。

「今日は疲れただろう?」

 優しく囁きながら帯を解き、単衣姿にしてからその上に布団を掛けて自分はその傍らに腰を降ろした。

 髪を撫でてキスをする。

 それだけの行為を繰り返す椎原。

 何も聞かないのは察知しているからだ。

 譲はそれを気付いている。

 二人の絆は細いものでは無く互いを思いやり、信じる事が出来るものだ。

 だがしかし。

 譲は江上にされた行為を忘れる事など出来ずにいるまま今に至っている。

 椎原がこの傷を醜いと思っていない事も、どんな過去があろうとも愛情を注いでくれるだろう事も理解しているのだが。

 それでも。

 髪を撫で続けた後椎原は静かに口を開いた。

「暫く別荘にでも行くか?もう直ぐ蛍が綺麗な季節になるし、温泉もあるから療養には丁度いいだろう。」

 譲が二度目の傷を負ってから椎原は質の良い温泉がある場所を探して其処に別荘を建てた。

 まだ行った事は無いが風光明媚な建物だと工藤が言っていたのを思い出す。

「雅伸さんは?」

 その言葉に椎原は悲しそうに笑う。

「俺は・・・・・悪いな、この時期は忙しくて。だが終わり次第直ぐに」

 言葉は止められる。

 譲が背中にしがみ付いて来たのだ。

 爪を立てている事は自覚していないだろう。

「嫌・・・・・いや、です。雅伸さんと離れたくない。・・・お願いだから・・・・。」

 静かな部屋の中でさえ聞き取る方が難しい程の小さな声は椎原には悲鳴に聞こえた。

「・・・そうか。わかった。俺が落ち着いたら一緒に行こう。」

 抱きしめ返すと血管が浮き出ていた手から少し力が抜ける。

 互いの瞳を見つめて、それからキス。

 譲は椎原からのキスをとても好む。

 長いキスをした後瞳を見つめると其処に恐怖の色を椎原は見つけた。

 舌打ちをしたいのを堪えて微笑むと、泣きそうな顔をしながらも譲は微笑む。

「もう寝るか?」

 髪を撫でると猫の様に目を細める。

「・・・・忙しいですか?」

「帰ってきたのに、か?」

 縋る瞳を笑って和ませようとしたが、譲はそれに乗ってこない。

 椎原は真剣な顔をした後首の付け根に強く吸い付いて赤い痕を残す。

 少し上に移動して、ハイネックのシャツを着ないと隠れない場所にも同じく痕を残す。

「俺のものだ。譲。」

 不安そうな譲に言い聞かせる様に耳元で囁くと一筋の涙を流しながら譲は何度も頷いた。

「雅伸さん・・・・・抱いて。」

 不安と恐怖に怯える譲は椎原に縋りつく。

「僕は貴方のものですよね?ずっと傍に居られますよね?・・・・・・っふ、っつ、こ、れは・・・夢じゃないんですよね?」

 一筋だけだった涙の筋は溢れる雫が消していく。

 上塗りされる頬の筋に椎原は舌を這わせる。

「夢じゃない。これは現実だ。夢なら二人で覚めなければいい。」

 唇を重ねると自ら溺れたがる様に、懸命に舌を這わせた。

「お前は此処に居る。」

 丹念に手と唇を体に這わせて、だが離れる事を恐れる様肌を触れ合わせたまま椎原は口元に、耳に肌に言葉を囁く。

 真珠の肌に、そして醜い傷跡に。

「この肌も、顔も、傷も、過去も未来も心も全部俺のものだ。」

 言葉を肌に塗りこめる様に囁きながら愛撫を繰り返す椎原に譲はその大きな背中に赤い爪あとを残していく。

「・・・あっ・・・雅伸さん、・・・・雅伸、さん・・・・此処にいたい。・・・離れたくない。・・・・怖い。」

 うわ言の様に言い続ける譲に椎原はずっと返事をする。

「ああ。離すものか。何があってもお前は俺の傍だ。」

「ほ、んとう、に?」

 縋る様に発せられた、擦れた声が艶めかしい。

「死ぬ時は連れて行ってやる。」

 その言葉を聞いて譲は心底嬉しそうに微笑んだ。

「絶対・・・で、すよ?」

 体の中の椎原を強く締め付けて約束を求める譲に強く頷く。

 それから互いに無言になり、唯只管体を動かした。

 これほど積極的な事があっただろうかと思う程激しく動く譲に椎原も応える。

 そうして、一度、二度、三度と体を繋げてやっと気を失った譲の額にキスをしてから体を拭く。

 使い物にならない程汚れたシーツを換え、新しい単衣を着せても譲は起きる気配が無い。

 泣いたせいで赤くなった瞼に濡らしたタオルを載せて髪を梳く。

「・・・さて・・・お前を泣かせた奴の落とし前をどうしてやろうか。」

 キスをしてから笑った椎原は譲に向けている優しさと愛情の篭った笑みでは無く、凶悪なものだった。





「会長、顔が凶悪ですよ。」

 翌日報告書を読んでいた椎原に工藤が指摘した。

「そうか?」

「ええ、此処に下の者が居たら逃げるか腰を抜かす程度には。」

 淡々とそう言いながら写真を見せる。

 書類をデスクの上に放り出してその写真を見ると椎原の顔に柔らかい笑みが浮かんだ。

「暗い顔をしてはいるが・・・ああ、やっぱりそうだ。」

 愛おしむように写真をなぞる。

 過去を慈しむその仕草に何となく引っかかった。

「どんな写真ですか?」

 尋ねるとその写真自体は懐に仕舞い、もう一枚の写真を渡す。

 今は話したく無いという意思表示に工藤は従い話に乗る。

「譲さんの高校生の時の写真ですか・・・今から数年前と言っても成長期。大分違いますね。」

 怪我をして細くなった現在より更に細い体に、写真越しでも分かる程の存在の薄さ。

 体育祭の写真で、譲本人がメインでは無く問題となっている江上が中心となって写っていた。

 譲は付き従う様に後ろに控えている。

 その学校の理事の孫にして譲の父親が務める会社の上司の息子で学年の中心的人物。  容姿端麗文武両道、圧倒的なカリスマ性。

 しかもその会社の創始者一族の人間。名門一族の家の後継者の一人。

 離れに住んでいた江上は其処に将来の腹心という名目で2つ年下の譲が中学に上がると同時に同居をさせている。

 名門一族の会社勤めをする人間の息子が将来の腹心として同居していたのだ。

 決して良い扱いでは無かった筈。

 学校でも冷遇されていたという。

 江上が大学に進学すると同時に譲は江上の家を出され、そのまま家出をしている。

 何があったかは想像に難くない。

 大まかには聞いているが報告書にあるものとは大分違う話だ。

 といっても、報告書の話も事実はあっても真実では無いだろう。

 譲本人は椎原に父親の上司の息子と常に行動していたとだけ言った。

 だがその時の顔色の悪さに凡そを察知していたのだが。

 具体例を知ると頭に来る。

 思わず持っていたペンに力を込めるとあっさりと折れてしまった。

 工藤は黙って新しいペンと取り替える。

「譲さん、色々と大変だったでしょうに、どうしてあんな風に前向きに明るく笑っていられるんでしょうか。」

「・・・どうしてだろうな?」

 不敵に笑う椎原に先程の写真の事と関係あるのだと察知した工藤は溜息を吐く。

「いずれ教えて貰えるんですか?」

「ああ。譲に話したら教えてやるよ。」

 懐にある写真をスーツの上から撫でる。

「ところで譲の両親は健在なのか?」

「はい。住所は変わっていますが勤め先は両親とも変わっていません。」

 譲には捜索願は提出されていない。

 提出された過去も無かった。

 共に暮らしだした時点で佐々木と工藤が調べたので間違いは無い。

 凡その事はその時に調べていたから江上の事も当然知ってはいたが、譲の前に現れなければ手出しをする気は無かったのだ。

 だがしかし。

「俺の大事な譲を過去も現在も泣かせた罪は重いと思わないか?工藤。」

「そうですね。“私達”の大事な譲さんを泣かせた罪は非常に重いと思いますよ。」

「・・・・おい。其処でどうして“私達”になるんだ。」

「三和会の中で譲さんの存在がどれだけ重いと思いますか?下の者達は譲さんを姐さんの様に崇めていますし、慕っています。譲さんを大事に思わない者は私を含めて三和会に居ないんですよ。」

 だから私達なんです、という工藤に椎原は溜息を吐く。

「まあ、譲がそれでいいならいいが。」

「いいのですよ。前に話した時とても喜ばれていましたから。」

「そうか。なら仕方無いな。」

 工藤は頷いて書類を捲る。

「しかし・・・江上の人間とは・・・少々厄介ですね。」

「なんだ乗り気じゃないのか?」

 揶揄する言葉に工藤は冷笑を返した。

「まさか。私も怒っているんですよ?特にこの書類を見て。一応会長が接触を持とうとしない限り手出しをするなと言われていたから我慢していただけです。もう何年も!ですよ。」

 つまり譲が椎原と暮らしだした当初から色々と思う所があったらしい。

「という事は火種は作っているのか?」

「当然です。何の為に私が朽葉を手に入れたと思っているんですか。」

「・・・鬼だな。朽葉も可哀想に。で、どんな情報を手に入れたんだ?」

「あの男が失脚するものを。過去と現在進行形で。」

 工藤の唇が左右対称に上がる。

 譲に対してや、誰かを嵌める前の優しげな顔では無い。

 はっきり言って怖い。

「そうか。聞かせてもらおう。」

 だがその工藤の上に立っているのは椎原だ。

 彼とて苛烈な競争社会の中で生きている男。

 椎原が牙を剥く時は滅多に無いが、それ故に恐れられている。

 その男が牙を剥くのだ。

 一人の男を潰す為に。

 過去、譲の世界だった男を現在の世界である男が潰す。

「ええ。まあ、貴方が本気になるのですから面白い事になると思いますよ。」

 例え格下相手でも譲さんの敵なんですからね、と工藤は心の中で呟いてから心底楽しそうに笑い、悪巧みの内容を話し出した。 





 名家生まれで一流企業勤務の、同期の中でもかなりの実力者で出世頭のエリート。

 友人は警察関係から某大手企業の御曹司、果ては海外のお坊ちゃまで様々。

 そんな男をどうやって社会的に破滅させるか。

 多少のスキャンダルは揉消される事は必須。

 人を一人位殺しても問題無い程の権力を本人と周りが持っているのだ。

 はっきりいって下手をすればこちらが潰される。

 というより見つかればあっさりとこちらの命自体がなくなるだろう。

 という事で工藤は譲に誘導尋問で瑞樹に相談するように仕向けた。

「そうですね・・・・瑞樹さんは経験豊富だし、相談も乗ってくれるでしょうから。」

 ここ数日でやつれてしまった譲は僅かに影が薄くなった様な気がして工藤も心配でならない。

「ええ。瑞樹さんの所には落ち着くことの出来る良いお茶もあると聞きましたし、予約は入れておきましたから。」

 傍らで控えている宇治も頷く。

「この頃は忙しかったですし、今日は休暇として久しぶりにボレロに行きませんか?」  二人の勧めに譲は頷いて立ち上がった。

 いつもなら仕事周りの時間だが宇治が既にキャンセルしているのでこのまま行く事にする。

 そうして車で雰囲気のある洋館、ボレロに辿り着くと主人である瑞樹が自ら出迎えてくれた。

「久しぶりですね、譲。」

 3ヶ月ぶりの再会に譲の頬は自然と笑みが浮かぶ。

 神をも凌ぐとまで言われる絶世の美貌は光の中輝く様だ。

 最も、安藤曰く、月光の下の方が美しい髪と真珠の肌が映えて美しいらしいのだが。

 生憎譲は月の下で瑞樹を観た事が無いので何とも言えない。

「お久しぶりです瑞樹さん。」

 紅い唇が笑みを作るが、眉は寄せられたままだ。

「ああ、でも顔色が悪い。」

 心配そうに頬に手を当てる様でさえ絵になる程の美しさ。

「とりあえず中に入って話でもしましょう。今の貴方に陽の光は毒でしょうから。」

 白くたおやかな手が譲の背中に当てられて歩みを補助する。

 普段入る、レストランの部屋では無く、プライベートスペースとなっている2階の一室に入れられた。

 階下の華やかな家具やカーテンとは違い、こちらは落ち着いた作りになっている。

 湯気の立つカップとアフタヌーンティーセットが直ぐにテーブルの上に置かれ、ライ麦や胚芽の香ばしい匂いが漂ってきた。

「昼食よりもこういった軽食の方がいいでしょう?」

 時刻は丁度昼時なのだが、そういった配慮を示されてはこの頃あまり食事を欲しない体でも食べなければという気分になる。

「有難う御座います。」

 食べるとそれは確かにシンプルな作りにも関わらずとても美味なものなのだがやはり食欲が無い事には変わらず。

 カップに口を付けるとハーブティーだという事がわかる。

「それで相談があるとか?」

 艶やかな笑みを浮かべて瑞樹は一口大のマフィンを口に入れた。

 後ろには安藤が控えて瑞樹の汚れた手を拭いてるが普段の存在感が嘘の様に、まるで空気の様に振舞っているので譲もあまり気にならない。

「はい。・・・・何と言う事では無いのですが・・・・その、昔世話になった人がいて・・・・でも僕はその人が苦手なんです。もう二度と会う事も無いだろうと思っていたのですが、先日偶々遭遇して・・・・それで。」

 指が震えている事に気付きカップをソーサーに戻す。

「それで・・・・・連絡先を渡されて・・・・・でも、僕は・・・」

 旧知の人と会った。

 端的に言ってしまえばそれだけなのだが、それがどんな人物かは譲には言えない。

 まだ椎原にも言えていないのだ。

 薄々気付いているのかもしれないが、言えないまま数年が過ぎてしまっている。

「その人が苦手で、出来る限り今後とも関わりたく無いのですよね?」

 明瞭な言葉にならない譲の説明をきちんと汲み取って苦笑する瑞樹に譲は慌てて顔を上げた。

「私にもそういった人物はおりますから。・・・ね?」

 優しい笑みを浮かべて譲に言ってから後ろを振り向くと安藤も頷く。

「ええ。瑞樹にも譲さんみたいな方は居りましたよ。ですから落ち着いてお茶を飲まれてください。それを飲まれたらもう一杯ご用意しますから。」

 ハーブティーには様々な効果があると教えてくれたのは目の前の二人。

 その二人が優しく微笑んでお茶を勧めてくれるだけで少し安堵した。

「その方の名刺を今持っていますか?」

「はい。」

 袂に入れている財布から名刺を取り出して渡すと瑞樹の眉間に皺が寄る。

「おや・・・。」

「これはまた・・・・。」

「ああ、うん。難しい相手だな。」

 だが安藤は艶やかに笑う。

「こちらの方でも対処しましょう。これでも私は譲さんの事を瑞樹と同じく弟の様に思っておりますので。・・・お嫌ですか?」

 僅かに首を傾ける仕草は上品な上に艶を含んだものだったが基本的に鈍い譲は首を横にふる。

 彼に色仕掛けは通用しない。

「いいえ。とても嬉しいです。」

「だったらこちらにも任せてください。幸い私には伝手がありますので。」

 やつれた顔をした譲は此処に来て始めて安堵の笑みを浮かべた。

 それから暫く雑談をし、店の事などを話してから譲はボレロを後にする。

 去っていく黒い車を見送りながら瑞樹は後ろに控える安藤に笑いかけた。

 その艶やかな笑みは譲に向けていたものとは違い、抗い難い魅力に満ちている。

「さて、本当に当てはあるのか?」

 実は工藤が菓子折り持参で昨日の夜訪れて説明していったのだ。

 書類も共に置いていったので詳細は知っている。

「勿論。無いとしても作りますよ。」

 二人とも素直で可愛く、鈍い譲が暗い過去を持っている事は気付いていた。

 それと直面するには彼はあまりにも過去を忘れられずに居る。

 一人では難しいし、精神面で深く引き摺ったままの状態では接触すれば発狂しかねない。

「この男、確かあまり良い噂を聞かない店に出入りしている筈ですからね。」

 ふふふ、と笑う安藤に瑞樹は苦笑した。

「楽しそうだな。」

「ええ。だって遠慮は要らなさそうですからね。」

 神をも凌ぐ美貌の後ろに隠れてあまり気にされないが安藤も美しい男だ。

 そして。

 それ以上に魔性の男だった。

 自分のせいで人生を狂わされた男を見るのが大好きな安藤にはとても楽しそうな話題でもある。

 安藤と付き合って自殺した者は一人や二人の数ではない。

 普段の姿からはそんな事微塵も感じさせないが、ある意味瑞樹以上に恐ろしいのだ。

「瑞樹、椎原氏には了承したと言っておきますね。」

 譲が気に入っているのも事実だが相手が大物だという事に楽しみを覚えてしまったらしい。

 心底楽しそうな顔をしている。

「・・・ああ。とりあえず他の人間は潰すなよ?」

「善処しましょう。」

「久しぶりの共同戦線だ・・・俺も楽しみだな。」

「ええ。」

 艶やかに微笑んでから早速準備に取り掛かる為に電話を掛ける安藤に瑞樹は苦笑してから邸内に戻っていった。

 



 江上と再会してから譲は魘される様になっていた。

 苦悩する様に眉間に皺を寄せ、僅かな嗚咽を漏らす。

 決して声を上げる事は無い所が過去を思わせて椎原は悲しかった。

 だが夢の中でも縋ってくれる事は嬉しい。

 縋るものはこれだけだという風に只管に椎原の名前を呼ぶのだ。

 手を絡ませ耳元に囁くと僅かに表情が和らぐ。

 だがまた数十分もすると魘され始めるのだ。

 そういう訳でここ数日椎原は譲が夢も見ない程疲れさせる様にしている。

 譲も椎原を積極的に求め、毎日熱帯夜もかくやという日々を過ごしていた。

「・・・顔がにやけていますよ。」

 工藤が心底呆れたという風に溜息を吐き、椎原は慌てて思考の海から戻ってくる。

「程々にしてくださいよ?・・・まあ、暫くは無理でしょうが。」

 日々魘されている譲の事は聞いていたので止める事は出来ない。

「まあ、仕方無いだろう。」

「だから顔がにやけていますよ。」

「・・・・・・・それはともかく、準備の方は?」

「こちらもしておりますが、安藤氏がとても頑張って頂いておりますのでこちらは後方支援に回ったほうがいいかもしれませんね。」

「安藤か・・・・俺はよく知らないのだが。」

「真性の魔性ですよ。下手すると瑞樹さんより怖いと思いますけど。」

「・・・瑞樹の方が怖いと思うが?」

 血塗れの瑞樹は美しいがそれ以上に恐ろしいと思ったことのある椎原だ。

「いえ、瑞樹さんは自分達に火の粉が掛からなければ攻撃しませんから。上に立つに相応しい貫禄と気迫とカリスマ、行動力を持ち合わせていますが、無駄は事はしない主義でしょう?」

「・・・まあ、言われて見れば確かにそうだな。」

「安藤さんの場合、つまみ食いで相手が自殺するまで追い込みますよ。有名な所では確か、江井商社の専務と御曹司、中東の豪商、山上組の幹部。」

「それって・・・全員自殺しているよな?」

「自殺する前後に安藤さんと付き合っていたそうですよ。」

 順風満帆だった男達が突然自殺をし、謎を呼んでいる。が、真相は闇の中。

「どうしてそれを知っているんだ。」

「とある筋から。さて、その魔性の力が思う存分発揮されるのですから楽しみですね。」

 普通、楽しみとは言わないだろう。

「そうか?」

 疑問を唱える椎原は割りとまともな感性の持ち主である。

「ええ。譲さんを苦しめた罰は相応に返してもらいましょう。具体的にどうするか今から話し合わないと。」

 工藤はそうは見えないがかなり屈折した感性の持ち主であった。

 本来ならば苛烈な報復を得意とするのだが、この頃は牙を抜かれたように大人しくしている。

 していた。

 これからする事に対してはその牙を美しく磨いて対峙する気らしい。

「・・・何も指示を出さなかったらどうなる?」

「とりあえず安藤さんは面白そうなのが2,3人本家の人間が居たと言っていましたから全員虜にして食い合せるんじゃないですか?」

 椎原は穏やかな表情をして常に瑞樹の傍らに居る安藤を思い出す。

 彼の過去は、あれは仕事だからと思っていたのだが。

「あれが本性だったのか・・・・。」

「え?」

「いや、なんでもない。」

 内心手を出さないでいてよかったと心底思っている事は決して言わない。

 自分のプライドと譲の心の安静の為に。

「江上の一族を乗っ取るほどの力は私達にありませんので食い合う相手を探しているのですが。」

「それなら瑞樹に今探してもらっている。そこだけでは足りないだろうからうちでも2,3探すぞ。」

「はい。一応“協力”してくれそうな所はピックアップしてあります。」

 数枚の書類を渡すと椎原はそれを斜め読みし、その中から一枚の紙を工藤へ戻す。

「此処と連絡を取れ。向こうが興味を示したら会食の手配を。」

「わかりました。」

 佐々木は既に情報操作を始めている。

 椎原と工藤は互いに目線を交わして嗤った。





 少しずつ、だが確実に罠を張る為に動く椎原と瑞樹達。

 その中心に居る譲には絶対に知られない様にしなければならない。

 たとえ傷を付けた相手だとしても譲は彼等がしようとする事に賛成するとは思えないからだ。

 譲の居ない所で彼がオーナーを務める店のスタッフや近しい者には緘口令が敷かれる。

 譲を慕う面々が彼を傷つける事を好む筈も無く、それぞれがどんな噂や話を聞いても沈黙を通した。

 彼等自身も友人知人に頼んでそれぞれが譲を守る為や江上の情報を得る為に静かに動く。

 やつれた姿の譲を見ては怒りを灯し、綺麗な笑みをまた向けてもらうために。

 短期間で終結するとは思えない仕掛けに其々がある程度しっかりした情報網を掴んだのは始まってから3ヶ月程の事だった。

 その日も譲が帰った後、それぞれの店のオーナーが集まり情報交換をする。

「で、どうなった?」

 其々が其々に持っている情報網や聞き込んだものを交換し合う。

 一人が持っているものは少なくとも表と裏に分かれた面々が寄せ合う情報は決して馬鹿には出来ないもの。

 今日は朽葉も来ており、それらを纏めて工藤の下へと持っていく。

「しかし・・・・皆さんよくこんな危ない橋を渡っていますよね。そんなに譲さんが大事ですか?」

「・・・俺達は譲さんに助けてもらわなければ命も無かった者もいる。それ以上に救われているんだ。そうでない奴も居るが、俺たちは譲さんだから動いているんだ。あの人には笑っていて欲しいからな。」

 恋情や崇拝では無く、そこで笑っていて欲しい。

 闇を知ってもあんな風に笑っていられる人間はいったいどれだけいるだろうか。

 特に体で生計を立てている者達が持ってくる情報は重要なものも多かった。

 それだけ必死だという裏返しでも有り、彼等が命を落とす前に何とかしたいというのが譲サイドの人間の本音。

 譲に気付かせない様に、だが確実に相手を嵌めるためになる情報を。

「そうですか。私も彼は嫌いではありませんよ。」

 という朽葉は楽しんでいる節がある。

 それでも彼はとても有能なので協力してもらうと助かる為に誰からも不満の声は出ていない。

「そうか。」

「ええ。それで、工藤に伝えるのはそれだけでいいのですか?」

「後は不確実だからな。・・・瑞樹さんと安藤さんが協力しているのは本当か?」

「ええ。安藤とは友人ですから仔細は聞いていますしね。」

 時々悪乗りして一緒に行っているというのは秘密だ。

 朽葉も性質は違えど安藤と同類。

 こういう相手を嵌めるという企みが大好きなのだ。

 それを表にしないのは彼が有能である証拠。

 安藤は単純に隠そうにも相手のレベルと数が多すぎたから無理になっただけの事。

 つまりはそういう相手を江上は敵に回しているが、彼はまだ気付いていない。

「椎原会長は何と?」

「ああ、会長さんは忙しいんですよ。とてもお怒りですからね。」

 様々な伝手と情報と人脈を持つ椎原は最近とても忙しく、始めは彼等の集まりにも顔を出していたのだがそんな暇すら消えている。

 それでも絶対に日付が変わる前に譲の待つマンションに帰っているから凄い。

 一見工藤に虐げられている様に見えて、実は眠れる獅子である椎原は怒らせると恐ろしく怖い相手なのだ。

 知る人は少ないが、10年以上前に彼が所属する組の上を潰した組織に椎原も入ってブレーンとして活躍したのだから。

 野心を持たず、現状維持に努め、普段は顔も広く愛想も良く、舐められても怒りもしない。

 何のために動くのか、どんな事があって怒りを灯すのか。

 それは誰にも分からず、気が付けば敵対勢力は静かに消えていく。

 だから二次団体とはいえ、他の組織でさえも対立は避けるのが三和会なのだ。

 決して警察の世話になるような事は無いがある意味不気味な存在ではある。

 そんな椎原が本気を出して、数年掛けて準備していた罠を広げているのだ。

 たとえ巨大組織といえどただでは済むまい。

「江上さんも可哀想に。会長を敵に回したばっかりに、ねぇ。」

 笑う朽葉は年齢の割に艶やかで美しいがそれに頓着する者達は此処に居ない。

「可哀想などとは欠片も思わないですよ。譲さんにした仕打ちが返るだけですからね。」

 正々堂々という言葉が似合う荒川はこういう企みは向いていないので寡黙な木戸が宇治の代わりに出向いている。

 宇治は常に譲の傍に居る為に後日報告をしなければならないからだ。

「安藤からの伝言です。“こちらの誑しは着々と。ただ少年好きの変態は無理そうなので誰か希望者を募ります。”だそうですよ。」

 すると倶楽部の者が煙草を吸いながら手を上げる。

「じゃあうちから候補を募ります。いなければ伝手から買い取りますので。」

「分かりましたら私に連絡を。」

「了解。」

 話し合いは簡潔に。

 時間にして15分で終わった会談は皆が名残を惜しむでもなく立ち去った。





 今日も深い快楽の淵でまどろむ譲に椎原が更に情欲を促すように、肩に頬に額にとキスをする。

 だが流石に3ヶ月以上続く連日の情事に譲は疲れ切っていた。

「雅伸さん・・・もう・・・。」

 回数はこなしていないがその分愛撫が濃厚になり、毎回ぐったりして眠りに就く程。

「譲・・・・そんなに俺が信用出来ないか?」

 素肌を撫でる仕草に閉じていた目を開ければ、椎原の瞳が曇っている。

 それを見て一気に覚醒した譲は椎原の頬に手を当てた。

「雅伸さん・・・僕は・・・そんな・・・」

「分かっている。譲が俺の事を信用している事は・・・・・分かってはいるんだ。ただ」

 寂しい、と譲を強く抱きしめて囁く。

「お前の痛みを知らず、分かってやれない事が寂しい。」

 苦しいほどの抱擁を受けて譲は俯く。

 温かい体温に言葉が無くても感じる程の愛情。

 一挙手一投足全てが愛されていると感じられるのだ。

「・・・・・雅伸さん。」

 暫くそのままでいたのだが、暫くして譲は蚊の鳴く声より小さな声で椎原を呼ぶ。

「ん?」

「僕が話している間・・・・・顔を、見ないでくれますか?」

「わかった。」

「絶対に、嫌いにならないでくれますか?」

 その言葉に椎原は笑う。

「どんな事があってもお前を嫌う事なんて有り得ないから安心しろ。」

 体を動かして、譲が椎原の上に乗る様にしてから頭を丁度心臓の上に置く。

 心音を聞きながら譲はゆっくりとした仕草で具合の良い様に動き、そして口を開いた。

「あの人・・・・・江上浩司と始めて会ったのは、父の会社関連のパーティーの時でした。何故か知りませんが僕はその時江上に気に入られ、その後時々呼び出される様になったんです。体を・・・もう知っているでしょう?触られたのは小学6年生の時でした。痛くて怖くて・・・でも親には言えなくて。」

 椎原の手に自分の手を乗せるとしっかりと指を絡められる。

「父と母は江上に気に入られている事をとても喜んでいました。僕に何かあったのだと母は気付いた様でしたが黙殺されて・・・。そうして中学の時同居を申し入れられた時はショックで、何をされているか話したのですが聞き入れて貰える筈も無く。実は同居を条件に父には出世が約束されていたんです。父は祖父の代から江上の会社に勤めていて、一族経営だという事を熟知していたので狂喜乱舞していました。お前の為にも良いから行け、そんな事はある筈も無い、と。そうして行った江上の本家での離れは僕にとって良い事はひとつもありませんでした。始めはそういった事だけだったのが段々と叩かれるようになり、痣が出来る様になり、縛られたりナイフで傷を付けられたり煙草を押し付けられたり・・・海外旅行に行った時は友達だという他の男達の相手をさせられたりしました。江上が高校に入ってからは本当に無茶苦茶で・・・パーティーに同席させられた後は必ずと言って良いほど同じ立場に立つ年の近い男達に遊びと称して色んな事を。そんな日々が永遠に、地獄の様に続くと思っていました。でも江上が大学に上がって数ヶ月経った時、突然僕にもう要らないと言ったんです。出て行けと言われて慌てて荷物を纏めて家に帰ったら話は既に実家に行っていて・・・・怒り狂った両親から出会い頭に殴られて、怒鳴られ・・・・。出世が約束されなくなったと二人とも怒っていました。それで僕は部屋と学校の片付けをして、両親が出かけた隙を見て家を出たんです。毎日殴られていましたから顔が腫れていて・・・歩いていたら声を掛けられて。一見すると気難しそうなおばあちゃんだったんですけど、帰る所が無いと言ったら自分も独り身だからといって暫く住まわせてくれたんです。バイトも伝手を使ってあそこで働ける事になってお金が貯まったらアパートを借りる保証人にまでなってくれてくれて・・・。おばあちゃんは一年しない内に元々患っていた病気で死んでしまったけれど、でも凄く良くしてくれて・・・だから、・・・・・そんな、嬉しい事ばかりで、雅伸さんとも会えて・・・・・でも・・・だから・・・・。」

 江上と会う事なんてもう二度と無いと思っていたんです・・・と嗚咽と共に吐かれた言葉に椎原は背中をゆっくりと撫でて譲が落ち着くのを待つ。

「服を脱ぐのはまだ怖いです。直視も出来ません。でも・・・僕には雅伸さんが居て、皆が居る。こんな事に怯えていては駄目だと分かっているんです。」

 指を絡ませ直し、胸に顔を強く押し付ける。

「いいんだ。お前はずっと恐怖を抑えてきたんだ。それが少しくらい表に出たって問題ない。そういう時の為に俺やお前を慕う人間が居るんだから。」

 頭を撫でると安堵の溜息が漏れた。

「・・・御曹司と呼ばれる子ども達がどんなに残酷か僕は身を持って知っている。江上はもしかして・・・僕をまたそんな奴等に引き合わせる為に」

「そんな事は俺がさせない。お前は俺のものだ。いいか、譲。お前は俺のものなんだ。俺は何があろうともお前だけは離さないからな。だからそんな事にはならない。」

 震える譲の言葉を遮って椎原は強く言い放つ。

「そんな事は絶対にさせない!」

 脇の下に手をやり、体をずり上げ視線を合わせてから強く言う。

「俺はお前の最後の男だ。そして始めに心に住まわせた男だ。そんな下らない男なんか、たとえ恐怖だったとしても心に住まわせるな。」

 強い言葉に譲は目を見開く。

「わかったか?」

 そのままの表情で頷くと、芙蓉の花より美しく顔が綻んだ。

「はい。」

「・・・・・こういう時は普通事に及ぶんだが・・・。」

 艶やかに微笑む椎原に譲は笑う。

 いかんせん二人はその後であり、譲は連日の情事に体がついていかない。

「・・・・・ごめんなさい。」

「いや、触れ合うだけでも俺は充分だ。」

 触れ合っている肌を更に隙間無く埋めて抱き合う。

「頼むから引き摺られてくれるな。」

 耳元で囁く言葉に譲は返す。

「貴方がそうやってずっと言ってくれるなら僕は絶対に引き摺られないから・・・・。」

 たとえ恐怖に身が竦んでも心までは引き摺られない様に、と椎原は笑う。

 譲も久々に晴れやかな笑みを浮かべて、その日は二人して安眠を貪った。





 椎原の言葉と皆の事を縁に何とか日常を取り戻した譲を見てみんなホッとしていたが気を抜けるわけでは無い。

 着々と情報は集まり、安藤が江上の中心に不穏分子と反乱分子を作っているが、いつ綻びが出来るとも限らないのでメンバー内の入った者たちは緊張の日々を過ごしていた。

 恐らく楽しんでいるのは安藤だけだろう。

 譲に気取られない様に。

 心配を掛けさせない様に。

 基本的に譲は三和会の者達が水面下で動いていたとしても口を挟まない。

 心配はするが、その領域に自分が踏み込んではいけないと知っているのだ。

「それでは皆さんお疲れ様でした。おかげさまで今月今日は最高の売り上げを出しました。」

 見回りに回った時、今月最後の日である日に改装オープンしてから最高額の売り上げをしたと聞いた譲は最後まで残り、皆を労う。

 その言葉を聞いて誇らしげに微笑むホストやスタッフを見つめて満面の笑みを作る。 「今日は皆で食べに行きましょう!中華を予約していますので好きなだけ食べてくださいね。場所はオーナーに伝えてありますので今から向かいましょう。」

 歓声が上がる中、譲は宇治に介添えをしてもらいながら自分が来た車に乗って木戸に声を掛けた。

「木戸さんは僕達を送ったら帰っていいですよ。」

「いえ、自分もお供させていただきます。」

「じゃあ、一緒に食べましょう。」

「いえ」

「食べましょうね。」

「・・・はい。」

 笑顔で頷くと木戸も苦笑したのが気配でわかる。

「皆さんはちゃんと着いたでしょうか。」

 護衛やその他の関係上、複数の人数を乗せるわけにはいかない。

 それはわかってはいるのだが、時々、賑やかな車に乗ってみたいと思うのだ。

 だがそれを口にする事は無い。

 それを言ったら宇治と木戸が困った顔をするのを知っているから。

 笑みを模ってミラー越しに見る木戸に微笑みかけると夜の街を窓越しに見る。

 歓楽街の外れであっても人の欲望が垣間見える夜。

 そういう事に基本的には興味を持てない譲にはなんだか少し笑えてしまう光景だが、これが日常。

 欲の為に自ら滅びるものも居れば滅ぼすものもいる。

 溜息が出そうになるが、その一端を担っている譲には何も言えない。

(ああ、駄目だ。思考が悪い方へと流れそうになっている。こんなんじゃ、皆が心配してしまう。)

 僅かに頭を振って暗い方へと流れそうになる考えを止める。

 自分には昔とは違い、心配してくれる人も、心の底から愛し合う事の出来る人も、居るのだ。

 笑顔で話してくれる店の皆や三和会の人達の事を思い浮かべると自然と笑みが浮かぶ。

 着いた店では既に皆が到着しており、笑顔で待ち受けていた。

「お待たせしました。あ、紹興酒とあとは・・・何を食べたいですか?好きなだけどうぞ。」

 その言葉を待っていたかのように次々と出されるオーダーに店員は顔を若干引き攣らせつつ応じる。

 一応此処は高級と呼ばれる店なのでこんな風に一般的な店の様な矢継ぎ早にオーダーという事が無いのだが、彼等はそれを全く気にせずに言い続けた。

 美味しいというのもそうだが、此処はイタリア創作料理を営む知り合いがオーナーなので、融通を利かせてくれるからでもある。

 注文を終えると同時に運ばれてきたのは大皿に乗ったサラダと紹興酒。

 ドレッシングと野菜自体が美味しいのもあって食は進んだ。

 次々と運ばれてくる料理も見た目も味もとても極上のもので皆上機嫌で食べながら話をする。

 日常的な事から少しの店の話題。

 それらを笑顔で聞きながら譲も箸を進める。

 注文した皿の殆どを空にした時ノックがあったので木戸が戸口に回り応答すると、外からは知った声が響いた。

「どうぞ。」

 譲が澄んだ声で入室を促すと入ってきたのは安藤。 

「皆様ようこそ。」

 オーナーでは無いが、それに近い存在である安藤がわざわざ店に寄ってくれたらしい。

「安藤さん!美味しい料理でした。」

「有難うござます。料理長にはその様に伝えておきます。」

 安藤が微笑むとホスト達の目線が一気に集まる。

 存在を知っている者もそうでない者も。

 運ばれてきたデザートの類はサービスだと言って振舞われ、安藤もその場に座る。

「四ヶ月ぶり、ですか?この頃来店されていないですからね。」

「はい。また寄らせて貰います。」

「是非。お待ちしておりますよ。」

 二人とも穏やかな雰囲気を纏っているのに人によってこんなに差があるのだと実感させられる譲と安藤。

 春風の様に優しく柔らかい雰囲気を纏う譲に、優しくとも根底には底知れぬものと妖艶な、隠しきれない雰囲気を纏う安藤は似ている様でいてまるで違う。

 和やかにデザートを食べ終えると席を立つ譲。

「有難う御座いました。また利用させてもらいますね。」

「是非お越し下さい。店のレベルを下げる気は無いので次回も満足して貰えると思いますよ。」

「それは嬉しいです。」

 伝票にチェックを入れてカードを出すと店員は直ぐに戻ってきてレシートとカードを渡す。

 それを宇治が受け取り、全員で店の前に出ると。

 江上浩司再び。

「あ。」

 真っ先に気付いたのは店のホスト。

 木戸と宇治がすかさず譲の前に立ち、視界を遮る。

 なのでまだ譲は気付いてない。

 そうして本当に偶々通りかかっただけらしい江上も気付いていないらしかった。

 同僚らしき男と一緒に立ち話をしている。

 だが。

 見送りに出てきた安藤の姿を見て江上の淡々とした作り笑いが変わる。

「栄!」

 同僚に断りも入れずに駆け寄ってきた江上に安藤は笑みを浮かべて対応した。

 さりげなく譲にも江上にも互いが見えない位置に移動して。

「こんばんは。」

「あ、ああ。」

 前回の威圧的な態度を知っている面々は驚きながらその違いを固唾を飲んで見守る。

「今日はお仕事の帰りですか?」

「接待の、帰りだ。」

「江上、誰だこの美人さん?」

 同僚らしき人物が声を掛けると江上がどう言ったものか悩む表情を見せるが、その前に安藤がすかさず名刺を取り出して渡してしまう。

「始めまして。江上さんは私がマネージャーを任されているお店の常連なのですよ。」

「そうなんですか。どんなお店ですか?」

 安藤は営業用の優しげでいて艶やかな笑みを浮かべて後ろを向く。

「この店です。つい先日オープンしたばかりなのですが、スタッフの教育には自信がありますのでよかったら一度ご利用下さい。」

 男は頷いてその店を見上げる。

「いい店ですね。」

 一応一等地にあたる場所でこんな細部に凝った作りの店は余裕がある証拠。

「はい。有難うございます。」

 穏やかな会話をしながら安藤は目線で宇治に立ち去るように指示をする。

 江上の声を聞いた時点で体を強張らせている譲を見られないように皆で不自然にならない程度に囲みながら歩き出したのだが。

 いかにも、な派手なシャツを着た男達が強引にぶつかって来たのだ。

「おい、何しやがるんだ!」

 恐らく皆が身形が良い事にわざとぶつかってきたのだろう二人組みは声高に怒鳴り出す。

 木戸と宇治は目線を合わせたあと、宇治は譲の肩を抱き横に移動をさせる。

 木戸は当然二人の男達の前に立ちはだかった。

 その軽い騒動に江木とその同僚、安藤の3人は会話を止めてしまっている。

「そっちこそぶつかっておいてなんだ。」

 堂々とした体躯の木戸が現れると二人は一瞬怯むが、今更引けないとばかりに怒鳴り出した。

「なんだと!」

「やんのかコラ!」

 一般人には有効だろう脅しも、それらに慣れてしまっている店の面々を怯えさせる事はあまりない。

 譲は宇治の袖を引いて小声で囁く。

「木戸さんなら大丈夫でしょうから今の内に行きましょう。」

 声は硬いものの、自分の店のスタッフを守らなければという気持ちが動いたのだろう。

 涼やかな声に宇治は頷く。

「はい。ではマネージャー、車の方に移動しますので。」

 去っていこうとする集団をその二人組みは追おうとするがそれを木戸が許すはずも無い。

「話なら俺が聞いてやろう。」

 木戸は目の前の二人組みと江上の視線の先を追いながらこの場を動こうとはしない。

「おい、安藤さん達。此処から移動してくれないか?一般人は巻き込みたくない。」

 安藤に向かって言うと安藤はほっとした表情を作って頷く。

「ご丁寧に有難う御座います。じゃあ、江上さんと同僚の方、宜しければ何か軽く飲まれませんか?お勧めのクラブがあるのでご案内しますよ。」

 さりげなく譲達が去っていく方向とは逆の道を示す安藤に同僚の方は頷く。

「そうですね。これも何かの縁でしょうから!」

 男女問わず美人に弱いらしいその人は笑顔で安藤の後に続こうと江上の袖を引いた。

 だが江上は動かない。

「・・・成程。そういう事か。」

 唇を片方だけ上げて笑みの形を作ると安藤の腕を強く引く。

「え?」

「お前は美人局という事、か。なあ・・・・譲?」

 真相を知った訳でも、企みがばれたわけでも無いが、ただ呼ばれたというその一つだけで譲の肩が震えた。

 足は縫い付けられた様にその場から動く事が出来ず、視線は下を向く。

 江上は堂々とした歩き方で集団に向かい、譲の腕を掴もうとする。

「譲さんに触れる事は許さない。」

 厳しい顔で睨みつける宇治。

 それに江上は肩を竦めて僅かに笑みを零れさせて、故意に靴音を高く立てた。

 触れこそしなかったものの、譲を怯えさせるには充分。

 笑い声を小さく漏れさせれば譲の肩が大きく動く。

「お前、俺を出し抜けるとでも思ったのか?」

 ゆっくりと振り返った譲には怯えしかない。

「・・・え?」

 その瞳の様子に江上は眉を顰める。

「お前、俺への復讐の為に栄を仕向けたんだろう?」

 その言葉にホストやスタッフ達は一瞬雰囲気を固くするが、直ぐに元に戻す。

 だが譲は困惑を隠せない表情で始めて江上を真っ直ぐ見た。

「復、讐?・・・・どう、して・・・僕が、ですか?」 

 譲は何も知らない。

 知らせていない。

「俺に対して白を切るのか?」

 眉を上げて言えば、また譲の肩が震える。

 手を伸ばしても宇治が確実に叩き落とすので江上は手こそ伸びないものの、江上が苛立ち始めた事を回りの人間は敏感に察知していた。

「・・・白を、切る?一体何を言っているのですか・・・」

 上がっていた視線も徐々に下がり、俯ちがちになってしまう。

 宇治は小さく震える譲の肩を優しく、だがしっかりと握り江上を睨み付けた。

「いくらお知り合いと言ってもそんな物言いをしていいとは思えませんが。」

 一応往来なので丁寧な口調を使う。

「お前には関係ない。」

 だが流石というか、皮肉にもというべきか、江上は名家の御曹司。

 甘やかされてばかりでは無い江上は宇治より迫力が上回っている。

 その切捨てる口調も堂に入っており、宇治は悔しい思いを噛み締めるしかない。

 騒がしい街中でその場だけが沈黙の場となっていた。

 そこへ、深く穏やかだが有無を言わせない響く美声。

「俺の恋人に何の用かな?」

 口元に薄い笑みを刷いて現れたのは椎原。

 後ろには工藤が眉間に皺を寄せている。

「雅伸さん!」

 震えていた譲が顔を上げて駆け寄ろうと一歩を踏み出す。

「譲さん、危ない!」

 だが足が悪い為に体勢を崩して地面と衝突しそうになったのを宇治が慌てて支えた。

「譲さん、気をつけてください。」

「ご、ごめんなさい。」

 そうして直ぐに顔を上げて真っ直ぐ椎原だけを見る。

 椎原は大きな足取りで譲の下へと来ると背中と膝の裏に手を当てて抱え上げた。

「走ろうとするなと言っただろう?」

「ごめんなさい。」

 スーツに顔を埋め、手は背中へと回す。

 シャツが僅かに濡れた事を察知した椎原は譲の艶やかな髪へと口付けをして顔を上げさせた。

「雅伸さん。」

 額、鼻筋、頬、唇と軽いキスを贈ると後ろから工藤の声が掛かる。

「社長。人前ですので程々に。」

 その一言に不敵な笑みだけで返すが、人前だというのを忘れていた譲は首筋まで赤く染めた。

「す、すみません。」

「譲さんは良いのですよ。」

 工藤は譲仕様の温かい笑みを浮かべて否定する。

「悪いのは全部社長ですから。」

 椎原は江上へと視線を移して口元に笑みを作った。

「で、何の御用ですか?」

 いくら名家の御曹司といっても椎原に勝てる筈も無い。

 今度は江上が怯んだ。

「譲が私に逆恨みしているようなので尋ねていました。」

 淡々と、だが若干冷や汗を流して江上が言う。

 周りに居た面々は遠巻きにするように離れてその対峙を見守る。

「ほぉ。譲が逆恨み、ですか。」

 笑みはそのまま、目を細めると一層迫力が増した。

 後ろで工藤は楽しそうに笑う。

「ええ。」

「そんな事はあり得ない。譲の性格を知っている貴方ならご存知だと思うが?」

 暗に全て知っているのだと伝えて、嘲笑を振りまいてみせる。

 格の違う相手と対峙した事の無かった江上は押され気味だが、それでも虚勢を張って対峙しようとするが、何の意味もなしてない。

「さあ、どうでしょうか。」

 無駄な事をしている江上が可笑しくて椎原は思わず笑いを漏らす。

 譲は首だけ上げて椎原を見ると、椎原は優しく笑ってキスを贈る。

 それに対して花の微笑みを向けてから懐に顔を埋めた。

 江上はそれに対して眉間に皺を寄せる。

「何が可笑しいのですか。」

「何が、かを分からない程愚かなのか?」

 その笑みを見たもの全てが凍る程の冷笑を向けてから椎原は身を翻して譲の店のスタッフに声を掛けた。

「無聊な男は放っておいて帰るといい。譲は私と共に帰る。妙な男相手に疲れただろう。」

 笑みを浮かべて工藤を見ると、全員分のタクシーチケットを取り出して渡す。

 安藤と江上の同僚にも渡すと安藤は工藤と椎原に目線だけ向けてから上品でいて艶やかな笑みを振りまいて半ば強制的に男を連れ出す。

 面々は黙って受け取り、譲にそれぞれ声を掛けてから振り返りつつも帰っていく。

 聡い人間が揃っている上に椎原は絶対に譲に害をなさないと知っているからだが、それでも心配してしまうという彼等の心情をよく現していた。

「譲は本当に慕われているな。」

 耳元で囁くと密着した体から心音が上がった事が知れ、椎原の顔には自然と笑みが浮かぶ。

 目の前にある恐怖より、恋しい男の言葉が勝ったとあれば嬉しくないわけがない。

「帰ったら、覚悟してくれ。」

 耳元で囁くと、一応公衆の面前だという事を思い出していた譲の耳は赤くなる。

「雅伸さん・・・。」

「そんなに赤くしていると、・・・・・食べたくなる。」

 態と声を低くして囁くと譲の体が跳ねた。

「あっ。」

 江上の存在自体を無視して繰り広げられる二人の甘い雰囲気は堪らない。

 工藤はいつもの事なので平然としているが、道行く人は譲の甘声に若干前かがみになって歩いていく者もいた程。

「そんな顔を他の男に見せるなよ?」

 暗にずっと顔を埋めていろと言う椎原に譲の拗ねた、だが甘えた声が響く。

「雅伸さんのせいじゃないですか・・・・。」

「じゃあ、責任を取ろう。」

「・・・もう、取ってもらっています。」

 訂正。

 江上どころか、譲さえも周りの人間の存在自体を忘れていた。

「そうか。ああ、今度旅行でも行くか?」

「そんな、ご機嫌を取ろうとしたって・・・」

「したって?」

「・・・・・本当に?」

「勿論。お前との約束だけは破らない。」

 断言しながら譲にだけ見せる笑みを浮かべると譲はウットリとした表情で顔を上げて椎原の頬に手を添える。

「雅伸さん。」

「譲。」

 見詰め合った二人はそのまま唇を寄せてキスを始めてしまう。

 ああ世界は二人の為に。

 そんな言葉を実際に実行している・・・というより無意識にやっている二人に勝てる者はいない。

 勝てる者はいないが止め様とする者は居た。

「おい、話は終わっていないのだが?」

 三和会のメンバーで止める者はいないのだが、此処は公衆の面前。

 ちなみに偶々近くを通っていた椎原の持つ店のホステスは眼福とばかりにその場から離れずに瞬きも忘れて魅入っている。

 普段は飄々としていてもいざとなればかなりやる男の上に一途で顔のいい椎原は度量の深い男でホステス達にも人気があり、譲は可愛いともいえる顔以上にその懐の深さと慈愛と癒しの笑みでこの界隈では有名なのであった。

 憧れとして。

 見て楽しむ対象として。

 その他様々。

 二人は江上の声など全く聞こえていない。

「さて、江上さん、でしたか?」

 なので対応者は工藤へと移る。

「・・・ああ。」

「貴方が何を言おうともその虚言は我々には通じませんよ。ですが、譲さんにそんな馬鹿げた酔い言を言った事、後で後悔しても遅いという事を理解しておいてください。」

 笑みを浮かべていてもその冴え冴えとした冷たさは凍える程。

 思わず怯んだ江上に満面の笑みを浮かべて背を向ける。

「それではお引取りを。」

 工藤は椎原と譲の下へと向かい、声を掛けて柔らかく優しい笑みを浮かべた。

「冷えますので帰りましょうか。」

 そうして漸く正気に戻った譲は顔を赤く染める。

「えっ・・・・あっ。く、工藤さん・・・・」

「そんなに恥ずかしがらなくても大丈夫ですよ。車がもう直ぐ来ますからね。」

「あ・・・・有難う御座います。」

 首まで赤く染めた譲はそれでも兄の様に慕う工藤に自然と浮かべた笑みを向けて小さく笑いながら話をする。

 それを穏やかに見守る工藤。

 椎原はゆっくりと顔だけを後ろに向けた。

 そうして江上に焦点を合わせると。

 嗤った。

 その笑み一つで足元が凍り動けなくなった江上を微塵でも見る目線を最後に遣ると譲へと顔を向け、3人は車に乗り立ち去っていく。

 後には足枷でも掛けられたかのように動けない江上だけが残った。





 部屋に帰り着くと椎原は譲を抱えてソファーに座る。

 譲が椎原の膝の上で水割りを作って渡すと一口飲んでから笑ってグラスを少し上に掲げた。

 意図を察した譲は微笑んで自分もグラスから一口含むと唇を重ねて流し込む。

 目線を合わせて微笑めば自然と袂へと腕が滑り込み、グラスはテーブルの上へ。

「あっ。・・・んっ、雅、伸・・・さん・・・」

 傷の痕さえも愛しいといわんばかりに全ての痕をなぞりながら意図を込めて動かす指を止める事無く椎原が顔を上げる。

「ん?」

「あまり、無・・茶、は・・・しないで、ください、ね?」

 詳しくは分からないまでも何かをしている事くらい今日の騒動で気付いた譲は、だが、詳細を聞こうとはせずにただそれだけをいった。

 椎原の手が止まると潤んだ瞳を椎原に合わせて言葉をつむぐ。

「僕は貴方が好きだから。皆もそうです。だから無茶はしないでください。」

 椎原は笑って頷く。

「ああ。そうしよう。」

 信頼しているから。

 踏み入ってはいけないから。

 椎原の矜持すら愛しているから。

 だから聞かない。

 そう選択した譲は慈愛の笑みを浮かべている。

 椎原は顔を近づけて唇を寄せれば譲もまだ脱いでいないスーツのジャケットに皺を寄せた。

 深く重なる唇を止める者などいる筈も無く。

 いない筈だったのだが。

 携帯が鳴り出した。

 無視していたのだが、延々と鳴り続ける。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」

「・・・あの、出た方が・・・。」

 唇を離して携帯を横目で睨んでいる椎原に譲が小声で言う。

 溜息を吐いてから携帯を手にする。

「まったく・・・電源を切っておけばよかった。」

 そう言う事は多いが、切った事は一度も無い。

 譲は袷の乱れを整えながら思わず笑ってしまう。

 どうした、と顔に書いてあったので譲は膝をずらして椎原の耳元に囁く。

「可愛かったので。」

 それだけ言うと耳にキスをしてソファーを降りて浴室へと向かう。

 帰宅してからまだ何もしていなかったのだ。

 椎原は苦笑してから見送ると真剣な眼差しで電話の主と会話を始める。

「俺だ。どうした。」

 段々と渋面から険しい顔になる事からその会話が良いものではない事は明らかだ。

「わかった。」

 通話を終了させて溜息を吐いた椎原に木戸が声を掛ける。

「面倒ごとですか。」

 実は帰宅してから二人の為に夜食を作っていた木戸。

「ああ。あちらさんが企みごとに気付いたようでな。対処に乗り出した。」

 思ったより早かったな、と呟く。

「出来る事はありますか?」

「譲を守ってくれ。後で荒川も寄越すから、何があっても江上の手の者を近づけさせるな。」

「はい。」

 眉間に深い皺を作ってはいるが椎原の口元には不敵な笑みが浮かんでいる。

「江上もただのお坊ちゃんじゃ無かったって事か。俺達と別れてから直ぐ対処を始めたらしい。」

「会長。」

「ん?」

 皺の寄ってしまったジャケットを脱ぎ捨てて木戸が差し出した同色のジャケットに袖を通しながら顔を後ろに向ける。

「楽しそうな顔になっていますよ。譲さんに無理はしないと約束されたばかりじゃないですか?」

 普段は寡黙な木戸にしては珍しい発言に椎原は笑う。

「しないさ。」

 能ある鷹は爪を隠す。

 その通りの椎原が本気を出しているのだ。

 無茶などする必要も無い。

「では譲さんには急用が出来たと言っておきます。」

「ああ。出来るだけ早く帰ってくるから布団を暖めておいてくれと伝えておけ。」

「はい。」

 階下に住む部下達は既に工藤からの連絡どおり玄関の外で待っている。

 右手を上げて部下達を従わせながら椎原は颯爽と夜の闇へと向かって行った。  





「あれ、雅伸さんは?」

「急なお仕事とかで出掛けられました。」

 譲は若干気落ちした顔をして木戸が差し出した夜食のサンドウィッチを抓む。

「そう、ですか・・・。」

「“出来るだけ早く帰ってくるから布団を暖めておいてくれ”だそうです。」

 ロイヤルティーを飲んでいた譲はカップを傾けていた手を止めて木戸を凝視した。

「え?」

「ですから・・・・すみません、復唱するのは勘弁してください。」

「え、あ、・・・はい。」

 頬を赤らめて頷いてから再びカップを傾ける。

 出されたサンドウィッチをすべて食べ終えた譲は歯を磨きにバスルームへと行く。

 譲用に椅子が置かれてあるので、そこに座る。

 バスルームも温かいこのマンションで譲は時々椎原が出会って間もない頃に言った“籠の鳥”という言葉を思い出す。

 だがそれは決して居心地の悪いものでも、不快なものでもない。

 愛されて、大切にされて。

 それ故の籠の鳥。

「そういえば・・・・・僕は籠の鳥である事の方が多い・・・・。」

 呟いて思い出すのは両親、それから江上。

 両親の下に居る時は母の客に見せびらかされ、決められた習い事をしていた。

 江上の時は羽を切られた鳥の様に、残虐に。

 だが椎原が作った籠は何と心地よいのだろう。

 広い部屋に自由に飛べる場所。

 過去も現在も、そして未来も。

 おそらく椎原に適う者はいない。

 どんなに条件の良い籠を見せられても譲はもう動く気は無かった。

 愛情たっぷりで、居心地の良い籠を与えられた鳥はそこに満足しているのだから。

 籠の鳥は哀れだと言う人はいるけれど、少なくとも今の譲は例えようも無い程幸せだ。

 何処がかわいそうだというのだろうか。

 籠を開け放たれたとしても譲はきっと動かない。

 もし椎原が譲の首手を遣ったとしてもそれさえも甘い・・・・・。

 だからおとなしく与えられる餌と愛情を甘受して愛する籠の主の帰りを待とう。

 譲は椎原に見せてはいないが知られている事を知っている。

 皆が思う程自分は純粋では無い事を。

 椎原はそれを知っていて尚愛おしいと言ってくれるのだ。

 譲も皆が思う程椎原が冷静な男で無い事を知っている。

 それどころかどこか静かな狂気を孕んだ心を深い底に沈ませているのだ。

 だがそれさえも。

 愛おしい。

 二人で居る時に時折宿る、あの瞳。

 その瞳を思い出して甘い吐息を吐いたとき、頭の隅に何かが点滅した気がした。

 

 そ の 瞳 を 過 去 に み た こ と が あ る 



 鏡を見ているのは確かに自分なのに、自分の背後に誰か居るような錯覚に陥る。

 だがその思考は一瞬で気がつくと水が流れたままになっていた。

 歯ブラシを取り出して歯磨き粉を塗ると歯を磨く。

 水はコップに入れてから止めて、鏡を見ながら歯ブラシを動かす。

 段々と動く手が遅くなり、そして止まる。

 気がついて手を動かし、また遅くなり、とまる。

 それを繰り返して何とか磨き終えた譲は口を漱いで綺麗にしてから鏡をもう一度見た。

「僕は何を・・・・。」

 思い出そうとしている?

 自問自答しても答えが出る筈も無い。

 だが自分は知っている。

 何を。

 だがその思考は突然停止した。

「譲さん、大丈夫ですか?」

 木戸が歯を磨くにはあまりにも長い時間だった為に扉を開けて確認しにきたから。

 低い声に譲が振り向くと木戸の眉間に皺が寄る。

「譲さん、長い時間立たないで下さいとお願いしている筈ですが?」

 自分を見下ろすと確かに立ったままの状態。

「あ、ごめんなさい。」

 夢に浮かされたような声で言うと木戸は譲を寝台へと促す。

「ベッドに入っていてくださいと会長から伝言されたのでしょう?」

 譲は頷いてベッドに入ると自然と目蓋は重くなり、あっさりと黒い夢へと飛び込んでいった。





 額に温かい感触を感じて目を開ければ其処には椎原の顔が。

「おかえりなさい。」

 花の笑みを浮かべて手を伸ばせば布団を捲られて抱き抱えられる。

「ただいま。」

 軽いキスと深いキス。

 帰ってきたらそれをするのが習慣だ。

「雅伸さん。」

 若干息の上がった椎原が譲の顔を覗き込むと潤んだ中にも何かがあると思わせる目をしている。

「ん?どうした。」

「何か・・・夢を見て・・・・。それで、思い出しそうな事があるんです。」

 椎原は優しく微笑んで譲の寝乱れた髪を撫でて整える。

「嫌な事か?」

 譲はゆっくりと首を振り、口元を綻ばせて椎原に手を伸ばす。

「すごく・・・思い出したい事なんです。僕は、多分・・・・・貴方の瞳を知っている・・・・」

 外の冷気と、酒の匂いに包まれた椎原に触れながら譲は身を起こしてしっかりとした体躯に顔を埋める。

 微かな煙草の匂いと酒の匂いに口元を綻ばせて囁く。

「雅伸さんの匂い。」

 椎原は苦笑して譲を抱きかかえると移動する。

 そうしてソファーに抱えたまま座るとキッチンに居た木戸がサンドウィッチと珈琲と紅茶、新聞二誌を持ってきてくれた。

「新聞はまだこちらしか配達されておりませんでした。」

「わかった。」

「ありがとう木戸さん。」

 木戸は一礼してからキッチンへと下がる。

 首を回して時計を見ると、午前4時40分。

「あっちで寝ていないの?」

 まだ寝ぼけ眼の譲が少し幼く聞こえる言動をした事に椎原は笑って珈琲を飲む。

「それよりお前の補給がしたかった。」

 口中に珈琲の苦い味が広がる。

 譲は椎原の膝の上からサンドウィッチを一つ摘んで椎原の口元に持っていくと、それを食べながら新聞を読む。

「今日は早く帰って来れそうですか?」

 食べ終えたタイミングを見計らって珈琲カップを口元に運ぶ。それからサンドウィッチを。

「この頃忙しいんだ。・・・・楽しく悪巧みをしているからな。だから譲も身辺には気をつけてくれ。出来ればあまり外出しないほうが嬉しいな。」

 譲は感づいていたが、それを顔に出さずに微笑む。

「じゃあ今日は大人しくしています。終わったらどこか連れて行って下さいね?」

「勿論。」

 仕事が空けば数日程だが譲と旅行に行くのを楽しみにしている。

 時々湯治と称して譲単独で行かせたりもするが、基本的に二人一緒がいいのだ。

「ああ、偶には海外にでも行くか?」

「・・・・・・・雅伸さんがその方がいいなら僕は何処でも。」

 椎原は苦笑して譲の眉間に手を遣る。

「嘘だ。どうせなら良い温泉が出ている所の方がいい。」

 行く場所はいい温泉のある場所。

 観光をしたくても椎原の都合と譲の足の事があるので大して出来ないから観光施設が充実していてもあまり意味は無い。

「ありがとう雅伸さん。」

「一緒に骨休みをしような。」

 最後の一口を譲の手によって運ばれると珈琲を飲み干し、譲をソファーに降ろしてからバスルームへと向かう。

 譲はそれを見送ってから新聞を畳む。

 既に読み終えられたそれをテーブルの端に置くと、木戸が来て食器をトレイに載せてからテーブルを綺麗した。

「木戸さん、今日は宇治さん何時に来る予定ですか?」

「9時の予定です。」

「今日の予定をキャンセルできるか7時になってから聞いてもらえます?」

 木戸は頷いてから片づけを再開した。

 譲は立ち上がり寝室に行って着替えをする。

 深緑の着物に手早く帯を締めてから櫛で髪を梳く。

 普段から首を傾げたり動作によっては音を奏でる譲の髪は然程櫛を通さなくとも十分に美しい。

 身支度を済ませてから椎原のスーツを選ぶ。

 深緑に白いシャツ、ネクタイピン、ネクタイは。

「赤、でいいかな?でも黒の方が格好いいかも。」

 先日購入したネクタイを見比べ、その格好を思い浮かべると甘い溜息が出てしまう。

 迷っている時間は無いのでリビングに持って行き、木戸に見せる。

「どっちがいいと思いますか?」

 ちなみに黒は同系の糸で精密かつ美しい刺繍が施されている一品だ。更に光の反射によっては銀色にも見える。

「私は黒の方がいいかと思いますが。」

 実は譲の帯も黒である事に木戸はちゃんと気づいていた。

「・・・やっぱりそうですか?」

「はい。」

 譲は頬を染めて微笑むと椎原が髪を整えて来るのを待つ。

 やってきた椎原がそのスーツとネクタイを見て口元を緩ませる。

 譲が介添えしながら来たスーツは椎原に良く似合っていた。

 最後にネクタイを綺麗に締めると譲は甘い溜息を吐く。

「やっぱり雅伸さんは格好いいですね。・・・・・誰かに誘われても行かないで下さいよ?」

 椎原は笑って譲の頬にキスをする。

「お前以上に魅力的な人間はいないから大丈夫だ。」

 最後にネクタイピンを、ジャケットを着ている状態では隠れる場所に付けると腕を引かれて深く激しいキスをされた。

「・・・行ってくる。」

「行ってらっしゃい。」

 ネクタイピンは譲が作ったものを加工したもの。

 スーツも実は譲が今着ている着物と同じ生地から作ったもので。

 譲の願いと覚悟が込められたそれらを身に纏って椎原は歩き出す。

「さて、今からが正念場だ。」

 車に乗って発せられた言葉に、助手席に乗っていた工藤が笑って頷いた。





 真夜中の電話はアチラが本格的に圧力を掛けてきた事を知らせるものだった。

 主要な面々は報告と対策を練る為に集まり、実は着替えの為に一旦休憩を取っただけで再び集まる事になっている。

「工藤、状況は。」

 現在進行形で三和会全体と椎原が表として営業している店、そして譲が経営している店と安藤が取り仕切っている店が攻撃されていた。

「安藤さんは“用事”があるとかで抜けられた代わりに瑞樹さんが代理として来ると直接メールが来ました。」

 安藤は瑞樹の下にいるので本来なら逆なのだが、瑞樹は今回関わってない為“代理”として来るという事らしい。

 そうして現れた瑞樹は。

 とても美しい女性になっておりました。

 夜会巻きに纏められた髪と、(安藤が)丹念に手入れされている肌は光の反射で艶やかに光っており、指の先まで美しい。

 そちら方面のプロであるホストも見惚れる程の美人。

「・・・・・なんで女装しているんだ。」

 椎原は今まで感じていなかった疲れがどっと溢れるのを感じる。

「この次の仕事で必要だから。でも手抜きだからいいだろう。」

 本人曰く軽い化粧とスーツが女ものなだけだという。

 此処に肌質や化粧品、シェイプアップに命を賭けている女性がいたら殺したくなる存在が此処にいた。

 何故なら椎原と工藤が知る限り瑞樹は○○歳の筈なのだから。

 なんだこの無駄な美貌は、と思っても仕方ないといえる。

「何度かしたの見たことあるだろう。どうして今日に限ってそんななんだ。」

「・・・いや、いい。」

 椎原は溜息を吐いて椅子に座ると、いい加減疲れてきた工藤も瑞樹の正面になる隣の椅子に座った。

「昨日から皆疲れているだろうが、早急に対策を立てる必要がある。」

 疲れていても精神が高ぶっている為に皆集中した態度で話し合いを始める。

 工藤がノートパソコンを見ながら瑞樹に要点を説明するのを兼ねて今までの事を簡潔に説明している時椎原の携帯が鳴った。

 メールだったのでそれをチェックすると、工藤の話が終わるのを待って口を開く。

「安藤から連絡があって、某大手興産と海外企業の2社が江上の敵に回るそうだ。それとこっちからは石油供給会社と江上と同業の会社6社が。」

 椎原達の為に協力するのでは無く、あくまでも利害関係が一致した結果だ。

「それと江上の御曹司曰く、重機部門と林業部門は切り捨てても良いという事だからその辺りを集中的に。」

 椎原達に協力を申し出た江上の御曹司は獅子懐中の虫をこの期に一気に捨て去るつもりな為に多少の犠牲は止む終えないと判断を下している。

 江上家本家と江上の家に打撃を与えた上に今後も繋がりを作るという作戦は攻撃が始まった今逆に追い風が吹いた様に良い連絡が来ていた。

「これも譲さんが居るお陰なのでしょうね。」

 工藤の言葉に事情を知る面々は頷く。

「椎原。」

 黙って聞いていた瑞樹が口を開く。

「なんだ。」

 古い付き合いの為に互いに言葉と態度がぞんざいになっているが、別段悪意は無い。

「義介さんの助力はいらないのか?」

 岡本組傘下の三和会にとってはトップ中のトップである亢竜会会長にして岡本組会長の中村義介。

 この世界において、その力は絶大だ。

「例え旧知の仲でも借りを作りたくないのでな。」 

 不敵に笑う椎原に瑞樹は僅かに目を眇めた後何も言わずに出された珈琲を飲む。

 椎原はそんな瑞樹を数秒見つめたが何も言わずに集まった面々に笑みを見せる。

「さて、良い展開にはなってきたが、攻撃と妨害をされている事に変わりは無い。店の営業にも支障をきたすだろうが何とか乗り越えよう。互いへの連絡は細かに。話は以上だ。」

 どんな境遇になろうとも店のスタッフや雇われ店長である者達は仕事がある。

 軽く目礼したり足早に去っていくものと色々だったがあっという間に部屋の中は椎原と工藤、瑞樹の三人になった。

「何を企んでいる?」

 淡々とした声で一見すると聞き流しそうな程軽い口調で尋ねる瑞樹に椎原と工藤はまったく同じ種類の笑みを浮かべる。

「江上を潰す事。」

 珈琲に遣っていた目線を椎原へと写し、瑞樹は微笑む。

「嘘だな。それだけじゃないだろう。」

 椎原の笑みが凶悪なものへと変わる。

 瑞樹は柔らかい笑みを浮かべたまま席を立つと工藤にカップを渡して椎原とキスが出来る距離まで歩き耳元で囁いた。

「まあ、俺も協力してもらった身だからな。多少は、ね?」

「多少は、な。だがまだ先の話だ。」

 艶やかに笑む瑞樹に椎原も穏やかな笑みで返す。

「譲さんはどうする?」

「連れて行く。」

 即答に譲は満足そうに笑った。

「じゃあ、蓑を探しておこう。」

「悪いな。」

「いや、俺にはトラブルが好きな相棒がいるから丁度いい。」

 手を振って背を向けるその姿さえも美しい瑞樹は足取りも軽く去っていく。

「さて、色々と面倒ごとが一気に解決しそうな雰囲気だ。これからまた忙しくなるな。」

「今さらでしょう。」

 笑う二人の声は広い室内にひっそりと響いた。





 数日仕事を休み自宅でひっそりと生活した譲は久しぶりに自分がオーナーを務める店へと顔を出しに行ったのだが。

「・・・これは、どうしたのですか?」

 窓ガラスは割られ、テーブルや椅子、食器等の備品も壊れて店内の荒れ様は凄まじい。

 連絡なしに現れた譲に動揺を見せたマネージャーだったが直ぐに平静を取り戻し苦笑して取り繕う。

「いえ、酔客が暴れたのです。こっちは騒動を止めるのに必死だったので逃げられてしまいました。すみません。」

 額に怪我をしたのだろう、既に止まっているが血が流れた後がある。

 他の店員やバイトの人間も片付けをしており、一様に頷く。

「本当、ですか?」

 マネージャーの顔を見て尋ねる。

「・・・はい。」

 今度は他のスタッフの目を見て同じことを聞いた。

「本当に?」

 普段から穏やかな微笑を湛える顔が無表情で強い光を宿すと印象がガラリと変わり、そのスタッフは体を揺らす。

「ほ、本当、で、す。」

 見つめ続ける譲の視線に数秒は耐えられたのだが、嘘を吐いている事実に耐えられずに目を逸らした。

「誰か分かりますか?」

 マネージャーはゆっくりと首を横に振る。

「すみません。」

 譲はそうして、漸く笑みを浮かべてから穏やかな声をだした。

「いいえ、怪我をされている方は病院に行くのを優先してください。片付けは危ないですから明日にでも業者を呼びます。なので今日は最低限にして帰られてください。いいですね?」

 普段、マネージャー以外には顔を出すだけに等しいのだが落ち着きを持ったその言葉に全員が頷く。

「僕は用事がありますからこれで失礼します。皆さん疲れたでしょう?今日はゆっくりと休んでください。」

 穏やかで優しい声は緊迫の時間を過ごしたスタッフの疲れと緊張を癒す。

 全員がほっとした表情になったのを確認してから譲は宇治を従えてゆっくりと背を向けて歩き出す。

 その顔が若干厳しいものへと変わり、車に乗った瞬間宇治と木戸に指示を出した。

「事務所・・・いいえ、此処から一番近い雅伸さんが持っているお店のほうへ行ってください。」

 そこのマネージャーと黒服は譲の顔を知っているので事前に言う必要は無い。

 木戸は黙って言われた通りに運転をしてその場に到着した。

 宇治の介添えで車から降りた譲の眉間に皺が寄る。

「ここも、ですか。」

 騒然としているが閑散とした、やはり壊れた備品が散乱している店の中に現れた譲に黒服の男が慌てた。

「あねさ・・・譲さん。どうなさったのですか?!」

 その質問には答えずに聞かなければならない事だけ聞く。

「ここをこんな風にした者達に覚えは?」

「いえ、ありません。」

 譲は頷いてから宇治を見る。

「今の所他の店に被害はありません。下の者達が各店に見張りと護衛を兼ねて向かっておりますので何かあれば直ぐに連絡が来る様になっています。」

「あの、日本語が拙かったので日本人じゃないかと。」

 宇治の目が細まり、直ぐにどこかに連絡を取り出す。

 と、足音荒く誰かがやってきた。

「あれ、譲さん?!どうして此処に?」

 佐々木の顔を見た譲は真剣な表情で簡潔に説明する。

「此処の近くにある僕がオーナーの店が襲撃された様でしたので此方に情報を求めて来たのですが」

「こっちもやられていた、と。」

「はい。佐々木さん、何かご存知ですか?」

 佐々木は眉間に皺を作って横を向いて考えた後ちょっと待ってと言って電話を掛ける為に護衛と共に外に出た。

 譲はマネージャーに再び向き合う。

「日本人じゃない、という事は。」

「おそらく誰かに雇われたのかと思います。組の関係なのでしょうか。」

 三和会の会長である椎原の店とはいえ、此処はあまり組の者は入れない普通のクラブ。

 組関係者を接待する際に使うクラブは別にあるのだ。

 思い当たる事がある譲だったが、それは口にしない。

「さあ、僕はそういう事は知らないものですから。」

「そちらのお店の方は大丈夫ですか?」

「スタッフが少々怪我をしているので病院に行く様に言っています。全員診察が終わればマネージャーが連絡してくれると思うのでそれを待っているのですが・・・。」

 顔は深刻にならざるを得ない。

「何があったとしても・・・こんな事をするなんて・・・。」

 若干柳眉があがった姿に木戸は僅かに緊張し、宇治は震える。

「あ、お待たせ。譲さん会長がこっちに来るそうだ・・・ょ・・・。」

 譲の顔を見て話しながら戻ってきた佐々木の言葉尻が小さくなっていく。

「そうですか。では此処で待たせて貰いましょう。いいですか?」

 幸いVIPルームは無事なのでスタッフは慌てて頷くと譲は宇治と木戸を前後に従えて直ぐに飄々とした態度に戻った佐々木と共にそちらに向かった。

 十数分して現れた椎原に譲はまた驚く破目なってしまう。

「雅伸さん?!」

 慌てて足を引き摺りながら駆け寄ると直ぐに抱きしめられる。

「大丈夫だ。なんとも無い。」

「でもっ。」

 椎原の顔は若干の血で汚れており、スーツや手も同様。

「全部返り血だ。此処の近くで突然襲われてな。」

 普段はそう見せないが、かなりの実力者である椎原は襲いかかってきた5人ほどの男達を返り討ちにして部下に預けて此処に来ていた。

「他の方は無事なんですか?」

「うちにそんな柔な奴はいないから安心しろ。護衛を引き連れていたから人数的には互角だったし、武器もあまり持っていなかったから危なくなかったんだ。」

 少し安心した譲は椎原と密着していた体に空間を作るとある事に気づく。

 それに気づいた椎原は笑った。

「ああ、汚してしまったな。すまん。」

 血で汚れた着物を見て謝る椎原に譲は首を振る。

「いえ、いいんです。・・・あ、でもこの着物中村さんから頂いたものなので」

「同じものを作らせよう。」

 スタッフからお手拭を貰って手を拭くと、譲の髪を撫でながらソファーに腰を下ろす。

「正直に言います。」

 首を振って微笑む譲に椎原が僅かに強さを含ませて言った。

「いや、同じものを作らせる。いつもの店だろう?」

「・・・はい。」

 今日はスーツが汚れている為に譲を膝の上に載せずに傍に座らせるだけに留めて佐々木に目線を遣る。

「調べろ。」

 何が、とは言わない。

「はい。」

 佐々木は笑って、譲に手を振って退出していく。

「すまん、お前の店にも迷惑を掛けたようだな。」

 謝る椎原に譲は首を振ってから一言添える。

「雅伸さん、無茶はしないでくださいね。」

 何も聞かない譲を引き寄せて強く抱きしめると、細い手が椎原の背中に回った。

「ああ、そうだな。」

 頬に手を添えて上を向かせると僅かだが瞳に涙が溢れていてる。

 その涙が流れる前に口で拭ってから抱きしめた。

「直ぐに終わらせるから後少し待っていてくれないか?」

 譲は頷く。

 何かが起こっている事は知っているし、それが自分が原因だという事も感づいているのだが聞かない。

 最後まで聞かない。

 そう、自分に言い聞かせる。

 周りの皆が懸命に譲に隠しているのだ。

 だから聞かない、と。

 本当は何をしているのか。

 こんな怪我を負う様な事はやめてほしいと言いたい。

 だが譲は唇を噛んでその言葉は胸の内に留める。

「出来るだけ、怪我をしないで下さい。貴方だけじゃなくて、皆も。」

 また溢れてきてしまう涙を拭われつつ譲は椎原の胸に顔を伏せた。

 黙って撫でてくれる椎原からは何の返事も無いまま、只管にその場には重い沈黙が降りる。

 其処へ工藤が戻ってきた。

「譲さ・・・・・車の用意が出来ましたのでどうぞ。」

「ああ、ありがとう。」

 椎原は譲を抱えて歩き出す。

 譲は椎原の胸に顔を伏せたまま背中に手を回し、黙っている。

 そうして乗り込んだ車の中で椎原が小さくすまない、と呟いた。

「いいんです。でも皆が無事であるように・・・してくださいね。」

 今日自分の手で着せたスーツは恐らくもう駄目になっているだろう。

 血は取れにくいのだ。

 真新しいスーツには椎原の匂いは移っていない。

 ジャケットの中、シャツのほうに顔を近づけると微かに匂いがする。

 頬を当てると仄かに体温が感じられる。

 それで漸く落ち着いた譲はそのまま頬を寄せていた。

「譲。」

 声を掛けられて閉じていた目を開くと、ふと椎原の体温が上がっている事に気付く。

「雅伸さん。」

 ゆっくりと顔をあげようとしたが、その前に椎原が譲の顎に手を添えて強制的に顔を上げさせた。

 そうして噛み付く様なキスする。

 慣れた互いの身体とはいえ、疲れている時にこんなキスをされては譲は受け入れるだけで精一杯。

 首と背中に手を回し、気が付けば自分の背中はシートに密着している。

「ま、さのぶ、さん?」

 余裕の態度を崩さない椎原が飢えた獣の様に譲の首元に噛み付く。

 愛撫では無い。

 本当に噛み付いたのだ。

 だが譲は僅かな吐息だけを漏らしてそれを受け止める。

 スーツを乱されてネクタイは中途半端な形で解かれ、ベルトとスラックスを抜取られた。

 下半分を素肌の状態にされても譲は抵抗しない。

 椎原は黙って直接的な愛撫・・・というよりは繋がる為だけに指で解している。

 そんな遣り方でも椎原の身体に慣れている譲の身体は開かれていく。

 そうして指が3本入るようになったら椎原は自身をゆっくりと沈めてきた。

「あ、まさ、のぶさ、ん。待ってっ。」

 指を濡らしもせず、乾いたまま。

 痛くない筈が無い。

 だが譲はその痛みを吐息を吐くだけでどうにかしようとゆっくりと息を吐いて堪える。

 その途中でいきなり動きがスムーズになり挿入られる痛みが無くなった。

 理由が直ぐにわかった譲は痛みで半眼になっていた瞳を開いて椎原を見る。

「え、嘘。」

 欲情に満ち満ちた椎原の目は眇められており、譲と視線が合った瞬間激しい勢いで動き出す。

「え、っつ、あ、ま、さ・・・さんっ。」

 小声でも此処は車内。

 濡れた音と肌がぶつかる音、譲の小さな声と甘い吐息が響く。

 あっという間に上り詰めた椎原は譲の中にそのまま出す。

「・・・・・悪い。」

 譲は達していなかった。

「いいんです。落ち着きましたか?」

 ゆっくりと抜かれるそれに譲は胸元のハンカチを添えてシートが汚れるのを防ぐ。

 自らの指で掻き出そうと手を伸ばすとそれを椎原に止められ、椎原が掻き出した。

 指を噛んで吐息と声を堪える間譲は椎原の顔を見ていなかったがミラー越しに工藤が見た顔は厳しいもの。

 工藤は自分のハンカチも差し出すとそれで丁寧に譲の肌を汚した自らのものを拭う。

 それらを終えて漸く自分のものを手早く拭き、服を調える。

 譲もネクタイ以外は落ち着いた動作で服を調えた。

 ネクタイは自分のものを締める時鏡が無くては整えられない譲はガラスを鏡代わりにしようと椎原に背を向ける。

 だが背を向けた瞬間椎原に肩を引かれ、その膝に頭を載せた状態となっていた。

 目を見開いて顔を見ると苦笑してから譲のネクタイを調える。

「ありがとうございます。」

 微笑んでから顔に手を伸ばすとその苦笑が歪み、優しいキスが落ちてきた。 

 優しく心温まる二人の世界は相変わらず独身者には辛いものであったが、そんな事を追求する人間も居ないために椎原は優しく子どもにするようなキスを譲にいくつも落とす。

「譲、落ち着いたら買い物でもいこうか。それともどこかゆっくりとするか?」

「・・・・あの旅館がいいです。」

 季節はもう直ぐ春。

 思いで深い旅館を譲はとても気に入っており、折に触れて行きたがる。

「そうだな。また皆で行こうか。」

 嬉しげに微笑む譲の花の笑みに椎原は優しく微笑む。

 工藤はその様を黙ってみていた。

 冷静に見える瞳は冷徹な光を宿している。

 だが譲に振り向いた時にはその光は消えていた。

 逆に優しいものを宿し、微笑む。

「譲さん、すみませんがあと2,3日部屋に居て貰えますか?」

 再び部屋に居てくれる様に頼む言葉。

 だがその言葉に逆らう事無く譲は頷く。

「わかりました。その代わり、皆さんが出来るだけ危ない目に遭わない様にお願いします。」

 工藤は微笑んで頷く。

「有難うございます。こんな時に悪いのですが、会長は戻らなければならないのですよ。大丈夫ですか?」

 譲は口元に優しい笑みを作って頷いた。

「無理は、しないでください。」

 これが譲の精一杯の譲歩。

 工藤はそれを正確に受け止める。

 真剣な表情で頷かれたのを確認してから、停車した車から後ろの車に乗っていた宇治の介添えで車を降りて微笑む。

「それじゃあ、電話してください。雅伸さんも工藤さんも。」

「ああ。悪いな。」

「勿論です。おやすみなさい。」

「おやすみなさい。」

 笑顔で手を振ってくれる譲をバックミラーで見ながら椎原と工藤は暫く黙り込んだ。

「・・・・・本当に2,3日で終わらせる事が出来るか?」

「こんな時の為の権力だとは思いませんか?」

 椎原が嘲笑う。

「そうだな。ああ、朽葉という男はどうした。休みなら譲の相手を」

「あれはですねぇ。私も捕まえていて何ですが、読めない相手なので何とも。でも譲さんは気に入っているみたいですよ。」

 何せ安藤と協力して食い合わせをさせている位ですから、と言葉を続ける。

 江上の本家分家含め実力者達は疑心暗鬼に包まれており、瓦解の危機にあった。

「ですが、こんなに崩れやすかったという事は元から頑健では無かったのでしょう。」

 工藤が笑う。

「ああそうだな。」

 椎原は工藤が渡した書類に目を通しつつ返事をする。

 だがその中の一枚に安藤が流した情報で互いを潰しあおうと必死な中年男達の詳細が書かれており笑みが浮かんでしまう。

「癖になりそうな程面白いな。」

「また冗談を。」

「いや、二割位は本気だ。」

 椎原の顔を見て工藤が静かに笑っていると、携帯の着信音が響いた。

 メールだったらしく工藤が暫く黙った後椎原に顔を向ける。

「朗報ですよ。」

「・・・ん?」

 書類から目を上げた椎原に工藤がはっきりと、だが静かな声で告げた。

「御曹司が江上と関連した男達の引渡しを決めたそうです。会議でも決定したと。」

「・・・・・そうか。」

 椎原の口元には凶悪な笑みが浮かんでいた。 





 翌日。

 三和会の精鋭は夜半、指示された全員を確保した。

 普段は大人しい三和会だがいざという時まで大人しくしている訳では無い。

 牙を隠した狼のように。

「暫く喚いていおりましたが今は静かにしております。」

「そうか。」

「あの男以外は纏めてあるのだな?」

「はい。」

 椎原は笑っている。

 工藤も笑っている。

「ああ、顔を見ますか?」

「・・・・・観るだけは、な。」

「此処で高笑いしたら正当な悪役っぽいと思いませんか。」

 その言葉に椎原は笑う。

「悪役、か。裏の住人は所詮悪役だろう。だが今は・・・どちらが悪役かな?」

 椎原の問いに工藤は軽口で答える。

「あちらでしょうかね?」

 木戸は黙って運転をしながら後部座席にいる椎原を見ると、楽しそうに笑っていた。

「木戸、怖ければ抜けても良いぞ?」

 椎原が笑うと工藤も笑う。

「いえ。・・・佐々木幹部は今何処に?」

「もう到着済みだ。佐々木にやらせたからな。」

 少数精鋭であると同時に闇の世界の住人である三和会の面々の中でも更に深淵に住む者達が居る。

 面々を確保したのはその者達。

 佐々木の直属だ。

 その事を木戸は今の今まで知らなかった。

「そうでしたか。ですが何故自分に教えていただけるのです?」

 比較的人数の少ない三和会の者達でさえ知らない事が多すぎる三和会の暗部。

 スパイが多いという事もあるのだろうが、椎原の用心深い性格に起因しているのだろう。

 そうは見えないが椎原と工藤、そして佐々木はかなり用心深い。

「譲を守らせるのに適した人物だからこそ隔絶させていたのだが、これからはお前も知っていて貰わなければ譲を守れそうにない。」

「・・・宇治はどうなのですか。」

 木戸の問いに工藤は今この場には全くもって相応しく無い笑みを浮かべた。

「彼は全てを知った上で譲さんの傍に居る。チームの采配を任せていたのだが優秀なので、な。」

 つまり始めは三和会の中でも暗部の住人だったのを譲の秘書兼ボディーガードとして据えたという事。

「これから少々キナ臭くなってくる。その時は頼むぞ。」

「はい。」

 とても機嫌の良い椎原と工藤を乗せて車は走る。

 そうして到着したのは三和会、というより佐々木が持っているビルの地下。

 扉を開けると右側がマジックミラーとなっている部屋へと入った。

 いくつもの似た様な扉がある事からこの階自体がその為のものばかりという事が察せられる。

 そうして三和会の面々が数人其処にはいた。

「様子は。」

「命乞いばかりしております。」

 椎原は頷いて目の前の半地下になっている部屋に居る男達を睥睨する。

「ああ、こんな豚共のせいで譲は苦しんだのか。」

 中年や老年の男達5人が揃って椅子に座らされ喚き、項垂れ、抵抗をしていた。

 男達を直接痛めつけている者達の中には佐々木も居る。

「どうされますか。」

 工藤が尋ねると椎原は少し考えるふりをした。

「さて、どうしようか。あの男は此処に置いておくとして。」

「競売が一番なのでは?」

 その言葉に椎原が頷いたのを確認した男達は早速手配に取り掛かり、佐々木にはマイク越しに上がってくる様に伝える。

「あれ?会長、木戸には教えない筈じゃあなかったんですか?」

 頬に血を付けたまま笑う佐々木に椎原も笑う。

「これからは知っておかないと譲を守れないだろうと思ってな。」

 佐々木は頷いて木戸へ手を伸ばす。

「そうか。じゃあこれから宜しく木戸。」

 木戸は一瞬躊躇いを見せた後手を硬く握り返した。

「よろしくお願いします。」

「そんな堅くならない。木戸の仕事は譲さんを守る事が全てなんだから。」

 半地下の扉に別の者が入ってくるのが見える。

 それは目の前に居る工藤の情人の一人である朽葉。

 実に淡々とした作業で痛めつけられた男達の手当てをしているが、喚く声に一瞬だけ不快そうな顔をする。

 それでも手早く済ませてこの部屋に入ってきた。

「全く。明日非番でよかったですよ。」

「悪いな。」

「三和会には主治医がいないのですか?掛かりつけの病院とか。」

 溜息を吐きつつも工藤にしな垂れかかり艶やかな笑みを見せる朽葉にまだ正常な精神を持つ木戸には異常に見えて仕方が無い。

「木戸、何度も言うが抜けてもいいぞ。お前はこの世界の住人にしては正常過ぎる。」

 椎原なりの温情に木戸は首を振る。

「いえ。どうか手元に置いてください。譲さんを守るという仕事を任せて貰ったそのお気持ちに報いたいのです。」

 工藤と椎原が気配だけ笑うのが聞こえた。

「全く、お前は本当に昔気質な男だな。」

 その言葉に深く頭を下げるだけで答えない木戸に椎原は今度こそ声を上げて笑った後真剣な表情でその場に居る面々に指示を下す。

「譲には知られないように徹底しろ。それとあの男は暫くそのままで手出しは一切するな。無言の恐怖を味合わせてやれ。」

 言い終えると椎原は身を翻して出口へと向かう。

「明日また来る。それまで佐々木、頼むぞ。」

「わかりました。ああ、会長。」

「ん?」

「譲さんを抱き潰さない様に気をつけてくださいよ?」

 椎原は低い声で笑うと、珍しく肩を竦める。

「さあ、努力はしてみるが、な。」

 その顔はまさしく闇の住人のもの。

 譲には決して見せない顔であった。





 眠りに就いていた譲は身体全体に重みを感じてゆっくりと目を開ける。 

「雅伸、さん?」

 呟いた唇は突然塞がれて息が出来ない。

 だが慣れた唇の感触に譲は一切抵抗せずそれを受け止める。

 互いに息が上がる程深く強く重ねられた唇が離れた後譲は声を出す事も出来ない。

 少しばかり寝乱れている単を開き直接肌に触れられても漏れるのは吐息ばかり。

「っは、あ、・・・・んぅ。」

 性急だが求められていると分かる愛撫に身体はいとも容易く開かれる。

 右の指は3本差し込まれ、左は肌を撫でさすられて。

 それだけで譲は頬を赤らめていた。

 何とか息を整えた譲は椎原の髪を優しく撫でる。

「雅伸さん・・・どうしたのですか?」

 だがその問いには答えられず、ゆっくりと椎原自身が入ってきた。

 堅くなりそうな身体を無理やり息を吐いて開く様にして懸命に受け止める譲に漸く椎原が目線を合わせてくる。

「悪い。だが少し我慢してくれ。」

 譲が涙目になりつつも微笑んで頷いてくれたのを見て頬にキスをしてから一気に根元まで入れた。

「っつ、い、ぁ。」

 潤滑剤になるものは何も使っていない為に痛むのだろう。

「大丈夫か?」

 眉間に寄った皺をなぞる。

 性急な行動に文句一つ言わない譲を椎原は愛しげに視線で身体に触れた。

「雅伸。さんっ、愛しています。」

「っ、すまんっ。」

 その言葉と花の微笑に箍が外れた椎原は傍若無人に、本能のまま振舞う。

 何度も。

 何度も。

 何度も。

 窓の外から白い光が差し込んでいる事に気付いた時には譲は息も絶えそうな様子だった。

「・・・すまん。」

 その一言で僅かに目を開けた譲は微笑む。

「だ・・・・いじょ・・・う・・・ぶ、で、すか?」

 もう大丈夫かと聞いてくる譲の健気さに椎原は欲望が擡げてきたがさすがにこれ以上は、と自制した。

「ああ。悪かった。少し・・・そうだな、不安だったのかもしれない。」

 目が薄く開かれたまま瞳が疑問を語る。

「雅伸さん?」

「今から仕事だから眠っているといい。」

 譲の疑問には答えず額にキスをすると、疲労の色が濃い顔が安心した様に微笑んで糸が切れた様に目を瞑った。

 そんな顔に申し訳なさと愛しさが募ってしまう。

 もう一度キスをしてから温タオルを数枚作って体を拭き、シーツを整えて新しい単に着替えさせると自分も手早くシャワーを浴びる。

 髪を拭きつつリビングに出ると木戸が朝食をテーブルに運んできた。

 サンドウィッチと珈琲という朝食は時間が無い事を示している。

「有難う。」

 着替えながら食べ、新聞を読む。

 全てが終わるまで15分という早業で支度を整えると木戸に出来るだけ淡々とした声で告げる。

「譲は疲れているだろうから起こさない様に。」

「はい。」

 木戸が朝食を作りに来た時は甘い声が響いていたので譲の疲労は極地にあるだろう事は明白。

 しっかりと頷く木戸を確認してから椎原は微笑む。

「悪いな。頼むぞ。」

 言ってから既に玄関前で控えていた部下達を引き連れて椎原は出て行く。

 木戸は足音が遠ざかるのを確認してから寝室のドアをゆっくりと開けると予想に反して譲がゆっくりとした動作で着替えをしている。

「譲さん・・・。」

「おはようございます。」

 色疲れで艶やかな微笑みを見せてから緩やかな動作で寝室から出てきた。

「まだ休まれていたほうが。」

 気を使う木戸に譲はゆっくりと首を振ってから口を開く。

「今から安藤さんが此方に来ますからお茶の準備をしてください。」

 微笑んで言った言葉に木戸は絶句してしまったが譲は何も言わずに見つめてくるだけだった。 

 椎原に連絡をと思ったのだが、譲が目線で制して来る為に掛けられない。

 インターホンの音の後に譲が木戸を見ながら電話を取る。

「どうぞ安藤さん。」

 そうして木戸の手を握ったままゆっくりと玄関に向かう。

 つい先程まで体を酷使していた為に左右に揺れているがそれを止める術は無い。

「譲さん。」

「絶対に雅伸さんには不利になる事はしませんから。」

「それは分かっております。ですが。」

 譲は微笑む。

「僕にも出来る事はありますし、これは必要な事なんです。」

 木戸はその時初めて気付いた。

 譲の手は僅かだが震えている事に。

「・・・譲さん。」

「安藤さんが来たら江上の所へ案内してください。捕まえているのでしょう?」

 そこへチャイムの音。

 譲は携帯を鳴らして安藤かどうか確認してからドアを開ける。

「すみませんが、外套を取ってきますのでそれまで此処で待ってもらっても良いですか?」

「もちろん。木戸さんは私が見ておきましょう。」

 安藤が笑顔で言ったのを確認してから譲はふらつきながら奥へと行く。

 そうして外套を羽織り、マフラーを手に戻ってくる。

「お待たせしました。行きましょう。」

 譲の視線に木戸は止める事も出来ずにただ安藤に掴まれた腕をそのままに付いていくしかない。

 地下に降りると宇治が車の前で待っていた。

「宇、治・・さん。」

「参りましょうか。」

「ですが、」

「私は譲さんにお仕えしていますので。」

 いつもは木戸が運転をするのだが今日は宇治がハンドルを握る。

「有難うございます。」

 落ち着いた声に宇治は口元を緩めてから車を動かした。

 そうして着いた場所は周囲に紛れたビル。

 更にその前には朽葉が居た。

「どうも譲さん。此処からは私が案内しますよ。」

「お願いします。」

 それ以外は誰も何も言わずに朽葉を先頭に歩き出す。

 入り口はカード式で、医者である朽葉の持っていたカードと指紋照合で中へと入れた。

 エレベーターは使わずに階段を使うために宇治が譲を抱えて面々は行く。

 革靴の足音が響く中、地下へ降り、いくつかのドアの前を通過して最奥の扉を朽葉が開いた。

「さて、ご対面ですよ。」

 柔らかい声が不気味に響く。

 譲は固い表情のまま宇治の腕の中で縛られて気絶している男を見る。

『ゆ、譲さん?!』

 マイク越しの佐々木の声が響く。

 その声はとても大きく、気絶していた江上の目がゆっくりと開かれる。

 拷問部屋なのだろう其処はミラーガラスとスピーカーのみのシンプルな部屋だ。

 譲は鏡となっている方を見て、出来るだけはっきりと口を開く。

「佐々木さん、少しだけ話をさせてください。」  

 それだけ言うと譲は宇治に降ろして貰ってから江上の下へと行った。 

「面と向かって話すのは久しぶりですね。」

 澄んだ声で、だが震える体と気だるい重みはそのままに譲は唇から言葉を発する。

 その声に江上は薄く開いていた目を開けて顔を上げた。

「・・・何のようだ。」

「何も。」

 嬲る者と嬲られる者の関係であった二人はだが、憎しみや愛という言葉とはかけ離れた雰囲気を醸し出している。

「何も・・・ただ、僕の大事な方が江上さんと僕の間にある感情が何なのか少し悩んでいたようですのではっきりさせようと。」

 江上の眉が寄った。

「正直に言うと未だに怖い気持ちはあります。でもそれは条件反射の様なものであって・・・・。」

 少し茫洋とした声が響く。

「僕も驚いています。縛られた江上さんを見ても何の感情も動かない事に。そんな事より雅伸さんの疲労の方が心配です。・・・雅伸さんは今日忙しいのですか?」

 スピーカーに向かって問う譲に佐々木が慌てた声で答える。

『えっ、あ、ああ。・・・ごめん、今こっちに向かっているんだよ。』

 佐々木の言葉が途切れると同時に荒々しい音を立てて椎原が入ってきた。

「譲っ。」

 その顔を見て譲は苦笑した。

「仕様の無い人ですね・・・。」

 駆け寄り抱き締められながら譲は笑う。

「どうして僕が貴方以外の人に恋情を向けるなんて思うのですか?」

 僅かに汗の匂いを感じて背中に手を回す。

「いや、しかし・・・。」

 動揺する椎原というのは珍しい。そんな姿を見て譲は袂から白いハンカチを出して額の汗を拭く。

「僕が愛しているのは貴方だけです。でもそんなに不安なら納得するまで解消してください。」

 色んな意味にとれる言葉を吐いた譲を椎原は数秒間ただ黙って見つめた後呟いた。

「・・・いいのか?」

「はい。僕には貴方以上に大切なものなどありはしないのですよ。いい加減分かってくださいね?」

 優しく、包み込むように微笑みながら譲は椎原の肩に手を回す。

 椎原は苦笑してから譲の大腿部に手を遣り抱えあげるとスピーカーに向かって叫ぶ。

「好きにしろだと。」

 言った後譲に深いキスを送る。

 それを受け止めた譲を回りの皆はほほえましげに見守ってから二人が立ち去るのを見送った。

 見送った佐々木はマイクの電源を落として溜息を吐く。

「あ〜あ。行っちゃったよ。・・・お前も愛人に砂を掛けられてご立腹?」

「いや、何となく予想はついていたから問題ない。」

 といいつつも目は笑っていない。

「あ〜・・・お仕置き決定?」

「さあな。あの行動は譲さんの為に引っ掛けられた事を知っているからの行動なのか・・・。」

「そうですよ?元々安藤さんから聞いていましたしね。いまどき珍しい健気でいい子なのだと。」

 上がってきた安藤と朽葉が入ってくる。

「どうも。」

 安藤と朽葉が並んで微笑んでいると迫力のある構図が出来上がっている。

「どうしてこんな行動を?」

「譲さんに頼まれたからですよ。譲さんはあの男が好きで会いたいなんて思っていない事は一目瞭然だったので、健気なその心の手助けをしようと。」

 言っている事は本人も健気だと思われるかもしれない言葉だが、安藤が言っている時点で胡散臭くみえた。

「・・・ちなみに私は安藤さんから連絡を受けて此処で待っていたという事です。」

 何か問題でも?という言葉を暗に乗せて二人が微笑む姿はとても胡散臭い。

「朽葉さん。その腕の痕は?」

「この頃手を縛られる事に凝っていまして。」

 ふふふ、と朽葉は笑って安藤に提案する。

「どうでしょう、今から。」

 手を重ねて朽葉は色気全快でお誘いしてきた。

 今は朝だという事や、拷問部屋の前でそんな事をとか、仕事はどうしたとか、そんな事の前に。

 恋人である筈の工藤の前で堂々と。

「私も今日は瑞樹がいないので一日中暇ですから・・・・そうですね。ですが私と貴方では少々物足りなくはありませんか?」

「私はとっても満足できると思っていますが。」

「私が物足りないです。私と朽葉さんでは猫のじゃれあいみたいになったでしょう?」

 少々恐ろしい言葉を重ねる二人に誰も何もいえない。

「ではもう一人誰か見繕いますか?」

 微笑みながらそう言った後朽葉は工藤と佐々木に目線を向けて来た。

「協力したのですからご褒美があってもおかしくは無いでしょう?私へのご褒美、という事で。」

「おや、私にはありませんね。」

「それは椎原会長に直接頼まれては如何ですか?」

 安藤は頷いてから工藤と佐々木を嘗め回すように見る。

「さて、どちらが一緒に来ていただけるのですか?それともお二人とも大丈夫ですか?」

 工藤と佐々木は互いを目線だけで確認してから佐々木が手を上げた。

「じゃあ俺で。」

 そう言うと安藤と朽葉は目を合わせて安藤が佐々木を引っ張って行く。

「貴方一人では二人相手は難しいでしょうからね。」

 見た目と正反対の力で強制的に佐々木をこの部屋から連れ出していった。

「何なんだ。」

「何なんでしょうねぇ。」

「・・・お前達は何をしているんだ?」

 佐々木と安藤が出て行ったドアからこのビル自体から出て行ったと思われていた椎原が入ってくる。

「会長。」

「おはよう御座います。譲さんは?」

「上で待っていてくれている。」

 工藤の眉が寄った。

「どういう事ですか?」

「“貴方の気の済むようにしてください。僕は貴方が戻ってくるのを此処でまっています”と言ってくれたのでな。」

 不敵に笑う椎原の顔には焦燥の欠片も無い。

「そう、ですか。流石譲さん。」

「だろう?」

 椎原はマイクのスイッチを押して下に居る部下達に伝える。

「とりあえず痛めつけろ。骨は折るなよ。そして一人上がって来い。」

「どうするつもりですか?」

 部外者の朽葉が尋ねると椎原は機嫌の良い顔で答えた。

「譲が何をされたのか詳細を教えてくれてな。それをそのまま返すだけだ。」

 譲の体を隅から隅まで知り尽くしている椎原には何処に何をされたかの予想は付いている。

 後はそれを順番どおりに実行するだけ。

「それは・・・・・根気の要る作業でしょう。」

「別にそうでもない。ああ、朽葉。お前は譲の相手をしてやってくれないか?」

 朽葉は口元を固め、目を細め、笑って頷く。

「・・・お気遣い有難う御座います。それでは私はこれで。」

 朽葉が去っていくのを見届けてから椎原は口元に笑みを刷いてマイク越しに言う。

「まずは肩に煙草からだ。」





 譲はビルの一室、すわり心地の良いソファに座って、否、横たわって天井を見ていた。

「譲さん。寒くはありませんか?」

 椎原の部下が持ってきてくれた毛布一枚で横たわっている譲に宇治が声を掛ける。

「大丈夫です。宇治さんこそ寒くありませんか?」

 シャツ一枚という寒そうな格好をしている宇治に譲が僅かに眉を寄せて尋ねると笑って首を振られた。

「いいえ。喉が渇いていませんか?お茶をお持ちしますよ。」

 譲が頷くと宇治は部屋の隅で控えている部下に何か小声で囁いてから部屋を出て行く。

「あの。」

「はい。」

「三和会の仕事に支障はなかったのですか?」

「・・・・・はい。それは勿論です。」

 沈黙の後の言葉には全く持って真実味が無い。

「あの、それよりですね。」

「はい。」

「も、毛布は足元まで覆っておいたほうが良いかと。」

 見ると足袋と足首が見えている。

 寒いだろうという配慮なのだと思った譲はきちんと足先まで覆ってから礼を言った。

「そうですね。有難う御座います。」

 冷暖房が効いているというよりは朝なので寒いのだ。

「温度設定上げましょうか?」

 足が悪い事を知らない三和会の者は一人としていないので男は設定温度を上げてくれる。

「有難う御座います。」

 そんな会話をしているうちに宇治が戻ってきた。

「譲さん、温かい内に飲まれてください。」

 渡されたのは生姜湯。

 蜂蜜と生姜の匂いだけでも温かくなれそうな気がしてくる。

 少し時間が掛かったのは生姜を摺ってきてくれたからだろう。

 宇治はこうやって葛湯や生姜湯は手ずから作って持ってくるのだ。

 蜂蜜や葛も拘りのものを常に揃えてくれる。

「ありがとう。」

「いえ、今日は部屋では無いので味が少々落ちるのですが。」

 僅かに残念そうな声で謝る宇治に首を振って一口含む。

 熱い生姜湯は一気には飲めないが、美味しい。

「あ、美味しい。」

 すると宇治は安堵の息を吐いて微笑んだ。

「よかったです。」

「体が温まります。」

「もう少ししたら木戸が軽食を持ってきますので召し上がってから仮眠を取られてください。」

 椎原がこの部屋に戻ってくるのはまだ先だという事を暗に言う宇治に頷いてから生姜湯を飲む。

 飲み終えた湯飲みをソファーの前に設置された足の低いテーブルに置いてから宇治と控えている男を見る。

「大丈夫です。僕は大丈夫ですから、皆さん仕事に戻られてください。」

 譲の発する言葉、態度を正確に読み取る事の出来る宇治はその言葉を聞いて目元に皺を作って首を振った。

「今日は待機が仕事なのです。ですから譲さんはお気になさらず、寛いでお待ち下さい。」

 ノックの後木戸が持ってきたのは雑炊と白菜、人参、胡瓜の浅漬け。雑炊には朝鮮人参が入ったものだ。

「どうぞ。」

 寡黙な部類に入る木戸はそういって器から雑炊を注ぎ分けて譲の前におく。

「いつもありがとう。頂きます。」

 少し温度の低い雑炊は食べやすいようにという配慮が伺えて譲の顔には自然と笑みが浮かぶ。

 あっという間に食べ終えた譲の器にもう一杯注ぎ分けようとする木戸に首を振ると直ぐに湯のみ半分程の緑茶を宇治が運んで来て、それを飲み終えるとあっという間にテーブルが片付けられ軽くて温かい毛布を木戸が持ってくる。

「休まれてください。」

 譲は気付いていなかったが疲労の色濃い顔は誰もが心配せずにはいられないものだった。

「はい・・・あの」

「会長が戻られる時は起こしますし、遅くなるようでしたら店の方には私から連絡させてもらいます。」

 安心させる様に言ってから横たわった譲にしっかりと首元まで毛布を掛けた宇治に譲は微笑むと目を閉じる。

 やはり疲れていたのを無理していたのだろう譲は直ぐに寝息を立て始めた。

 それを見守ってから控えているものに何かあったら直ぐに連絡するように伝える。

「後処理を出来るだけ迅速に済ませないとな。」

 譲を守るものとして木戸が共犯となったことを知る宇治は木戸に今までとは違う笑みを見せた。

「ああ。」

 頷く木戸の肩を軽く叩いてから足早に宇治は歩き出す。     

 人に仕える喜びを宇治は知っている。

「お前もそうなるといい。譲さんに対して、だが。」

 囁いた言葉は木戸の耳に届いたが、今はまだ、それが理解出来ない木戸は返事が出来ない。

 それを鼻で笑ってから地下の扉を開けるとスピーカー越しに聞こえる呻き声が耳に入ってきた。

「会長、譲さんは食事を終えられて休まれています。」

 炯々とした瞳の椎原は振り返り宇治を見る。正気である事自体が恐ろしいと思える椎原はだが、その言葉に瞳を和らげて口元に笑みを刷く。

「そうか。」

「はい。」

 その横で工藤がマイクのスイッチを押してから指示を出す。

「その状態で煙草とナイフでやれ。」

 実行を手がけている者達は黙々と何の感情も見せない顔で言われたことを忠実にこなしている。

「そうだ。ああ、その2cm下辺りがいいだろう。急所は避けろよ。」

「工藤幹部、そろそろ下の者を換えたほうが宜しいのでは?」

 影の様に工藤に付き添う男の提案に工藤の眉が寄った。

「そうか?」

 だが男はその顔に反応せず淡々と言葉を続ける。

「6時間続けてですから。」

 横からマイクを取って指示を出し、直ぐに交替させる所を見ると既に待機させていたのだろう事が伺える。

 工藤は笑ってマイクの前に立つと早速別の指示を出す。

「思う存分痛めつけろ。屈辱と痛みと絶望を味あわせてやれ。だがまだ殺しはするな。」  

 欲望のまま笑みを浮かべての指示に、下に居る男達は黙々と従い続ける光景に木戸の眉が寄った。

 他の者は無表情か笑っている。

「宇治。」

 椎原が問う。

「はい。」

「こいつを殺した方がいいと思うか?それとも生かした方がいいと思うか?」

 宇治は即答した。

「生かした方が良いかと思います。二度と日の目が見られない、譲さんの視界に入らない場所で。」

 その答えに工藤と椎原は満足そうに頷く。

「そうだな。そうしよう。」

 刃物を片手に圧し掛かられている江原の顔は醜いと評す以外に表す言葉は無い。

 それを一瞥してから椎原は工藤をその場に待機させて宇治と木戸を後ろに歩き出す。

「お前達も疲れただろう。今日はもう返っていいぞ。」

「お言葉に甘えさせていただきます。」

 エレベーターを使って上に上がり、部屋の扉を開けると譲が寝息を立てて眠りに就いている。

 日差しの中でのその姿はとても和やかで、心を穏やかにさせる効果を持っていた。

 椎原は譲にだけ見せる瞳でソファーの前に立つと軽々とした動作で譲を抱え上げて歩き出す。エレベーターに乗って外に出ると待機している車に乗り、宇治は助手席に木戸は運転席にのってからマンションへと向かわせる。

 通勤ラッシュの時間と重なっている為に道は混雑しているが、誰もその事を口にしないし気にしない。

 眠り続けている譲に椎原は軽い口付けを繰り返し、室内温度は上がる。

 いつもの倍以上の時間が経過してマンションに着くと椎原は扉の前で二人に顎で帰る様に示してから中に入ると寝室へと直進し、ベッドカバーを足で蹴ってから譲を降ろす。

 自らもスーツを放り投げる様にして脱いでから下半身だけ寝衣を纏い中へと入る。

 ずっと着せ掛けていた毛布をゆっくりと抜いてからベッドの下に投げ落として帯を解き、単衣にしてから譲の体を抱き締める様に囲って首の下に腕を回す。すると漸く譲は身動ぎをして目を開いた。

「雅伸、さ、ん?」

「ああ。」

 笑って額に唇を寄せると夢うつつのまま微笑まれる。

「終わ、った、の、ですか。」

「そうだ。だから今日は一日ずっと此処にいよう。」

 譲が華の笑みを見せて頷くと互いに微笑みあって直ぐに夢の中へ。

 翌日の昼、痺れを切らした工藤が怒鳴り込んで来るまで二人揃って眠り続けたのだった。





 数日後。

 ここ数ヶ月の喧騒がすっかり収まり、静かになった事で譲がオーナーを務める店にも椎原が社長をしている会社にも三和会にも平穏が戻った。

「平和、だなぁ。」

 既にビルの地下室は無人で、佐々木はそういう事以外は情報収集が主な仕事な為に今までの忙殺されるほどの忙しさとはかけ離れた日常を送っている。

「お前の場合、暇だな、だろうが。」

 椎原、工藤、佐々木の揃った椎原の応接室で只今ティータイム兼報告中。

「・・・佐々木、あれはどうした?」

「生きていますよ。」

 江上家の拘束した面々は生きている。殺しはしない。

 殺したら、恐怖は一瞬。

 椎原は死なずに苦しませる道を選んだのだ。

 彼等は陽の目を見る事は無い。

 言葉通りでも、暗喩的な意味でも。

「そうか。」

 個人に売り渡した者もいれば店に出したものもいる。

 特に“彼”に対しては買った側は詳細な報告が義務付けられており、その報告は週に一度佐々木の下へメールが届くのだ。

 佐々木は上機嫌な顔で話を続ける。

「まだ一週間ですからね、喚いている者もいるそうですがあんまり手古摺るなら下に降ろしても良いと言っておきましょうか。“彼”以外は。」

「そうだな。そうしてくれ。」

 明るい日差しの中3時のお茶は美味しい焼き菓子とF&Mのアールグレイ。

 工藤も佐々木も椎原も上機嫌そのものだが話題自体は殺伐としている。

「色々と楽しそうですが・・・・・会長、例の件ですが宿はとれましたし、日程調整は出来ました。ただ、二泊三日が限界ですのでご承知下さい。譲さんだけ連泊するように手配しましょうか?」

「そうだな・・・・・いや、今回は湯治が目的だが、そうなると拗ねられる。共に二泊三日にしておいてくれ。その間は頼むぞ。」

「お任せを。」

 工藤が満足そうに微笑むと佐々木の眉が僅かに上がった。

「俺は除け者ですか?」

「いや、北海道に湯治に行くだけだ。譲も今回の騒動で疲れているだろうし、その間、労いも兼ねて店を休ませようかと思ってな。」

「ちなみに社員旅行は沖縄です。」

 見事に北と南に別れているのは椎原の独占欲の表れだろう。

 人前ではそうないが、内心譲にとても、とても懐いているスタッフ達に嫉妬心は持っている。

 だからこのゆっくりとした、宿に居るだけといっても過言では無い北海道の旅行は誰にも邪魔されずに行きたいのだった。

「・・・そうですか。俺はアメリカに出張だっていうのに・・・・というのは冗談で、疲れを落としてきてください。」

 少々慌しい出発となりそうだが、楽しみだったので椎原は笑顔で頷く。

「こちらが終わったらお前達も順番に休暇を取るといい。忙しかったからな。」

 いい終えると携帯電話を手にして電話を掛ける。

 当然相手は譲だ。

『はい。』

「今は何をしている?」

『午後のお茶をしています。雅伸さんは?』

「こっちもお茶をしながら報告だな。」

『ふふっ。同じなんてちょっと嬉しいです。』

 可愛らしい事を言う譲に椎原の元々上昇気味だった機嫌が益々上がる。

「譲、北海道に旅行に行かないか?」

『湯治ですか?』

「ああ。」

『気持ちは嬉しいですけど、今は此処に居て雅伸さんの帰りを待っていたいです。』

 普段から譲は椎原が用意した湯治先に行く事が多いのだが、今回は色々あった後なので宇治と二人で(それと誰か一人付く)出掛ける事に躊躇いを見せた。

「そうか?二泊三日だが、共にと思ったのだが・・・。」

『一緒にですか?』

「ああ。」

『・・・・っ、嬉しいです。』

 電話越しでさえも甘い雰囲気が漂い、室内温度が上昇する。

「あ〜暑いなぁ。設定温度上げられないのか?」

 佐々木が工藤に尋ねると笑顔で却下された。

「節約はすなわち環境破壊防止の一歩です。多少寒くてもパソコンの傍にいるなら温かいですし、動くなら問題ない、そして飲み物を飲むのが冬の正しい姿勢でしょう。」

 椎原は気にしていないが、このビル内は出来うる限りの節電を心がけており夏は多少暑く冬は寒い。

 ソーラーパネルをつけてはいるがビル全ての電力を賄えるわけではない。だが、会社が入っているビルにしては電気代はかなり低い方に入るだろう。

 それもこれも出納全てを工藤が管理しているからだった。

 その有能な、だが裏の社会の住人にしては金に煩い工藤も譲の事に関しては財布の紐が緩くなるのだから面白い。

「ああ、工藤が日程を調整してくれてな。今此処に居るが、変わるか?」

『はいっ!』

 椎原は笑って工藤に代わると工藤は笑顔で会話をする。

『工藤さん、有難うございます。』

「いえいえ、譲さんも心痛の多い日を過ごされていますから、短い日程ではありますが疲れを落としてきてくださいね。」

『お土産買ってきますね。』

「譲さんの笑顔がなによりもの土産となりますので楽しんできてください。」

 まさに溺愛する兄が弟に対する会話。

「ゆっくりと湯に浸かり、美味しいものを食べてリラックスしてくださいね。」

『はい。』

「それでは椎原に代わります。」

 工藤は椎原に携帯を戻して温くなった紅茶を飲む。

「相変わらず譲さんに甘いんだな。」

「おかげで株は上がりっぱなしですよ。」

 情報操作、取引等有能な筈なのにタイミングが悪い佐々木は今一譲と会うことすら適わない事が多く、点数を稼ぐどころの話じゃない。

 祝い事に何か送れば趣味とは正反対のものをおくってしまったり、先を越されたりと周りから減点評価が多く譲お気に入りリストからは若干外れ気味である。

「あ〜あ。俺もなんかしたいよ。」

「頑張ってくださいね。言葉だけは応援させていただきます。」

 二人の正面では椎原が譲と甘い言葉を交し合って室内温度を益々上げている。

 これが日常なら悪くない、と工藤は思って紅茶を飲み干した。





おわり






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